妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第九十五話:女神館の火薬庫(後編)
 
 
 
 
 
「御前様、畏れながら…」
 何かを決意したような表情で、月形竜子が碇家の本邸に姿を見せたのは、夕刻の事であった。
 雑務は全部部下に任せたフユノが、珍しく早めに戻ってきており、メイドの一人がその肩を揉みほぐしているところであった。
「お前が来るとは珍しいのう。何用じゃ?」
「それがその…」
 言い出せぬ竜子に、メイドがすっと一礼して音もなく下がっていったが、まだ切り出さない。と言うより、切り出せないのだろう。メイドがいた云々は、別に関係ないらしい。
「マリアが事か?」
 フユノの言葉に、その顔が弾かれたように上がり、
「は、はい…」
「マリアがどうしたと言うのじゃ」
 分かっていながら訊ねられている、そう気づくだけの余裕は、この時の竜子には無かった。何しろ、花組の娘達はみなフユノとミサトが選んだ者達ばかりであり、自分が来た用件はそれに異を唱えるに等しいのだから。
「畏れながら…マ、マリアは今のままでは…ぶ、舞台に立つ事は難しいかと思われます…」
 何とか言ってから、来るべき雷(いかづち)を待つかのように身体を硬くしたが、いつまで経ってもそれは来なかった。
 その代わりに来たのは、
「そうか、無理か。やむを得んのう」
 と言う何故か笑みを含んだ台詞であった。
「ご、御前様、マリアがああなった原因をご存じなのですか?」
「お前にも分からぬ訳ではあるまいよ」
「は、はい…」
 頷いたが、マリアに限ってはどうしてもその答えが結びつかなかったのだ。
 すなわち、恋煩い、と。
 夫がさっさとあの世に逃げてしまった竜子だが、一応恋愛もそれに伴う症状も経験しており、フユノの命でどこかに派遣されたマリア−マリアタチバナが戻って以来、見せる表情は明らかにそれであった。
 だがマリアに限ってと言う思いが、その答えを否定していたのである。
「確実に断じる事は出来ぬが、ほぼ間違いあるまい。それに、ドクトルシビウからも処方はもらってある。すなわち長期休養させよ、とな。マリアの事は儂に任せておくがよい。ただし、しばらく舞台の方は休養に入らせよ。良いな」
「仰せの通りに致します」
 一礼して竜子が下がっていった後、
「麗はおるか」
「はい、ここにおります」
 姿を見せたのは、三十名からなる碇家のメイドの中で、数少ない三十代の一人、南条麗であった。
 事情はよく分からないが、ここ碇家に使える者に限っては、いずれも美人ばかりが揃っており、多分に洩れず麗もその一人であった。生粋の日本人だが、その肢体は日本人離れしており、特に腰の高さはハーフか純血かという位に高い。そして何よりも、その戦闘能力の高さは折り紙付きで、メイド達の中でも更に選び抜かれた戦闘部隊に属している。
 戦闘部隊、と言えば聞こえはいいが、その実体はシンジの取り押さえ役であり、それだってシンジの機嫌が本当に悪い時は、誰かしらが入院する事になるのだ。物騒極まる若君に比べれば、フユノやミサトの誘拐を企む者たちなど、文字通り赤子の手を捻るようなものであり、シンジは知らぬ所で彼女たちの戦闘能力アップに一役買っていると言えるかもしれない。
「マリアとカンナをしばらく旅に出す。無論問題はマリア一人とは言え、マリアだけでは意味があるまい。飛行機で行くより、船の方が良かろう。世界周航に耐えられる船を至急用意せよ。費用はいくら掛かっても構わぬ」
「直ちに仰せの通りに致します。ところで御前様」
「何じゃ?」
「そのマリアと言う娘、若様に会ったのでしょうか」
「間違いあるまい。シンジ、と言う名前をマリアは聞いておった。それに加えて漆黒の長髪、何よりも凄まじいほどの力は碇シンジをおいて他にはあるまいよ」
 楽しそうに笑ったフユノに、麗は大金をいともあっさりと投じた理由を知った。
 
 
 
 
 
「で、あんた達はなんか策でもあるわけ?シンジを落とす作戦の」
「そ、そんな事言える訳無いじゃないですか。あたし達ライバル同士なんですから」
「そうですわよ、大体アスカに話したらすぐに盗用されるのが目に見えてますわよ」
「ふん、あんたの作戦なんか頼まれたって使わないわよ。大体、今の時点じゃまだなーんにも無いでしょうが」
「そ、そんな事はありませんわよ。わ、わたくしはちゃんと−」
「じゃ、言ってみなさいよさくらもすみれも。もしもあったら、一週間あんた達の言う事聞いてあげるわよ。大体ねえ、このアスカ様に作戦がないのに、あんた達にあってたまるもんですか」
 もうこの時期ともなれば、学校も早めに終わる。転入の手続きがある織姫と部活で残ってるマユミはいないが、三人でぞろぞろ帰る中、話題はシンジの話になったのだ。
「じ、実はあたしはその…ま、まだ…」
「ほーらね。で、すみれはどうなのよ。ほれ、あたしに言う事聞かせるチャンスよ」
 挑発してるみたいだが、どこか笑みがあるのは策など練ってないはずだと読み切っているからだ。
 そして案の定、
「い、今考えてるところですわよ。す、すぐに考えつきますわ」
「ほらやっぱり」
 とアスカが笑い飛ばし、
「あ、あなたこそ何にも考えてないくせに、何を威張ってるんですのっ」
「あたしは無いって最初から言ったじゃない。つまんない意地なんか張ってないもんねーだ」
「なんですってっ」
「なによっ」
 威嚇し合う猫みたいに睨み合う二人に、
「ちょっと、二人とも往来の真ん中で、みんな見てますよ」
 マユミがいないから、仕方なくさくらが止めた。
「『ふん!』」
 そっぽを向いた二人に、
「あの、あたしちょっと考えたんですけど…」
「何よ」
「一応、対外的には休戦協定にしません?」
「どういう事ですの、それ」
「だって碇さん、卒業式見ても分かったけど、すっごい人気があるじゃないですか。だからあたし達が会戦状態だと、他の人が出てきたりしたらそれこそ目も当てられないし…」
 ふむ、とアスカとすみれが顔を見合わせ、
「さくらさんにしてはいい事言いますわね。確かに、どこの誰とも分からぬ馬の骨のような娘に持って行かれるなど、絶対にごめんですわ」
「まあね−」
 アスカが同意しかけた時、
「その案には私も賛成でーす」
 にゅっと織姫が顔を出した。
「お、織姫あんたもう終わったの?」
「勿論です。手続きはサインだけになってました。後は説明聞いて中をうろうろしてましたです」
「『…ふーん…』」
「なんですか?」
「シンジってさー、なーんかあんたに甘いわよねえ。シンジと何かあったの?」
「キスしてもらいました」
「『ぬあんですってー!!』」
「−というのは冗談で、残念ですが今のところはあなた達と同じでーす。それに碇さんは私限定じゃないですよ」
「まあ…結構優しさの首尾範囲とか広いからね、あいつ…」
「だから好きになったですか?」
 三人とも思わず吹き出し掛けたそこに、
「碇さんを歓迎したのはあの、アイリスとか言う小さい娘だけだって聞きました。何で変わったですか?」
「う、うるさいわねっ、あ、あんただってシンジ襲ったんでしょうがっ」
「碇さんの話聞いてないですね。これだから文明が開化してない人は困ります。いいですか、碇さんを襲ったのは私の身体ですが私じゃありません。私に乗り移っていた変な猫です。とにかくそんな事はどうでもイイですが、碇さんにまとわりついてくるのはたくさんいるです。ここはとりあえず、さくらさんの意見を採用するです」
「そ、じゃあ決まりね。シンジをゲットするのは、あたし達のうち誰か−でも他の人間は入れない、オーケー?」
「ええ」
「いいですわよ」
「敵は少ない方がいいでーす」
 と、こうしてアイリスとレニを除いた、いやそれ以前にシビウとフェンリルの存在を忘却の彼方に追放した、世にも罰当たりな乙女達の協定が結ばれたのだが、それは早くも根底から覆されかけることになった。
「あら?」
「どうしたの、さくら」
「結界が緩んでるみたい」
「結界が?碇さんが手を入れられたんでしょう、別に問題ないじゃありませんの」
「え、ええそうなんですけど…」
 さくらが首を捻った時彼女たちの視界に、腕に絆創膏を貼っている娘が映った。
「あ、カンナさんだ。カンナさん、お帰りなさーい」
 さくらがひらひらと手を振ると、
「お、おう」
 と手を上げたが、どうも様子がおかしい。第一、マリアの姿もシンジの姿も無いではないか。
「カンナさん、帰って早々早速怪我ですの?帰ってきた日くらいはのんびりしていらっしゃいな」
「何言ってやがる、いつからここはこんな危ないところになったんだよまったく」
「危ない所?カンナ、何かあったの?」
「何かあったの、じゃねえよ、入ろうとしたらいきなり変な霊に襲われてよ、何とか撃退はしたがこの有様だぜ。前はこんなんじゃなかっただろ」
 そう言って指した腕には、確かにあちこち傷が付いている。
「それってつまり」「碇さんの結界が緩んだから?」
 さくらとアスカで繋いでから、
「『し、信じられない…』」
 揃って漏らしたのも当然であったろう。理屈的に言えば何人も−素人の出入りすら拒む結界に、霊ごときが入り込める筈はない。そして、そのための結界なのだ。
 とは言え、それが外れた結果をまじまじと目にして、彼女たちは改めてその凄まじい力に内心で舌を巻いた。
 と同時に、
(絶対に負けない)
 と入れた気合いが顔に出たらしく、
「おめえら、何気合い入った顔してんだ?」
 カンナが怪訝な顔で訊いた。
「な、なんでもないのよカンナっ、と、ところでマリアは…え?」
 次の瞬間カンナの顔が険しくなり、
「管理人の碇シンジとか言ったな、あいつは殺人鬼か?」
 厳しい口調で訊ねたのだ。
「さ、殺人鬼〜?」
「ど、どういう事ですのそれはっ」
「どうもこうもねえよ、実はな−」
 カンナが語った所によると、こういう事であった。
 
 
 ガラスが木っ端微塵になり、真っ逆様に落下していくシンジを見て、カンナは慌てて窓に駆け寄った。何があったか知らないが、いきなり管理人に死なれると夢見が悪い。せめて骨折くらいで済んでくれと願ったのだが、そこにあったのは目を疑うような光景であった。
「まったくもー、マリアってば」
 ぶつぶつ言いながら宙をふわふわ浮遊しているシンジであり、そのままふわっと地に降り立ったのだ。
「あーあ、ガラスが割れちゃった」
 その声を聞いてもまだ、カンナはシンジが自分から飛び出したのだとは信じられなかった。しかし、そのどこにも負傷している様子はおろか、発砲されたことにすら何の感慨も見えないではないか。
 だがそんなのはまだ序の口であった。
「マリアいくら何でも−」
 やりすぎじゃねえのか、と言おうとした途端、
「逃がさないわっ」
 銃口から硝煙が立ち上る拳銃を手にしたまま、マリアが身を躍らせたのである。
 なお、シンジの部屋は最上階、すなわち五階なのだ。
「『げ!?』」
 上と下で声が重なったが、驚きはカンナの方が強かった。
 一瞬、マリアにシンジ同様空飛ぶ能力でも備わったかと思ったのである。
 しかし、そこは一般人の悲しさ、勢いよく飛び出したはいいが、見る見る重力の法則に従って落下していき、
「マリアーっ!!」
 カンナが思わず大声で叫ぶのと、
「何やってるんだこの馬鹿」
 と、落ちてきた紙切れを受け止めるかのように、シンジがすっと手を上げるのとがほぼ同時であった。
 そしてその直後、叩きつけられるに等しい衝撃の筈にもかかわらず、マリアはゆっくりと着地した−シンジの腕の中へと。
 カンナはその時の事を、と言うより今日を一生忘れないに違いない。
「マリア、俺とは違うんだからあまり無理しちゃ駄目だよ」
 重さなどまったく感じさせぬ動きで受け止めたシンジが囁いた瞬間、
「誰の、誰のせいでこんな事になったと思ってるのよっ!!」
 カンナは一度も見た事が無い−マリアの涙を。それを、それを一日に二度も見る事になるとはまさか思わなかった。
「シンジの…シンジのせいじゃないシンジのバカバカバカ!」
「バカバカゆーな!何で俺がお前にバカなんて言われな−OUCH!」
 きれいなアッパーカットが顎に決まり、ふらっと蹌踉めいたシンジの腕の中からマリアは抜け出した。
「あっつー」
 顎に触れて、
「ダメージ大…復讐モード作動」
 シンジは奇妙な事を呟くと、
「マリア。銃を持ってない人間に、銃口を向けるなと言っておいた筈だ。もう忘れたか」
「!?」
 わずかにシンジの口調が変わった刹那、マリアの足はぴたりと止まった。まるで、主に絶対服従の義務を持つロボットのように。
 しかしその肩がゆっくりと震えだし、
「う、うるさいうるさいっ」
 ぷいと歩き出すには十秒ほど掛かった。
 この間、カンナは口を出す事も出来ずに見ていただけである。
「お仕置きだな、マリア」
 びくっ。
 屠殺場行きを告げられた牛が、人語を解したらこうなるに違いないと思わせるような反応だったが、カンナが目を剥いたのはシンジの指先にあった。
 マリアに向けてその指先が揺れた瞬間、マリアは背中を逆のくの字に折ったのだ。ゆっくりとその身体がくずおれていくのをカンナは呆然と見つめたが、すぐ我に返り慌てて階段を駆け下りた。
 無論、一気に窓から飛び降りるような事はしなかったが。
「何やってん−」
 怒鳴りつけようとした声は、途中で止まった。マリアに歩み寄ったシンジが、こちらをちらりと見たのである。
 睨んでもおらず勿論大声を出してもいない。それなのに、カンナの身体は凍り付いたように動かなくなった。
 シンジは何も言わずに携帯を取り出し、
「すぐに迎えを寄こせ」
 一言だけ言ってからすぐに切り、
「マリアが怪我したみたいだから病院へ連れて行ってくる。それと、お前達が帰ってくるために結界を大分緩めた。妙なモンが入ってくるはずだから番してろ。腕に自信はあるか?」
「あ。ああ…」
 辛うじて頷いたカンナに、シンジは結構と頷いた。
 
 
「『そ、そんな…』」
 カンナから事情を聞いた娘達は、揃って蒼白になっていた。
 冷厳と沈着冷静が女の形を取って服を纏っている−彼女たちが会ったマリアを形容するにはこれが一番似合っているような気がした。
 事実、女神館の住人達の中で誰一人としてマリアの笑顔など、見た者はいなかったのだ−そう、誰一人として。
 だがそのマリアは変わった。派遣先から戻ってきたマリアの変わり様に、住人達は皆目を疑った程である。
 目は明らかに泣きはらしたような跡を示しており、頬の肉もまた落ちていた。しかもやつれてはいたのだが、間違いなく美しさは増していたのである。
 そう、女らしさのそれへと。
 マリアがどこへ行っていたのか、知るものはいない。フユノ直々の命令だったのに加えて、本人も語ろうとしないからだ。
 しかし帰ってきたマリアが信じられぬ変貌を遂げ、そしてシンジに対して見せたと言う驚愕の反応は、彼女たちに否応なく最悪の結果を想像させた。
 なにより、
「碇さん、あたし達にはそんな反応絶対にしない…」
 かすれたような声でさくらが呟いた通り、シンジは常に住人達の上であった。威張るとか偉いとか言う意味ではなく、接し方は常に年上のそれであり、娘達のヒスにも決して対等に張り合うような事はしなかった。
 それが…そのシンジが…。
 娘達の中で、もっとも早く我を取り戻したのはやはりすみれであった。
 ぎゅっと色が白くなるほど唇を噛み締めてから、
「そ、それで…その傷はどうしたんですの」
「だからそう言う事よ。マリアを見送って中に入ろうとした途端、いきなり手にすぱっと来てよ、たちまち有象無象の代物に囲まれちまった。まったく、ひどい目に遭ったぜ…」
「そ、そうでしたの…」
「おうよ…あ、そう言えばよ、あいつシビウ病院にコネでもあるのか?」
「…え?」
「電話を切ってから、救命車が門の前に横付けするまで二分と掛からなかったぜ。しかもあれはあたいも見た事あるけどよ、シビウ病院の救急隊の中でも最精鋭だ。政治家だってあんなのは出てこないぜ」
「…前に碇さん…シビウ先生とキスしてました…」
「!?」
 追い打ち、それも決定的な一打であった。既に頬を涙が伝っているさくらに、アスカもすみれも言う言葉を持たず、自分たちを何とか抑えるのに必死であった。
 今のままでは釣り合わないのは分かっている。だから少しでも自分を磨いて、もっともっといい女になるんだからと決めた矢先に、あまりにも衝撃的な事実であった。
 じゃあシンジが言った愛人とはシビウ先生の事、などとはもう、口にする者もなかった。誰もが完全に押し拉がれていたのである。
「そんな、そんな事って…」
 もはや魂すら消し飛んだ抜け殻みたいに歩き出した四人を見ながら、カンナは何も言えなかった。彼女たちの表情にある程度、今の人間関係を察したのだ。
 その姿が建物の中に消えてから、
「そう言えば…見かけない顔がいたな」
 名前も聞いてないのに気が付いたが、追いかけて聞く余裕はカンナにも無かった。
 
 
 
 
 
「全治五分ですね」
「見れば分かる」
「も、申しわけございません」
 カンナが言ったとおり、ここの最精鋭は相手によって出動するが、地位だの財力だのはその基準に入っていない。すなわち、院長にとってどういう相手かと言う事であり、今まで専門に出動したのはシンジが初めてである。過去数度の出動は、いずれも他が全部出払っていた為のものだ。
 今日は折り悪くシビウがおらず、手当に当たったのはもっともシビウの信頼が厚いとされる外科医だったが、シンジは既に治していた。
 自分で怪我させて自分で治すなど、なかなか効率がいいと言えるかもしれない。
「後は俺がやるから」
「かしこまりました」
 一礼して出ていった後、シンジはマリアの枕元に立った。麻酔は打たれていないが、ショックで疲れが一度に出たものか、ぐっすりとよく眠っている。
 柔らかな頬にそっと指で触れ、
「あの晩以降、一度たりともお前の事を忘れた事は無かった。だが、馬鹿共がお前達二人の事を秘していなければ…俺は決してここで管理人などする事は無かったよ。でも安心するがいい、マリアを困らせる為に此処にいるわけじゃないからな。対降魔の手配だけはしておくから、後はお前にすべて任せた」
 眠っているから、無論聞いてはいるまい。
 それでもシンジは、起きている相手にするかのように、ゆっくりと話し続けた。
「あの時の選択が正しかったのかどうか…私にも正直分からない。人の魂の座を勝手に断じた事が、な」
 くるりと踵を返したシンジが歩き出し、硬い床が悲しげに鳴る。
 しかしシンジが部屋から出ていった直後、眠っているとばかり思われたマリアの目がゆっくりと開き…そこから一筋の涙が落ちた。
「シンジ…」
 
 
 わずかに正面より下に焦点を合わせたシンジが病院の玄関にさしかかった時、
「シンジさん、お久しぶりです」
 足下から玉鈴みたいな声がして、シンジはちらりとそっちを見た。
「お帰り、姫」
 シンジの穏やかな声に人形娘は、はっと顔を上げた。
「シンジさんまさか−」
「いいんだ」
 アイリスにするみたいに、シンジは可憐な娘の頭を撫でた。
「シビウは知っていたね?」
「そ、それは…」
「シビウだけじゃない。俺の祖母もまた、知っていたはずだ。ただ、あっちは女神館をどうしても任せたい、ひいては対降魔の指揮をと言うことがあったから、多少はやむを得ない部分もあるんだけどね。ただ。俺が毎日顔を合わせてマリアを苦しめる訳にはいかないよ。じゃ、またね」
「碇さん!」
 娘の悲痛な声がしたが、シンジはもう振り返ろうとはしなかった。
 シンジはその足ですぐ、大帝国劇場を訪れた。
「…管理人を辞める?」
「うん」
 頷いたシンジに、三人娘を始め作業をしていた者達の間に声にならぬ叫びが上がったが、それを制するように、
「住民投票で解雇になったのですか?」
 訊ねた紅葉に凄まじい視線が集まったが、本人はまったく気にする様子もなく、
「それなら仕方ありませんが」
「別に、そう言う事じゃないよ。ただ、俺の個人的な理由なの」
「分かりました」
 紅葉は軽く頷いて、
「お断りします」
「…え?」
「勝手に辞めるのは許可しない、と言っているんです」
「…はあ?」
 予想だにしなかった反応に、シンジの口がわずかに開いた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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