カフカ(Franz Kafka)


いまどき誰がカフカなんて読むんだろう? 面白くもないのに。
―というのが、今の私の心境です。
でも、各種の文庫本で、主な作品は今でも手に入るのだから、それなりに売れており、読む人はいるのでしょう。
私はどうかと言うと、中学生か高校生の頃、『変身』辺りから読み始めて、その後も、関心を失くしている時期も長いのですが、たまに思い出したように読むことはあります。
『カフカ全集』なんていうものも、何種類か持ってますし、普通に言えば、熱心ではないけど、「ヲタク」かもしれません。
(何種類か、と書きましたが、新潮社の旧版と新版(決定版12巻)、白水社版『小説全集』、の三種類しかないのですから、ほぼ全部です。)

不条理文学
世界の不条理と現代人の不安を描いた実存文学
―そういう位置づけが、50年位前のカフカのイメージでした。真面目で哲学的。
今の私が持つイメージは、違います。皮肉や笑いに満ちた、時に心に刺さることもある、変な物語。そういうイメージです。
カフカの最初期の作品『観察』の中の一篇
「   インディアンになりたいという願い
ああ、もしインディアンだったら、すぐにも走り抜けて行く馬に飛び乗って、風に身を伏せ、揺れる大地に身も戦
(おのの)き、また戦き、ついに足は拍車を離れ、だって拍車なんかもうないんだから、手は手綱を捨て、だって手綱なんかとっくにないんだから、目の前にはただ刈り尽くされた荒野のほかは見えるものとてほとんどなく、気がつけば馬の首も頭ももうとっくに消え去って。」
柴田翔訳『カフカ・セレクション』Ⅱ(ちくま文庫)

全文です。
空想が現実に浸食される話。関西弁で「なんや、それ!」とか、「じゃ、いま何しとるんや?」とか、ツッコミを入れてください。
これは、ただのお笑いでしょう。

ある時、シュールな「夢」の小説ではないか、と思って読んでみたこともありますが、そういうことでもなさそうです。
時間も空間も因果関係も歪んでいて、そのくせ細部がリアルなので、しばしば悪夢を思わせるのですが、
それはカフカが見ていた世界がそういうものだったからでしょう。
(「夢」という短編は、本当に見た夢をそのまま(或いは見た夢をヒントにして)書いたものかもしれません。
吉田仙太郎編訳『カフカ 夢・アフォリズム・詩』平凡社ライブラリー 1996年
にはカフカの書いた夢に関する記述が集められています。)

ともかく、カフカの小説に、安直に「意味」を求めてはいけないと思います。
美少年たちの「ボーイズ・ラブ」を描いたマンガが、かつて「ヤオイ」(山なし、落ちなし、意味なし、の頭文字)などと呼ばれましたが、
カフカの小説も、普通の小説と比べると、「山も落ちも意味もない」と言われても仕方がないと思います。
人に読ませるためにではなく、書きたいものを書いてそうなったのなら、それはそれで仕方がないと思うしかないでしょう。 
そもそも次のようなことを考えている人の本が、普通の意味で面白くなる可能性は低い。           

カフカの手紙からの引用。
そもそも、自分を嚙んだり刺したりするような本だけを読むべきだと ぼくは思う。 ぼくらの脳天を直撃して目を覚まさせてくれる本でないなら、何のために本なんか読むんだ?  きみが書いてきたように、幸せになるため? 冗談 じゃない。 本がなくても人間、幸せだろ。 自分が幸せになるための本がどうしても欲しいなら、 自分で書けばいいじゃないか。 ぼくらが必要としているのは、ぼくらを苦しめる不幸みたいな働きをする本だ。 たとえば自分自身よりも大切に思っている人の死 みたいな。 たとえば人里離れた森の中に追放されているような。 たとえば自殺みたいな。本というものは、ぼくらの中にある凍りついた海を叩き割る斧でなければならない。 それがぼくの考えだ。
フランツ・カフカ.『ポケットマスターピース01 カフカ』 (集英社文庫) (p.626). Kindle 版.

『城』、『訴訟(審判)」』、『アメリカ(失踪者)』という三つの長編のうち、私が好きなのは『訴訟』です。
(「審判」という訳も「最後の審判」を連想させるし、長いことそう訳されてきたので捨てがたいのですが、「訴訟」の方が正しい訳だと思います。)
一応だいたい完結しているし、コンパクトで緊迫感もあり、他のものよりダラダラしていないから、というのが思いつく理由ですが、
要するに、作品としての完成度が高いから、ということでしょう。これだけ何度か読んでいます。
ストーリーがまとまっているのは、カフカでは一番有名な『変身』と同じパターンだからかもしれません。
突然の変身/突然の逮捕→事情をさらに悪化させる無駄な努力→惨めな死
『変身』は家庭内の物語で(父親との葛藤と妹との交渉が中心)、『訴訟』は家族の外の社会の物語ですが、
パターンは同じですし、ともに破滅が迫っているという緊迫感があります。
逆に言うと『アメリカ』は途中から何の話なのか分からないような迷走具合で、未完に終わったのも納得してしまいます。
幻想的な「アメリカへの旅」の話なら、セリーヌの『世の果ての旅』の方が、ずっと強烈で印象に残ります。(比べるものでもないですか?)
(下↓に『アメリカ』冒頭個所の訳)
『城』は、読み始めて、半分を過ぎた辺りで中座してそのまま読み終っていない、―ということが二度あるのですが、長過ぎるのかもしれません。
(詰まらない話ではないのだから、そのうち途中から読み始めて終わりまで読む、ということがないとは言えませんが。)
でも、これも迷走の連続です。
本当に『城』がカフカの代表作なのか、神の超越といった形而上学的意味を読み込むことによって、過大評価されているのでは?
という密かな疑惑が、実は、無いではないのです。小説としての完成度は、『訴訟』の方が上ではないかという気がするからです。

『変身』の一場面
上で「面白くもない」と書きましたが、普通に笑ってしまうような面白さもあります。
なぜか、ある朝、大きな虫に変身してしまった主人公が、
不審に思って家を訪ねてきた会社の上司を、このまま返してはいけないと思い奮闘するシーン。
「部長をこんな気分で帰らせてしまったら絶対にまずいし、こんなことで会社のポストを危うくさせてはならない、とグレゴ―ルは気づいた。両親には、こういうことがよく呑みこめていない。この会社にいればグレゴールはもう一生安泰と、長年のあいだに思い込んでしまっており、今は今で、目の前の心配事にかまけていて、先の見通しどころの騒ぎではない。しかしグレゴ―ルには、この先の見通しがついていた。部長を引きとめ、慰留し、納得させて、最終的には味方につけなければならない。グレゴ―ルとその一家の将来は、まさしくその成否にかかっている! ああ、妹さえここにいてくれたらな! 妹は頭がいい。グレゴ―ルがまだ悠々とベッドで仰向けになっていたときに、すでにもう泣いていたくらいだ。それに、女性に甘い部長のことだから、きっと妹にいいように言いくるめられてしまうだろろう。…
…ぼんやり放心しているように見えた母親が、いきなりぴょいと跳びあがるや、両腕をひろく伸ばし、指という指をひらいて、「助けて、後生だから、助けて!」と悲鳴をあげたばかりか、グレゴ―ルをもっとよく見ようとするかのように、顔を下に向けてこそいたものの、それとはうらはらに、さらに無意識に後ろ向きに走り出したのである。その方向には朝食の準備がされた食卓があったが、母親はそのことを忘れていた。食卓までたどりつくと、茫然自失の態であわててその上に坐りこんだ。その結果、すぐわきで大きなコーヒー・ポットがひっくりかえり、流れ出たコーヒーが絨毯の上にジャージャーとこぼれ落ちたが、母親はまったくそれに気がつかないらしかった。
「母さん、母さん」とグレゴ―ルは低い声で言いながら、母親の方を見あげた。その瞬間、部長のことはきれいに彼の頭から消えていた。そのくせ流れ落ちるコーヒーが目に入ると、いくたびも顎をぱくつかせずにはいられなかった。それを見た母親は、またしも悲鳴をあげながら食卓から逃げだし、駆けよった父親の腕の中に倒れた。しかし今のグレゴ―ルには、両親にかまけている暇はなかった。すでに部長は階段を降りはじめていた。手すりから顎をつきだし、最後にもう一度と振りかえっている。なんとしてでも追いつこうと、グレゴ―ルは突撃を開始した。部著は何か気配を察したに違いなく、階段を一挙に何弾も飛びおりて、姿を消してしまった。「ひゃあ!」という叫び声が、しかし、吹き抜けの階段室全体に響き渡って残った。…」
『変身・断食芸人』山下肇・山下万里訳(岩波文庫)

(「吹き抜けの階段室」というのは余り使わない表現ですが(例えば池内訳では単に「階段」)、ググってみれば分かるように、正確な訳です。)

参考までに、ドイツ語では、こう書かれています。
Gregor sah ein, daß er den Prokuristen in dieser Stimmung auf keinen Fall weggehen lassen dürfe, wenn dadurch seine Stellung im Geschäft nicht aufs äußerste gefährdet werden sollte. Die Eltern verstanden das alles nicht so gut; sie hatten sich in den langen Jahren die Überzeugung gebildet, daß Gregor in diesem Geschäft für sein Leben versorgt war, und hatten außerdem jetzt mit den augenblicklichen Sorgen so viel zu tun, daß ihnen jede Voraussicht abhanden gekommen war. Aber Gregor hatte diese Voraussicht. Der Prokurist mußte gehalten, beruhigt, überzeugt und schließlich gewonnen werden; die Zukunft Gregors und seiner Familie hing doch davon ab! Wäre doch die Schwester hier gewesen! Sie war klug; sie hatte schon geweint, als Gregor noch ruhig auf dem Rücken lag. Und gewiß hätte der Prokurist, dieser Damenfreund, sich von ihr lenken lassen; sie hätte die Wohnungstür zugemacht und ihm im Vorzimmer den Schrecken ausgeredet. Aber die Schwester war eben nicht da, Gregor selbst mußte handeln. Und ohne daran zu denken, daß er seine gegenwärtigen Fähigkeiten, sich zu bewegen, noch gar nicht kannte, ohne auch daran zu denken, daß seine Rede möglicher- ja wahrscheinlicherweise wieder nicht verstanden worden war, verließ er den Türflügel; schob sich durch die Öffnung; wollte zum Prokuristen hingehen, der sich schon am Geländer des Vorplatzes lächerlicherweise mit beiden Händen festhielt; fiel aber sofort, nach einem Halt suchend, mit einem kleinen Schrei auf seine vielen Beinchen nieder. Kaum war das geschehen, fühlte er zum erstenmal an diesem Morgen ein körperliches Wohlbehagen; die Beinchen hatten festen Boden unter sich; sie gehorchten vollkommen, wie er zu seiner Freude merkte; strebten sogar darnach, ihn fortzutragen, wohin er wollte; und schon glaubte er, die endgültige Besserung alles Leidens stehe unmittelbar bevor. Aber im gleichen Augenblick, als er da schaukelnd vor verhaltener Bewegung, gar nicht weit von seiner Mutter entfernt, ihr gerade gegenüber auf dem Boden lag, sprang diese, die doch so ganz in sich versunken schien, mit einemmale in die Höhe, die Arme weit ausgestreckt, die Finger gespreizt, rief: »Hilfe, um Gottes willen Hilfe!«, hielt den Kopf geneigt, als wolle sie Gregor besser sehen, lief aber, im Widerspruch dazu, sinnlos zurück; hatte vergessen, daß hinter ihr der gedeckte Tisch stand; setzte sich, als sie bei ihm angekommen war, wie in Zerstreutheit, eilig auf ihn, und schien gar nicht zu merken, daß neben ihr aus der umgeworfenen großen Kanne der Kaffee in vollem Strome auf den Teppich sich ergoß.
»Mutter, Mutter,« sagte Gregor leise und sah zu ihr hinauf. Der Prokurist war ihm für einen Augenblick ganz aus dem Sinn gekommen; dagegen konnte er sich nicht versagen, im Anblick des fließenden Kaffees mehrmals mit den Kiefern ins Leere zu schnappen. Darüber schrie die Mutter neuerdings auf, flüchtete vom Tisch und fiel dem ihr entgegeneilenden Vater in die Arme. Aber Gregor hatte jetzt keine Zeit für seine Eltern; der Prokurist war schon auf der Treppe; das Kinn auf dem Geländer, sah er noch zum letzten Male zurück. Gregor nahm einen Anlauf, um ihn möglichst sicher einzuholen; der Prokurist mußte etwas ahnen, denn er machte einen Sprung über mehrere Stufen und verschwand; »Huh!« aber schrie er noch, es klang durchs ganze Treppenhaus.
これは、ドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディー)以外の何ものでもありません。
流れ落ちるコーヒーを見て、口がぱくぱく動いてしまうのは、猫や犬が動くものをつい追いかけてしまうような、本能的な動作なのでしょう。
でもお母さんには、それが異様な動作で、まるで自分を襲い食おうとするような動作に見えるのでしょう。
その前の「母さん」という呼びかけの声も、お母さんには低い唸り声にしか聞こえなかったのでしょう。
経過が細かくリアルに描かれていますが、カフカはこの場面を、心の中で半ば笑いながら、書いていたと思います。
その前の描写にも、「目の前の心配事にかまけて」って何だよ!とか、心の中で突っ込みながら笑ってしまう個所が、幾つかあります。
カフカの笑いは、基本、シニカルで、しばしば自虐的でブラックですから、波長が合わないと笑えません。
(それに、そもそも翻訳の問題もあります。ドストエフスキーの翻訳でも、米川訳『全集』の訳では笑えないのに、小沼訳『全集』は、つい笑ってしまう個所があちこちにあります。思うに、訳者の癖が出ない、直訳調の方がいい。)
それにこの個所は、カフカの他の小説でもよく見られる、
異常な状況で、よかれと思いながらも、結果的に、非常にまずい不適切な行動をとってしまう
という、主人公の行動パターンの一例です。

自虐の笑いとマゾ願望
『変身』は、しばしば寓話として読まれます。
そもそも、一匹の「大きな虫」になってしまうのは、他人事ではないからです。
現代の日本にも、引きこもってくらしている多くの若者や中高年がいますし、
私も、自分が痴呆というか認知症になったり、徘徊老人になったりする未来は、まったく予想できないことではありません。
(虫になった主人公の視力が落ちて外がよく見えなくなる描写がありますが、
数年前に白内障の手術を受ける前には、かなり視力が落ちていた私は、主人公に同情してしまいました。)
カフカ自身、役所に勤めるサラリーマンでしたし、長男で妹がおり、父親との心理的な葛藤(→「父への手紙」)がありました。
部屋にこもって何の役にも立たない小説を書くしかなかったカフカは(生前は無名でした)、主人公を他人とは思っていなかったでしょう。

「彼」シリーズ―1920年の手記―から
「彼は牢獄で満足しただろう。囚われた人間として世を終る――これが彼には人生の目標なのであろう。しかし、この牢獄は格子作りである。世間の騒音が無関心に、大威張りで、普通の家に居るのと同じように格子から流れいり、流れ出る。囚われた人間はほんとうは自由だつたのだ。あらゆる事柄に関藇することができたし、外に起るどんな事も知ることができた。それどころか、この牢獄を立ち去ることもできただろう。格子は一メートル間隔にはまつていたのだ。彼は決して囚われていたわけではなかったのである。」
(野島正城訳 旧版『カフカ全集Ⅲ』 新潮社)

「インディアン」と同じく、これもお笑いで、「なんやねん、その牢獄!」とツッコミを入れるべきところでしょうが、
こちらは、多分、自虐的なぶん(「彼」とは自分のことでしょうから)、寓意的なメッセージも含まれています。
「こだわり」のある人間は、自分で自分を縛り付け、自分で自分を閉じ込めてしまっているのですから、
本当はいつでも抜け出せるのに、抜け出すことができないのです。

川島隆訳『変身』の「解説」からの引用
「結婚に至れば、夜中に文学作品を執筆する自分の生き方が不可能になる。自分にとって最も心地よい対人距離は「地下室」に閉じこもって誰とも顔を合わせないことだと、カフカは一九一三年一月、当のフェリスに宛ててあけすけに書いている。  

ぼくにとって一番いい生活スタイルは、文房具とランプを持って、トンネルみたいな隔離された地下室の一番奥のスペースにいることなんじゃないかな。食事を持ってきてもらうときは、ぼくのスペースからずっと遠く、地下室の一番外側の扉の前に置いておいてもらう。パジャマを着たまま、地下室の穴倉を次々とくぐり抜けて食事を取りにいくのが、ぼくの唯一の散歩になるってわけさ。それからぼくは自分の机に戻り、ゆっくり慎重に食べ、すぐまた執筆を始めるんだ。これなら、いいものが書けそうなんだけどなあ!」

『変身』の主人公は、書くことを忘れたカフカ自身の姿だったのでしょう。

カフカという謎
数年前に、カフカという人間に興味が湧いて、手紙や日記を読んでみました。
結論を言えば、作品と同じくらい(あるいは、作品以上に)、カフカという人は面白い。
とりわけ、数度にわたる婚約破棄事件は、キルケゴールの場合と同じくらい、興味深い問題です。
たぶん、(自分の使命と実生活の矛盾という)その問題から逃げずに(と言うより、逃げられずに)対処しようとした結果が、
婚約と婚約破棄を繰り返すという、矛盾した行動になったのでしょう。
「女性、いや、もっとはっきり言って、結婚は、おまえが対決すべき、人生の代表者である。」(辻編訳『カフカ 実存と人生』から)

では、カフカはどんな人だったのか?
一言で言えば、書かずにはいられない天才だった、と思います。
書くことが彼の生活の中心でした。何を書いたのかはどうでもいい。書かずにはいられなかったことを書いたのです。それが天才というものです。
リルケは『若き詩人への手紙』で「…」と言っていますが、その通りなのがカフカです。 

二度の婚約と婚約破棄を繰り返した、フェリーツェ・バウアー宛の書簡
カフカの生活について語っています。

  私の生活は 基本的に 今も昔も、 執筆の試みで成り立っています。 作品を書こうとしても、 たいてい失敗に終わるのですが。 しかし執筆していないと、私は地べたに転がってゴミとして捨てられるのを待つだけの身になります。

  私は自分が知っている中で一番やせた男です( これは ちょっと自信あります。私はあちこちのサナトリウムを見て回っていますから)。実際それと同様、執筆という観点からすると余分なもの、いい意味で余分なものと呼べるものは私には何も残っていません。ですから、もし私を利用するつもりの、または現に利用している高次の力が存在するなら、 私は少なくともその力に使われる道具として明らかによくできています。もしそんな力は存在しないなら、私は突然、恐るべき空虚の中にぽつんと取り残されることになり ます。…

私の生活スタイルは執筆活動のみに特化しており、もし変化があるとすれば、執筆のために都合がいいように調整してみた結果の変化でしかありません。なにしろ時間は短く、力は少なく、職場は恐ろしく、家はやかましい。 きれいにまっすぐ生きてゆけない場合は、くねくねと身をくねらせながら曲芸ですり抜けてゆくしかないのです。 自分が書いたものの中に、本来書こうとしていたことより疲労のほうが毎度ながら明瞭かつ上手に記録されているのを見たときのお決まりの嘆きに比べたら、時間をこま切れにする曲芸で得られる満足などは無に等しいものです。 最近ひどく衰弱しているせいで中断を挟むことはありますが、 私のタイムスケジュールは一 ヶ月半前からこんな具合です。 八時から二時または二時二十分まで職場。 三時または半まで昼食。それから七時半まで睡眠(たいてい眠ろうとするだけに終わります。 この一週間、目を閉じればモンテグロ人の姿ばかり見えていました。 連中の変てこな服装が、細部に至るまで、吐き気がして頭痛がするほどはっきり見えたのです)。 それから十分間、窓を開けて裸で体操。 そか 一 であるいはマックスと、あるいはまた別の友人も交えて散歩。 それから家族と夜食(私には妹が三人います。 一人目は既婚、 二人目は婚約中、 三人目の独り身のが一番 かわいいです。他の二人もかわいいです)。 そして十時半に(下手をすると十一時半にようやく) 腰を下ろして執筆に取りかかり ます。体力、気力、幸運と相談しつつ一時、二 時 三時まで。朝の六時まで執筆していたこともあります。 それからまた同じ体操。 ただしやりすぎは禁物です。 体を洗って汚れを落とします。 ちょっと心臓が痛み、腹筋がピクピク痙攣した状態で就寝。 何とかして眠ろうとしますが、 これは不可能への挑戦です。 眠れないからです( しかもこの男は、夢のない睡眠がいいなどと贅沢を おっしゃる)。 転々としながらこの男の仕事に思いを馳せ、さらに、はっきりした答えの出ない問題にはっきりした答えを出そうとする。 明日はお手紙が届くか、届くとすれば 何時かといった問題です。 つまり、私の夜は 二部構成になっているわけです。目覚めているパートと、眠れないパートです。 この件について詳しく書こうとすれば、 かりに耳を貸してくださる気になられたとして、きりがないでしょ う。 もちろん、私が朝に職場で、ほぼ力尽きた状態 で仕事を始めることになるとしても、さほど不思議はありません。
フランツ・カフカ. 『ポケットマスターピース01 カフカ』 (集英社文庫) (pp.633-636). Kindle 版.

興味があれば、まず
頭木弘樹『絶望名人カフカの人生論』(新潮文庫)
頭木弘樹『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)
辺りを読んでみたらどうでしょうか。日記や手紙からの引用を多く含んでおり、お勧めです。


翻訳について
翻訳については、読み比べてみなければ分からないので、具体的に訳を比べてみればよいのですが、それを今書く元気はありません。
で、暫定的な結論は、

1)池内紀訳は信用できない。
光文社古典新訳文庫『変身』と『訴訟』の「あとがき」で訳者が二度も指摘しているように、池内訳には脱落や省略があり、良心的な翻訳とは言えません。
印象としては、面倒くさいところは飛ばしたり簡略化して訳している、という感じです。
もしかしたら、それが読みやすいという印象を与えているかもしれませんが、本当にカフカが好きだったら、こんな翻訳はありえません。
(円地文子訳『源氏物語』とか、町田康訳『堤中納言物語』とか、原文にないフレーズが付け加えられている訳もありますが
それは「適当に訳してる」の、真逆です。町田訳なんて、原文の一行を一ページ使って訳していたりするのですから。)
一か所だけ引用してみます。
『アメリカ(失踪者)』の書き出しの部分(「火夫」というタイトルで短編として発表されていますので、編集によるテキストの異同はありません)
「女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまったのだ。そこで十六歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカへやられた。速度を落としてニューヨーク港に入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた。剣をもった女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした。像のまわりに爽やかな風が吹いていた。
「ずいぶん大きいんだな」
誰にいうともなく呟いた。」

(引用は池内訳『カフカ短編集』(岩波文庫)の「火夫」から。
ほぼ同じだが、『カフカ小説全集1 失踪者』では年齢が「17歳」になっている。これはカフカ自身が変更したもので「火夫」では16歳が正しい。)
読みやすくて分かりやすい訳です。でも、原文はこうです。

Als der sechzehnjährige Karl Roßmann, der von seinen armen Eltern nach Amerika geschickt worden war, weil ihn ein Dienstmädchen verführt und ein Kind von ihm bekommen hatte, in dem schon langsam gewordenen Schiff in den Hafen von New York einfuhr, erblickte er die schon längst beobachtete Statue der Freiheitsgöttin wie in einem plötzlich stärker gewordenen Sonnenlicht. Ihr Arm mit dem Schwert ragte wie neuerdings empor, und um ihre Gestalt wehten die freien Lüfte.

›So hoch!‹ sagte er sich und wurde, wie er so gar nicht an das Weggehen dachte, von der immer mehr anschwellenden Menge der Gepäckträger, die an ihm vorüberzogen, allmählich bis an das Bordgeländer geschoben.

大学生ならこう訳すでしょう。
「16歳のカール・ロスマンが(彼は貧しい両親によってアメリカに送られた、なぜなら彼をお手伝いさんが誘惑して彼の子供を妊娠したから)、すでにゆっくりになっていた船で、ニューヨークの港に入っていったとき、彼はすでに長いこと見つめていた自由の女神像を(急により明るくなった陽の光のなかにある姿で)目にした。剣をもった彼女の腕が、改めて上に聳え立ち、彼女の姿のまわりに自由な風が吹いていた。
「とても高い!」と彼は独り言を言った。」


池内訳で問題があるのは、上で太字にした部分。
まぜ、「すでに長いこと見つめていた」が訳されておらず、
「急により明るくなった陽の光のなかにある姿で」の句が「自由の女神」に掛っておらず、「彼は」に掛っているという点です。
「すでに長いこと見つめていた」自由の女神像を「目にした」を、一つにまとめて、「彼はじっと自由の女神像を見つめていた」と訳しているのでしょうから、ここは許容範囲かもしれません。しかし私は港に入る前から「観察していた」女神像を、港に入ってから改めて見上げた、という意味だと思います。ずーっと見ていたとう話ではない。でもこれは良しとします。
しかし「船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像を見つめていた」は誤訳です。
原文の「wie」以下は「Statue」を修飾しており、陽の光を浴びているのは、女神像であって、「彼」ではありません。
手許にある他の翻訳を見ても、当然ですが、「彼に陽があたっている」と解釈しているものはありません。
(原文にない「甲板に立ち」の挿入は、許容範囲でしょう。その後の描写で甲板に立っていることが分かりますから。
重ねて言いますが、「甲板に立ち…陽光をあびながら」は分かりやすい。でも原文にはそう書いてないのです。)
(また、自由の女神は「剣」は持っておらず、右手にソフトクリームのような松明、左手に本(文書)ですが、
そこは原文通りなので、文句を言うところではありません。)

さらに、その後の「剣をもった女神が、やおら腕を胸もとにかざしたような気がした」という訳は、私には意味がよく分かりません。
「剣をもった腕がタワーのように聳え立った」という辞書的な意味ではないようです。では、どういう意味なのですか? 謎です。

原文の正確さを犠牲にして、自分のリズムで訳しているから読みやすいけど、雰囲気的、というか気分的な訳、というのが私の評価です。
つまり、でも、それって、原文の意味と違いませんか? それにときどき抜けてるし。―と言いたくなるということです。
『決定版 カフカ全集』の訳と読み比べれば、なぜか抜けている個所が所々にある、という事実に気がつくでしょう。
(そして、しばしば、私が面白いと思うような個所が、抜けていたりします。)
私が下で勧めている川島訳では、同じ個所をこう訳しています。何の不満もありません。

  十六歳のカール・ロスマンは、貧しい両親にアメリカへ送られた。 メイドが誘惑してきて、そいつに子どもができてしまったからだ。 速度を落とした船がニューヨークの港に入っていくと、 かなり前から見えていた自由の女神が、突然 日差しが強くなったときのように浮かびあがった。 剣を持った手が、みるみるうちに目の前でそびえ立ち、像の周りには 自由な風が吹いている。 『こんなに 高いんだ!』 と彼は思った。
フランツ・カフカ.『ポケットマスターピース01 カフカ』 (集英社文庫) (pp.87-88).Kindle版.

2)集英社『ポケットマスターピース01 カフカ』(2015年)の川島訳は、いい。
この本は、『決定版カフカ全集』にも収録されていない文献(仕事で書いた報告書)も訳されており、これも何かカフカぽくって面白い。
収録されているのは、長編は『訴訟』だけ。それ以外は、代表的な短編、と書簡の一部(これもいい)。
『変身』の訳はどうだろうとは思いますが、全体的に、訳も正確でフレッシュ。電子版でも読めます。お勧め。

3)平野嘉彦編訳『カフカ・セレクション』 Ⅰ/Ⅱ/Ⅲ (ちくま文庫 2008年)
テーマ別の編集。カフカの書いた短編は、主要なものは、ほぼ網羅しているようです。
各巻の前半は無名の短編ばかりで、ややマニアックという気もするが、いいものだと思います。
予想されるように、たいして売れなかったのか現在入手困難です。私は品切れになってから古本屋で買いました。電子版ででも出してほしいと思います。

4)『変身』の訳は、岩波文庫の改訳版(2004年)『変身・断食芸人』(山下肇・山下万里訳)が良いような気がする。
私が最初に読んだのは、旧版の岩波文庫(山下肇訳)ですが、最近手に入れた改訳版は、けっこう変わっていて、いろいろ良くなっているようです。
このページを書いてから、川島隆訳『変身』(角川文庫 2022年)が出ていることに気づきました。電子版で読んでみました。
本文の訳よりも、充実した解説の方が面白かった。


5)『全集』として買うなら、古本で高価ですが、『決定版 カフカ全集』(新潮社)しかありません。
Amazonで見ると電子版で『カフカ全集』というものがありますが、青空文庫の作品をまとめただけのものですし、『全集』とも言えないものです。
読むのには問題はないと思いますが、翻訳に問題のある白水社『カフカ小説全集』(→白水uブックス「カフカ・コレクション」)と同様、お勧めはできません。
(池内訳『カフカ小説全集』は、訳に問題があるとは言っても、誤訳だらけという訳ではありません(たぶん)し、
編集に大きな問題があるマックス・ブロート版全集(上に引用した書簡で「マックス」と呼んでいるカフカの親友が編集した全集)ではなく、
新版全集のテキストに基づいて、
草稿や「小説」とは言えないようなものも含めて全て訳されていますから、
セカンド・チョイスとしてはこれしかないでしょう。)
新潮社の旧版『カフカ全集』には、小説だけでなく、手紙と日記の翻訳もありますが、
元のテキストも翻訳も、新版の方が良いので、積極的にお勧めはできません。

(2024/2/3)


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