レヴィナス
Emmanuel Levinas ( 1905-1995 )


世間の常識(ではない)
レヴィナスは、フッサールの現象学とハイデガー哲学のすぐれた研究者として、わが国でも以前から名前は知られていたが、その独自な思想が共感を得るようになったのは、比較的最近の出来事である。彼の思想は、一見、現象学的であり、実存哲学風であり、またユダヤ教的であるが、その中心にあるのは、私の「存在」という謎と「他者」の思想であろう。
主著は、『全体性と無限』(1961)および、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』(1974)。

気分を味わってみよう。(プルーストか埴谷雄高でも読むようなつもりで。)
「あたりいちめんに広がる避けようもない無名の実存のざわめきは、引き裂こうにも引き裂けない。そのことはとりわけ、眠りが私たちの求めをかすかに逃れ去るそんな時に明らかになる。もはや夜通し見張るべきものなどないときに、目醒めている理由など何もないのに夜通し眠らずにいる。すると、現前という裸の事実が圧迫する。ひとには存在の義務がある、存在する義務があるのだと。ひとはあらゆる対象やあらゆる内容から離脱してはいるが、それでも現前がある。無の背後に浮かび上がるこの現前は、一個の存在でもなければ、空を切る意識の作用のなせるものでもなく、事物や意識をともどもに抱擁する<ある>という普遍の事実なのだ。」(『実存から実存者へ』西谷修訳)

「ふーみん」というのは細川ふみえさんの愛称だが、不眠、つまり眠れない夜の経験は、レヴィナスにとって特別に重要な意味を持つ。
まず、議論の前提を整理しておく。前提にあるのは、ハイデガーの思想である。
「存在(ある)」という事実は、誰でも知っていると思っているが、実は最も判り難い事柄である。犬や猫は、電信柱や魚など個々の「あるもの(存在者)」については熟知していても、それらの根柢にある「ある(存在)」という事実については何も知らない。「ある」という最も抽象的な言葉の意味を理解しているのは人間だけである。
人間の存在をハイデガーは「現存在(Daseinそこにある)」と呼ぶ。これは(人間が、ではなく)存在が「そこ」でおのれを開く(明らかにする)という事実を言う。ドイツ語で「〜がある( es gibt〜 )」とは、「それが与える」という意味である。「それ」が存在を与える(=存在が与えられる)「そこ」が「現存在」なのである。
その現存在に対して存在が現れてくるのは、ハイデガーの場合、まず「不安」という気分である。それは究極的には「死=無」の予感である。
これに対して、レヴィナスの場合、「ある」は「イリヤ(il y a)」である。フランス語で「〜がある( il y a 〜)」とは、「それがそこで持つ」という意味である。不眠の夜が典型的なこの「イリヤ」の経験である。(さらに存在は「疲れ」「倦怠」といった気分として姿をあらわす。)
そこでは「私」は消滅し、「ある」という事実が支配している。この「存在」の苦しみから逃れ出る過程が、一方では眠りであり、他方では「私」の意識の出現である。レヴィナスはこれを、「イポスターゼ( hypostase)= 実詞化」と呼ぶ。
その「実詞化=イポスターゼ」の結果、「存在」は、主語に帰属する述語になる。主語と述語、主観と客観という区別が、また「私」という主体が、これによって現われる。「イリヤ」とレヴィナスが呼ぶ「存在(ある)」という概念は、従って、まだ主語と述語の区別が現われず(「無名」の夜)、また「無(死)」へと逃れることも出来ない、われわれの誰もが捕われている根源的な事実としての「存在(ある)」である。
ハイデガーが指摘した「存在者(あるもの)」と「存在(あること)」という区別(=「存在論的差異」)を、レヴィナスも踏襲する。しかし、その時、「存在」が「存在者」の述語となっているので、「存在」のより根源的な意味が見て取られていない、とレヴィナスは批判する。レヴィナスがここで考えているのは、「存在者なき存在」である。

1)イリヤ(存在)の夜

 「この存在とは、「雨が降る( il pleut )」とか「夜になる( il fait nuit )」といった表現と同様に非人称の<ある( il y a )>である。この語はハイデガーの「ある( es gibt )」とは根本的に異なっている。<ある=イリヤ>はけっして、このドイツ語表現の翻訳でもなければそれを下敷きにしたものでもなかった。捕囚の境涯で記述され、大戦明けに世に出たこの著作に提示された<ある>の起源は、子どものときから胸に秘められ、不眠のさなかで沈黙が響きわたり空虚がみなぎるときに再び現れる、あの奇妙なオプセッションのひとつにまでさかのぼる。」(『実存から実存者へ』) 

 「こうして私たちは、<ある>という非人称的な出来事のなかに、意識の概念ではなく、意識が融即する<目醒め>の概念を導入する。意識とはまさしく、私たちが不眠のなかで自らを非人称化しながら到達する、あの存在からの避難所なのだ。
 夜の目醒めは無名である。不眠のうちには、夜に対する私の警戒があるのではなく、目醒めているのは夜自身なのだ。<それ>が目醒めている。この無名の目醒めにおいて私は存在にくまなく曝されているのだが、この目醒めのなかで、私の不眠を満たしているあらゆる思考は何ものでもない無に宙吊りになっている。その思考には支えがない。いってみれば私は、ある無名の思考の主体であるよりはむしろその対象なのだ。」(同上)

2)実詞化(存在から存在者の現われ)

 「では、眠りとはいったい何なのか。眠るとは心理的身体的活動を中断することである。しかし、抽象的存在は空中を漂うだけで、この中断のための必須条件、つまり場所を欠いている。眠りへの誘いは、横たわるという行為のうちに生まれる。横たわる、それはまさしく実存を場所に、位置に限定することである。」(『実存から実存者へ』

 「意識や定位、現在、<私>は、はじめから実存者なのではない。それらは、<存在する>という名づけえぬ動詞が実詞に変容するその出来事なのである。それらすべてが実詞化なのだ。」(同上)

 「私たちの求めてきたのは、実詞の出現そのものなのだ。そしてこの実詞の出現を指示するために私たちは、哲学史において、動詞によって表現される行為が実詞によって示される存在となるその出来事を指し示していた、<イポスターゼ=実詞化>という言葉を再び採用することにした。<イポスターゼ>、実詞の出現、それは単に新しい文法的カテゴリーの出現というだけではない。それは、無名の<ある>の中断を、私的な領域の出現を、名詞の出現を意味している。<ある>の基底の上に存在者が立ち現れる。実詞化によって、無名の存在は<ある>としての性格を失う。存在者―<存在するもの>―は、存在するという動詞の主語であり、そのことによって存在をみずからの属辞とし、その運命に支配を及ぼす。存在を引き受けるだれかがいる。そしてその存在は今やそのだれかの存在なのだ。」(同上)

眠り(→死)の方向と目覚め(→意識)の方向。その目覚めの本質をレヴィナスは、『全体性と無限』で、「分離」として記述している。
「意識」は「意識されているもの」という「他者」を持つ。しかしその「他者」とは「意識にとっての他者」でしかない。例えば見られているものは、私の視覚の対象として与えられる限り、私の意識の一部でしかない。「絶対的な他者」があるなら、それは、その相対的な「他者」の向こう側にあり(=「超越」)、相対的な他者のなかで痕跡を示すようなものであるだろう。
そのような「他者」の現われとは「顔」である。(「顔」とは「人格」であり、カントの言う「物自体」である。)

3)他者

主体から他者へ
「主体=主語」として、他のすべてを「対象=述語」とする自我は、ある意味では自由であるが、すべてをその支配下におき、自己の外部を欠いているという意味では孤独である。私、意識、理性は、あらゆるところで自己の影のみを見出す。私が見ているのは「私の目」が見ているもの、つまり「私の感覚」でしかない。レヴィナスはこれを端的に<同>特徴づける。
一方で、「他者」が絶対的な他者であるなら、それは私による理解を常に超え出て、逃れ去るようなものである。それは真に「無限なもの」であり、<同>の「外部」である。そのような「他者」が姿を見せるのは、ただ他の「人」、「他人」において、である。無限なものである「他者」は私に語りかけ、真の自由へと呼び覚ます。そうした他者をレヴィナスは「顔」と呼ぶ。

「理性は独りである。その意味で、認識は世界のなかでは真に他なるものとは決して遭遇しないのだ。」(「時間と他なるもの」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』

「絶対的に他なるものは、関係を結びつつも他なるものでありつづけ、「私のもの」と化すことがない。」(「多元論と超越」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』

「私の内なる<他人>の観念をはみ出しつつ<他人>が現前する仕方、この仕方をわれわれはここで顔と呼称する。」(『全体性と無限』合田正人訳

 「事物のみに適用される諸範疇から人間を解放しようとする現代哲学の配慮は、静的なもの、惰性的なもの、決定済みのものに、人間の本質たる動性、持続、超越、自由を対置することに甘んじてはならない。何よりも重要なのは、人間が存在の地平を起点としてわれわれと係わることをやめるような場所、つまり人間がわれわれの権能に委ねられることをやめるような場所を、人間に対して見出すことである。(中略)」
 「了解は、存在の開けをとおして存在と係わりつつ、存在を起点として存在者の意味を見出す。このようにして了解は存在者に暴力をふるい、存在者を否定する。暴力とは部分否定である。存在者が消滅することなく私の支配下に入るという事態によって、否定のこの部分性は記述される。暴力という部分否定は、存在者の自存性を否定する。つまり、存在者は私の所有物となるのだ。所有とは、ある存在者が実存しつつも部分的に否定される様相である。(中略)他者との遭遇の本義は、私には対象を所有することができないという点に存している。すでにして私が身をおいている存在の開けは、私の自由の領域のごときものである。然るに、他者が全面的にこの領域に組み込まれることはない。他者が私と出会うのは、存在一般にもとづいてではない。他者のうちにあって、存在一般にもとづいて私に到来する要素はどれもみな、私による了解と所有に供される。他者の歴史、その環境、その習慣にもとづいて、私は他者を了解する。しかし、他者のうちで了解からこぼれ落ちるもの、それこそが他者であり存在者なのだ。私が存在者を部分的に否定しうるのは、存在一般にもとづいて存在者を把持し、それによって存在者を所有する場合に限られる。他者とは、その否定が全面的否定、つまり殺人としてしかありえないような唯一の存在者である。他者とは私が殺したいと意欲しうる唯一の存在者なのである。」
 「私は殺したいと意欲しうる。ところが、この権能は、権能とは正反対のものである。この権能の勝利は、権能としてそれが敗北することである。殺したいという私の権能が実現されるまさにその瞬間、他者は私からすでに逃れてしまっているのだ。たしかに私は、殺すことで、ある目的を達成しうるし、獣を狩ったり射止めたりするのと同様に、樹木を伐採するのと同様に、殺すことができる。しかし、私が殺しうるのは、存在一般の開けのなかで、私の住む世界の構成要素として他者を捉え、地平線上に他者を認めたからである。私は他者を正面からは見なかった。私は他者の顔と出会わなかった。全面的否定への誘惑は、全面的否定の企ての際限のなさ並びにその不可能性の尺度であるが、かかる誘惑こそ顔の現前なのだ。他者と対面の関係を持つこと、それは殺せないということである。それはまた言説の境位でもある。」(「存在論は根源的か」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)

4)責任と倫理

「他者のために他者の身代わりになること」
レヴィナスによれば、「自我」の本質は「inter-esse 内-存在=利害関心」である。自己の存在を追求し、だから、自己中心的で、他者を排除しようとする。この世は、うかうかしていると押し潰されてしまう圧力に満ちているから、「自我」は殻をかぶる。
しかし一方で、レヴィナスは、自我の存在そのもののうちに、「他者の身代わり」を見出そうとする。

「レヴィナスの全著作の基本的定数は、始めから終わりまで、存在の彼方の<善>という観念の探求であり続けている。彼はこの観念を、われわれの主体性の基本的かつ「無起源的」条件としてのわれわれのうちに見出す。われわれは、われわれの自由に先立つこの条件に、無条件的責任への倫理的な呼びかけをつうじて気づくのである。この無条件的責任は、「貧者、寡婦、孤児」たる他人の顔の公現により、われわれのうちに呼び起こされる。すなわちそれは「他人による自我の目覚め」である。人権の根本的な再定義を可能にするこの他律の倫理を起点として、まったき<他>あるいは無限化する<無限者>への欲望として、「神に向かう」形而上学的痕跡が、文字どおりの「神-へ」(à-Dieu)が生起する。この欲望は、欲求や欠乏によって、つまり自我の否定性によって条件づけられているのではなく、顔の公現によって「挑発され」、充足不能な欲望に至るまで無限に穿たれるのである。しかしそれは、「欲望が無限の飢餓に一致するからではなく、それが糧を求めないからである。充足なき欲望は、それ自体、他人の他性を銘記するものなのだ」。神が<善>として露わになるのは、まさにこの満たすのではなく穿つ欲望によってであり、この欲望のうちにおいてである。この<善>は、われわれに反し、われわれのうちで無限に至るまで無限化するような<善>である。そしてそれは、われわれを焼くことも窒息させることもなく、他人への責任の<善>へとわれわれに息を吹き込むのである。」
ロジェ・ビュルグヒュラーヴ「ある哲学的伝記」より―レヴィナス『貨幣の哲学』(合田正人・三浦直希訳)所収)


付録1;ハイデガー批判

1)「道具存在(Zuhanden-sein)」について
「ハイデガー以降、われわれは、道具の総体として世界を捉えることに慣らされている。…ハイデガーが看過したかに見えること、…、それは、道具の総体であるに先立って、世界が糧の総体であるということだ。…われわれは食べるために生きていると言うのはおそらく正しくないが、われわれは生きるために食べると言うのも正しくない。食べることの究極の目的は、食べ物のうちにある。花の香りを嗅ぐとき、この行為の目的は香りに限定される。散歩すること、それは外気を吸うことであるが、その目的は健康ではなく空気である。世界におけるわれわれの実存を特徴づけているのはさまざまな糧である。脱自的実存―自分の外にあること―ではあるが、対象によって限界づけられた実存なのだ。
対象とのこのような関係は、それを享受(jouissance)として特徴づけることができる。」(「時間と他なるもの」
「世界内に存在すること、それはまさしく、欲望をそそるものへと真摯に向かいそれを自分にとってのものとして捉えるために、実存するという本能の最後のしがらみから、自我のいっさいの深遠から身を引き離すことだ。…
欲望の対象の背後に、世界を曇らせる爾後の合目的性の影が輪郭をあらわすのは、悲惨と困窮の時代である。死なないために食べ、飲み、暖を取らなければならないとき、ある種の苦役の場合のように糧が燃料になるようなとき、世界もまた混乱し無意味になり、更新されるべきものとしてその終末に達したように思われる。
世界を日常的と呼び、それを非-本来的なものとして断罪することは、餓えと渇きの真摯さを見誤ることだ。」(『実存から実存者へ』西谷修訳

2)「共同存在(Mit-sein)」について
「いかなるものであれ、光を特徴づける関係をもってしては、自我の既決性を打ち破る他者の他性を捉えることはできない。先回りして、<エロス>の次元がその他性をかいま見させてくれるということ、そして比類なき他者とは女性であり、女性によってある背後世界が世界を延長することを言っておこう。」(『実存から実存者へ』


付録2;『時間と他者』(1954)
   (合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)

「実存者なきこの実存することに、われわれはいかにして接近しようとするのだろうか。諸存在も人々も、万物が無に帰した様を想像してみよう。その場合、われわれは純粋な無と出会うことになるのだろうか。万物のこのような想像的破壊の後に残るのは、何ものかではなく、ある(il y a)という事実である。万物の不在が、一個の現存のように回帰する。すべてが失われたその場所のように、大気の密度のように、空虚の充満のように、沈黙の呟きのように回帰するのだ。諸事物と諸存在のこの破壊の後には、実存することという非人称的な「力の場」がある。主体でも、実詞でもない何かが。もはや何もないときに、実存するという事実は課せられる。それは匿名である。誰も、何もこの実存を引き受けることはない。「雨が降る」(il pleut)や「暑い」(il fait chaud)のように非人称的なのだ。実存することをいかに否定して遠ざけようとも、実存することは回帰する。純粋な実存することの不可避性のごときものがあるのだ。
このような実存することの匿名態に言及したからといって、私は、哲学の数々の手引きのなかで語られているような未分化な地(fond)、知覚がそこで諸事物を裁断するような地のことを考えているのではまったくない。この未分化な地はすでにして一個の存在―存在者―であり、何ものかである。それはすでにして実詞的なものの範疇に組み込まれてしまっている。われわれが接近を試みている、実存すること、―それは存在するという営みそのものであって、この営みは実詞によっては表現されず、動詞によって表現される。一切の否定の背後から、存在するというこの雰囲気、「力の場」としてのこの存在がふたたび現出する。一切の肯定と否定が可能になるような場として。実存することは、存在する客体には決して固着してはいない。だからこそ、われわれはそれを匿名の実存することと呼ぶのである。
別の道を通って、この状況に近づいてみよう。不眠を例にとろう。今度は、想像上の経験ではない。不眠は、それが決して終わらないという意識、言い換えるなら、監視をやめることができず、そこから脱するいかなる手段もないという意識からなる。いかなる目的もない監視である。…」(「時間と他なるもの」合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)


付録3;『全体性と無限』要約(1961)
    (合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』より)

 「ある意味では、哲学することとは<同>を起点として一切の<他>を規定することに帰着する。真理の探求とはこの規定が成就されるその仕方である。それは<同>にあわせて<他>を裁ち直すことに、自己のうちに<他>の尺度を再び見出すことである。とすれば、哲学は合致、自律、先験性によって定義されることになろう。合致、自律、先験性は多様性を全体のうちに統合し、それによってこの多様性を抹消する。かくして、哲学それ自体が全体性のうちに位置することになろう。けれども、<全体性>のうちで<他>が<同>の尺度に適合すること、かかる適合は<同>そのものを疎外する暴力、すなわち<戦争>、<管理>なしに得られるものではなく、その際、<同>が自分の投票結果のうちに己が意志を認めることはないだろう。
 しかしながら、真理への愛としての哲学は<他>としての<他>を、<自我>のうちなるその反映とは区別された存在を希求する。―哲学は、<他>の<法>を探求する。それは他律そのものであり、超-自然学[形而上学]なのだ。デカルト哲学における思考する<自我>は、無限の観念を有している。デカルトによると、私は、有限な諸事物の他者性を自力で説明することができる。このような他者性とはちがって、<無限>の他者性が観念のうちで減弱することはない。無限の観念とは、思考されることより以上のことを思考することなのである。
 この否定的な記述は、その字面だけを眺めた場合、デカルト主義のうちには存することなきある肯定的な意味を獲得する。思考するより以上のことを思考する、そのような思考は<欲望>以外の何であろうか。ここにいう<欲望>は欲求の欠如とは異なる。<欲望されるもの>は、<欲望>を埋めることなくそれを増大させるのである。
 <無限>の観念として考察された<欲望>のこの構造については、<他者>関係の現象学がそれを示唆してくれる。対象が<同>の自同性に統合されるのに対して、<他者>は無防備なその眼の絶対的抵抗によって現出する。<他者>は高さの次元から到来する。意識はいかに冒険しようとも、自己に囚われている自分を見いだすのだが、意識のこのような独我論的不安にここで終止符が打たれるのだ。<自我>に対する<他者>の特権―道徳意識―は外部性への突破口であり、この突破口はまた<高さ>への突破口でもある。
 かくも直接的に、かくも外的なものとしてかくも卓越せる仕方で現前しうるものの公現―、それがである。顔において、表出するものは表出に臨在し、「自分自身を加護し」、意味し、発語する。顔の公現は言語なのだ。<他者>とは最初の知解可能なものである。けれども、顔における無限は表象として現われるのではない。顔における無限は、不羈の力( force qui va )としての私の輝かしい自発性を問いただす。私の自由は、自分が殺人者であり略奪者であることを発見する。とはいえ、この発見は自己についての知識の派生物ではない。それは隅から隅まで他律なのだ。顔を前にして、私は自分自身に、より多くの要求を突きつける。私が顔に答えれば答えるほど、この要求は増大していく。かかる運動は、自己表出の自由より根底的なものだ。事実、倫理的意識は、特に推奨すべき意識の一種ではなく、意識そのものの凝縮、自己のうちへの退却、収縮なのである。
 このような仕方で記述された<他>の高さへの方位、それは、存在そのものにおける高低差のごときものである。は無化を示しているのではない。それは社会的関係における「存在以上のもの」、幸福より善きものを示しているのだ。とするなら、の「生起」は、分離なしには不可能であろう。しかも、ここにいう分離が、<他者>との<関係>の弁証法的片割れに還元されることはありえない。なぜなら、分離と結合の弁証法は一個の全体性のうちで働くからだ。分離の原理は、実はすでに他者のほうを振り向いている、そのような孤独の不幸によってではなく、享受の幸福によって与えられる。こうして、一個の全体には還元されざる多元性を主張することが可能になる。
 顔によって顕現する<他者>は、文化ならびに文化の堆積(アリュヴィオン)とこの堆積ゆえに生じた言外の意味(アリュジオン)に先立つ、最初の知解可能なものである―、こう述べること、それはまた、歴史に対する倫理の独立性を肯定することでもある。最初の意味は、道徳性のうちで―、一切の性質を欠いた赤裸な顔、文化から切り離されて絶対者と化した顔のほとんど抽象的とも言える公現のうちで―、生じるという点を示すこと、これは歴史による現実了解に限界を画し、プラトン主義をふたたび見出すことなのである。」


文献案内
上では、比較的分りやすい箇所を引用しておいたが、レヴィナスの本は、「チョーむずい」。どれも一度読んで分るという性質のものではない。しかし、それは、ラカンやデリダの本が、そういう印象を与えるように、「わざと分り難く書いている」からではない。「存在」「倫理」「他者」という根本問題を、独自の視点で扱っているのだから、分り難くても仕方がないのである。また、それをあっさり分ってしまうというのでは、一番大事な点を分っていないことにもなるだろう。
という訳で、レヴィナスの思想に関心がある人は、まず、初期の比較的短い論文
『実存から実存者へ』西谷修訳(講談社学術文庫)
「時間と他者」―合田正人編訳『レヴィナス・コレクション』(ちくま学芸文庫)

などを読んでみて欲しい。(『レヴィナス・コレクション』には、「存在論は根源的か」など、他にも、短いが重要な論文が集められている。)
前者は現在は手に入らないかもしれないが、レヴィナス自身が自分の思想を語った、
『倫理と無限』原田佳彦訳(朝日出版社)
『暴力と聖性』内田樹訳(国文社)

辺りも、一読を勧められる。
最初に書いたように、主著は、次の二冊。
『全体性と無限』合田正人(国文社)、『全体性と無限』(上)熊野純彦訳(岩波文庫)
『存在の彼方へ』合田正人訳(講談社学術文庫)

これまでは他に選択肢がなかったが、やっと新訳が出た『全体性と無限』は、直訳に近い熊野訳の方が、私には分かりやすい場合が多い。(こう言ったからといって、別に合田訳を貶している訳ではない。例えば、序文の最初の個所だが、「戦争は…、絶対的な責務を一時的に無効にならしめる」と言われるより、「無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである」と直訳口調で言われた方が、あぁ、カントの定言命法ですね、「汝殺すなかれ」ですか、―という具合に、私には分かりやすいということだ。この個所も合田訳の方が分かりやすいという人もいるかもしれない。それに、「戦争」と言っても、最初は「第二次世界大戦」を意味しているように見えたとしても、すぐ次には「存在」そのものが「戦争」である、という話になるのだから、分かり難いことに変わりはないのである。つまり合田訳を読んで分からなかったという場合に、それは訳のせいではない、ということだ。とはいえ、私は、例えば「言説」と言われるより、「語り」と言われた方が、ハイデガーとの繋がりが見えてきて、理解しやすい、というように、しばしば感じる。)
これらを含めて、レヴィナスを読む場合には、ハイデガー、特に『存在と時間』についての知識は必須だ。(例えば、上に一部引用した「存在論は根源的か」という論文にしても、「存在論」も「根源的(fondamental)」もハイデガーの用語だ。)
また、最初に書いたが、「実体」ならぬ「虚体」という「存在の彼方」を主題に据えた、埴谷雄高『死霊』は、小説という形で、レヴィナスと非常に似たことを語っていると思う。
また、最近(2005年11月)出た、
岩田靖夫『よく生きる』(ちくま新書)
の第二章「他者」は、短いが明快に、レヴィナス思想の核心を述べている。


→ハイデガー
→村の広場に帰る