妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百九十二話:晴れ時々曇り――所により一時魔法少女(中)
 
 
 
 
 
 かつて聖地への入り口は人間界に数多あり、誰でも行けるわけではなかったが、条件さえ満たせばさほど難しくはなかった。
 ただ大魔道士の墓所となっている事もあり、その入り口は以前と比べると激減している――黒瓜堂が潰して回ったのだ。完全に把握したと思ったら、どうやらまだ幾つか残っているらしい事が判明したのだが、とりあえず五指に収まる数までは減ったらしい。
 が、簡単に入り口が分かるわけではないし、分かった所ですんなり入れるものでもないから、実質は完全に管理したと言ってもいいだろう。聖地への入り口は、発動すれば極めて特殊な波動を放ち、その察知は最優先事項としてレビアに厳命され、レビアもまたプライドに賭けて探査網を作り上げてみせた。
 その結果、この地球上から聖地へ行こうとすれば、最大でも三分以内に察知できる体制が取られている。
「オーナー、お帰りなさい」
 その存在を厳重に管理されている聖地への入り口は、その一つが黒瓜堂の地下にある。
 石段を延々と昇って戻ってきた黒瓜堂に、レビアが声を掛けた。
「ん」
 黒瓜堂が軽く頷いた時不意に携帯が鳴り、その表示を見た黒瓜堂の表情が動く。
 それは、黒瓜堂の店員以外では二本しか掛からない緊急回線であった。番号は普通の番号だが、誰かが間違って掛けても決して掛かることのない、極めて奇怪な回線である。
「私だ」
「悪いけどすぐに来てくれる」
 老若男女を問わず淫らに惹きつけて止まぬ声――シビウ病院の院長からだが、黒瓜堂はその声に艶が足りぬと気づいた。
 口調は普通だが、内心はかなり焦っているのだろう。地球が明日消滅する、と知っても顔色一つ変えないようなシビウが、こんな声で呼びつけるなら余程の事だ。
「今どこに?」
「院長室よ」
「ほう…」
 行く、とも行かぬとも黒瓜堂は言わず、それをちらっと見たレビアが下がっていく。
「フェンリルがいるのよ。シンジの所へ、異世界からのお客様よ」
「承知」
 電話を切った黒瓜堂は、すぐに祐子を呼んだ。
「院長のところまで急ぐ。祐ちゃん、ヘリを頼む」
「はい」
 来たか、と呟いて危険なウニ頭を揺らす男にも、どこか緊張の色が見える。
 妖艶な魔女医のみならず、悪の親玉にとってもまた、最優先を要する事態らしかった。
 
 
 
「異世界から…って何で?」
 アイリスとなのはが火花を散らしている――実際はアイリスが一方的に敵視している――状況の所へ、他の住人達も帰ってきた。特にマリアは、女神館上空の天気に気づき、早めに切り上げて戻ってきたのだが、どの娘もシンジの横にちょこんと座っている娘と、その出自を聞いて狐につままれたような顔をしている。
 ただ一人――イリス・シャトーブリアン以外は。
「俺に訊いてどうする。異世界から呼び込むスキルでもあると思った?」
 言うまでもなく、ここにいる娘達は、かつてシンジが異世界に飛ばされた事など知らない。
「そうじゃないけど…でもわざわざ碇さんが行かなくても…。行くならあたしが行きます」
「魔界で役に立たないくせに何を言っとるか。お前が足を引っ張ってどうする」
「ひ、ひどい。そこまで言わなくても…」
 シンジのスタンスは、やる気があるなら後押しする、であって自分から積極的に乗り出す事では無かった筈だ。だからこそ、降魔を一蹴するだけの力を持ちながら、花組の隊長をマリアに任じたときも皆従ったのだし、あのすみれでさえも、直球以外には通じないと知りシンジ攻略法を変えてきたのだ。
 そのシンジが、見知らぬ少女に対して自分から指南を名乗り出たとあっては、娘達の視線が微妙になるのも当然だったろう。なのはがシンジを見る顔に、アイリスがシンジに向けるようなそれは感じられないが、シンジの場合は人を惹きつけるフェロモンもどきが尋常ではない。ただし、あっさり却下されたさくらを始めとして、まだ魔界で自由に動ける者はおらず、ましてシンジを止めて聞くとも思えない。
 シンジが気変りしないことを祈るしかないか、と諦めの境地に達したところへ、
「ご免」
 玄関で声がした。
「誰か玄関で謝ってる。きっと黒瓜堂さんだ」
「!?」
 従妹のろくでもない台詞を聞いたシンジが、ぴくっと反応した。血迷ったのかと思った直後、
「毎回玄関で謝らなくてもいいのに」
 聞こえてきた声に、これは間違いなくレニが精神を冒されたに違いないと、背中に冷たい物が流れたシンジだが、
「呼び鈴を押すのはあまり好きじゃないんですよ。道場破りみたいな方がいいでしょ」
 危険な声がして、間もなく黒瓜堂が姿を見せた。
「おや、皆さんお揃いでいらっしゃる」
 娘達が小さく頭を下げ、
「旦那、フェンリルの奴に聞いて?」
「院長のところへ、借金取り立てに行ったら君の従魔と出くわしてね。そちらが異世界の姫君?」
「そ。高町なのは嬢。なのは嬢、この人が俺の家庭教師の黒瓜堂さん」
「こ、こんにちは…」
 ぺこっと頭を下げたが、その小さな手がそっとシンジのシャツを掴んでいたのはやむえを得まい。
 身長はシンジより低いのに、全長はシンジより高いのを――危険に揺れるウニ頭――見ればこの反応も当然である。
「なのは嬢、大体の話は聞きました。君の世界に散ったジュエルシードを回収中、と?」
「は、はい…」
「今いくつ持っていますか?」
「え、えっと四つ…」
「見せて」
「『!?』」
 驚いたのはなのはだけではない。さすがのシンジも、何を言い出すのかと目をぱちくりさせたが、すぐ得心したように頷いた。
「なのは嬢、出して。この人なら大丈夫だから」
 この人――黒瓜堂――以前にシンジからして、なのはが信頼する理由は無いに等しいのだが、大丈夫だよとシンジが頷くと、
「う、うん…」
 なのはが持っていた杖を中にかざし、その横でむうっと頬をふくらませた娘が出現した。実を言えば、先回の戦いでフェイトに一つ奪われてしまったし、もしもシンジが敵だったら大変ではすまない話だが、強いる事無く頷かせる何かをシンジは持っている。
「あの、これです…」
 宙に浮いたジュエルシードを一つ取り、
「で、これを君が持って行きたまえ」
「…ふえ?」
 渡した先はシンジであった。
「モシモシ?」
「何か」
「何かってあの…」
 さすがに流れが読めず、渡されたそれをまじまじと眺めたシンジだが、実は一番驚いているのはなのはである。回収の依頼主からも、これは決して素手で触るなどきつく言われているのに、奇妙なウニ頭もこの青年も平然と持っているではないか。
「あの…」
「…何」
 なのはが視線を向けたのはアイリスであった。
「ちょっとこれ持ってみてくれる?」
「……」
 何で私が、と言う表情を隠そうともせず、宙に浮いたそれに触れようとした瞬間、
「熱っ!!」
 慌てて手を引っ込めた。
 見ると指先が真っ赤になっており、しかもそれだけにとどまらず、
「あ、やっぱり」
 明らかに自分を実験台にしたと知り、眉をつり上げたアイリスが、
「よくも…許さないんだからっ」
 なのはに掴みかかった瞬間、
「あうっ」
 きゅっと後ろから引っ張られた。
「マ、マリア…」
「アイリス、場所を弁えなさい。お客様よ」
「だ、だってっ…」
 抗議するもマリアの一瞥に遭って撃沈したアイリスから視線を外し、
「シンジ、その手は水?風?」
「劫火」
「!」
 アイリスがなのはを掴んだ瞬間、燃やす気だったらしいと知り、アイリスのみならず他の娘達まで青ざめた。
「アイリス、それでもやる?」
「や、やらない…」
 ふるふると首を振ったアイリスから手を離し、
「なのはちゃん、だったわね。うちの管理人は特別製なのよ。普通とは違うから、あまり一緒にしないでね」
「ご、ごめんなさ…!?」
 言い終わらぬうちに、不意にマリアがのけぞった。
「えっ!?」
 詠唱もせずに飛ばした爆汽だとは、黒瓜堂だけが気づいているが、何も言わずに黙っていた。
 管理人が特別製、とマリアが言った時、黒瓜堂に向けて一瞬だが冷たく敵意を含んだ視線を飛ばしており、それに気づかぬほどシンジは甘くなかったのだ。
「桐島」
 シンジが静かな声でカンナを呼んだ。
「片付けろ」
「あ、ああ…」
 確認するまでもなく、マリアは完全に失神しており、まず数時間は目覚めまい。
 ただ、気まぐれで住人を攻撃するシンジではなく、まして失神などさせる事などあり得ないと分かっているから、抗議する娘はいなかった。
「旦那、失礼を」
「そこまでせずとも良かったのに。小娘の敵意に、いちいち反応しないと前に言いませんでしたか」
「ごめん」
 それを聞いたとき、娘達はどうやら黒瓜堂が絡んでいるらしいと知った。
(…でも何で?)
「まあ、君の高血圧は前から分かっている事だし、今更突っ込んでもせんない事。それでなのは嬢」
「あ…は、はいっ」
「君がいた世界に、このジュエルシードはまだ幾つかありますか?」
「う、うん…それにフェイトちゃんも持ってるから…」
「では通常の三倍で」
「え?」
「シンジ君、フェンリル小姐なら、この少女が来た世界に君も放り込めるらしい。行ってらっしゃい」
「ほほーう」
 奇怪なことを言い渡されたシンジは、ジュエルシードと黒瓜堂を三度見比べてから頷いた。
「了解」
「さてと、シンジ君が何をどう了解したのか分かった人は挙手」
 黒瓜堂が娘達を見回したが、なのはは無論誰の手もあがらない。
「仕方ありませんね。シンジ君、アイリスの手当を」
「へーい」
 火傷を負ったアイリスの指先を自分の手で包み、ゆっくりと二本指で揉んでいくと、二十秒ほどで指は元に戻った。
「おにいちゃん…」
 うっすらと頬を赤くして、アイリスがシンジを見つめる。ついでに、アイリスの機嫌も元に戻ったらしい。
「魔界でなのは嬢を鍛錬する、と言うのも悪くない発想ですが、いきなり言われてもなのは嬢も困るでしょう?」
「え…」
 話は正直掴めていないが、このシンジが自分に取って嫌なことをする相手でない、と言うことをなのはは感じ取っていた。だから、そんな事はないですと言おうとしたのだが、危険なウニ頭の危険な視線に遭い、
「ちょ、ちょっとだけ…」
 心にもない事を口走る羽目になった。
「というわけで、シンジ君はなのは嬢のいた世界に行って、探索なり没収なりしてジュエルシードを三つに増やしてなのは嬢に返すように」
 それを聞いた途端、住人達から一斉に声が上がった。
「『えーっ!?』」
「えーって何ですか」
「く、黒瓜堂さんっ、い、いくら何でも異世界に行ってそんな事をするなんて…」
「危険ですか?」
「危険ですっ」
 勢いよく首を縦に振ったさくらに、
「私とどっちが危険ですか?」
「え…そ、それは勿論異世界の…」
「今四秒間があった。シンジ君」
「後で燃やしておく。全治三週間の刑だ」
「そ、そんな…だ、だって急に黒瓜堂さんが訊くから…」
「まあそれは冗談ですが、さくら嬢、何を心配しているんです?シンジ君の力量を?それとも異世界へ送るフェンリル小姐の術?それとも――私がシンジ君に悪巧みすると?」
「あ、あう、それは…」
「それは?」
 シンジの視線がちらりとさくらを捉えた。決して睨んではいないのに、室内の空気がすうっと凝結していくのをなのはでさえも感じ取っていた。
(す、すごい…)
 ただし、これは単に感心しており、火炙りとか茹で上げの岐路に立っているさくらの事など、分かる由もない。
 さくらが崖っぷちまで追いつめられた時、
「全部、に金貨三枚」
 妙に明るい声がした。
「レ〜ニ〜」
 ギロッとシンジが睨んだが、レニはさくっと受け流し、
「そうだよね、黒瓜堂さん?」
「仰せの通り」
(なにそのレニ限定依怙贔屓)
 どういう裏取引をしたのかと、従妹と邪悪な知り合いを見たが、特に変わったところはない。
「まあいい。で、フェンリルの奴に送らせて俺が行くの?」
「私もお供しますよ」
「え?」
「君の戦闘にも、しばらく付き合っていなかったのでね。久しぶりに見物させてもらいましょう。それに、万一世界構成の違いから、精が使えないような事でもあったら一大事ですから」
「あの…え、えーと黒瓜堂…さん」
「はい?」
「あの、私は?」
「そうですね…シンジ君?」
「はい?」
「レニとアイリスで良かろう」
「ん、ではレニとアイリスそのように」
「お、おにいちゃん何をするの?」
「なのは嬢に、この街を案内してさしあげるように」
「えー!?ア、アイリスそん…」
 そんなのは絶対に嫌と、さっき火傷させられたので、当然と言えば当然の反応を示しかけたアイリスだが、何を思ったのか不意に、にぱっと笑ったのだ。
「いいよ、おにいちゃんがそういうならしてあげる」
「けっこうだ」
 と、アイリスの内心など全く気にしていないかのように、
「なのは嬢、この二人にこの街を案内させるから。おうちの方は問題ないように細工しておくから任せて。ちょっと行って、ジュエルシードを増やしてくるから」
「う、うん…。あの、さっきはごめんね」
 言うまでもなく、なのははアイリスなど知らないし、シンジとも親しくしているつもりはなかった。が、何故かいきなり敵意をあらわにされ、それが見当はずれの嫉妬から来ていると気づいたのでつい実験台にしてしまったが、この二人に街を案内されるなら、そのままではいけないとぺこっと頭を下げて謝った。
「本当は嫌だけど、おにいちゃんが治してくれたから許してあげる」
(シンジ、アイリスがアイリスがー!絶対悪巧みしてるよ!)
 一緒にシンジのベッドに潜り込んだりして、住人達の中ではレニが一番アイリスに近い。なのはに、微笑んで手を差し出したアイリスの表情を見た瞬間、レニは極めて邪悪なものを感じ取ったのである。
 だが、シンジの心は既になのはがいた世界に飛んでいるようだし、さすがに口に出しては言えなかった。
「なのは嬢。ま、シンジ君の能力は私が保証してもいいんですが、やはり実戦で通用する所を見てからの方がいいでしょう。ジュエルシードが増えて返ってくれば、なのは嬢も安心でしょ?」
「べ、別に疑ってる訳じゃ…」
「世の中は疑ってかかった方が安全なケースもあるんですよ。ま、あまり猜疑心が強いと――」
「さっき失神したどこかの間抜けな女みたいになったりもする。なのは嬢は、今の純粋(ピュア)なままでいいのかもしれない」
「碇シンジさん…」
 シンジがマリアの事をこんな風に間抜け呼ばわりするところなど、他の娘達は無論聞いた事がない。なのはが原因でない事は分かっているのだが――原因はひとつしかない――シンジのもう一つの表情(かお)に触れたような気がして、住人達は反応できなかった。
 なのはは違う意味で反応に困っていたが、
「さて、そろそろ行きますよ。フェンリル小姐も来られる頃だ」
 黒瓜堂が邪悪に割って入った。
「そだね」
 すっと立ち上がったシンジが、
「旦那、一つ訊いていい」
「なんです?」
「魔界行きじゃなくてあっちに行くのはフェンリルが?」
「私ですよ」
「ならいいんだ」
(結構根に持っていると見える。しかし、マリア・タチバナの事など引き合いに出す気は無かったのだが…)
 シンジ君をちょっと借りますよ、と声を掛けてから、黒瓜堂は内心で邪悪に呟いた。
 
 
 
 シビウ病院の屋上にはヘリポートがあり、患者を乗せたヘリが離発着出来るようになっているが、シビウの許可が出なければヘリが着陸する事は出来ない。以前とある政治家が心臓発作を起こした時、自前の小型機で乗り付け、制止を振り切って無理矢理着陸した事があるのだが、その直後、誰も降りぬうちに機体は大爆発を起こして四散した。
 黒瓜堂が降り立つと、人形娘がやや緊張の面持ちで出迎え、院長室へ案内された黒瓜堂をシビウとフェンリルが待っていた。
 フェンリルから仔細を聞いた黒瓜堂は、なるほどと頷いた。
「確かに異世界ではあるが、さして心配する事はないでしょう。フェンリル小姐もご存じのように、別世界から生身の人間がやって来た場合、座標を解読できればそこへ送り返す事も、こっちから一緒に行ってみる事も可能です。無論、二つの世界の交差については十分留意が必要ですが。しかし、先のシンジ君のように精神体だけが異世界に飛ばされた場合、精神(こころ)だけをその世界へ紛れ込ませる事は出来ますが、肉体を同化させて行き来させるのは、この地球上で目下私以外には不可能な術です。正確に言えば――大魔道士ガレーン・ヌーレンブルクに秘術を教わり、尚かつ身体が吹っ飛んでも大丈夫な者以外にはね。こちらから行っただけの場合と、向こうからやって来た場合では全く異なります。無論、可能性を全て否定するのは愚かなことですが、そのなのはという少女の来訪が、シンジ君に及ぼす影響は殆ど無いと言っていいでしょう」
「黒瓜堂、本当に大丈夫なのだな」
「フェンリル小姐、私が保証する。ところで、向こうの世界に少女は送り返せるのでしょう?」
「それが何か?」
「シンジ君も行かれます?」
「…何だと」
 ふうん、とシビウが黒瓜堂を見た。この魔女医には、邪悪な男の意図が読み取れたらしい。
「シンジ君とその世界へ行ってきますよ。その少女にジュエルシードなる物を借りて、その辺をうろうろしていれば向こうから取りに来るでしょう。少し、シンジ君の戦闘能力も見てみたいのでね。それに、あなたが道を拓いてやればシンジの気も変わろうと言うものだフェンリル」
「……」
「院長、シンジ君の健康状態は?」
「現在は問題なしよ、脈拍血圧、共に異常なし」
「それは何より」
 黒瓜堂が邪悪に微笑む。
「あ、それと院長に一つ依頼が」
「いいわよ」
 斯くして院長室での密談を終え、その足でここへ直行して来たのである。
 
 
 
 黒瓜堂が女神館を訪れてから三十分後。
「大気成分も一緒、特に変わったところはない。ま、なのは嬢がこっちで普通に呼吸できるから、マスクがいるって事はないと思ったけど」
 シンジと黒瓜堂は、なのなの世界へと到達していた。フェンリルの術が発動してからは二分も経っていない筈だが、こちらの時計は夜の十一時を回っていた。
「問題は世界の根幹構成だな。シンジ君、一発撃ってみて」
「ウイース」
 神社の境内前で待っていたフェンリルだが、シンジはその顔を見ようともしなかった。
「行きたくないんですか?」
「え?気乗りゲージは120%だけど…」
「なら、もう少しありがたそうな顔をするものです。君をあっちの世界へ送るのは、私の技術じゃ無理なんですから」
「旦那がああ言っとられるから、とりあえず勘弁してやる。エクスカリバー寄越してさっさと送れ」
「従魔替えでも企んでいるのか、マスター」
「従魔は二匹も要らん。世話が焼けるのはお前一匹で十分だ」
「…黒瓜堂、我が主に怪我など負わせるなよ」
「承知しているフェンリル小姐」
 シンジにではなく黒瓜堂にエクスカリバーを鞘ごと渡したフェンリルの顔が、どこか嬉しそうな表情になっている事に黒瓜堂は気づいた。
 なんのかんの言っても、良いコンビなのだ。
「じゃ、とりあえず――劫火」
 はらりと開いた掌から炎が放たれ、巨木に向かって一直線に飛んでいく。炎の塊が直撃するかに見えた瞬間、それは45度向きを変えて宙で四散した。
「こんなもんで」
「問題ないようですね。力加減はどうです?」
「あっちと変わらないみたい。プラマイゼロって感じかな」
「ふむ」
(あの世界とは精の成り立ちも違う、と言うことか)
 声に出さずに呟いてから、
「さてと、借りてきたこれを取り出して…おや?」
 この二人、元が元だけに滅多な事では驚かない。異世界の存在など驚くにも当たらないし、気持ち悪い程の柔軟性も持ち合わせている。
 ただ、二つの世界の交差して影響が無いのは二十四時間以内と言われており、あまり時間もないのでジュエルシードを餌にさっさと狩人をおびき出そうとしたところへ、不意に横の茂みが白く光りだした。
「お出ましかな」
「違う。フェイト某ならジュエルシードを持っているし、持っている者の波動は、なのは嬢の身体に訊いてきた。関係者じゃない、旦那下がって…え?」
「美幼女の身体に何を訊いてきたんですか、この変態坊や」
「ち、違っ、そう言う意味じゃなっ…ちょ、ちょっと待っ――」
 光がひときわ強くなった直後、茂みは何かを吐き出した。
 それは剣を手にした一人の女であった。
「なにこのコスプレ女」
 ピンクの長髪をポニーテールで後ろに垂らし、甲冑のようなもので身を固め、抜刀したまま現れた女が、かなりの剣技を持ち合わせていると二人は見て取った。ただし、太股から脛辺りまでは大胆に見えており、あまり防御力の高い格好ではない。
「…誰だ貴様達は」
 剣を青眼に構えた女が低い声で誰何した直後、ぽんっとシンジの肩が叩かれた。
 黒瓜堂が後ろへ飛び下がった事など、見るまでもない。
 にっと、シンジの口許に危険な笑みが浮かんだ瞬間、その両手がひょいと動いた。何気ない、まったく意志の感じられない動作で指が動いた直後、左手の指は死の風を、右手の指は劫火を放っていた。女の四方に着弾した炎が風に煽られて、あっという間に二メートル近くの高さで渦を巻く。
「人に名前を問う時は、自ら名乗るものだと教わらなかったか?」
「…私の名はシグナム、ヴォルケンリッターの守護…ぐっ!?」
 言い終わらぬうちにその身体が吹っ飛んだ。凄まじい風が、その身体を直撃したのである。
「言われて正直に名乗るのを馬鹿という。師匠に教わらなかったか?」
 冷たく、そして邪にシンジが笑った。
「お前のせいで変態ロリコン扱いされた。冥府で反省するがいい――風牙!」
 シグナムと名乗った女は、剣を扱わせれば黒瓜堂は無論シンジよりも強いのだろう。だが打ち勝つどころか、一撃を加える事も出来ぬままに吹っ飛ばされ、そこへ殺気を帯びた風の刃が直撃し、ここで横死するのかとその目がぎゅっと閉じられた瞬間――シグナムの身体は消滅した。
「…あれ?」
 風の刃がその身に当たっていない事を、放ったシンジは感じ取っていた。
「旦那、ごめん逃げられた」
「逃げられましたかそうですか」
 歩み寄ってきた黒瓜堂が、シンジの額を軽く弾く。
「君ももう少し修行が必要ですね」
「ごめん…」
「そうじゃなくて」
「え?」
「あの小娘、空間移動したんですよ。それも、自分の意志ではなくね。誰かが救いの手をさしのべたというよりは、さっきの現出の仕方を見てもなのは嬢と同じ、つまり別世界から来たのではないかと思いますよ。寿命がまだ残っているから、運命の輪が反発したんでしょ」
「異世界って事?」
「ええ。異世界の大盤振る舞いです」
 
 ハッハッハ。
 
「と言うよりも、この世界は他の世界と交差しやすい何かがあるのでしょう。ところでシンジ君、最後の風の出力はどの位?」
「風牙?えーと85%位で」
 ふむ、と黒瓜堂は軽く頷いて、
「君がまだ私より強くないのは、その力故に全力を出さないからだ、と言ったでしょう。四割、とか言ったら封印ものでしたよ」
「あ…」
「少し進歩しましたね」
「オーナー…痛!」
 スパパン!
「その呼称は百年早い、と言ったろう少年」
「く〜っ」
 ズキズキする頭をおさえているシンジをよそに、黒瓜堂は何やら取り出した。
「旦那それ…行灯?」
「そう。この中に預かったジュエルシードを入れてこの呪符を貼る。するとこうなる」
「!」
 手に持った行灯の中でジュエルシードがポウ、と光り出した次の瞬間、そこから凄まじい妖気が漂いだしたのだ。それは、シンジの両腕に思わず鳥肌が立ったほどのものであり、
「これを手にして歩けば、かなりの可能性で向こうから来てくれます。あと三分ほどで、半径五キロ以内にはジュエルシードの発する妖気が増幅されて充満しますから。ま、一般人には影響ないから大丈夫ですよ」
「半端な術者なら中毒りそうな気がする」
 呟いてから、
「ところで、その呪符――」
「自前ですよ。魔道省から流出したものじゃないから、安心なさい」
「そう言う訳じゃないんだけど…」
 シンジにとって、それが魔道省の物であれ黒瓜堂の自前であれ、それはどうでもいい事であった。黒瓜堂の人脈など、詮索しても始まらない。気になったのは、どうしてそれを持っているのか、と言うことであった。女神館で、シンジと一緒に異世界に行くと言ってから黒瓜堂はそこを出ていないのだ。
 つまり用意する時間はなかった筈なのに、行灯まで持っているではないか。
(なんかすっきりしない)
 ジュエルシードを集めている、と言うことはフェンリルがなのはの思考から読み取ったが、無論実体は見ていない。詳細が不明な時点で、何時の間にこんな物まで用意したのか。
(むう)
 内心で首を傾げながら、妖気の源をぶら下げて歩く黒瓜堂の後ろに続いたが、百メートルも行かない内にその足が止まった。
「お出でだ」
 黒瓜堂は前を見ていたが、シンジの顔はすっと宙へと向けられた。地上から数十メートルの高さに浮遊していたのは、紺色のマントと金髪を風にひっそりと靡かせた一人の少女であった。
「フェラーリ・テスタロッサ、か。予定より早かったな」
 シンジの言葉に、少女の表情が僅かに動く。
「何故私の名前を知っている。時空管理局の人間が、ジュエルシードを餌に私をおびき出したか」
「ジクーカンリキョクって何?」
「さあ、私に訊かれても困りもの」
「だよねえ」
 ヒソヒソと密談している二人を見て侮られたと見たか、少女がすっと杖を構えた。
「私はフェイト、フェイト・テスタロッサ。フェラーリではない。そのジュエルシードはもらい受ける」
「『ほう…』」
 二対の危険な視線が、ぴたりとフェイトを捉えた。
「ーっ!?」
 フェイトが対峙しているのは、かつて、黄泉の女王に仕えた老婆に、その気になれば世界をも望みうると言われた青年と、死ぬことも能わぬ我が身を抱えて悪の大王に邁進する男であり、種類は違えど小娘が威圧できる相手ではない。
「私は狩人をしているから、シンジ君は適当に遊んできて下さい」
「了解…狩人?」
「あっちあっち」
「ん?」
 言われて、顔を向けたシンジの表情が微妙に変化する。その先に見たのは――全身を総毛立てて唸り声を上げながらこちらを睨んでいる一匹の狼であった。
「モノホンではなさそうです。フェンリル小姐の足下に及ばぬオーラだが、あれでよく使い魔などと名乗れたものだ」
「皮を剥いでフェンリルの所に持って帰りたいんだけど…旦那代わってくれない?」
「却下」
「吝嗇なんだからもう」
 ぶつくさぼやいたところへ、
「フォトンランサー、ファイア!」
 頭上からエネルギー波が降ってきた。無論、回避する事も防御する事も出来ず、一瞬にして二人が黄色い光に包まれる。
「ふん、口ほどにもな…!?」
 十秒後、ゆっくりと光が薄れていき、ぶっ倒れた二人を想像して狼――アルフが口元を歪めたのだが、その表情が激しく揺れた。
「この程度で悪の親玉を仕留めようとは不届き千万。裸にして弄んでくれる」
 そこには二人が悠然と立っており、倒れるどころかダメージを受けた気配すら無かったのだ。
「だ、旦那?」
 確か彼女はいる筈なのに、やはり美幼女愛好の癖があったのかと認識を新たにしたシンジに、
「あ、間違えた。気にしないで下さい」
「ウ、ウイース…あれ、あの小娘を旦那が?」
「あっちは君が。入れ替わったらなのは嬢に説得力無いでしょ」
「了解。では――」
 凄まじい火柱がその掌から放たれ、フェイトが防いだと見る前にその足は地を蹴っていた。左手に風を帯びて猛然とフェイトに迫り、慌てて杖を鎌状に変えたフェイトが振り下ろそうとするのをあっさりと掴んでいた。
「は、離せっ」
「そのつもりだ。爆汽」
 ひょいと離すと同時に、フェイトの腹部へ向けて躊躇いなく叩き込み、無防備の腹部へまともに受けたフェイトが逆しまに地上へ落ちていく。
「フェイトーっ!」
 駆け戻ろうとしたアルフの身体が宙で舞い、どっと地面に叩きつけられた。
「君を狩るのは私だと言ったでしょう。雷蛇」
 ゆっくりと上がった手から、蛇の形をした稲妻が放たれるのを見たときアルフは――この二人が人外の存在である事を知った。
 なお黒瓜堂の手に小型カメラがあり、シンジを対象として撮影開始している事を、無論シンジは知らない。
 
 
 
「すごいお風呂…で、でもどうしてお風呂なの?」
「街を案内してっておにいちゃんは言ったけど、この街は小さな女の子が散歩するにはちょっと物騒だもん。私だけならいいけど、なのはちゃんは危ないから」
 なのはを連れて街を案内するようにとシンジは言い残して言ったが、アイリスがなのはを連れてきたのは露天風呂であった。
 どう見ても自分と一緒か、年上でも二歳くらいしか変わらないアイリスに、小さな女の子扱いされたなのはの口元が微妙にひくついているのを、レニがはらはらしながら見守っていた。
(シンジから見たらどっちもどっちだと思うんだけど…。大体どうして私一人に二人を押しつけて…もうシンジのばか…え?)
 これも薄情で冷たい従兄のせいだと、内心でぼやいていたレニだがふと気づくと、なのはが胸をまじまじと見つめており、慌ててバスタオルで覆った。
「なのはちゃん、ど、どうかしたのっ?」
「ううん、レニさんおっぱいが大きくて羨ましいなあって。背も高いしスタイルもいいし」
「そ、そんな事ないよ。なのはちゃんだって大きくなったら可愛い女の子になるんだから。ねっ?」
 環境のせいで発育不良だったのを、シビウが魔女医の名に賭けて再構成したのがレニの身体であり、その妖艶とも言える魅力を帯びた肢体は、館内の娘達は誰一人として及ぶところではない。
「そう…かな」
 ほんの少し――やっと起き出したような胸をふにふにと触るなのはの後ろで、
「今はまだまったいらだけどね」
 ぼそっと呟く声がして、なのはがキッと振り向くとアイリスがさっさと浴場に歩いていく。
 その後をつかつかと追ったなのはが、
「自分だってぺったんこのくせに」
 アイリスの後ろで小さく、だがはっきりとトゲを含んだ声で囁くと、今度はアイリスが振り向いた。
「…今なんて言ったの」
「そっちこそ」
 なのはとアイリスでは、なのはの方が少し身長は高い。その二人が小さな拳をぎゅっと握りしめ、一触即発の空気で睨み合っているのを見て、レニがはーあとため息をつく。
(なんで僕がこんな役目を!でもここは確か…アイリスの力は使えないってシンジが言ってたから…まあいいよね。僕が煽った訳じゃないし)
 とっとと見物人に移行する辺りは従兄譲りか。
 ただし、ここで取っ組み合いなどされてはさすがに困るので、
「二人ともこんな所にいたら風邪ひいちゃうから、温泉に入るよ。ほら、早く」
 火花を散らしている二人を、無理矢理中に押し込んだ。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT