儒教
(Confucism)


『論語』

孔子(551/2B.C.-479B.C.)の言行録が『論語』である。
(孔子の弟子にも「子=先生」という尊称がついていることから、孔子の弟子の弟子たちが編集したのだろうと考えられている。)

孔子の教えの特徴が何処にあるのか、一言では言えないが、そこをあえて一言で言うと、
自然(ピュシス)に基づく「徳の倫理」である
(つまり、人の本性に基づいて人のあるべき道を説いた教えである)
と言ってよいだろう。

儒教というと、「礼」「仁義」「義理」といった、古くて堅苦しい形式主義のような印象がないではない。
孔子自身は、形式主義の真逆の人だが、確かに、特に後の儒教では、形式が重視される。
しかし、それは、言葉という形式を欠いては、人間の正しい感情は表現も理解もされえず、
また共通のルール(形式)がなくては、人と人の関係が正しく機能することはない、―それと同じように、
一定の形式にのっとることではじめて、人間の本性が実現されるから、なのだろう。
単独の個人が絶対であるという近代社会の幻想は、ここには存在しない。
人は本質的に他者との関係性の中において存在する。
「人と人の間」にある存在である「人間」の本性を孔子は「仁」と言い、その現れる形式を「礼」と言う。


「人(イ)」が「二」人いる、その間に成り立つ関係
「樊遅(はんち)仁を問う。子曰(いわ)く、人を愛せよ」
「仲弓 仁を問う。子曰く、己の欲せざるところは人に施すことなかれ」
    (樊遅も仲弓も孔子の弟子。孔子の言葉は、相手によって変わります。
    樊遅は理解力に難がある素朴な弟子だったので、孔子の答えは、ど・ストレートです。
    仲弓の方は、貧しい生まれながら、「総理大臣にしてもいい」と孔子に言わしめた、菅総理みたいな人(?)
    「自分がされたくない事を人にするな」という原理を「相互性(reciprocity)」といい、
    「自分がして欲しい事を人にしなさい」と、もう一歩踏み込むと、イエス=キリストの言葉になります。
    もちろん「(自分と同じように)人を愛せ」も、イエスの言葉として、超有名。
    隣人愛のことを、儒教では「恕(じょ)」といいます。
    ほぼ同じことを言っている『論語』の引用
    「子貢問いて曰く、一言にして以って身を終うるまで之を行うべきもの有りや。
    子曰く、それ恕か、己の欲せざる所を、人に施すことなかれ。」
    子貢は、頭が良くて経済に詳しかった、今なら「億り人」とかになりそうな、孔子の代表的な弟子の一人。)
人間の持つ最も基本的な感情は、「孝」(親子の間の情愛)と「悌」(兄弟の間の情愛)だから、
この二つ=「孝悌(こうてい)」が仁の基本となる(←江戸時代の「忠孝」ではない)。
つまり、家族的な、相手を思いやり配慮する(care)という関係が、仁という人間の最も根源的な関係である。
これを押し広げることによって、社会における人の正しい生き方が導かれる。
   (『論語』の最初の言葉は、あまりに有名な、「学びて時に之を習う、亦た悦ばしからずや」だが、
    その次の言葉が、「孝弟なるものは、それ仁の本(もと)なるか」であるのは、偶然ではないと思う。
    ちなみに「学ぶ」って、孔子の場合何を学ぶのか、考えてみると、主に「礼」と古典でしょう。)

「吾が道は一、以って之を貫く。…忠恕(ちゅうじょ)のみ。」
この言葉についての、『完訳 論語』(津波律子)の解説は明快。
「「忠」は自分に対する誠実さ、忠実さの意であり、「恕」は「忠」を他者に及ぼしたもの、すなわち思いやりや愛情である。
この「忠恕」の感情を統合すると、「仁」になるものと思われる。」

伊藤仁斎『童子問』(『日本の名著13伊藤仁斎』)から
「孟子が「努力して人のことを思いやる(恕)ようにして行うこと、仁を求めるにはこれが一番の近道だ」といっている、どういう意味でしょうか」
「…仁というものは努力してできるものではないが、恕(思いやり)は、努力すればできるものである。
仁は、徳を具えた者でなければ不可能であるが、恕は、努力して行なおうとする者ならば可能である。
ところが、努力してできるようになる恕をしているうちに、自然と、努力によっては不可能な仁を体得してしまうのだ。」


すべての行為の規範←人への敬意の表現;克己=自分のわがままや欲望をおさえる
  「己(おのれ)に克(か)ちて礼に復(かえ)るを仁となす」(=「克己復礼」)
    (「礼」は基本的には、人をリスペクトする気持ちであり、その現われである色々なルールです。
    人をリスペクトスする気持ちである「敬」は、行為の主体を、自己から他者の方向に移します。
    他者の方向から見られた自己の行動のルールが「礼」なのです。
    食欲や性欲は、進化論的に見て、本能に基づいた人間の「自然」な欲望です。
    また、社会的な存在として、他者との違いを「わがままに」主張するのも、人間の第二の「自然な」本能です。
    でも、自然界にも人間界にも、利己主義を超えるルールが存在します。
    それは、功利主義的な、個人や全体の生き残り戦略から帰結するルールです。
    もちろん、孔子が考えていたルールと、江戸時代のルールや、我々の考えているルールは違います。)

「ちょっと「礼」の話をしますね。「礼」というのは、簡単にいうとルールのことです。
最小でふたりから、最大で国家単位まで、この社会は「礼」という名のさまざまなルールで成り立ってます。
ここまではオーケイ? まあ、当たり前ですよね。でも、このルールは運用が難しいんです。
だって、法律みたいに厳密に文字化されたルールもあれば、「暗黙のルール」なんてのもあるわけ。
そこで大事なのはなにか。これが「和」です。
これも簡単にいうと、みんなで歩み寄る、ってことですね。
隣国のニッポンでは、ショートクタイシって人が十七条憲法の中で、「和をもって貴しと為す」って条項をいれて、
それがいちばん大切だっていってるでしょ。
あの有名な条文、実は、わたしのこの名言からとったんですよ。エッヘン。
ま、それはともかく、古(いにしえ)の王様たちの政治が最高だっていうのも、彼らが、この「和」を重んじたからです。
彼らは、なんでも規則でがんじがらめに縛るのは逆効果だって、知っていたんです。さすが、ですよ。
だからといって、「和」ばっかりというものダメ。
もう、なにかもめたら、すぐ妥協、すぐ話し合い、すぐ中断、ってことになったら、混乱しちゃうでしょ。
そういうときには、きっちりとした「礼」の出番ってことです。ルール厳守!
まあ、政治なんていうものは、厳密で原理的なルールの遵守と現実的な妥協の間を、いつも揺れ動くものなんですよ」
(高橋源一郎『一億三千万人のための『論語』教室』)

(もう少し書きます。)


付録
孔子の失言集

「民は之れに由(よ)らしむべし。之れに知らしむべからず。」
(人民は従い頼らせるべきであり、その理由を知らせるまでもない。)

「唯だ女子と小人(しょうじん)は養い難し。これを近づければ則ち不遜、遠ざければ則ち怨む。」
(ただ女子と小人だけは扱いにくいものだ。これらを近づければ、傲慢無礼になるし、遠ざければ、怨みをいだく。)
(訳は『完訳 論語』から)

1)は、封建的、独裁的だと言う理由で、民主主義的にアウト
2)は、女性差別だ、ということで、ポリティカリー・コレクトネス(PC)的にアウト、でしょう。
「小人」というのは、ここでは身分の低い人のことで、使用人とか奴婢(ぬひ)たち、という意味です。
「女子」は、「教養のない女性」とか「妾(めかけ)」という意味だという解釈もありますが、ちょっと無理をしている感じです。

女性差別に関する森元総理の発言(2021年2月)について、言いたいことが山ほどあります。
冗談で言った発言を切り取って騒ぐな、とか、でも過去の差別発言があるからなあ、とか、ポリ・コレ的には冗談でも言ってはいけないことがある、とか。


『孟子』

孟子(B.C.390頃―305頃)の言行録が『孟子』

最上至極 宇宙第一の書」である『論語』を理解するためには、『孟子』も読まなくてはならない。
『論語』は具体的な場面における行動を指示し、『孟子』はその背後にある一般的理論を明らかにする。
『論語』と『孟子』は、一枚の紙の表裏のようなもので、
そのどちらを欠いても、正しい理解は得られない。
(伊藤仁斎)

人倫五常
五常=四徳(仁・義・礼・智)+信
五倫=「父子 親あり、君臣 義あり、夫婦 別あり、長幼 序あり、朋友 信あり」

仁―惻隠の心;仁の端
義―羞悪の心;義の端
礼―辞譲の心;礼の端
智―是非の心;智の端

惻隠の情


孟子が言われた。「人間なら誰でもあわれみの心(同情心)はあるものだ。
…たとえば、ヨチヨチ歩く幼な子が今にも井戸に落ちこみそうなのを見かければ、
誰でも思わずハッとしてかけつけて助けようとする。
これは可哀想だ、助けてやろうと(の一念から)とっさにすることで、
もちろんこれ(助けたこと)を縁故にその子の親と近づきになろうとか、
村人や友達からほめてもらおうとかのためではなく、
また見殺しにしたら非難されるからと恐れてのためでもない。
してみれば、
あわれみの心がないものは、人間ではない。
悪を恥じにくむ心のないものは、人間ではない。
譲りあう心のないものは、人間ではない。
善し悪しを見分ける心のないものは、人間ではない。
あわれみの心は仁の芽生え(萌芽)であり、悪をはじにくむ心は義の芽生えであり、
譲りあう心は礼の芽生えであり、善し悪しを見分ける心は智の芽生えである。
人間にこの四つ(仁義礼智)の芽生えがあるのは、
ちょうど四本の手足と同じように、生まれながらに具わっているものなのだ。」
(小林勝人訳『孟子』第三巻)


性善説

公都子が言った。
「告子は人間の本性は善でもなく、悪でもないといいます。…
いま先生は人間の本性は善だといわれます。それならば、先にあげた人たちはまちがっているのですか。」
孟先生が言われた。
「人の生まれつきの情からすると、たしかに善とすることができる。
それがわたしのいう人の性は善ということである。
悪をなすものがあっても、それは素質のせいではない。
なぜならば、同情心は人間だれもがもっている。
羞恥心も人間だれもがもっている。
尊敬心も人間だれもがもっている。
是非の分別心もまた、人間だれもがもっている。
同情心は仁であり、羞恥心は義であり、尊敬心は礼であり、是非の分別心は智である。
仁・義・礼・智は、外部から自分に飾りつけたものではなく、自分が本来もっているものでありながら、
ただ自覚しないために、悪を行なうようになるのである。…」

孟先生が言われた。
「豊年には怠け者の少年がふえ、不作の年には暴行少年がふえるのは、
天が生まれる人間に与える素質にそれほど差異があるからではなく、
彼らの心を堕落させる影響の違いによるものである。
たとえば大麦の種をまき、土をかぶせるとする。
同じ土地に同時に植えたら、むくむくと育ち、夏至になるとみな実るであろう。
もし一様にいかないとすれば、地味に肥えたのとやせたのとの差異があり、
雨や夜露の降りぐあい、農地の手入れの良否があるからである。
このように類の同じものはすべて似ているのに、人間だけが似ていないと疑うのはなぜだろうか。
聖人だってわれらと同類の人間ではないか。」
(貝塚茂樹訳『孟子』第11巻)

(必要最低限のことは書いてます。「天爵と人爵」とか、「浩然の気」とか、もう少し書くかも。)


『孝経』

「身(しん)・体(たい)・髪(はつ)・膚(ぷ)、之(これ)を父母(ふぼ)に受(う)く。
(あ)えて毀傷(きしょう)せざるは、孝(こう)の始(はじ)めなり。
(み)を立(た)て道(みち)を行(おこな)い、名(な)を後世(こうせい)に揚(あ)げ、以(もつ)て父母を顕(あら)わすは、孝の終(お)わりなり。
(そ)れ孝は親(おや)に事(つか)うるに始まり、君(きみ)に事うるに中(なか)ごろし、身を立つるに終わる。
大雅(たいが)に云(い)う、爾(なんじ)の祖(そ)を念(おも)うことなからんや。厥(そ)の徳(とく)を聿(の)べ修(おさ)む、と。」
「人の身体(からだ)は、毛髪や皮膚に至るまで、すべて父母からいただいたものである。
これを大切に扱い、たやすく損なったり傷つけたりなどしてはならない。それが孝の実践の出発である。
そのような孝を第一として実践するならば、りっぱな人という評判を得、その名を後世に伝えることができ、父母の誉(ほま)れとなる。
それが孝の実践の完成というものである。
さて、人は子どものころ親にお仕(つか)えすることから始まり、中年になると、社会において[親に対してお仕えする気持ち・態度で]君主にお仕えし、
[老年に至るまで]孝の実践を続けることによって父母や先祖に栄誉を贈る生涯となる。
『詩』大雅(たいが)にこうあるではないか、「先祖を忘るな。先祖に光あれ」と。」
(加地伸行訳『孝経』 講談社学術文庫)


朱子学

朱子(1130-1200)は、儒教を体系化し、形而上学化した。
仏教や道教(老荘思想)の影響がある。
江戸時代になって、身分社会を秩序づける理論として、徳川幕府によって採用された。

「理」「気」の二元論
理―宇宙の究極であり一切の存在の根拠
気―万物に内在する本質;斉一な方向への運動(→個人における「性」)

「体(=本質)」と「用(=現象)」の二元論

(そのうち書きます。)


参考文献
『論語』も『孟子』も、全文(現代語訳つき)は岩波文庫などで手に入るが、
井波律子『完訳 論語』(岩波書店) は分かりやすい解説つきで、お勧め。充実した索引も便利。
(全体の1/3弱を選んでテーマ別に編集したのが、同じ著者の『論語入門』(岩波新書)。普通はこれでも十分だろう。)
論語に関する優れた注解は、いろいろある。古いところでは、
伊藤仁斎『論語古義』(中央公論社『日本の名著13 伊藤仁斎』に現代語訳がある。子安宣邦『仁斎論語』も、この現代語訳。)
荻生徂徠『論語徴』平凡社 東洋文庫(→eBooks にダウンロード版あり ただし現代語訳ではないので、読みやすくはない。)
など、江戸時代の学問的水準の高さを示す、古典的研究。
仁斎・徂徠という、この二人が常に念頭に置いているのは、朱子の『論語集註』(いわゆる『新注』)。
土田健次郎訳『論語集註』(東洋文庫)(→AmazonにKindle版あり)には、アナクロだが、この二人のコメントも収録されている。
比較的新しいところでは、
宮崎市定『論語の新しい読み方』(岩波同時代ライブラリー)
呉智英『現代人の論語』(文春文庫)
など、読み物としても面白いと思う。
高橋源一郎『一億三千万人のための『論語』教室』(河出新書)は、御本人は「超訳ではない」と言っておられるが、
普通の意味では「超訳」そのもの。解釈を宮崎『論語の新研究』に依拠し過ぎだと思うが、「訳文」はいきいきとして面白い。


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