妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四十一話:その五精使い、現在妖縛され中につき
 
 
 
 
 
 舌を絡め合いながら、片手で相手を抱き寄せ、もう片方の手で乳と秘所を交互に責める。弄り合う相手のそこは、ねっとりとした愛液でびっしょりに濡れており、くちゅくちゅとかき回す手は、動かす度に指の間で糸を引いている。
 正当な持ち主が見たら赫怒しそうな勝負だが、同時に達する事三回を数え、下半身はもう崩れかけながらもまだ止めないのは偏に女の意地でしかない。
 どっちがここを占有するかという、当初の目的はとっくに過ぎている。無論、お互い処女だから本当の意味での快感は知らないし、達した事もない。
 もっとも、すみれの方は人知を越えた自慰による快楽を与えられた事で、記憶の中ではどんな体位でも得られない快感は知っている。
 とは言え、本体にその認識はなく、むしろ先に入り込んでオナニーに耽っていたさくらを、ハンディ付きで負かしていたぶってやるつもりだったのだ。これが自室ならまだしも、シンジの部屋とあっては絶対に許せない。
 一方のさくらにも、すみれの考えは伝わっていた。自分だって同じ事を考えて来たくせに、さくらは一度イッたから丁度いいなどと、まるで人を淫乱みたいに。
 半分腰砕けになりながら、ローションを塗ったマットの上で膝立ちに似た姿勢のまま全身を使って責め合う少女二人。普段なら決して口にしない淫語を、相手の耳元で囁き合い、これまでに見つけたお互いの弱い箇所を全身で責め立てる。
 要は性感帯なのだが、二人の辞書にまだその単語はない。
「は、早くイッておしまいなさい。も、もうこんなにびしょびしょにして…んくっ」
「あううっ…す、すみれさんこそ、こ、こんなにおまんこ濡らしてるのにぃっ…んむううっ!」
 クリトリスを指の腹で擦られ、一瞬下肢をびくっと震わせたさくらが、お返しとばかりにすみれの口を思い切り吸ったのだ。
 もう混ざり合った唾液が零れるのも気にせず、ぐちゅぐちゅと舌を嬲り、唾液を絡めていく。
(そ、そっちがそう来るなら…)
 残念ながら、キス勝負では自分に分が悪い事がはっきりした。ならば、分が悪いところで勝負する必要はない。
 淫核を擦り、摘み、表情が苦痛にならない範囲で指を押し込む。
 処女膜には触れないものの、さくらも自分も第二関節辺りで違和感があるのは分かっている。痛めつけるのではなくあくまでも快楽勝負――さくらの舌に絡め取られ、頭の中がぼうっとなってくるのを懸命に堪えて秘所を責める。
 さくらだってきつい状況なのは、とろんと溶けてきた目を見るまでもなく分かる。数度も同時に達していると、肌を合わせている相手の状況も何となく感じるのだ。
 擦り付け合った乳首で。
 或いは松葉崩しの体位でくっつけあった割れ目越しに。
 普通なら勝負にならない箇所の責め合いの筈だが、すみれがシンジのキスに開発されたせいで、普通より唇が敏感になっている事もあり、責め合いはほぼ互角であった。
 がしかし。
 一分後、勝負は着いていた。
 クリトリスを摘まれた次の瞬間、流れた愛液で湿っていたアヌスに指を突き入れられたさくらが、先に達してしまったのだ。
 アヌスが指を受け入れる寸前、呼吸を求めて二人が同時に離れてしまったのも大きかった。秒の時間ではあっても、さくらが一呼吸入れたのをすみれは見逃さなかったのである。
(あ、あたしが負けた…)
 さくらがこぷっと愛液を吐き出して達した数秒後、すみれもまた耐えきれずに後を追った。
 二人の間に言葉はなく、濃密な牝の匂いが立ちこめる室内に、二人の荒い息だけが響いている。
「……」
 涙は出なかったが、きゅっと唇を噛み、下着を手にして蹌踉たる足取りでさくらが部屋を出ようとした時、
「…お待ちなさい」
「…なんですか」
「今日の所は引き分けですわよ」
「え…?」
 怪訝な顔でさくらが振り向くと、すみれはすっとベッドを指した。
「次はきっと貴女だけ徹底的にイカせて差し上げますわ。でも…今日の所は口惜しいけれど引き分けよ。あなたが先でも、わたくしが数秒後では相打ちも同じ。使わないのならわたくしが一人で寝ますわよ」
 予想外のすみれの台詞に、
「あ、あたしも寝ますっ」
 走り寄ったつもりだったが、乙女の身には過ぎた快感だったらしくふらふらと蹌踉めき、これもかわしきれなかったすみれ諸共倒れ込んでしまった。
「な、何をやっているですのあなたは」
「す、すみれさんだって、全然避けなかったじゃないですか」
「こ、これはその…あ、あそこに力が入らなくて」
「あ、あたしもです…」
 全裸の乙女二人が、腰をがくがくさせている様など、親族その他関係者に見られたら一大事になりそうだが、顔を見合わせてくすっと笑うともそもそと潜り込んだ。
 しばらく背中合わせになっていたが、先にすみれの方が振り向いた。
「さくらさん、こっちを向いて」
「はい?」
 振り向いたさくらを、すみれはきゅっと抱き寄せた。
「す、すみれさんっ?」
「あなたでは、到底碇さんには及ばないけれど…で、でも居ないよりましですわ」
(?)
 何を言い出すのかと首を捻ったが、
「碇さんのお布団でも…ひ、一人では広すぎるもの…」
(すみれさん…)
「あたしも…こうやっていた方が誰かの体温を感じられるから…」
 さくらも腕を伸ばしてきゅっと抱き締める。
 全裸のまま抱き合ったはいいが、お互い散々責め合った後で、まったく後始末もしていない。自分達の匂いに気づくのに、数分とは要さなかった。
「あ、あのすみれさん…」
「何ですの」
「これ、明日の朝一番でクリーニングに持っていきましょうね。さっき…あそこくっつけ合った時に混ざった匂いとか…」
「どうしたの、急に?」
「え?」
「さっきはその…お、おまんことか沢山言ってたでしょう」
「あ、あれは…しょ、勝負だったから…す、すみれさんだってクリトリスこんなにいやらしくふくまらしてとか、粘っこい愛液をこんなに出しちゃってとか、い、言っていたじゃないですか」
「わ、わたくしだって勝負ですもの。多少の言葉責め位は当然でしょう」
「あたしだってそうです…つ、次は負けませんから」
「わたくしだって次は負けませんわよ。でも、次は対象を変えた方が良くなくて?」
「対象を変えるって?」
「わたくしとあなたと、どちらが勝っても一人でしょう。この部屋で一人は…広すぎるでしょう」
 さくらは無言で頷いた。
 シンジの布団に包まれ、いない筈の部屋の主に見られている妙に倒錯した感覚は、自慰の効果を高めはするものの、いざ一人で占領するには広いのだ。
 そう、自分の部屋と広さは変わらぬ筈なのに、だ。
 やはり、持ち主を持った部屋はその者がいないと、空虚なのかも知れない。持ち主とはその部屋を使用する権利を持った者の事ではなく、部屋に認められた主の事である。
「だからその…碇さんが帰って来られた日に、勝った方が碇さんと一晩ご一緒するの」
「す、すみれさんそれって初体…あう」
 ぽかっ。
「そ、そんな訳ないでしょうっ。添い寝ですわよ添い寝。大体、碇さんがわたくし達を本当に女として…あ」
 墓穴を掘ったのに気付いたらしい。
「その追求は止めましょうよ。悲しくなっちゃうし…」
「そうですわね…」
「二人にしましょうよ。一人だと、巣にカエレとか言ってぽいっと放り出されたりするし」
「…さくらさん、あなた妙に詳しいんですのね」
「べ、別にそんな事ありませんよっ」
「そういえば、この間あなたと織姫さん、碇さんの部屋で何をしていたのかしら」
「あ、あれは…あたし達記憶無かったって、すみれさんも知ってるじゃないですか」
「どうだか。まあ、わたくしは碇さんと別にお約束出来たから…っ」
 余計な事を。
「約束?ずっるーい、すみれさんこそ結構えっちじゃないですかっ」
「さ、さくらさんには言われたくありませんわよ。織姫さんと二人して、おっぱい丸出しで碇さんにくっついて、まったく信じられませんわ」
 ムカッ。
 この件に関しては、さくらの言う事に嘘はなく、ボン・クレーの策略とは聞かされていないが、自分達の知らぬ間に妖しい格好で添い寝しており、しかも起きて早々女同士で熱いキスをかます羽目になったのだ。
「よっくわかりました」
「あら、分かれば結構で…あんっ!?」
「碇さんの所には二人でしようがないですけど、それとは別にすみれさんとは勝負着けますっ」
 二人の声がくぐもったのは、すみれは快感からでさくらはその位置からであった。すっと潜り込んださくらが、無論露わなままのすみれの乳首をはむっと口に含んだのだ。
「や、やりましたわねこのっ、望むところですわよっ」
 負けじと潜り込むと、さくらと身体を入れ替えて尖ったままの乳首を口に含む。
 奇妙な体勢で互いの胸を吸い合う二人。
 妙に甘い声が聞こえてきたのはそれから間もなくだが、他の住人達が完全に寝入ってる中、この二人の夜はまだまだ長いらしい。
 
 
 
 
 
 黒瓜堂の主人が取っておいたのはビジネスクラスであり、値段(クラス)の為か他に客がおらず、空いた左右を一人で占有しながら、膝の上にあるフェンリルの髪を撫でている。
「フェンリル」
「はい?」
「分かってはいた筈なんだよ。力の事は旦那に言われてたんだ」
「何と?」
「力なんぞ恥じる事はない。んな事より、持てる物を使わない方が罪悪だって。でも俺は…結局分かってなかったの」
 指は動いているが、フェンリルの問いに答えると言うよりは独白に聞こえる。
「力を持つって事は、それだけ使い方も間違えやすいんだ。結局俺は…親に縁を切られる使い方しか分かってなかったんだ」
 確かに、感情としては家族を拉致された遺族の如く、常識や現実をまったく弁えず、尽力してくれた者への感謝すら忘失して叫びたいところではある――それが愚挙に過ぎない、と言うのを別にすれば。
 手負いの熊は戦闘力を数倍に増すかもしれない。そうなれば、倒すのも容易ではないだろうが、その熊とて冬眠中なら至極あっさりと倒せる。
 降魔が強大だった、と言うより手負いにする事で強大に為さしめてしまった、と言うのは事実だろう。そして、その原因を作ったのは真宮寺一馬なのだ。
 事実が知られていないどころか、一馬が身を以て降魔大戦を終結させたと、真宮寺家の残った者が厚遇を受けているのはいい。さくら達が冷遇されることなど、シンジとて微塵も望んでいないからだ。
 だが、本来なら自分は事実を知っていなければならないのだ。霊体すら断てる力を持つ者が、真実すら知らずに暴れるなど決して許される事ではない。
 黒瓜堂の主人や、一馬の話を総合すると、ゲンドウ達はシンジに事実を告げる事は託していかなかった。
 ただそれは、単に隠していたのではなく、この息子なら自分で探り出せる筈と、おそらくはそう踏んでいたのだろう。
 しかし自分は出来なかった。それどころか、もう少しで自分のケースなら決して許さぬ行為に出る所だったのだ。
 正直に言って、黒瓜堂の主人が来なければ、若葉諸共は不明だが、一馬は斬っていたに違いない。
 無論シンジにもミスはあるし、いたって平凡なポカをやらかす事はある。それでも、自分が同じ事をされれば絶対に許さないと、三秒考えれば分かる事を誤ったのがショックなのだ。
 吹雪が荒れ狂う平原の真ん中で、真冬に湯を吹き出させ、さあ温泉だと手を突っ込んだら、絶対零度の冷たさで手が凍った気がしたり、うだるような夏の古城で、零度の水をたっぷりかぶろうと思ったらいい加減のお湯で火傷したりとか、そんな事はさしたる事ではない。
 火傷したり凍傷に掛かったりしても、自分の存在自体の否定にはならないからだ。
 今回の一件も、普通に考えれば刹那の暴発は許容範疇内かもしれない――普通の人間であれば。
 それが許されないのが碇シンジという人間であり、五精使いという存在なのだ。
 ドゥーでもいいんじゃない、とそう思っていれば、どうしてわざわざ黒瓜堂の主人が来たりするものか。自分の持つ途方もない力に戸惑っていたシンジに、使っちゃえ使っちゃえと、繰り返し繰り返しひそひそと囁き続けた黒幕だからこそ、わざわざこんな僻地まで飛ばしてきたのである。
 はあーあ、と深いため息をついた主を、フェンリルは複雑な思いで見ていた。
 言ってる事は一応分かる。いわゆる、人間で言うところの矜持とかプライドとか、そう言った類の物なのだろう。
 人間など非力だが、特異な力を持った者となれば、その矜持も普通とは異なると言う事に違いない。
 がしかし。
 一時的な事だし、完全な人間など居ないと言っても、それは分かっているよと全然通じている様子がないのだ。
 シンジの落ち込みは、自分のした事と言うよりもむしろ、黒瓜堂の主人に言われて我に返った部分が大きいと分かるだけに、気に入らないのは余計に大きい。
 ただ、いきなり呼び出されて横になれと言われ、そっと髪を撫でられてる状態だから何も言う気になれないのだ。
 双方に微妙な知り合い程度の認識しか無いとは言え、シビウ辺りを相手にしたのとはまた違うが…同種の感情があるのは事実である。
 が、それは髪を撫でられている心地よさを捨てるほどのものではなく、一度きつく言っておかねばならないが、何時にしようかとぼんやりした思考の中で考えていた。
 と、その時不意にシンジの携帯が鳴った。
「ん?」
 いつも使っているのは黒瓜堂の主人に預けてあるから、この携帯の番号を知っているのは三人とおらず、メールを送ってきたのはその中の一人であった。
「君が寝ぼけた時は、頭から灯油でも冷水でも掛けて目を覚ましてくれる。あまり落ち込まない事です」
 差出人は見るまでもなく明白なメールに、シンジはくすっと笑って頷いた。
 住人達がシンジを大いに必要としているのとは違うが、シンジとて神でもなければ魔人でもない、一人の人間なのだ。
 妙なメールで癒されたりしても、別段異常な事ではない。
「全部お見通しってわけかい」
 内容と合っていない口調で呟いてから、
「ねえ、フェンリル」
 髪の感覚に陶然となっていたフェンリルが、
「ん…んむっ!?んんっー」
 シンジを見上げた途端、いきなり唇を奪われた。シンジからは初めてでないが、こんな形は初めてである。
 もう抗う事も舌を絡め返す事も出来ず、たっぷりと口内を愛撫されてからシンジが唇を離すと二人の間を透明な糸が繋いだ。
 ぼんやりしたまま、美しい指でそれを拭ったフェンリルが、
「マスター…?」
 濡れた瞳で見上げた。
「フェンリルにはいつも感謝してる。だから愛情表現」
「な、何を馬鹿な事をっ…」
 柄にもなく首筋まで赤く染めたフェンリルだが、シンジの様子が急に変わったのに気付いた。
 元に戻った、と言うより浮かれている感すらある。
(マスター?)
 何があったのかと疑問に思ったが、取りあえずシンジの中に消えて休む事にした。
 そうでないと…唇の感触と髪の感覚で、正常な思考が出来そうになかったから。
 シビウに聞かせて自慢してやろうと、企むほどの余裕もなかったのだ。
「マスターおやすみ」
 普段より早口で告げた従魔に頷いてから、
「さて、パリの姉貴にはお土産でも買っていくかな」
 少しご機嫌な声で呟き、シンジも目を閉じた。
 
 
「まったく…二人とも一体何を考えているの。うちはレズ物のAVビデオを撮影する現場でもAV女優の育成場でもないのよ」
「すみません…」「わ、分かってますわ…」
 一旦終戦し、偽りの温もりを求めて肌寄せ合った二人だが、些細な事からまた開戦した。
 しかし、都合四回も達した乙女二人にそれ以上の体力は残っておらず、一向に起きてこない二人に、まさかと部屋を訪れたマリアが見たのは、全裸のまま、妙な体勢で互いの乳首に唇を付けて眠るさくらとすみれの姿であった。
 他の住人達が興味を持たなかったのは、彼女達に取っては僥倖だったろう。
 これが、さくらかすみれの部屋ならただのレズで話は済んだが、場所はシンジの部屋であり、室内に残る濃厚な、それも絡み合った匂いにマリアの第六感はすぐ事態を見抜いた。
 たたき起こしたが、頬を張り飛ばすのは何とかおさえ、正座させて詰問すると、寝入ったのは三時近くだという。
「だ、だけど最後のは別にイかせ合いじゃなくてその…なんて言うか…」
「お黙りなさい」
「は、はいっ」
(じゃ、三時近くまで人の部屋に入り込んでイかせ合いとやらをしていたわけね)
 そう言いかけたのは、取りあえずおさえた。
「まったくあなた達は…」
 こんなのが他の人に見られたらどうするのだとか、女同士で何て破廉恥なとか、言いたい事はいくらでもあったのだが、ふとその表情が止まった。
(シンジだったら…)
 専政君主みたいなシンジだが、目下住人達の信頼が絶大なのは間違いない。そのシンジだが、嫌煙の仲だったアスカとすみれに説教などしていないし、あっさりぬいぐるみを手放させたアイリスにも、強制したり物で釣ったりはしていないようだ。
 いわば、常識的に物事を進めてはいないのだ。
 シンジなら何というかと思った時、自分の考えた事を、シンジは決して言わないと気付いた。
「まあいい。でもここは俺様の部屋。無断侵入と愛液・唾液のクリーニング代としてアンタ達一週間おやつ抜き」
 と言うのが可能性としては高いが、この二人に取っては絶大の効果だろう。下手したら数キロのダイエットになりかねない。
(結局…私じゃ凡庸って事よね)
 自嘲気味に呟いてから、
「もういいわ二人とも。でもね、ここの住人は私を含めて三人だけじゃないのよ。それも少しは考えてね」
「ご免なさい…」「わ、分かりましたわ…」
「分かってくれればいいわ。さ、二人の分もパンは用意してあるから。軽くお風呂に入ってから食べなさい。愛液と女の匂いが混ざり合ってると、結構きついわよ」
 くすっと笑ったマリアに、二人が顔を真っ赤にして立ち上がり、走るようにして出ていった後、
「まったくこれ…どう始末すればいいのよ…」
 小さくため息をついてから、
「シンジ…これで良かったのかしら」
 ふっと宙を見上げると、そこにはこの部屋の主の顔が浮かんでおり、それが頷いたのを見たマリアは、
「さ、早めに始末しないとね」
 家事を覚えたての主婦の如く、ぱたぱたと片づけ始めたところへ、
「マリアさんっ!」
 ドアを蹴破るようにしてマユミが飛び込んできた。
「どうしたの」
 考えられるのはアスカとすみれの喧嘩だが、すみれはさくらと入浴中の筈だ。
 まさか侵入者かと、表情の引き締まったマリアだが、一瞬自分の耳を疑った。
「碇さんがテレビに出てます」
「シンジがテレビに?」
「そ、それが…仙台発関空行きの飛行機がハイジャックされて、乗客名簿の中に碇さんの名前がっ」
「何ですってっ!?」
 マユミの言葉を聞いた途端、マリアはとんでもない事態になったのを知った。
 単なるハイジャックなら、シンジの乗った機体を狙ったのが運の尽きねと笑い飛ばすのだが、事件が解決していないと言う事は、シンジが何らかの理由で犯人を焼却、乃至は始末していないという事だ。
 ガムテープで目隠しと口封じをされた所で蹴り起こされても、シンジなら数秒で片が付く。
 それが出来ていないと言うのは…。
 マリアの顔からすうっと血の気が引いていったが、
「さくらとすみれは風呂よ。すぐに…呼んできて」
 何とか気丈な声で告げた。
「は、はいっ…」
 慌ててマユミがすっ飛んでいく。
「シンジお願い…無事でいて…」
 唇を噛んで十字を切ってから、これも部屋を飛び出した。愛銃は部屋に置いてある。
 自分なくとも花組は十分持つが、シンジなくては行く末など目に見えている。
 銃を片手にマリアは駆けつける気であった――喩え、場所が何処であろうとも。個人の感情を抜きにして、シンジは欠かせない人物なのだから。
「マリアさん、随分と変わったわね」
「ええ…なんか、愛液とか普通に言っちゃってるし…」
 変わったのは良い事だと思うが、原因は一つしか考えられないだけに、二人は少し複雑であった。
「でも、マリアさんがその気はないと言ってるし。それと勝負の事は置いておいて、取りあえず夜は二人で占領しちゃいましょう…さくら」
「え!?」
 初めての呼称に一瞬度肝を抜かれたが、これもすぐにくすっと笑って応じた。
「そうね…すみれ」
 どちらかともなく伸ばした小指がきゅっと絡まった瞬間、
「二人とも呑気に入ってないですぐ来て下さいっ」
「マユミ?一体どうしたの」
「どうしたもこうしたも、碇さんの乗った飛行機がハイジャックされたの。飛行機は福島空港に緊急着陸したままよ」
「『なんですって!』」
 こちらは揃ってピンと来た。
 シンジが居ながら事件は終わっていない…刹那顔を見合わせると、すぐに勢いよく立ち上がった。
「分かったすぐに行くわ」
「マユミさん、アスカ達は」
「今呼んできますっ」
「そうね、そうしてちょうだい」
 ブラとパンティが濡れた体に貼り付くのも気にせず、服を着るのももどかしげに二人は浴場を飛び出した。
 数分後、血相を変えて広間に集まった住人達に、マリアは自分が現地に向かうと告げた。
 想像したくはないが、シンジに緊急事態が起きているに違いない事と、エヴァなど使えないから自分が向かうと言ったのだ。
 無論、皆反対した。
 危険過ぎるし、第一、ハイジャックされた機体にどうやって侵入するというのだ。
 だが、
「百名の部下に守られた麻薬組織のボスを射殺するより簡単よ」
 この言葉に、皆が言葉を失った。
 マリアは今まで自分の過去を語った事はなく、まして人を殺した等という事は欠片程にも告げた事はない。
 そのマリアが、自分は人を殺した事があるとはっきり告げたのだ。
 その上で、
「もしこれが逆なら、私の為に命など賭けちゃ駄目よ。でもね、今シンジに万一の事があったら花組が…いえ、帝都がどうなるか分かるでしょう。その時、帝都を守れる者はいないのよ」
 穏やかな表情で、噛んで含めるように皆を見回した。
「レニ、悪いけど一緒に来てくれる」
「分かってる」
「どうしてレニなんです?行くならあたしだって…」
「シビウ先生の手が入っているからよ。それにさくら、あなたじゃ人は殺せないわ」
「マ、マリアさん…」
「それに、花組の斬り込み隊長が怪我でもしたら大変でしょう。さくら、ここで待っていて。レニ、行きましょう」
「うん」
 マリアは詳細を知らないが、言った事は事実であり、レニも自分の能力は聞かされて分かっている。まだ人間を処分した事はないが、シンジに危害を加えたであろう者達を殺すのに、躊躇する気は微塵も無い。
 だが、精鋭二人が女神館を出発する事は遂になかった。
 二人が玄関へ出た時、姿を見せたのはフユノであった。
「ご、御前様」
「マリアもレニもお止め。行くだけ無駄じゃ」
「御前様…」
「今は真昼の陽光が支配する時刻(とき)…戸山町の住人達は身動きが取れぬ。今シンジを救えるのは――」
「救えるのはっ?」
「黒瓜堂とその配下だけじゃ。あの者達に無理なら、シンジの命運も尽きたという事じゃ。お前達が行っても屍を晒すのみ、ここはあの男に任せよう。主人は普通でも、配下の者達ならば容易く助け出せよう。二人とも、帰ってきたシンジに心配を掛けてはいけないよ。さ、部屋にお戻り」
 ここの者達に取って、フユノの存在は絶対であった。
 そして、その言葉もまた。
 一言も抗うことなく、肩を落として戻っていった二人を見送ってから、
「おそらく…いや、間違いなくシンジは精(ジン)を封じられておる。この役立たずでは何も出来ぬ…済まないが、頼んだよ」
 目を閉じたまま、北の空に向かって呟いた。
 
 
「がーっはっはっは!おーもしろい事になったジャなーい!楽しみよねーい!」
 くるくる回るオカマに、
「ボン・クレー、楽しそうだな。ハイジャックの記事でも集めているのか?」
「馬鹿ねい、豹太。あの坊やがいる以上、ナーニしてるのか知らないけど、強硬策なんて取れないじゃナイ?つまり、誰かに変装して中に入るのよう、変装ー!つまりあちしの出番って事よーう!がーっはっはっは。イーイ黒ちゃん、あちしを放っておいて犯人皆殺しなんて許さないからねーい。奴らを皆殺しにするのはあちしよーう!」
 かなりハイテンションのボン・クレーを見て、
「ストレスでも溜まってるの?」
 テレビを見ながらキーボードを叩いていた祐子に小声で訊いた。
「お嬢様のお守りばかりじゃ疲れるでしょ。そんな事よりオーナーが、自分で行かなきゃいいんだけど…私がいないから“戻れない”し」
「それは…あるまい。第一、オーナーがあんな場所で使ったら乗客まで全員死亡しかねない。いくらオーナーでもそこまではされない筈だ」
「だといいけれど」
 この娘がいないと戻れない、とは何を意味しているのか。また乗客まで全員死亡しかねないとは、一体彼らは何を気に掛けているというのか。
 ちょうどそこへ電話がなった。
「はい黒瓜堂です。オーナー今どこに…え?はい、分かりました。ボン・クレー、オーナーからよ」
「黒ちゃんから!?」
 受話器を取ったボン・クレーが、
「もしもしィ、モッシィ?あーちしよーう、あちしィ!黒ちゃん今そっちにイクからぜーったいに待って…え?来なくてイイ?ヒョウ柄を使う?ちょっと待ちなさいよーう!あちしがいながらドゥーいう…あっ!」
 途中で切れたらしい。
「ちょっと黒ちゃんドゥー言う事なのよーう!!」
 楽しみを取り上げられた子供みたいに、地団駄踏むボン・クレーを見て、二人はそっと顔を見合わせた。
 
 
「ボン・クレー、怒ってるわよ相当」
「そうでしょうね。しかし時間がない。本来なら私が行くところなんですが」
「止めなさいって。あの娘がいないと、あなた戻れないじゃない。乗客乗員全員皆殺しなんてなったら、いくらあの坊やの関係者でも隠しきれないわよ」
「分かってる。だから君を使うんだ。あまり気乗りはしないが」
「もう、一言余計なんだから。それで、内部の状況は?」
「警察無線の傍受で、機体を北朝鮮へ向ける事と、現金五億円の要求は分かっている。それと、犯人は七人だ」
「七人?それも分かってるの」
「いや、さっきシンジからメールが来た。どうやら縛妖の道具で縛られているらしく手だけで、それも見ないで携帯を使ったから、だいぶ文字化けしていたが超訳して判読した」
「超訳?シェルダンじゃあるまいし、本当に大丈夫なんでしょうね」
「大丈夫。福島空港に止まっていた機体を避けて着陸したから、衝撃で数人が怪我をしたらしいが後は無事らしい」
「でも縛妖の道具って…どうしてそんな物持ってるのかしら。まさか、最初からあの坊やを目当てに?」
「だとしたら、そうとうイイ度胸って事になる。私なら死んでもしませんよ」
「まあいいわ。取りあえず行ってくる。緋鞘は?」
「手配済みです――緋の大天使は」
 狂気を身上とし、マリアを封じて作った棺は、院長抜きとは言え、シビウ病院の全力をあげても十数時間微動だにしなかった。
 ありとあらゆる物の摩擦係数を狂わせ、そのある位置から転倒せしめる技量と――そして狂気を持つ男。
 その男をハイジャックの現場に呼び寄せて、一体何をしようと言うのか。
 が、
「さてと、これで良し。後はウチの店員達に任せておきましょう」
 ふわあ、と伸びをした黒瓜堂の主人の顔に、緊張の色は欠片も見られなかった。
 
 同時刻。
 
「いやー、参ったわ。まさか対能力者用の道具を積んでて、おまけにそれが使われるとはねえ」
「マスター、何を悠長な事を」
 犯人グループが何をしでかしたのは知らないが、ともかくこの機体はハイジャックされ、要求は北朝鮮行きだという。
 本来なら、一分と立たずに全員炭化させて終わりなのだが、昨今能力者、つまり霊力や妖力を備えた者によるハイジャック未遂事件が発生し、航空会社も見合った対応を迫られた。
 とは言え、能力者を雇うとコストがかさむ為、手っ取り早いのは縛妖の道具を備える事であった。
 簡単に言えば、霊能力者や、シンジのように精(ジン)を使う者は、これがほんの少し触れただけでも身動きが出来なくなる、とてもお買い得な道具である。
 取り押さえる犠牲も要らないし、訓練の手間も必要ない。ただ、小さく切った物をぶつければいい。
 それだけで、相手はまったく身動きが取れなくなる。
 無論、シンジに取っては致命的であり、何とか携帯からメールを打ったのは、壮絶なまでの精神集中の結果である。
「フェンリル、悪いけどもう限界だ。これ以上会話すると本当に逝きそうだわ。精神集中してれば精は抑えられる。精を抑えればどうってことない、ただの鬱陶しいガムテープだ。後は旦那に任せるよ。じゃ、お前もお休み」
(……)
 フェンリルが何も言わなかったのは、シンジの声が結構切羽詰まっていたからだ。
 おそらく、本当に限界なのだろう。
(マスター許して…)
 きゅっと唇を噛んでから、フェンリルもすうっとその姿を消した。
 現在、ハイジャックされてから一時間と三十分が経過している。
 なお、外の動きにまだ変化は見られない。
 
 
 
 
 
(つづく)

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