妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百五十六話:鬼女返礼
 
 
 
 
 
「やはりあいつらじゃ、ここまでか。機体に全然付いて行けてないじゃねえか。オレらの出番だな。あやめ、出るぞ」
「はい」
 花組のピンチは、無論米田達にも分かっていた。さくら達、と言うより正確にはすみれの体面を考えて殿と言ったのだが、高すぎる機体を操りきれない可能性は、既に出撃前から分かっていたのだ。
 シンジがどの辺まで考えていたかは知らないが、とまれ全滅を防ぐ方が先決である。
 押っ取り刀で駆け出そうとした二人だが、結局出撃する事は無かった。
「その必要はありませんわ」
 甘いとさえ聞こえる声に振り向いた瞬間、その胸元に吸い込まれた腕が二人を昏倒させたのである。
「今あなた達に出られては、私があの方に恩返し出来なくなってしまいますもの。そうでしょう?」
 和服姿の美女は、少女のような笑みを見せて微笑んだ。
 米田もあやめも、目覚めた時に誰が自分達を眠らせたかを知れば唖然とし、そして次の瞬間愕然とするに違いない。
 二人を見下ろして立つ女は、以前シンジがその正体を鬼だと看破しながら、討つ事も捕らえる事もせずに行かせた女である。
 その名を宮村優奈と言う。
 
 
 
 
 
「ほう、鬼が出てきたか」
「鬼?」
 緋鞘は黒瓜堂の言葉に首を傾げた。気のせいかと思ったのだ。
 事実、彼らの眼前に展開している光景は、和服に身を包んだ女が生身で銀角を片づけている所であり、信じられなくはあるがどう見たって人間である。
「オーナー、今何と言った?」
「鬼、と言った」
 ちらりと見ると、別段目に怪しい光を宿してはいない――普段から若干区別の付きにくい男ではあるが。
「私が気が触れた、と思っているな?まあ、私が正常なのはじきに分かるでしょう。もう少し見ていなさい」
 微妙な表現なのか、それとも時間が経てば言葉が証明されるという意味なのか、緋鞘も一瞬判断しかねたのだが、次の瞬間その口を割ったのは小さな声であった。
 二筋の光が美女の背を貫いたのである。
 無論、この男はその程度で反応などしない。人の生死など、今まで目にした日の出・日の入りの数より多いのだ。
 そんな事ではなく、何かが背を駆け抜けたのであり、そしてそれは正解であった。
「な!?」
 女の身長は黒瓜堂より低く、ごく平均的なものだった。
 だがそれはみるみるうちに大きさを変えたのだ。
 二メートルから三メートル、三メートルから四メートルへ。
 美しい女は、あっという間に五メートル近い巨人へとその姿を変えた。
 無論服が持つはずもなく、見るからに高そうな和服はあっという間にちぎれ飛んだ。
 中から現れたのは、そこだけは元の形を保った肢体であり、こんな女に和服を着せ、びりびりに引き裂いてから全身を嬲ってみたいと、その手の趣味を持つ男にとってはたまらない妄想材料となろう。
 ただ、残念な事にそれを眺める二人の男は、一人は近親相姦を嬉々として信奉する男であり、もう一人は性癖に関しては一応ノーマルであった。
 女がこちらを振り向く前に、二人にはもうその容貌が想像出来ていた。
 古代から人々を畏れさせた闇夜に爛々と光る相貌と、そして運悪く遭遇してしまった者に生を諦めさせる鋭い牙、二人が知る伝説は、いずれも鬼に関して嘘を教えてはいなかった。
「オーナー、知り合いか?」
「そんな訳無いでしょう。だいたい、私の友人とか知り合いに、良い性格なんて一人もいないぞ」
「ごもっともで…何?」
 今度、必ず往来で一回転させてやると心に決めたのだが、そうこうしている内に、完全な鬼女と化した女はあっという間に銀角の群れを壊滅させてしまった。
 エヴァは全機が救い出された所を見ると、敵と味方の区分はちゃんとあるらしい。
「あの女、あの坊やの知り合いか?」
「私の知り合いじゃないのに私が知っているのは、それしかないでしょう。何だと思ったんですか」
「…ストーカーでもしてたかと思ったんだよ」
「なんだ、私はてっきり近親相姦の結果得た情報とか、言い出すかと思ったのに」
「……」
「……」
 とそこへ、
「お二人とも、不毛な事してる場合じゃないでしょ。これ、さっさと運ばないと中身が漏れてきますよ」
「『あ?』」
 問題は、彼女がレビア・マーベリックであって祐子では無かった事だろう。
 ミイラさえ跳ね起きかねない二対の視線が振り返った時、レビアは確かに寿命が三年半縮んだ事を知った。
 
 
 本来ならば、自分が居る場所ではないと分かっている。
 とは言え、僅かにわき上がった後ろめたさはとっくに押し殺し済みだ。
 自分から動かなければ何も変わらない事は――特にこの男が相手の時は――麗香とて百も承知の上だ。
 下着姿でシンジの腕の中にいる麗香は、そっと目を閉じてシンジの胸元に顔を寄せている。
 明日になれば、シンジはこの地を発ってしまう。その先が日本だが、帝都ではない事を麗香は女の直感で感じ取っていた。
 抱かれたいとか、そんな事ではない。
 ただ、少しでも側にいたいのだ。それでも、今の麗香に取ってはこの格好と位置がギリギリのラインであった。
 格好云々ではなく、室内の暖房装置を故障させたのは麗香である。
「あの、碇様」
「なに?」
 シンジが薄く目を開けた。
 二人はもう、一時間以上もこのままだ。何か話す訳でもなく、無論前戯へ移行するわけでもない。
 世の中には、他人からすれば倦怠期か険悪にしか見えずとも、当人達にとってはそれでいい関係というのが確かに存在する。
「あの方から…頼まれていた事がございました」
「サリュ?」
 麗香は小さく頷いた。
「その…自分が死んだ後、碇様がきっと後を追おうとされるから、絶対に止めるようにと…」
「そっか」
 シンジは天上を見上げて、はふーと息を吐き出した。
「碇様?」
「ボンクラ。役立たず。粗大ゴミ」
「はい?」
「本当はさっさと後を追っかけようと思ってたのさ」
「碇様っ!?」
 思わず跳ね起きた麗香だが、そっちに視線は向けないまま、
「でも止めたんだ。思いとどまったからじゃない、単に迷惑だと分かったからだ」
「迷惑、ですの?」
「大迷惑さ。勝手なエゴで自分をあの世へ送った男に、のこのこ付いてこられたい女がどこにいる?」
「碇様…畏れながらそれは間違っておられると思います」
 居住まいを正した麗香が、膝の上に軽く手を置いたままシンジを見つめた。シンジに異を唱えるのも初めてなら、こんな強い視線でシンジを見るのも初めてである。
「ふうん?」
 シンジはちらりと麗香を見た。出来の悪い生徒を叱る女教師の風情だが、その格好はベビードールである。
 レース仕様で襟元にはファーまで付いており、おまけに前は下半分が開いているときている。麗香が膝に手を置いたのは、前がひらひらしないよう、押さえる為だとシンジは見抜いたが何も言わなかった。
 こんなのでも私生活をネタに性奴の身分へ堕とされた女教師に見えないのは、ひとえに麗香の美貌のおかげであり、美形はこの上なく得だといういい証拠である。
「確かに、あの方は最初から万が一の事も想定はされていたと思います。でもあの方は…幸せそうなお顔でした。碇様が言われた通りに思っていれば、決してあんな表情はできない筈です」
「そうかい」
「はい」
 強く頷いた麗香だが、その表情は一転する事になった。
「サリュが本当に呆れてる、なんて思ってないよ。ただ、俺のプライドなの。油断と言えば油断だけど、よそ見してた訳じゃないし、勿論最初から白旗振ってた訳でもない。何とかなると思ってたのに、なるどころか彼女を喪った。そんな奴が冥土へ大手振って行ける?俺には無理」
「い、碇様…」
 確かにシンジの言葉だけを額面通りに取れば、命を賭して愛した女の想いなど気づきもしない身勝手さに聞こえる。
 だがシンジは分かっていた。
 それだけ自分がサリュを想い、またサリュも自分を想ったからこそ…だからこそ、自分が許せないのだろう。
 自分はそんな事にさえ、気付く事が出来なかった…。
「い、碇様、申し訳ありません…」
 流れ出した涙は、もう止まってくれなかった。
 シンジとサリュの間にある、他人にはキモチワルイ程の固い絆は切れてなどおらず、それは余人が立ち入る事など許さぬほどの物だったのだ。
 シンジがここまで思いこむのには、本人の血液型と言うよりも才能のタイプが関係している。
 努力して上に行く秀才型ではなく、文字通り持って生まれた物を生かす天才型のシンジは、大学を落ちるまで頓挫という物を経験した事がない。
 それも、祖母の力だの何だのではなく、全部自力で切り抜けてきた。それだけに今回のように回復不可能な挫折を経験した場合、人を慰めるならいざ知らず、自分がどうやって立ち直ればいいのかが分からない。
 ミスが取り返せる場合、それは穴が埋められるのであって原状に回復出来る場合はまずない。
 ところが今回の場合は、原状どころか穴埋めすら不可能な状況である。
「いいんだ、麗香のせいじゃないから」
 麗香を抱き寄せたシンジは、肩に顔を埋めて泣く麗香の髪を撫でながら、天井を見上げた。
 虚ろではないが、哀しげな視線が宙の一点を見つめる。
 ギュ、ときつくかみ締められた唇の箸から、一条の鮮血が滴ったのはそれからまもなくのことであった。
 
 
「あまり世話焼かせないで下さいよ」
 ぽんぽんと丸い尻を叩いた黒瓜堂に、
「オーナー、お尻触るのってセクハラです」
「ほう、じゃあ永遠にそこでぶら下がってるがいい。ハングドウーマンを見るのは嫌いじゃないからな」
 伸ばしていた手を引っ込めて、さっさと踵を返した。
 ハングドウーマンとはハングドマン――タロットカードに言う吊された男の対義語だろう。
 無論、黒瓜堂謹製なのは言うまでもない。
「ま、待ってオーナー」
 レビアは慌てて呼び止めた。
 木に吊されてしまったのだが、問題は下手人が緋鞘だと言う事だ。摩擦係数をいじられて、地に立てない身体にされなかっただけ、まだましだったが、癪な事にこれをはずせるのはこの雇用主だけなのだ。
「何か?」
「す、すみません外して下さい」
「断る」
 黒瓜堂は即座に退けた。
「扁平な尻如きで騒ぐ女を助ける義理はない。助けてからおかしな言いがかりを付けられて、謝罪と賠償だなどと騒がれた日には迷惑千万、麻布十番」
「あ、麻布十番?」
 関係が分からなかったが、とまれ他に降りる術はない。
「そ、そんな事言わないでオーナー、お願い」
 パンツルックだから、スカートの中味が不特定多数に公開される事はないが、この風の中で蓑虫状態が続いたら何が起きるか分からない。
「じゃあ、こうしましょう。扁平な尻如きで自惚れてごめんなさい、二度と思い上がった事は口にしませんからどこなりとお触り下さい。こう言えたら降ろしてあげます」
「な!?」
 レビアの眉が一気に上がった。
 冗談ではない、そんな事を口にするぐらいなら…。
「死んだ方がましですか」
「……」
 言ったからとて、身体を触ってくる相手でない事は分かっている。
 だがそれを口にするのは、レビアにとってプライドを木っ端微塵に粉砕される事を意味している。
 とは言え、この男以外で自分が降下出来るのは唯一、張本人が戻ってくる事だが、それは文字通り万が一にもあり得ない。
(ぜ、絶対に復讐してやるからっ)
 泣く泣く、プライドより生を優先すると決めた瞬間、その身体はふわっと地に降りていた。
「きゃっ!?」
 小娘みたいな声がその口を割るのと、その身体が抱きかかえられるのとが同時であった。
「別に、君のプライドを粉砕しようとは思いませんよ。嬲って性奴に堕とすのは、ウチに敵対した者だけです」
「オーナー…」
 ごめんと言おうとしたら、
「君のあの声を聞けただけで良しとしましょう。ヴォイスレコーダーを持ってこなかったのは痛恨のミスでした」
「!?」
 那魅に頼んで、今度絶対に呪詛してやると首筋まで真っ赤に染めたレビアは、固く決意した。
 
 
 黒瓜堂が格調高いプレイを楽しんでいる頃、既に体勢は決していた。
 本来の姿へ戻った宮村優奈――鬼女の前には、ランクアップした銀角もまるで子供扱いであり、ミロクもまた簡単に捕らえられて縛り上げられていたのだ。
 住人達の表情が微妙に違うのは、さくら達は鬼女の姿を見ており、優しく揺すられて起きたマリアが見たのは、和服に身を包んだ清楚な美女だった事にある。
「あ、あのあなたはどなたですの」
 助けてもらったのは分かっているが、異形の者に対する恐怖は人類共通であり、そしてここにいる娘達はその先端にいる日本人であった。
 シンジが居れば、突っ込み所に溢れた対応だが、生憎とシンジはいない。
「宮村優奈と申します」
 楚々と一礼した美女の美しさにつられて、思わず娘達も頭を下げていた。
 やっと我に返った――助けたのはシンジに非ずと認識したマリアが、
「助けて頂いてありがとうございました。でも、どうして私達を?」
 当然のことを訊いたマリアの表情が、次の瞬間、他の住人達の後を追った。白魚のような指が着物の袖をめくり上げると、そこは異形の物と化していたのである。
 腕の太さはマリアの太股ほどもあり、魚鱗に似た物が鎧のようにびっしりと覆っている。その指もまた、反対の指とは根本の存在からして別と分かる代物で、その膚の色は赤黒く、太い指と長い爪は人間など簡単に引き裂いてしまいそうだ。
「!?」
 マリアはこの姿をした鬼女が、仲間を助ける所は見ていない。それでも銃に手を掛けなかったのは、刹那脳裏にシンジの姿が浮かんだからだ。
 どうしてかは、自分でも分からない。
 ただもし銃を抜けば、未来永劫に渡って愚か者の誹りを免れないような気がしたのである。
 と、不意にさくらの顔が歪んだ。
(痛っ!?)
 一体誰だと振り返ると、アイリスがぎゅっとつねっている。何をしでかすかと思ったら、青ざめた顔色からしてどうやら掴んでいる手に力が入っただけらしい。
(アイリス、大丈夫だから)
 小声で囁いて手を握ってやる。
 自分だって安心してはいないが、小娘に思い切りつねられるよりはましである。
「この間降魔が襲ってきた時、私の主人も亡くなりましたの」
「『え…』」
 優奈の言葉に、娘達の間に衝撃が走った。
「い、一般の方ですか」
 いいえ、と優奈は首を振った。
「魔道省に勤めていた術師でしたわ」
 軽く腕を振ると、腕は人間の物に戻った。
「申し訳ありません、私達の力が及ばないばかりに…」
「気になさらないで。それに、主人はいつもあの方に憧れていましたの。見ず知らずの主人の為に来て下さって、お金まで頂きました。主人と一緒に京の山へ帰る前に、一度恩返ししておこうと思っていましたのよ」
「あの、そのあの方ってもしかして…」
「碇シンジさんですわ」
 訊ねたレニに、優奈はうっすらと微笑んだ。
「本当はもっと早く来ても良かったのですけれど、もしかしたら、皆さんが私の姿を見て攻撃されないかと、心配してしまって。杞憂でしたわね」
(すみません、全然杞憂じゃなかったです)
 内心で呟いたのは、一人や二人ではなかった。
 銀角の群れにとっ捕まっていなければ、鬼を見て平然としていられた可能性は低く、彼女たちはそこまで自分を高く評価してはいなかった。
「確か、あなたがマリアタチバナさんね」
「は、はい」
 どうして私の名前を、と言う表情を見せたマリアに、
「あの方だけ知って、他は誰も知らないと失礼でしょう?」
 口許に手を当てた仕草一つ取っても美しく、これが鬼女に変貌して銀角を片手で片づけた女だとは、どう見ても信じられない。
 だが、彼女たちはそれを目の当たりにしている。
「助けただけでは、あの方に頂いた金額に少し不足だから、もう一つ差し上げますわ」
 すっと手を上げると、マリア達の前に出現したのは荒縄で縛られたミロクであった。
 今度もぎょっと目を見張る事になったのだが、それはミロクを捕らえた力量ではなくその保管にある。
 たった今まで、間違いなくミロクはその場所にいなかったのだ。
「この女は多分、主人を殺した本人ですわ。でも、死んでからあの方にお会い出来た主人に免じて、あなた達に差し上げます」
「あの、それはどういう?」
「魔道省に勤める者の中で、あの方に憧れぬ者はおりませんわ。主人もその中の一人でした。でもあの方は、今は魔道省に籍はないし、主人がお会い出来る事もなかったでしょう。勿論、お気に掛けられる事など決して。主人はわたくしを残して逝ってしまいましたけれど、あの方に来て頂いて満足していると思います」
「そうですか…」
 夫が生前、シンジに会った事は告げなかった。
 何となく、気乗りがしなかったのだ。
 実際にシンジと会った優奈は、シンジと娘達とのレベルに大きな差がある事に気付いていた。
 これがシンジであれば、自分を知らずとも、
「助けていただいてドゥーも助かりました」
 が第一声であろうし、全裸にならまだしも、それ以外の理由で顔色を変える事などあり得ないだろう。
 娘達が自分に抱いた第一印象が恐怖である事は、予想もしていたしとっくに気付いていた。
 マリアが大型拳銃を持っていた事も知っていたし、あえて利き腕を変貌させてみせたのはその為――利き腕なら銃弾を全弾受け止める事も可能だからだ。
(あの方も苦労なさっておられるわね)
 優奈は口に出さずに呟いたが、シンジ自身がその育成を自ら選んだとは、さすがに気付かなかった。
 それも、娘を美しく成長させて云々という光源氏的な事には皆目興味が無く、ただ弱小から最強にするという、普通とはやや異なる育成だなどとは想像もしなかった。
「マリアさん、あの方が戻られたら伝えておいて下さいな」
「はい?」
「宮村優奈が香典のお礼に参りました。これで夫と共に京都へ帰ります、と」
「分かりました」
 マリアは頷いた。
「あの女の処分は、あなた達に任せます。煮るなり蒸すなり、ご自由になさい。それとあなた」
 ちらりとアイリスに視線を向け、
「取って食べたりはしないから、大丈夫よ」
「……」
 アイリスは何も言わず、さくらは繋いだ手にぎゅっと力が入ったのを知った。
(アイリス…)
「では、私はこれで」
 娘達が一斉に頭を下げ、顔が上がった時にはもうその姿はなかった。
 曲がり角も無ければ、無論落とし穴も存在しない。
「『あれ?』」
 思わず顔を見合わせた時、後方から声がして、振り向くとアスカ達が走ってくる所であった。
「何かあったの?」
「米田支配人とあやめさんが、気絶している所を見つけられて病院に運ばれたのよ」
「何ですって?」
 一瞬マリアの顔が険しくなったが、すぐに気が付いた。
 自分達の危機を知って援軍に出ようとした所を、余計な事をされては困ると足止めされたに違いない。
「完敗、ね」
 ぽつりと呟いた時、アイリスの強張った表情に気が付いた。
「アイリス、どうかしたの?」
「…さっきの女の人…」
「え?」
「大変ねって思ってたの。この子達のお守りじゃ、あの方も大変ねって思ってたのっ」
「アイリス…」
 叫ぶような声に、隊員達も言葉を失った。
 ただし、アスカ達はまったく事情を知らない。
「どしたの?」
 呑気な声で訊いたレイに、さくらが簡単に事情を話して聞かせた。
「それって…あたし達が暇だったのは、降魔がこっちに集中してたからで、でもって鬼女に助けられたって事?」
「ま、まあ…」
「……」
 すうっとアスカの眉が上がっていく。
 鬼女云々ではない。
 自分達が暇なのはそのまま出ていったエヴァ組にも直結、つまり簡単に敵を撃退したと思っていたのである。
 だがそれどころではなく、鬼女がいなかったら敗戦濃厚だったという。
 自分も苦戦していれば別だが、自分達は楽だったという事が怒りに拍車を掛けた。
 ただ、その根底にある物に、アスカは自分でも気付いていない。
 すなわち、仲間意識という四文字に。
 これが以前のアスカだったら、
「どうせ神崎が足引っ張ったんでしょ。ぼーっとしてるからよ」
 と言って嘲笑う位の事はしたかもしれない。
 自分でもよく分かっていない感情に包まれたまま、
「それでマリア、プレゼントってそいつなの」
「そうよ」
 頷くが早いか、アスカはミロクに掌を向けた。
「アタシ達を舐めたこと、あの世で後悔するがいいわ――!」
 アスカの手に巨大な火球が膨れあがったのを、マリアはすっと止めた。
「マリア?」
「待ちなさい」
「……」
 マリアの一言で、アスカの手が止まった。
 シンジのせいでだいぶ軟弱にはなっているが、まだまだ普通の娘が抗えるところではない。
 つかつかとミロクに近づいたマリアが、
「久しぶりね。私の事は覚えているかしら」
 刹那鋭い視線を向けたミロクが、にっと笑った。
「よーく覚えているさ。脇侍に追っかけられた小娘じゃないか。碇シンジと結婚したのかい」
「なっ!?」
 ぎくっと表情を変えたのは、当のマリアではなかった。
 無論、心当たりのある関係者達である。
「残念でした。私とシンジは何の関係もないわ」
「何の関係も?」
 大仰に首を傾げたミロクが、
「そいつは解せないねえ。あんたの口からそんな言葉が出るなんてね」
 今度はマリアが反応した。地雷を踏み掛けた事を知ったのだ。
「…っ」
 マリアが何か言いかける前に、すみれがすっと前に出た。
「解せない、とはどういう事ですの」
「何だいあんたは」
 どう見ても虜囚の態度ではないのだが、それを見ていたレニの表情が僅かに動いた。
 こっちは違う意味で表情を変えたすみれだが、何とか踏みとどまると、
「神崎すみれですわ。残念ながら、わたくし達マリアさんの事をあまり知りませんの。もしよかったら、教えて下さらないかしら?」
「別に大した事は知らないよ。ただ、その娘が碇シンジと腕を組んで歩いていたのを見ただけさ。少なくとも他人のふん――モゴ」
「そ、それ以上言ったらその首引き抜くわよっ」
(わざわざ墓穴掘らなくてもいいのに)
 声が上擦っているマリアを見ながら、内心で冷静に突っ込みを入れているのはマユミだったが、すっと剣を抜くとつかつかと歩み寄った。
「マリアさん、下がって」
「マ、マユミ?」
 一閃した手を見せることもなく、マユミが刀を鞘に収めた直後、ミロクを捕縛していた縄は地に落ちていた。
「…何の真似だい」
(マリアさん)
 マリアに任せたのは、言葉にせずとも通じている。
「行きなさい。捕まって無抵抗のあなたを殺したところで、何の意味もないわ」
「へえ、いいのかい。今の内に殺しておかないと後悔するよ」
「行けと言った筈よ。私に二度同じ事をいわせるな」
 マリアの全身からすうっと殺気が漂いだした。それはシンジには及ばぬ迄も、初な娘達が思わず身を固くした程のものであり、
「今度会う時にはお前の泣き顔を見せてもらうよ。覚えておいでっ」
 ミロクの姿が消えてから、マリアは静かに息を吐き出した。
 その気が、ゆっくりと元に戻っていく。
「さくら」
「は、はいっ」
「あたしがどうしてあの女を逃がしたか分かる」
「えっ?」
 不意の言葉に、さくらは狼狽えた。
 実を言うと、マリアが過去を思い出した事に関係あるのではないかと、ちょっと疑っていたのだ。マリアの様子を見るまでもなく、シンジとは相当親しかったらしいというのが分かる。
 実際の所、シンジを想う娘達は、ある程度分かってはいたもののやはり衝撃であり、思いはすっかりそっちに行っていたと言うのが事実である。
 不意にそこを突かれて思わず狼狽えたさくらが、
「い、碇さんの事ですか?」
「シンジがどうしたの」
「い、いえ何でも…」
「妙な事を思い出したのが嬉しいから、そんな事考えていない?」
「べ、別にあたしはそんな事っ」
「そう」
 頷いたマリアだが、次の台詞は皆の度肝を抜く物であった――若干名を除いて。
「その通りよ」
「…え?」
「久しぶりにあの頃の事を思い出したわ。だから逃がしたのよ」
「マ、マリアさん?」「じょ、冗談ですわよね?」
「冗談ではないわ。大真面目」
 マリアの言葉に、温かい筈の春の宵が、そこだけ急速に温度が下がったような気がした。
 
 
 
 
 
(つづく)

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