ベトナム農業の歴史(2)
〜独立と戦争と農業集団化〜

 

2-1. 独立後の土地改革(1945-57)

2-2. 北ベトナムでの農業集団化(1958-75)

2-3. 全国的な農業集団化(1976-80)


2-1. 独立後の土地改革(1945-57

 第二次世界大戦が終結した1945年8月にインドシナ共産党が主導するベトミン(ベトナム独立同盟)がベトナム全土で蜂起し権力を奪取した(8月革命)。8月革命以前は、人口の2%しか占めない地主階級が土地の51.2%を所有する一方、人口の97%を占める勤労農民が土地の36%しか所有していなかった。また、農民の59.2%が土地無しのため、小作人にならざるを得なかった。

 8月革命の翌月2日ベトナム民主共和国の樹立が宣言されるが、ベトナムの独立を認めないフランスとの間で戦争が行われた(第一次インドシナ戦争;1945-54年)。この間はインフラは未整備のまま放置された。灌漑網の保守はなされず、さらにフランスの爆撃で堤防が破壊された。1939-54年の間の土地生産性はわずか10%しか向上しなかった。

 1954年7月のジュネーブ協定によって戦争の終結と北緯17度以北における共産政権が国際的に認められた(注1) 。その後共産政権下の北ベトナムでは、「耕作者に土地を」をスローガンに、土地を地主から貧農に分配する土地改革(cải cách ruộng đất)が行われた。村落の共有の財産である公田は、このときに国家によって収用され、個々の農民に分配された。

 この土地改革によって(図1)に見られるように一人あたり土地面積はほぼ平準化した。また互助祖(tổ đổi công)と初級合作社(Hợp Tác Xã bậc thấp)が組織された。互助祖は家族単位の経営を前提としつつ必要に応じて労働交換をするための組織であり、初級合作社は集落単位に生産労働を集団化するという違いがあったが、ともに土地は各農民が所有していた。

 1955-57年は、食料生産が57%増大し、ベトナム農業の黄金期と呼ばれた。


(注1)当時は南部にベトナム国(阮朝最後の皇帝バオダイを元首としてフランスが擁立)が存在し、ジュネーブ協定では2年後に統一選挙を行うことになっていた。


(図1) 50年代土地改革期の一人あたり土地面積 (単位;u/人)

出典; Nguyễn Sinh Cúc1995), Nông Nghiệp Việt Nam (1945-1995), Nhà Xuất Bản Thống Kê


2-2. 北ベトナムでの農業集団化(1958-75)

 1959年4月の第16回ベトナム労働党(注2)中央会議によって合作社の高級化が決定された。この後、ほぼ全ての互助祖が初級合作社になり、さらに初級合作社の多くが高級合作社(Hợp Tác Xã bậc cao)に移行した。高級合作社は初級合作社よりさらに集団化をすすめたもので、土地の共有化が行われ、一合作社の管轄範囲も集落から自然村へと広がった。各農民は合作社の下部組織である生産隊(Đổi sản xuất)に所属した。生産隊は合作社から生産量・労働点数・生産費の3項目について経営を請け負い(三請負制)、所属の農民との間に作業契約を結んだ。各農民は作業ごとの労働点数に応じて報酬を受けることになっていた。なお合作社によって共有化されていない農地は自留地として各農民に経営をゆだねられていた。1960年末には北部での合作社化が完了(注3) し、40422の合作社が誕生(注4) した。

 だが結果的に1959-60年の生産性は低下し、特に高級合作社化したところで生産性が下がった。農民たちは、合作社での生産以外の自留地に時間と資金をつぎ込んだ。60年代の合作社崩壊の原因として、1)建設を急ぎすぎて生産資源が不足していた、2)労働の結果と生産が結びつかないので、農民たちの意欲を削いだ、3)教育も技術もない貧農を重視しすぎて中上層農民を低く扱い経験豊かな老農(lão nông)を合作社の管理にあたらせなかった、などがあげられる。

 しかしこれらの明白な失敗にもかかわらず、第一次5ヶ年計画(1961-65年)において農業集団化がさらに強力に推進され、1961年には高級合作社の数が8403(全合作社の33.8%)だったのが、1967年には18560(全合作社の76.7%)になった。1960年代に無理に農業集団化が強行されたのは、共産主義イデオロギーそれ自体よりも南部に親米反共政権(注5)を打ち立て北ベトナムの共産政権と対峙するアメリカとの戦争が始まった(第二次インドシナ戦争=ベトナム戦争)ことによって、戦場へ兵士を拠出するための装置として合作社が必要とされたことによる。

 結局大きな犠牲を払いながらも、北ベトナム共産政府はアメリカとの戦争に勝った。アメリカの後ろ盾を失った南ベトナム政府は1975年に崩壊し、共産政権の下でベトナムは統一された(注6)


(注2) 仏領インドシナ全体を範囲としていたインドシナ共産党は三ヶ国(ベトナム・ラオス・カンボジア)独立に伴い分離を決定し、ベトナム一ヶ国を範囲とするベトナム労働党が1951年に誕生した。

(注3)世帯の85.4%、耕地の68.1%が合作社化

(注4)うち高級合作社が4346

(注5)ジュネーブ協定の一年後、南ベトナムではゴー・ディン・ジェムが大統領となってベトナム共和国が成立した。ベトナム共和国はアメリカの支援の下、ジュネーブ協定で決められた統一選挙を拒否し、南北対立が激化した。

(注6)翌76年、統一ベトナムは「ベトナム社会主義共和国」(現在の国名)と名を改めた。


2-3. 全国的な農業集団化(1976-80)

  南北統一後、全国的な合作社化が推進された。北部では全ての合作社を自然村(ベトナム語でlàngまたはthônと呼ばれる)から行政村・社(ベトナム語でxã(注7)へ拡大することが目標とされ、生産隊も集落(ベトナム語でソムxóm)から自然村への拡大が図られた。その結果、1979年には北部で4154合作社が社(行政村)レベルになった。北部では紅河デルタ地帯でも山岳地帯でも、その土地の社会経済的特質を無視して高級合作社のモデルに沿って、全ての土地・水牛・牛・農具の共有化を進めた。このような集団化は農民の意欲を減退させ、もともと低い農民の収入はさらに下がることになった。

 この時期の南部は北部と同様に合作社化が進められた。1980年までに、合作社(注8)が1518(うち1005が高級合作社)、生産集団(Tập đoàn sản xuất (注9)が9350(農家世帯の35.6%)建設されたが、その多くが機能しないままに崩壊した。農地の公平な分配が南部では逆に、商品作物の生産に適するように長年築き上げられてきた農業生産の仕組みを破壊することになった。このことが、南部農村で中心的な勢力を持つ中農(trung nông)層を破壊する事になった。中農層は土地・資本・経験・技術を蓄積し、商品作物の大部分を生産していた。メコンデルタの商品米穀倉地帯は、合作社化と土地分配の中で極めて不安定になった。農民が合作社や生産集団に加入する前に、自らの農機具や水牛を売り、果樹を切り倒し、土地を捨てる事例が相次いだ。

 1976-79年の間のコメ生産は320万〜460万tだったが、1979年末に合作社・生産集団の大崩壊が起こると80年には520万tと一気に上昇した。

 なお、この時期のベトナムは第三次インドシナ戦争(注10)を戦っており、国際的にもまだ安定していなかった。


(注7)独立後、社の合併が行われたためここでの社(行政村)は、前項「ベトナム農業の歴史(1)」のかつて公田を管理していた社より範囲は拡大しており、むしろ自然村の方が(1)の社にあたる。

(注8)一合作社の規模は312ha(北部の1.5倍)、519世帯、1003労働人口

(注9)一生産集団の規模は40ha、38世帯

(注10)統一ベトナムの強大化を恐れた中国(中華人民共和国)はカンボジアのポル・ポト政権を支援してベトナムに対する軍事的圧迫を強めた。79年にベトナムがカンボジアに侵攻して親中ポル・ポト政権を倒す(カンボジア戦争)と、中国は「懲罰」と称してベトナムに侵攻した(中越戦争)。カンボジア戦争と中越戦争をあわせて第三次インドシナ戦争と呼ぶ。



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