妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第百四話:ヌード×拉致×危険な助っ人(後編)
 
 
 
 
 
「シンジが追われているとな?」
 フユノがその一報を聞いたのはリムジンの中であったが、僅かにその表情が曇った。
 別にシンジが追われている事ではない。心配など微塵も要らないし、むしろ追っ手の方を心配するべきである。
 フユノが思ったのはただ一つ、シンジは自分に連絡して来なかったのだ。シンジからの連絡があれば、すぐにでも追っ手などは止めさせて見せるが、頼まれてもいなければ余計な事は出来ない。
 シンジから何の連絡も無いというのは二つ理由が考えられる。
 一つには連絡を取る手段がない、と言う事態であり、そしてもう一つは…する気がないと言う事だ。
「御前様、若のお体に何かあっては一大事です。すぐにでも人数を行かせますが」
 既に車載電話へ手を掛けている黒服に、フユノは軽く首を振った。
「良い」
「はっ」
「その気になれば、空に火文字を描いてでも連絡してこよう。それがないのはおそらく…儂になど用がないからじゃ」
「仰せの通りに」
 同乗している男達も、シンジとフユノの一件は知っており、それ以上余計な口を挟むような事はしなかった。
「それにしても」
 と、フユノは澄んだ青空にちらりと目を向けた。
「まだ雪も幾分は残っていよう、儂の孫に手傷など負わさねばよいがの」
 平凡な老人の呟きだが、それが何を意味するかを十二分に分かっている男達の背を、一瞬冷たい物が走り抜けた。
 
 
 
 
 
「ところで紅蘭、一つ訊いていい?」
「なんです?」
「すこうし寒いんだけど、何で窓空いてるの」
「窓が開いてる方が空気を感じられてすっきりするんです。別にウチは平気やけど碇はんがそう言われるなら閉めますわ。でも、碇はんも寒さには案外弱いんやね」
 くすっと笑った途端、車体は大きくラインをはみ出した。
 にゅう、と伸びたシンジの指が、むき出しの真っ白な太股をつうっとなぞったのだ。
「ひゃあっ!?」
 びくっと身を反らした紅蘭が、
「い、碇はん何するんですっ」
「真っ白でいい脚してるなあ、と思って。さぞ鍛えてるんだろうねえ〜」
 次は二本指がその上で円舞を開始し、
「い、碇はんあきません…や、止めっ、あうっ」
 微妙な指の動きが正確な官能を描き出し、みるみるそこを基点にして身体がうっすらと色づいてくる。
 それでも何とか必死にステアリングを握り続ける紅蘭に、シンジは邪悪な攻撃をかけ続け、
「あううンっ」
 と、何とも色っぽい叫びと共に手が離れた瞬間、ごく当たり前のようにステアリングに手を伸ばした。上半身を反らした紅蘭だが、ぎゅっと力の入った脚は思い切りアクセルペダルを踏みつけ、みるみる車が加速していく。
 路肩に雪の残る今日だからいいようなものの、これが普通の平日なら名物の渋滞に特攻をかけてたちまち大衝突を起こすところだ。
「危ないなあ、もう」
 自分の仕業など忘れたかのような口調で言うと、シンジは紅蘭の足下に向かって指を向けた。
 と、それがいかなる働きをしたものか、紅蘭のつま先はすっとアクセルから離れたのだ。それと同時に手を伸ばし、ひょいっと自分の方に紅蘭を抱き上げた。
「い、碇はんあかん、ぶつかるわっ」
「大丈夫」
 さっと運転席に自分が移ると、ちょうど壁に向かってディープキスを一気に迫ろうとしていた車をきゅっと引き戻した。
「紅蘭はそっち。ちょっと大人しくしててね」
「い、碇はん…」
 異性からの初めての快感に顔を紅くしていた紅蘭だが、その顔に不安の色が急速に広がった。
「ウ、ウチをこのまま捕まえる気やの…?」
「そう言う予定はとりあえず無い。お前だけ引き渡しても構わんが、俺が楽しめないだろうが」
「碇…はん?」
 最初に会った時から、紅蘭が持ったシンジの印象は、人当たりのいい柔らかい感じの人やな、と言うものであった。
 そしてそれは変わっていなかった――たった今までは。
 だが横にいる青年が、何故か別の人物に変貌したような気がして、紅蘭が思わず隅に身体を寄せた時、
「ん、大体分かった」
 分析レポートを読み終えた科学者みたいな声で言うと、シンジは軽くアクセルを踏み込んだ。
(まさか!?)
 底抜けな程の明るさが持ち味の紅蘭も、愕然とした表情を隠せなかった。
 この車は元々ハイパワーではなく、素直な四駆が持ち味なのだ。
 が、自分があれこれいじった結果、瞬発力やボディ剛性は付いたものの、当初からあった素直さは消えてしまった。車にハイパワーを求めて改造したりすると、その代償としてよくある事だ。
 改造主の自分がまだ手懐けきっていないこの車を、数分ステアリングを握っただけでもう分かったと言うのか!?
 羨みを通り越して、嫉妬にも似た感情がわき上がり、その色を瞳に湛えたまま紅蘭がシンジを見た時、シンジの肩がプルプルと震えた。
「ん?」
 貧乏揺すりにしては妙だと思ったら、シンジが懐中から携帯電話を取り出した。どうやら、バイブレーションの過剰反応だったらしい。
「もしもし〜、どなた〜?」
 ひょんひょんした声に、一体どれがこの碇シンジなのかと、紅蘭は内心でひそかに首を捻っていた。
「あ、あのレニです」
「レニ?ああ、どうしたの?」
「ど、どうって、そ、そのシンジが急に居なくなっちゃったから…」
 さらわれたなんて言うんじゃない、レニの本能はそう告げており、シンジの声を聞いた途端、やっぱり拉致などされていなかったのだと知った。
 レニがスイッチを入れて全員に聞こえるようにしたところで、
「そうだ、ご飯作ってなかったね。悪いけどマリアに、みんなを連れて“SHAMROCK”に行くよう伝えてくれる。財布はなくても大丈夫だから」
「あ、あのそうじゃなくてシンジ、い、今どこに?」
「どこって首都高環状線。これから安房の国へ遠征するとこ――ん?」
「ど、どうしたのっ」
「いや、何でもないよ大丈夫」
 シンジの声は変わっていなかったが、僅かに違和感を感じて目だけ動かしたシンジは上空にヘリが接近しているのを知った。
 物好きな新聞社か、あるいは業を煮やして警察がヘリの投入に踏み切ったか、どのみち目当てが自分たちである事にほぼ間違いはあるまい。
「ところでレニ」
「はい?」
「なんで電話してきたの」
「え…だ、だってシンジがどこに行っちゃったのかなって心配だったから」
「本当に?」
「う、うん」
 電話など片手間のシンジは、電話機の向こうでぎくっと身体を強ばらせた娘がいる事など知りもしないが、
「レニは嘘言わないからいいとして、ちょっとアスカに替わってくれる」
「分かった、今替わるから」
「もしもし、あたしだけど」
 替わって電話に出たアスカに、
「おはよう、昨日はお疲れ。胃は痛くない?」
「昨日のあれ?あたしがあれくらいでおかしくなる訳ないじゃないの。まったくもってピンピンしてるわよ」
「それは良かった。それはそうとアスカ、俺がいないって何時知った?」
「あ、あたしは朝起きてきたらだけど」
「俺が起きた時には寝てたね。で、誰になんて訊いたの?」
「だからすみれにあんたがいなくなったからって」
「ふーん。一応念のために訊くんだけど、俺が拉致されたとか思ってるのはいないよねえ?」
 びっくうっ。
(ほほー)
 電話機越しに伝わる雰囲気は、シンジが一瞬にして起きた事を把握するのには十分であった。だいたい、住人達の性格を式に当てはめれば、答えを出すのはさして難しくないのだ。
「まあいい。アスカやすみれじゃあるまいし、俺が拉致されたとか何とか言って大騒ぎしたり、ましてや揉めたりしてるのがいたら温泉の刑だ」
「お、温泉?」
「温水プールに放り込んで、温水を熱湯に変えてあげる」
「な、何言ってるのよ、そっ、そんな事であたし達が揉めるわけないじゃないのっ」
「そう。それならいいんだけどね。ところでそこにマリアいるね、出して」
「う、うん」
「何か用?」
 素っ気ない口調だが、マリアにはシンジの台詞がある程度予測できていた。
 そして案の定、
「アスカとすみれ辺りは俺が拉致されたとか何とか言って揉めたな。マリア、なんて言って収めた?」
(やっぱり気づいてたわね)
 無論それは口にはせず、
「決まってるでしょう、シンジが認知を迫った娘を逆拉致したって言ったのよ」
 言うと同時にスピーカーのスイッチをオフにしたのは、これもシンジの反応が読めていたからだ。
「ナヌ?」
「シンジが拉致されるより、遙かに信憑性の高い発想でしょう。それとも、まったく別の用件かしら」
「…当たり前だこのバカマリア」
「定冠詞にバカが付くあなたに言われたくないわね」
「お前なんか帰ったらプールの底に沈めてやるから、身体洗って待ってろ」
「相変わらず言う事が変態的ね。やれるものな――」
 言いかけてから気が付いた――全員の視線が自分に、そして中でも数名は疑惑の視線を自分に向けていることに。
 咳払いして、
「下らない事を言い合ってる場合じゃないのよ。シンジにお客さんよ」
「客?誰?」
「相田ケンスケと名乗っているわ。迷彩服とモデルガンに身を包んで駆け込んできたけれど、あなたの知り合い?」
「うん知り合い。あ、そうだマリア」
「なに?」
「原因はケンスケだから。アスカとすみれにボコボコにしとくように言っといて。それから――」
「?」
「あまり騒がせないでね」
「…分かってるわ」
「じゃ、そっちは頼んだよ。じゃあね」
 一方的に通話は切れたが、マリアはすぐには動けなかった。
 シンジがどこに居るのかは分からない。多分レニに言ったとおり首都高を走っているのだろうが、少なくともこの場にカメラなど仕掛けてはいるまい。
 にもかかわらず…シンジはここの状況を的確に言い当てた。
 騒がせるな、とは無論文字通りの騒音ではないが、その意味が伝わらぬほど、マリアは鈍感でもないしシンジとの付き合いが浅くもなかった。
(でも私は止めるのがせいぜい…所詮この程度ね)
 自嘲気味に内心で呟いた時、
「ん?」
 がしっ。
 振り向くと、どこかの大国の首脳同士よろしく、握手してるアスカとすみれの姿があった。どうやら、シンジの台詞に本能が危険信号を発し、お互い即座に仲直りする気になったらしい。
 とは言え、これも自分では到底及ばぬところだと、内心で小さくため息をついたマリアに、さくらが遠慮がちに声を掛けた。
「あの、マリアさん…」
「何?」
「その、碇さんはなんて言われたんですか?」
「住人達の平和的待機に期待している、ですって。相変わらずろくな事を言わないんだから」
「は、はあ」
「それからアスカとすみれ」
「『え?』」
「あなた達が諍いを起こした事実などはない、とそれでいいのね」
「も、もちろんよっ、あ、あたしたちが喧嘩なんかするわけないじゃない。ね、ねえすみれっ」
「そ、そうですわよ。そ、そんなつまらない事で喧嘩なんかしませんわよ。で、でもどうしてマリアさんがそれを気にされるんですの?」
「…どこかの無責任な管理人が私に責任負わせるとか言ったのよ。帰ったら屋根から逆さ吊りにしてくれるわ。それからあなた、相田ケンスケと言ったかしら」
「お、俺?」
「どうやらシンジが走り回ってる原因はあなたにあるようね。アスカ、すみれ、シンジからの伝言よ――原因を袋だたきに、と」
「シ、シンジがっ!?シンジ裏切ったな…紅蘭と一緒で俺を裏切ったなー!」
 げしっ。
 一撃で黙らせてから、
「こいつ今、紅蘭とか言ったわよね。じゃあつまり…シンジは女と一緒ってことなのよねえ」
 ピキ。
 アスカの台詞が起爆剤になったかのように、数名の顔に危険な色が浮かんだ。
「碇さん…やはり女の人と逃避行を…」
「碇さんを誑かすとは断じて許せないでーす」
「アイリスの方がおにいちゃんのこと大好きなのにぃ…」
 別にそう言う問題ではないし、第一逃避行などと口にしたのをシンジに聞かれたら、身の安全は保証されないのだが、やや勘違いも入った怒りの矛先は、すべて吊されている男に向けられた。
「自分が女の一人も管理できないくせに、あまつさえシンジのせいにして女神館に討ち入り掛けるとはいい度胸じゃない。あんた、たっぷりあの世で反省させてあげるわ」
「……」
 かく、とケンスケが首を折って失神したのは正解だったろう。
 危険な炎を背後に帯びた戦の女神達の姿に、精神が保たなかったのである。
 袋だたきだ、と怪気炎を上げる住人達に、
「もういいわ。それにあなた達に任せると危険域まで達しそうだから。それよりレイ、お腹空かない?」
「見れば分かるじゃん。なんでボクがイベントに参加しないと思ってるのさ」
「ならば決まりね。さ、あなた達も物騒な代物振りかざしてないで、食事に行きましょう。シンジも食事に行くように言ってたから」
 シンジはああ言ったものの、何となくしない方がいいような気がして、マリアは住人達を送り出してから自分も出たが、
「想いなど無縁の存在――では何故痴情の縺れになど付き合ったのかしら」
 呟いた声は何故か、妙に昏いものであった。
 
 
 
 
 
 後ろからは相変わらずパトカーが追ってくるが、その距離が一定に開き始めたのをシンジは知った。
 しかも、既に連絡が行っている筈なのにもかかわらず、ゲートでは二人が乗った車をすんなりと通したのだ。
(はて)
 首を傾げたシンジだが、その理由はアクアラインに入った途端、明らかになった。
 もとより半分くらいがトンネルになっているこの道路だが、上空のヘリが突如銃撃を加えて来たのだ。
 おそらくこのルートを閉鎖し、発砲してきたのでやむなくとか何とか言って、曖昧なまま葬る気だろう。十数台のパトカーがやられたこともあって、プライドがいたく傷付いたのに違いない。
 ひょいひょいとかわして行く動きに、紅蘭は一度は悲鳴をあげたものの、
「碇はんあかん、横向くわっ」
 自分が普段乗っている時は、間違いなくアンダーが出るような動きにもかかわらず、リアから滑らせていったシンジの動きに、一切の口出しは止めた。その代わりに、ぎゅっとシートの両端を掴んでいることにしたのである。賢明であったろう。
 車体には一発の銃痕も残さず、トンネル内へ逃げ込むと当然のように上からの銃撃は止んだ。
 がしかし。
「碇はん、撃って来たでっ」
「そうだねえ」
 今度はパトカーの窓から銃撃が加えられ出したのだ。空と陸、両方から挟み撃ちにする気らしい。
「あのさあ紅蘭」
「何や?」
「前の車がいきなり火を放ってきたら、普通はなんと思うかな」
「何って…普通は火炎放射器とかとちゃうの」
「あー、そう言う手があったか」
 妙な所で感心してるシンジに、後ろを一体どうする気だと不安になったが、シンジの思考はそんな所にはなかった。
 銃撃を受けている最中に、シンジの武器を何だったと発表する気なのかと考えたのはいかにもシンジらしく、そして、紅蘭が言った火炎放射器とは、確かに的を射た発想であった。
「片づけるのは楽。でも邪魔したって怒られそうだからな〜」
「何です?」
「ううん、何でもない。ま、日本の警察官じゃ銃撃戦なんかろくに経験してないし、こっちの火が怖いから近づいて来ないしね。紅蘭、これもっとスピード出る?」
「碇はん、これ以上出したらボディが保ちまへん。だいたい、これだってもうリミッターぎりぎりなんやから」
「車たるもの、二百キロは普通に出ないと車じゃないの知らなかったの?」
「そないこと、誰が言うたんです?」
「うちのねえ様。しようがない、このまま突っ走るか」
 言った途端、窓のすぐ横を銃弾がかすめ、思わず小さな悲鳴を上げた紅蘭に、
「降参してみる?」
「碇はんにお任せします」
「あっそ。じゃ、絶対投降拒否だ」
「そう来なくっちゃ。ほな碇はん、行きまひょ」
「ラジャ〜」
 ふにゃっとアクセルを踏み込んだシンジだが、
(この車そんなに保たないな)
 紅蘭が色々改造はしても、丁寧に乗っていることに気づいており、限界近い運動を強いている車体とエンジンが、もうすぐご臨終を迎えるであろうことも感づいていた。
 二人の頭上で、凄まじい音が聞こえたのはその数秒後のことである。
 
 
 
 
 
「こんないい天気に出動を要請するとは、やはり今度は半裸の写真でも撮って姉に売りつけねばならん。まったく傍迷惑な」
 先だって、シンジに送りつけた学生服は密かに回収され、危険な姉が法外な高値で買い取った。
 もっとも値を告げたのはアブナい姉の方だから、必ずしも法外とは言えないかもしれないが。
 本人に聞かれたら周囲ごと焼き尽くされそうな台詞を口にしてから、黒瓜堂の主はちらりと空を見た。
 爆音が近づいて来たのである。
「警察のヘリに機銃搭載してお出ましとは――相当熱い目に遭ったな」
 さして興味もなさそうに言うと、手元のリモコンを取ってボタンを押し、車の中へと向けた。車の天井がゆっくりと左右に割れ、中から顔を見せたのは、ファミリーカーには明らかに不釣り合い過ぎる砲口であり、それは燻した獲物が飛び出して来るのを待つ狐のように飛行するヘリへと向けられていた。
 標的が捕捉され、ヘリが真ん中にピタリとロックされる。
「昨日の雪で身体は冷えている筈だ。出迎えには熱い一発を」
 ある意味危険な台詞を呟くと、リモコンのボタンを押した。
 避ける間もあればこそ、砲弾の接近すらヘリは気が付かなかったかもしれない。あっという間に空中で大爆発を起こし、炎上するのを眺めながら、
「後はパンダ狩りだが、出向き代と弾で大赤字だ。やっぱり半裸じゃなくてメイド服にしよう」
 パンダとは白黒に塗装された警察車両の揶揄らしいが、後半は別に碇家本邸のメイドを寄こせ、と言う意味ではない。
 あくまでもシンジに着せる服だが、その危険度によって値段が高騰したり暴落したりすることを、自分も危険なこの男は分かっているらしい。
 しかし…碇シンジに女装させ、あまつさえそれで儲けようなどとは、世界中を探してもこの男くらいしかいないに違いない。
 シンジ達が聞いたのは、この時の音だったのである。
 
 
「い、碇はん今の音は…」
 さすがに不安そうな表情を見せた紅蘭に、
「追ってきたヘリが片づいたんだな、多分。でも、いくら何でも出てくる機体を知って爆弾仕掛けるわけはないから――」
 んー、と首を傾げてから、
「撃ち落としたかな」
 と呟いたのは、内心だけにしておいた。隣人の事を考えたのだ。
「多分ポールにでもぶつかったんだな。あ、それから紅蘭」
「はいな…え?」
 シンジの手がすっと伸び、その指が瞼を軽く撫でた途端、紅蘭は首をかくんと垂れていた。強制的に眠らせたのである。
「貴女も女神館の住人達と変わりません。そう、普通の人なんですよ。とは言え、この後の光景を見て錯乱されても困りますから、少し眠っていてください」
 不意に、車内の空気が危険な物に変わった。
「何を使ったかは知りませんが、ヘリを撃ち落とすとはさすがに僕が頼んだだけのことはあります。依頼した甲斐がありました」
 状況を楽しむかのような口調に、後ろへの危機感は微塵も感じられない。
「後は、後ろの人達を片づけておいて下さい」
 部屋の片づけ、みたいな台詞と共にステアリングを握り直した。
「貴女ではこれが限界でしょう。でも、この車の速さはその程度ではないんですよ」
 シンジの言った言葉は嘘ではなかった。
 事実、次の瞬間車が咆哮したのである。エンジンが凄まじい唸りを上げ、それはまるで別の車のエンジンに積み替えたようでさえあった。
 一気にギアを落とし、レッドゾーンまで針が上がっても、急激にダウンする空虚感が訪れることはなく、これが最高と言っていた時のスピードに数十キロを優に加えたのである。
 文字通り爆音とも言える音を響かせて、車体はトンネル内を吹っ飛んでいく。加わったGで、車体へぐいっと押しつけられた紅蘭には一瞥もくれず、しかもトンネルを出る寸前で何を思ったか、シンジはつま先をくるりと回転させた。
 俗に言うヒールアンドトゥ、踵はアクセルに残したまま、つま先だけブレーキに移行させるテクニックで車を急減速させ、低速へギアチェンジするとそのままステアリングを逆に切ったのだ。
 当然の結果として、車はスピンして横を向く。本来なら、四駆で行う操作ではない。
 だが真横からそれ以上滑ることはなく、ほぼ横を向いたまま甲高いタイヤの悲鳴と共に車体はトンネルの外に飛び出した。
 バックミラーの片隅に、ヘリの物と思しき黒煙を認めたシンジの口元に、危険な笑みが浮かんだ。
 無論、トンネルの外で待っていた危険人物にもそれは見えた。
 横滑りで出てきたRV車に突っ込むかのようにして、窓から銃を持った手を生やしたパトカー軍団が襲いかかるのもまた。
 ふわ、と手が上がった。
 まるで、あまり気乗りしない講義で義理から手を上げる生徒のごとく。そして次の瞬間、その辺り一帯は阿鼻叫喚の図と変わった。
 射手はいないから、手を上げたのは演出であろう。
 だがリモコンのスイッチが押された途端、二台の車に設置され、今や遅しと待ちかまえていたヴァルカン砲が一斉に火を噴いたのだ。
 みるみる内にパトカーが蜂の巣に姿を変え、まず先頭の数台が火だるまと化した。更に首を振りながら死の吐息を吹き付け続ける銃口からは、間断なく灼熱の弾が撃ち込まれ、ちょうどシンジが誘うような位置で車を止めたため、咄嗟にバックして逃れることはもはや不可能であった。
 窓は空いているから、断末魔の叫びは辺り一帯を覆い尽くしたが、見ている方の表情は微妙に変わっていた。
 黒瓜堂の主人は、明らかにつまらなさそうな、と言うよりさっさと帰って暖かい布団に潜り直したいと言う表情であったが、車内から見ている五精使いの方はと言うと、はっきりとその光景を楽しんでいる姿が見えた。
 今の彼は自分をなんと呼ぶか。
 俺か?
 それとも――?
 
 
 
 
 
「してやられたー!!」
 それから数時間後、呼びつけられたアスカ達が大挙して房総半島へ押し掛けた時、無論アクアラインを抜けて行ったのだが、そこには酸鼻を極めた痕など微塵も残っておらず、ホテルの一室で彼女たちを迎えたのは眠っている紅蘭と、地団駄踏んでいるシンジであった。
 もうその顔はいつもの物に戻っていたが、
「ど、どうしたの?」
 会ったらとりあえずとっちめてやろうと思っていたが、地団駄踏んでるシンジに気勢を殺がれ、こわごわ訊くと、
「なんでもないっ」
「『は、はいっ』」
 思わず関係ない娘達まで硬直してしまったが、シンジの表情はすぐ元に戻り、
「ああ、アスカか。わざわざ悪かったね」
「べ、別にそれはいいけど、この女がシンジを連れだし――いたっ」
 ぽかっ。
「よけーなこと言わないの。いい?」
「わ、分かったわよもう。で、こいつでいいんでしょ」
 よっこらせ、とベッドの上に放り出されたのは、なんと包帯でぐるぐる巻きにされたケンスケであった。
「これ…俺のツレ?」
「そうツレ。だってシンジがもってこいって言うから…もしかしてまずかった?」
「マ〜リ〜ア〜」
「あ、あたしは、い、一応は止めたわよ。べ、別に唆したわけじゃないわ」
「…まあいいや。で、寝てるの?」
「薬打っといたから、そう簡単には起きないはずよ。けどね、シンジ」
「何?」
「そ、それは確かにあんたがとんでもなく強いのは知ってるけど、で、でもね…女と一緒にどこかへ行ったって聞いたら、し、心配するんだからねっ」
「だから元凶をこんな目に遭わせたって言うんでしょ、分かってるよ」
(分かってないじゃないっ)
 叫びはなんとか心中で仕舞い込んだ。
「山岸」
「はい?」
「悪いけど、ケンスケの包帯ほどいといて。彼氏のミイラなんか見られたら、ウチに爆弾でも仕掛けられかねないから」
「は、はい分かりました。レイちゃん、悪いけど手伝ってくれる?」
「いいよ、ほどけばいいんだよね」
 ごろごろと転がそうとするから、慌ててマユミが止めた。
「つまんないの」
 と小さく呟いたのをシンジは聞き逃さなかったが、自分たちには何の関わりもない痴話喧嘩に巻き込まれたわけであり、多少はいいやと放っておいた。
 包帯が全部取れたのを見てから、
「それから二人の手を繋いでおいて。そしたらお邪魔虫はさっさと帰りますよ」
「繋ぐ?何でですか?」
 訊ねたさくらに、
「要するに、女は身体に自信があって自分をあげるって言ったんだけど、男には上手く扱う自信がなかったの。ほっとけば仲直りするさ」
「は、はあ」
 よく分からないまま頷いたが、二人が揃って身動ぎしたのを見て、慌てて部屋から出ていった。
 
 
「で?」
「で、とは」
「だからさ、そろそろ訳くらい話してくれてもいいんじゃないの。私とのドライブは楽しいから、そう言われて付いてったんじゃないんでしょ」
「裸だよ裸」
「『は、裸っ!?』」
「だからさ、モデルがヌード限定の写真コンテストがあって、紅蘭は自分をってケンスケに言ったんだってさ。だけど、ケンスケが違うモデルの子に声掛けてるの見て、プチっとキレちゃったの」
「碇さん、それって男の方が浮気したということですの?」
「すみれじゃあるまいし」
「…何ですって」
「ケンスケがそんな男かどうか位、俺が一番分かってる。ケンスケのことだから、一発目から行く自信が無かったんだよ。彼女の裸だったら最高の物に仕上げたい、だからとりあえず撮っとけば満足するような娘に声を掛けたんだ。要するに練習台」
「で、でも碇さんそれって…」
「なに?」
「か、彼女の人にしてみれば、すっごくイヤな場面ですよね?」
「分かってないなあもう」
 やれやれと肩をすくめ、
「だから二人してベッドの上に、それも手を繋げて置いてきたんじゃないの。あそこがダブルベッドって分かってる?」
「『そ、それってまさかっ!?』」
「身体で分かり合うヒト達もいるの…あれ?」
 真っ赤になった娘達だったが、
「じゃあ、アイリスもおにいちゃんと身体で分かりあえるの?」
「え、えーとまあその…ねえ?」
 スパン!
「幼女相手に何狼狽えてるのよっ」
「碇さん不潔ですっ」
「ち、違っ、俺はアイリスの人格を尊重しただけで――OUCH!」
「こんの変態がー!」
「ウギャーッ!!」
 ひゅるると飛んでいって、べしゃっと落ちてきたが、参加しなかったマリアは、彼女たちのそれが、シンジと紅蘭の間に何も無かった事を知ったことからくる裏返しだと見抜いていた。
「まったく…素直じゃないんだから」
 聞こえないように呟いたものの、違和感を感じていたのは彼女ただ一人であった。
 すなわち――血の匂いのそれを。
「その顔は…他の誰も知らないのね」
 刹那浮かんだ思いは無論、誰にも気づかれることは無かった。
 
 
 
 
 
(つづく)

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