妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百六十七話:未知(でぶ)との遭遇
 
 
 
 
 
「はい、兄貴口開けて」
「…コラ」
「あーん」
「やかましい!」
 予備校から帰って早々、いきなり捕縛された。
 しかもスプーンに乗せて差し出されたのは、手作りのプリンときた。確かに、外見も悪くはないし、とびきりグラマーではないが、スタイルもそれなりだ。
 がしかし、所詮妹は妹である。
 元々ブラコンの気はあった妹だが、ケンスケに彼女が出来てから一気に加速した。
「だって、碇さんの所は、可愛い子がいっぱいおるやないの。相田さんにまで彼女が出来たのに、兄貴だけ出来ないなんておかしいわ」
「で、そのバスタオル巻いただけの格好は何や?」
「ああこれ?兄妹のスキンシップに決まっとるやないの。さ、兄貴も脱いで脱い…いったーい」
 武道をやっている事もあるが、トウジの一撃は仮借がない。きれいに決まった踵落としで妹を撃退した。
 端から見れば相当不気味だが、当人は至って真面目である。さすがに、正面切って好きだなどと口にはしないが、家に帰ればいつもべったりの姿は、ある意味で新婚夫婦をも凌ぐだろう。
 しかも、最近は段々手段を問わなくなってきた。
 今日もまた、いつものように捕縛されて、下手したらプリンを口移しされかねない所だったが、寸前で逃げ出した。
 とりあえず、道場まで引きずっていって、しばき倒してやらなあかんなと、兄としてビシッと決意したところへ、電話が鳴った。
 かさかさと逃げ出した妹――ナツミが受話器を取った。
「はい鈴原です。あ、シンジさんお久しぶり…ええ、居ますよ。今変わります」
 保留にしてから、
「兄貴」
「シンジやろ。分かっとる…どないした?」
 妹の妙な表情に気が付いた。
「シンジさん、何かあったん?」
「あ?」
 引ったくるように受話器を取った。
「久しぶりやな、何時帰国したんや?」
「まだ帰ったばかりだ。それよりトウジ、ちょっと顔貸せ。今日は暇だな?」
「ああ、別に構わんけど」
 別段変わったところは感じられない。いつもの友人だ。
 内心で首を傾げたトウジに、
「今日の六時半、新宿中央公園の時計台前で待ってて。拉致しにいくから、絶対動くなよ」
 いつもの通り、向こうから切れた。
 受話器を置いてから、
「ナツミ」
 呼ぶと、向こうの部屋からナツミが顔だけ見せた。
「なに?」
「シンジが妙って、何か言ってたんか?」
「シンジさんが、あたしに何も言うわけないやん。トウジはいるって、訊いただけや」
「それで、何で妙だって思ったんや」
「教えて欲しい?」
「どうでもええなら、最初から訊いとら――!?」
 それは、トウジが呆気に取られたほどのスピードであった。おそらくは、人間に追われる茶羽根ゴキブリをも上回っていたに違いない。
 んー、と小さく開けた唇を突き出し、
「キスしてくれたら教えたげる」
「そうかい」
 ボキボキと指を鳴らした兄貴に、内心でちっと舌打ちした。
 この辺がどうやら限界らしい。
「冗談やって。ま、自分で会うて、確かめたらええわ。何か言われたわけやないけど、シンジさんがどこか変わったのは間違いないわ。もし、全然変わってなかったら、あたしも素直に兄貴あきらめるわ。どうする?」
 二秒ほど考えてから、トウジは首を振った。
 仲の良い友人が、万が一にも変貌していた場合、一体何をしろと迫られるかわかったものではない。
 金品ではないと分かっているだけに、トウジの判断は当然であったろう。
「で、がらっと変わってたらどないするんや?」
「別に、大した事やないで。ちょちょいと、あたしのものになってもらうだけやから。大した事ないやろ」
 
 
 冷たいコンクリートに、乾いた靴音が響く。
 二十階建てのビルは、無論最上階まで直通のエレベーターがあるが、シンジは歩く方を選んだ。
 どうしてかは自分でも分からない。エレベーターのボタンを眺めていたら、足が勝手に動いたのだ。
 扱いは非常口用だが、日頃から使われているのは見れば分かる。文明の機器に頼る社員ばかりではないらしい。
 十分ほどで最上階に着いた。
 一歩踏み出したシンジを出迎えたのは、黒い服に身を包んだでぶであった。
「あ、失礼」
 廊下を塞ぐでぶにぶつかりそうになり、避けていこうとしたら進路を妨害された。
「あの、何か?」
「御前に用かい」
「うん」
「お前さん、あたしの事は知らないね」
 妙に好戦的なでぶだが、シンジがあっさり首を振ったのは、本当に知らなかった事に加えて、テンションが今だ戻っていない事が大きかった。
「お前さんはいずれ、あたしの主人になる。少し試させてもらうよ」
 シンジの反応を待たず、でぶが服のポケットに入れた手を出すと、そこには白いバラが握られていた。
 ふっと息を吹きかけた次の瞬間、それは黒いバラへと色を変えており、それが散った時反射的に目を閉じたのは、シンジの本能だ。
「ふん、避けたかい。避けなかったら、あんたの眼は潰れていたよ」
(はた迷惑な)
 内心でぼやいたが、まだ燃えない。
 危機感の足りないシンジだが、その目がかっと見開かれた。
 手を一閃させたでぶが手にしていたのは、自分自身の生首だったのだ。しかも鮮血に染まっている。ぎょっとして首を見ると、顔は乗っており、もう一度見ると手に乗った首は消えていた。
「かかったね」
 不意にでぶの声が変わった。危険なものを含んだ声に、さすがのシンジも一瞬身構えた刹那、不意に壁から手が生えた。
 それも普通の手ではなく、手首の太さだけでもシンジの胴回りくらいはある。
 幻覚、そうと知りつつも目が離せない。巨大な手はみるみる内に迫り、その指がまさにシンジを捉えようとする寸前、可憐な手が伸びて、二本の指が腕を押さえた。
 狐が脳内に住み着いたような気分のまま、目をこすったシンジの顔が動き、知り合いに気付いた。
「碇様、お帰りなさい」
「姫、来てくれたんだ」
 そこに立っていたのは、人形娘であった。ドレスの端をつまんで一礼してから、
「髪…切ってしまわれたのですね」
「巴里に置いてきました。想いと一緒にね。ところで、どうしてここに?」
「それが…」
 少し言いにくそうに、
「健康診断が必要だから、お連れするようにとお姉さまが」
「そっか、シビウの指示か。そうだね、本人が出てきて拉致される前に出向くとしようか」
「ありがとうございます」
 楚々と一礼した人形娘に、
「うん。ところで、こちらどなた?」
「ご主人様の妹君ですわ。帝都では随一の魔道士――ただし、金銭欲も帝都では並ぶ者がいないでしょう。トンブ=ヌーレンブルク様です」
「木偶人形の身で人間に懸想するよりましさ。媚びを売るのは、まともに笑えるようになってからにす――」
 不意にでぶ――トンブが振り向いた。
 背後から凄まじい殺気を感じたのだ。それも、この魔道士を振り向かせるほどの。
 だがそこには誰もおらず、こちらへ向き直った瞬間、その首が真横を向いた。顔にめり込んだのは、何の前動作も見せぬまま、放たれたシンジの気であり、蹌踉めいた身体が垂直に浮き上がり、天井へ激突した。
 トンブを振り向かせたのは、音もなく背後に回った風の罠で、トンブが蹌踉めくと同時にそれが発動したのだ。
 いかに優れた魔道士でも、これは避けられるものではない――シンジは殺気を微塵も感じさせる事はなく、その指は微動だにしなかったのである。
「やるね」
 音もなく降り立った魔道士を、シンジは静かに眺めた。
「でぶに興味はない。静かにしていれば、金儲けしながら余生を過ごせたものを」
(碇様…)
 人形娘の頬が、僅かながら染まったように見えたのは、気のせいだったろうか。
 シンジが起動したのは、自らが襲われた事にはないと、可憐な少女は気付いていたのだ。
 依然として、シンジの雰囲気に変化はないが、さっきまでとは明らかに違うとトンブは見抜いていた。
 巴里以降、すっかり低下していたテンションが復活してしまったのだ。
「マスターも冷たくなった」
 トンブの手が組み合わされようとした時、零下の声は背後から聞こえた。
 振り向かずとも、それがシンジの従魔であり、本来の形態を取っている事は分かっている。
「ガレーンにこんな醜い妹がいたとは初耳だ。ヌーレンブルク家も、ガレーンの代で途絶えたな。マスター、私が始末しておく。その娘と、散策でも行くがいい」
 言うまでもなく、トンブの姉であるガレーン・ヌーレンブルクと関係があったのは黒瓜堂の主人であり、シンジは知らない。
 まして、フェンリルが知っている筈はないのだが、この口調は少なくとも見ず知らずの他人を語るそれではない。
 或いは、どこかで会ってでもいたのだろうか。
「その必要はない」
 シンジの手がすうっと動いた。
「忘れていた感触を、久しぶりに思い出したよ。五体をバラバラにしてから、フェンリルのデンタボーンにしてくれる」
「デンタボーン?」
「犬用のガムだ。噛むことで歯が強くなる効能がある」
「断る。食あたりしそうだ」
 人形娘が、口元に手を当ててうっすらと微笑んだのは、フェンリルの言葉にではなかった。
 髪と一緒に覇気まで切ってきたような青年が、復活したことを彼女もまた感じ取っていたのだ。
「フェンリル、結界を」
「分かっている」
 フェンリルが頷いた時、
「お止め。ここは、ガレーン・ヌーレンブルクの愛した地ではないよ」
 姿を見せたのはフユノであった。
「トンブ、儂の孫を試せなどと誰が言った――」
 言葉が途中で止まる。その視線は、変貌した孫の姿に釘付けとなっていた。
「シンジ…」
 長くきれいな黒髪は、シンジのトレードマークのようなものでもあったが、今やそれは、ばっさりと切られて微塵も面影を残していない。
 と、そこへ、
「御前様まで席をお立ちになられては――」
 会議はまだ終わっていなかったのだろう、フユノを追って出てきた千鶴だが、これもシンジに気付いて立ちつくした。
 余人には、髪に触れさせる事すら無かったシンジであり、そのシンジが髪をあっさり切った姿など、想像も付かなかったのに違いない。
 やれやれ、と軽く肩をすくめてから、
「姫、耳かして」
「はい?」
 人形娘の耳元に口を寄せたシンジは、囁く代わりに、そっと頬を寄せた。
「とっちめる事もある。もう少し経ったら顔を出すから、姉さんにはそう言っておいてくれる」
「い、碇様…」
 刹那、頬に手を当てて立ちつくした娘だが、それも一瞬のことですぐに立ち直り、
「分かりました。仰せの通りに」
 すっと一礼した姿は、数秒後にはもう見えなくなっていた。
 
 
「仙台へ行ってきた。若菜と一馬に会ってきたよ」
 シンジはフユノの部屋に通された。
 会議が中断したのか、強制終了したのかは知らない。
「昔、ある老婆がいたそうだ。帝都危機の折、カードにしたのは実の息子と嫁だったという。本来ならあっさり片が付いたものを、最終兵器の使い方を誤った兵士のせいで、命と引き替える事になった。それでも、そのことを責めようともせず、残された親子に累が及ばぬようにしたらしい。命の大切さを教えてくれた老婆だったそうだ」
「……」
 シンジの視線は、既に最終形まで行き着いた眼下の町並みに向けられている。
 この町も、数百年前には寂寞たる野原だったに違いないが、今はビルが建ち並び、文化は大いに発展したが、自然は見る影もなくなっている。
 しかも、文化は自然と違って無限に発展できる代物ではないのだ。
「俺の知っている人間像とは少し異なっていた。無駄に人生を浪費しすぎて、生きた屍に成り下がったと思っていたが、少し認識を変える必要があるらしい」
 懐から取り出したのは、一本のワインであった。
 ことり、とそれをテーブルの上に置いたシンジが、うすく笑った。
「ただいま、祖母様」
「…おかえり」
 フユノは一瞬だけ顔を背けた。
 振り向いた時、もうその顔はいつもの表情に戻っていた。
「お前に、話しておかなければならない事があってね。お掛け」
 黙って腰を下ろしたシンジに、
「家賃を自動で引き落としている口座の通帳は、目は通しているのかい」
「いいや、全然」
「ある意味では、それも良かったかもしれないね。アスカの両親が義理の親なのは知っているね。ここ二ヶ月、仕送りが止められているそうだよ」
「……」
 不景気とか、経済的な理由なら、わざわざこんな言い方はするまい。それに、二ヶ月と言えばちょうど自分が管理人になった頃だ。
「理由は?」
「お見合いさ」
 短い答えだが、シンジにはそれで十分であった。一時的な帰国なら、わざわざ送金を止める程でもない。
「今までのお前なら、叩き斬って終わりだろう。さて、どうするね」
 むう、と腕を組んで考えた。
 確かにフユノの言うとおり、滅ぼすなど造作もない。
 ただ、それでは少々単純すぎる。少なくとも、ミルヒシュトラーセ家を殲滅した時とは事情が違うのだ。
 十二秒考えてから、ぽむっと手を打った。
「グッドアイディーア」
 何か浮かんだらしい。
「月いくら?」
「十五万」
「十五万円の一年で百八十万、十年でも千八百万。その程度の端金で人生狂わせようなんざ三百七十二億年早い。じゃ、俺はこれで」
 シンジが出て行った後、フユノは黙って手を組んでいた。
 千鶴は、シンジを見送ったから側にはいない。
「もうこれで…これで十分だよ…」
 流れ出す涙を拭おうともせず、フユノはただ一点を見つめていた。
 シンジが許していないのは分かっている。いや、許さないのではなく、許せないのだろう。シンジは、金や権力に飽かせたやり方を最も嫌う。アスカの一件だって、親が旅行に出られないから、顔を見せに来いと行っていれば、コンコルドを手配して親元に行かせていたろう。
 一番忌むやり方を、よりによって祖母がしてみせたのだ、シンジの性格からして許さないのは当然である。
 それでも、シンジは来てくれた。
 とてつもなく高価なワインではないし、今までのシンジなら、メイドの一人に渡して済ませていた筈だ。
 もう、これで思い残すことはなくなった。
 後は、最後の大仕事を済ませるのみだ。
 そう…結局、息子と嫁を揃って喪い、シンジとミサトを親無し子にしてしまった降魔対戦の轍を、二度と踏まぬ為の。
 
 
 出て行くシンジを、深々と頭を下げた千鶴が見送っていた。
(若様、ありがとうございます…)
  無論、ミサトの一撃による傷はまだ癒えておらず、日常生活も完全ではない。当分リハビリは必要だが、これも自業自得だとフユノの側から片時も離れていない。
 千鶴自身も分かっているのだ――あれが最初にシンジに知られていたら、庸懲の一撃どころか、今頃は身体の破片すら残っていないであろう事を。
 片手を上げて歩き出したシンジが、ふと立ち止まった。
「あ、そうだ千鶴」
「はい?」
「祖母様が襲われた時、今のお前じゃ役に立たない。しばらく温泉でも行っておいで」
「シンジ様…」
「面倒位は俺が見ておく。祖母様が襲われたんじゃ、俺の面子にかかわる」
「お言葉の…通りに…」
 かつて護衛に付けた泪まで外すと言ったシンジが、自分が面倒を見ると言ったのだ。
 こみ上げる物をぐっと抑えて、千鶴はもう一度深々と頭を下げた。
 
 
 
 
 
「じゃあ、半数以上は生徒の停学と教師の退職、と言う方針なのね」
 居並ぶ教師達が一斉に頷くのを見て、リツコは内心でため息をついた。
 問題自体は、大した事ではない。どこにでもある、教師と生徒の恋愛だ。女生徒ならまだしも、女教師と男子生徒だし、第一年齢がそう違うわけではないから、変態の烙印も押されない。
 ただ、問題は生徒が未成年という事であった。
 民法では、未成年に許されるのは純粋な利益の獲得と、負債の免除と相場が決まっている上に、後見人の同意がない場合、かなりの広範囲で取り消すことが可能なのだ。
 婚姻を以て成人とみなされはするが、まだそこまで行っていない。
 何よりも、二人が熱烈に恋愛中なのが、周囲の反感を買ったのである。二人とも顔は良い方だし、教え方の上手な教師と優秀な生徒のカップルだが、確かに成績はすうっと落ちてきている。
『シンジ君レベルじゃないからよ』
 と、報告を受けた時はその程度の意見しかなかったのだが、生徒の親から苦情が来るに至り、教師の進退問題へと発展した。
 東京学園で教鞭を執る教師が、生徒と恋愛関係に落ち、しかも保護者からクレームが来るなど論外という訳だ。
 馬鹿馬鹿しい、とは思うが、何せ教師の半数以上が賛成に回ると、リツコも無視できない。
「理事長は、反対のお考えですか」
「反対に決まってるでしょう」
 リツコの視線に、訊ねた教師は口をつぐんだ。
「無論、未成年者ではあるけれど、だからと言って仲を引き裂いて、教師を馘首すればいいと言うものではないわ。あなた達は、自分の子供が通っている学校の教師と恋愛関係になったら、仲を裂く為に学校へ乗り込むの?」
「そ、それは場合によります。今回の件は、単なる恋愛関係ではなく、生徒側の成績が下降している事が大きな原因です」
「ふうん。じゃ、親にそうやって恋仲を裂かれた子供が、親に恩義を感じて老後の面倒も見ようと決意するのかしら?私だったら、さっさと縁を切るけれど?」
「で、ですが…」
「ですが?」
「確かに、理事長のおっしゃる事は分かります。でも、今回は保護者から既にクレームがついているのです」
「そこなのよね。言論封殺が一番簡単なんだけど」
 外部にリークされたら、それこそ進退問題に発展しそうな台詞を呟いたリツコに、室内が静まりかえったそこへ、
「頼もう」
 道場破りみたいな声がした。
 はい、と教師の一人が立っていくと、扉は勝手に開いた。
 それも、ギシギシと音を立てて。言うまでもなく、いつも手入れされている扉のレールが、さび付いている事などあり得ない。
「シンジ君!?」
 ウイース、と手を挙げて入ってきたのはシンジだが、リツコの驚きは突然の来訪にはない。
 勿論、フユノや千鶴と同義のそれである。
「い、いつこちらへ?」
「昨日帰ってきた。ところでリッちゃん、今暇でしょ?散歩行こ」
「…暇に見える?」
「何してるのさ」
 事情を聞いたシンジは、ふんふんと頷いた。
「あっそ、分かった。で、一応訊いておくけど」
 室内を見回してから、
「教師と生徒は恋愛すべからず。縦しんばしたにせよ、節度を以てすべし…って、考えてる人は立って」
 立つ者は一人もいなかった。
 皆、分かっていたのだ――起立は、そのまま教師生命の終焉を意味している事を。
「誰もいない…ノリの悪いやつばっかし」
 ろくでもない事を口にしてから、
「いたら、二度と教職には就けないようにしてから放校しようと思ったんだけどね」
 更に物騒な台詞を吐いた。
 それを聞いた一同の背に、冷たい物が流れる。危うく、職どころか生きる術自体を喪う所だったのだ。
「教職員一同、賛成と決まったね。なら、後は簡単だ。成績が落ちたのなら上げればいい。リッちゃん、補習用に教師の選定を。それと、保護者へは黙って見てろと言っておいて。もしごねたら、俺が家に行って説得してくるから」
「分かりました」
 リツコは、くすっと笑って頷いた。
 それから二十分後、リツコはシンジの膝の上にいた。
「その髪は?」
「巴里でばっさりと」
「似合っていたのに」
 シンジの髪に手で触れながら、首だけ後ろに向けたリツコがシンジを引き寄せる。
 唇だけ触れるキスをしたリツコに、
「足りた?」
 首筋への吐息と共にシンジが囁く。
「もう…意地悪なんだから」
 目元を染めた姿を教師達が見たら、卒倒するかも知れない。冷徹ではないが、知的と冷静の二つは決してリツコから消える事はなく、その姿を見た者は未だかつていない。
「直行だったら萎んでたけど、でぶに会ったせいで復活した。少し付き合ってね」
 いうなり、するりと胸元から手を滑り込ませた。部屋に入って来た時、ブラを外して来たのは分かっている。
 重量感のある胸を揉みながら、既に硬く尖っている乳首を指で押し込む。
「ま、待って…」
 逃げようとはしなかったが、リツコがシンジの手をおさえた。
「気が変わった?」
「違うの。そ、そのでぶって、どこで会ったの?」
「祖母様に会いに行ったら居た。試験とか言って襲ってきたから、脂肪を抽出してスリムにしてやろうと思ったんだけど――」
「だけど」
「手も足も出なかったの」
 けらけらと笑ってから、欲情の色が醒めきったリツコの表情に気付いた。
「どうしたの?」
「トンブ・ヌーレンブルクよ。姉のガレーン・ヌーレンブルクが死んでから、今では多分世界一の魔道士よ。そして、碇財閥の金庫番」
「何でそのキンコンカンが襲ってくるの」
 金庫番よ、とは言わなかった。
 なぜか、言ってはならない気がしたのだ。
「襲ったと言うよりは自分が仕えるのにふさわしいかとか、そう言うことだと思うけれど…ただ、シンジ君とはあまり合わないかも知れないわ。儲けさせたらそれこそ随一だけど、興味がない人には意味がないも…ひぁっ!?」
 胸をいじっていた手が垂直に降りた先は、股間であった。
 既に濡れきっている秘所を、下着の上からぷにっと押し、
「金儲けがしたいなら、別に邪魔はしないよ。何を第一にするかは本人の自由だから。でも、今の興味はこっちなの」
 指でつつくだけで、それ以上の事はしない。敏感になった秘所を刺激され、たまらずリツコは尻を浮かせた。
「お、お願い…意地悪しないで」
「どうしようかしら」
 下着の上から触れただけでも、既に指には愛液がまとわりついている。
 にちゃっと指の間で拡げて見せられると、リツコは顔を赤くして横を向いた。
「その格好で、パンツ全部脱がないで入れられたらしてあげる」
「そ、そんな…」
 不可能でないが、外見は普通に服を着たままで、パンティーだけずり下ろして貫かれている自分を想像すると、それだけで恥ずかしくなってくる。
 が、結局誘惑の方が圧勝し、濡れた下着をなんとか太股まで下ろすと、風もないのになぜか下半身がひんやりと冷えた。
「良くできました」
 ひょいと抱き上げたシンジが、肉竿に指を当てて一気にリツコの腰を落とす。
「んっ!?かは…あぅ…」
 深々と貫かれたのは、女性器ではなくアヌスであった。
「今日危険日でしょ。出ちゃったりはしないけど、直腸に出してあげる」
(どうして私の周期を…)
 引き裂かれるような痛みと、深く貫いた肉竿が出入りする妙な感覚が綯い交ぜになったリツコが、ぼんやりした意識の中で思ったのは替えの下着の事であった。
 
 
 シンジが帰ってきたのは、午後七時を少し回っていた。
 食事はピンチヒッターを指名してあるから、心配はない。さくらとすみれ、それに織姫の三人組を指名しておいた。
 何を作るか楽しみだ。
「これになったの?」
 食卓に並んでいたのは、サンドイッチであった。
 が、さくら達の手を見る限り、最初からこれを選択したわけではなさそうだ。
「あ、あの…どうですか?」
 コンビニで買った代物ではないから、やはり評価が気になるらしい。
 もごもごと咀嚼してから、
「悪くない」
 シンジは頷いた。
 褒められるとは最初から思っていないが、シンジの場合おいしくなければ、はっきりそう言う。
 嘘でもいいから褒められたいなら別だが、感想を聞かれたならストレートに言った方が為になる、シンジはそう考えるタイプだ。
 シンジの言葉に、三人が満足げに頷く。勿論、本命ではなかったろう。それでも、とりあえず及第点はついたのだ。
「ところでそのねーちゃんは?」
 シンジが指したのは、住人達の中でも一番の長身を誇る娘だが、ほとんど手も付けずにぼんやりしている。
「なんか、帰ってきてからずっとこうなんですのよ。まったく、外で雑草でも食べたのかしら」
「すみれじゃあるまいし」
「…碇さん、今何か言いました?」
「自分が言われて怒るなら、言うんじゃありません。だいたい、どうして雑草なんか食べなきゃならないんだ。桐島、食べてる?」
「え…え、あ、おう、食べてるよ」
 湯気の立っている味噌汁に手を突っ込み、
「あちちちっ!?」
「駄目だこりゃ」
 慌てて飛び出していくカンナに、住人達が呆気に取られている――ただ一人を除いては。
 その一人に、シンジが視線を向けた。
(上手く行ったの?)
(多分ね)
(そいつは良かった)
 電波のみをやりとりする会話の後、
「あ、そうだアスカ」
「え、何?」
「実家から帰れって言ってきてるって?」
「『え!?』」
 思わぬ言葉に、室内が静まりかえる。当然だが、アスカは誰にも話していなかったのだ。
「シンジ…御前様に聞いたの?」
「違う」
 シンジは首を振った。
「聞かされたんだ」
 妙な台詞に、数名が首を傾げた。フユノから聞いた、と言う点では変わらないではないか、と。
 首を捻ったのは、全員ではなく、当たり前のように聞いている娘もいる。
 アイリスとレニもそうだが、意味合いはまったく違う。二人ともシンジを見つめているのは一緒だが、アイリスはつぶらな瞳で見つめているのみに対し、レニの方はもう理解している。
 シンジのせいで目立ちはしないが、能力面では決して劣らないのだ。
「その辺に首捻ってる子がいるね?」
「い、いえそんな事ないですっ」
 反射的に首を振ったさくらに、
「じゃ、質問。どうしてアスカは君らに伝えなかったの?ついでに俺の耳にも入れなかったの?」
「え…」
 友達じゃなかったの、というごく普通の思いが浮かばなかったと言えば嘘になる。
 がしかし、自分達のみならず、直接関係してくるシンジにすらアスカは言っていなかった。少なくとも、時期を見て話しておこうという感じではなかった。
 どうして?
 しかもシンジは、聞いたではなく、聞かされたと言ったではないか。
「ごめんなさい、分からないです」
「そ」
 うすい反応からすると、最初から分かるとは思っていなかったようだ。
「納得してる子が三人いるから良しとしてアスカ」
「なに」
「別に呼び寄せて斬ったりはしないよ。アスカが帰りたくないのは分かってるし」
「シンジ…」
「とは言っても、仕送りを十二倍して更に十を掛けても、大した金額にはならない。そんな程度で人生買うなんて、二百八十七億年早いことをきっちり知っておいてもらわないと。と言うわけで、バイトは俺様が探します」
「え?」
「え?じゃない。つまり、その程度のはした金でアスカを操れないことが分かれば、気も変わるでしょってこと」
「で、でもシンジそんな安い金額じゃないし…」
「そう言うことではナッシング。義理とはいえ、娘の一人も口説けず、金の力で引き戻す時点で親は失格。そーいうのは、一番嫌いなの」
 ここに至って、何となく事情は読めてきた。
 すみれの時もそうだったが、権力などに物を言わせるのは、シンジがもっとも嫌う事だし、その例がちょうどシンジの横にいる。
 とりあえず、怖れていた事態は避けられてほっとしたアスカだが、シンジがどんなバイトを探してくるのかと、今度はそっちが激しく気になりだした。
 
 
 それから四時間後、シンジは魘されていた。
 フェンリルやシビウに襲われる夢ならよく見るが、フェンリルの場合は撃退するし、シビウの時は反対に襲って終わりだ。
 だが、今夜は違った。
 よりによってトンブ・ヌーレンブルク――でぶの魔道士に追われる夢なのだ。
 おまけに撃退しようにも力が使えない。
 とうとうとっ捕まって、太い大根足で踏まれる刹那、目が覚めた。
「…何じゃこの夢は」
 ぼやいた時、妙に身体が重たいのに気が付いた。顔だけ横に向けると、月までも出ていない。
 これが噂に聞く金縛りらしいと気付いた時、シンジの眉が少しだけ動く。
「そうか…そう言うことかリリン」
 妙な事を呟くと、そのままぽてっと倒れ込んだ。
 
 
「出かけることにしました。修行し直しなので、当分帰らないから後はよろしく」
 食卓にクラスター爆弾が投下されたのは、翌朝のことであった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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