妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八十九話:居着く娘その弐
 
 
 
 
 
「…ん」
 目が覚めた時点で、仕掛けが作動したのは気づいていた。室内の気が乱れている事くらい、分からないマユミではない。
 しかし問題は、その前にあった。
 そう、シンジが入ってきたのは分からなかったのである。しかもトラップの避け方からすると、箪笥の前に立ったらしい。
 とりあえず罠の影響を試したらしいが、その後枕元に立たれ、あまつさえ手を握られても分からなかった。
 これがアスカやすみれならともかく、山岸マユミの名を持つ娘に取っては許される事ではない。たとえ、相手が何人であろうとも。
「気配を消して、それも完全に消していなければ私が気づく。その私が気づかなかったとは…やはり相当な武術の訓練を」
 腕組みしたまま飛び出した矢を見つめるマユミの表情は、いつになく厳しいものであった。
 とは言え、薬すら使わずに治療を施されたのは事実であり、一日と経たずして高熱が引いたのはシンジのおかげなのだ。
「その内お礼はしなくてはならないわ。でも…どうして部屋に入れたのかしら」
 合い鍵かしら、とわずかに眉の寄ったマユミだったが、
「合い鍵?んなモン要らない」
 管理人であれば、一応合い鍵を持っていてもおかしくないシンジが、あっさりとそれを断ったことなど、無論知るよしもないのだった。
 
 
 
 
 
「あ、やってるやってる」
 シンジが窓から下を見ると、中庭で竹刀を持ったさくらとマユミが向かい合っている所であった。
 青眼に構えているマユミと、軽く右足を引いて、柄に手を掛けた姿勢のさくらは抜刀術だ。
 どちらかが踏み込んだ瞬間に、勝負は一瞬で決まる。
 対峙する二人を見ていたシンジが、
「悪くない」
 と呟いた。
「だが惜しむらくは−血を吸わぬ剣の持ち主だ」
 さくらもマユミも、それを聞いたら仰天するような台詞を口にして部屋に戻った時、電話が鳴った。
 最近では当たり前になった大型ディスプレイを見ようともせずに、
「おう」
 妙に低い声で出た。
「千鶴でございます。もう起きていらっしゃいましたか?」
「起きてた。洗濯物ならないぞ」
 掛けて来たのは本邸のメイドの一人、本郷千鶴であった。シンジの成長に伴い、若返りを旨としたフユノの方針で、現在は三十五歳の彼女が最年長である。
「いえ、梓と瑞希の事です」
「ほう」
「昨日から様子がおかしく、つい先ほども御前様のティーカップを落として割りましたので、今日は休ませました。今は鎮静剤を射って寝かせてあります」
「あの二人から何か聞いたの?」
 葉子であれば、その口調が秘めている物に気づき、顔色を変えたかもしれない。
「いいえ。ただ、若様の所から戻って以来様子がおかしくなっただけですから。それともう一つ、屋敷の者は葉子さんほど精神力が強くありません。車体に傷がついておりましたので、それだけはお気をつけてくださいませ」
「帰る時よろめいたが、転びはしなかった。となると、その後転んだのかな」
「おそらくは」
「分かった。いきなり舌を入れるのは止めておこう」
「…お願いいたします」
 電話を切ってから、千鶴はふうっとため息をついた。
 シンジとの間で何があったかは知らないが、二人まとめて腰が抜けるほど、前から後ろから責められでもしたのかと思っていたのだ。
 事実、魂の抜けた顔をした姉妹のせいで、既に被害額は数百万に上っている。
 がしかし。
 これもまた普段なら絶対にあり得ないミス−何もない所で躓いて、一脚三十万は下らないティーカップのセットが木っ端微塵になったそれを見て、
「梓と瑞希は、昨日シンジの所へ行ったのかい?」
 すっ飛んできた千鶴に、フユノは顔色一つ変えずに訊いた。
「は、はい。昨日若様からお届け物のご指示を受けてそれで…御前様申しわけありません、すぐに片づけますっ」
「よい」
「はい?」
 我ながら間の抜けた声だとは思ったが、フユノの脚には既に紅茶の飛沫がかかっているのだ。
 それだけに血相を変えた千鶴だったが、
「まだ、捨ててはおらぬかシンジは…」
 すう、とその顔が俯くのを見てタオルを差し出しかけた手を引っ込めた。
 フユノの心中が、千鶴にも分かったのだ。
 梓と瑞希は、廃人にされて帰ってきたのではない。刺激が強かったとは言え、シンジは口づけだけして返したのだ。
 その真意は別として、シンジがその気なら肉片にして帰す事も十分にあり得たのである。それは、シンジがここと絶縁しない事の表れでもあり、フユノに取ってはそれを思えば、たとえ熱湯が頭から浴びせられようとも身じろぎ一つしなかったであろう。
「千鶴」
「は、はいっ」
「その二人、別室でやすませておおき。鎮静剤の一本も打っておけば、目が覚めた時には正気に戻ってるだろうよ」
「仰せの通りに」
 だが恭しく一礼した途端、フユノの脚に火傷ができているのを見て千鶴の顔色が変わった。まだどこかぼんやりしている二人の脇腹に、凄まじい一撃が叩き込まれ、二人とも一瞬にして身体をくの字に折ったのだが、これはやむを得なかったろう。
 たとえそれが、シンジには決して告げられぬ行為であったとしても。
 この千鶴は、メイド達の中でも特に、フユノへの忠誠心は厚いのだ。
 元々は普通のOLだったが、母の介護費用にとやむなく借りた金融が、月利四十パーセントと言うお得なサラ金であり、後はもうお決まりのコースが待っていた。
 だが暴れる千鶴を昏倒させ、ずるずると引きずっていった迄は良かったが、やくざ達は運命の女神へ捧げ物をしておくのを忘れた。そのため、急発進した小型のベンツは出会い頭に何かとぶつかり、肩を怒らせて出ていった彼らを待っていたのは、誰が乗るのかというようなリムジンに乗った老婦人と、周囲を固める黒服達であった。
 やくざの横暴など塵芥のごとく嫌うフユノであり、たちまち四人は相応しい場所へ送られた。
 震えている千鶴から話を聞いたフユノは、
「お前は運に見放されたタイプだね」
 と一目で断言した。
「どんなに真面目にやっても、絶対にうまく行かないタイプだよ」
 力無く俯いた千鶴に、
「儂のところへ来るかい?絶対とは言えないが、少しはあんたの運も変わるかもしれない。何せ儂には、世界一強運の孫がいるからねえ」
 くっくと笑ったフユノに、千鶴が吸い込まれるように頷いて以来、千鶴の忠誠心は一度たりとも揺らいだ事はない。フユノが白装束でシンジの前に立った時、妨げはしなかったが彼女もまた、白装束で端座していたのだ。
 無論、主人の死が伝えられ次第、自らも後を追うために。
 だが戻ってきたフユノに、
「愚か者、お前など連れておったら三途の川の渡し守が通してくれぬわ。そのような事は二度と考えるでない」
 と怒られたのだが。
 とは言え、彼女が絶対忠誠を誓うフユノに取って、何よりも優先されるのはシンジである−そう、自分の事よりも。
 それをよく知っている千鶴だけに、シンジに反対するいかなる言葉も口に出す事はできないのだ。例えそれが、フユノに死の刃を向ける者であったとしても、だ。
 フユノに心服している者は多いが、その誰もが直面するのがこのジレンマなのだ。これが他の者であれば、それこそ地上から殲滅してみせるが、この孫だけはどうにもならないのだ−フユノが、そのすべてを賭しているこの孫だけは。
 赤くなった火傷に表情を変えるどころか、その顔に歓喜にも似た色を見いだした千鶴は、そっと視線を逸らした。
 
 
 
 
 
「パンにしようかな、今朝は」
 看病疲れではないが、なんとなく作る気にならなくてシンジは呟いた。
 ロビーのソファに腰を下ろし、届いた朝刊四紙に目を通し始める。無論、玄関口に投げ込む命知らずはいないから、さくらかマユミが持ってきたものだろう。
 建物のみならず、敷地全体を覆う結界の強さは、異論もあるところながら、シンジは目下変える気はなかった。
 今、帝劇に置いてあるエヴァは、シンジに言わせればはっきり言って役立たずだし、がらくた同然である。
 だが藤宮紅葉を始め、魔道省の精鋭まで注ぎ込んで改造を進めており、それが済めばがらりと価値の変わった物になる。
 泊まり込みでやっているのだが、シンジがわざわざ魔道省の者達を選んだ原因はそこにもある。つまり、工事人夫と護衛官が一人二役なら、それ以上護衛をつける必要もないのだ。
 それに、おそらく葵叉丹は帝劇などゴミ程度にしか見ておらず、わざわざエヴァを潰しにも来るまい。そんな事よりもここ女神館から、いや帝都から碇シンジを除去してしまえば、それでチェックメイトなのだから。
 テレビ欄を眺めてから、
「最近子供向けアニメに面白いのがない。スプーンおばさんも引退しちゃったし」
 もう随分と前に終わった番組のキャラだが、近頃の早熟な子供達では名前すら知らないかもしれない。
 とりあえず四コマを読もうとした時、
「あー、おはよシンジ」
 珍しい時間にアスカが降りてきた。
「おはよう。気分は?」
「うん、もう大丈夫よ。おかげで治ったわ」
「それは良かった。えっちな医者に押しつけられた甲斐があったってもんだ」
「え?」
「いや、何でもない。それより、今朝は随分と早いじゃない、アスカは部活なかったでしょ」
「えーとその…う、うん、まあほら、たまには早起きしてもいいじゃない」
 とアスカにしては珍しい事を言う。
 どことなく様子が変なのだが、シンジの視線はもう一面へと向いており、ろくなニュースがない紙面を眺めていた。
 その顔が上がったのは、
「あ、あのさシンジ…」
 奥歯に海草が挟まったような、アスカの口調を聞いてからであった。
「何?」
「あーその…あ、あんた昨日のお見合い断ったんでしょ?」
「うん」
「で、出来なくて…ざ、残念だったわね」
「別にいい」
 シンジの答えはあっさりしていた。
「堅苦しい服とか好きじゃないし、どうせウチのモンは呼ぶ気なかったから」
 保護者としてフユノでもミサトでもなく、黒木を指名した事を指しているのだろう。
 しかしアスカはそのことは知らず、
「あのほら…デ、デートくらいだったらさ、その…あ、あたしが付き合ってやってもいいからさっ」
 長い台詞ではないが、口にするのに結構勇気を要したらしく、アスカの顔は赤らんでいた。
 がしかし。
「見合いとデートに、何の関係が?」
 不思議そうな顔でシンジが聞き返したのだ。
「…はあ?」
「いやだから、明日は何度目かのそれじゃなくて、初めてなの。初めてではそんな事しないでしょ」
「す、するのよっ」
「やるの?」
「そう、やるのっ!」
 力説してから何となく微妙な言い回しだと気が付いたが、
「でも遠慮しておくよ、アスカ」
 ぴき、とアスカの顔が引きつった。
 精一杯の申し出だったのに、いとも簡単に却下しやがったのだ、この男は。
 何とか表情をコントロールして、
「ふーん、あんただったら選り取りみどりだから、あたしみたいなのは相手にもしたくないってわけね」
 だがアスカも、この答えだけは予想していなかったろう。
「できれば」
 シンジはそう言ったのだ。
 見る見るアスカの顔が怒りで紅潮してくる。
 しかしそれが暴走する前に、
「アスカ、なんか勘違いしてない?」
 シンジはいつもと変わらぬ顔で訊いた。
「なにが…勘違いよ…」
「アスカは今、付き合ってやってもと言った。俺が知る限りデートとは、付き合ってやったりやられたりするものじゃないよ。両方がしたいと同意するから、実現するイベントなんだから」
「イベントって…あ、あんたこないだすみれとしたじゃない」
「すみれ、デートしてやろうか、俺はそんな事を口にするほど厚顔無恥じゃない。それに元々、見せたいと言ったのはすみれの方だ」
「な、何をよっ」
 何が浮かんだのかは不明だが、アスカは咳き込むように訊いた。
「自分の力。最初の降魔戦の時、すみれは熱を出して寝込んでいた。だから、腕試しをしたいと言ったんだ。アスカ、俺はさくらに言った筈だよ−すみれと全く同じコースなら構わない、と。それがすみれを弄ぶコースだと思ったの?」
「…ごめん」
 これもかなり珍しいが、アスカがあっさりと翻したのには、自分だから拒んだのではないと、シンジの言外に感じ取ったからかもしれない。
「じゃ、じゃあさシンジ…普通にデートしようって言ったらOK出すの?」
「誰と?」
「あ、あたしよあたし。アスカ様よっ」
「んー…」
 三秒ほど考えてから、
「うーん、やっぱり遠慮す…ふぐぐー!」
「何であたしの顔見るかー!!」
 ちらっと、そう、一瞬だけちらっとシンジはアスカの顔を見たのだ。
「あたしの顔見てから断るってどういう了見よっ!」
 きゅううと締め上げられて、
「あー、分かった分かった。分かったから」
 本当に分かったのかは不明だが、一応シンジは解放した。
 ただし、絞めた時に身体が密着してしまい、
(や、やだあたしノーブラのままだ)
 尖ってはいないが、乳首がシンジに触れそうで慌てて放したのだ。
「でもさ、いいよアスカ」
「な、何が?」
「デートしたい病、あるいは見合い常習症候群でもないし、別にしたくてたまらなかったわけじゃない。気を遣ってくれてありがと」
(ナヌ!?)
 まさか、まさかこう来るとは思わなかった。
 突っぱねる、あるいは断るならまだしも、まさか礼を言われるとは。
「ま、まあね、ほらあんたが顔も知らない相手に振られてショックかな、とか少し思ってさ」
 あはははと笑って見せたが、内心はやや複雑であった。
 とは言え、単に体よく断られたのか、あるいはシンジが感づいていなくてお断りされたのかは、アスカにもよく分からず、後者に違いないと勝手に決めつける事にした。
 乙女なんて、そんなモンである。
 
 
 
 
 
「アスカさん、機嫌いいですね。なにかあったんですか?」
 そうかな、とシンジはアスカを見たが、よく分からない。よく知ってる人間だけが分かる微妙なライン、それでいてきっちりご機嫌な部類に属しているらしい。
「別に?普通よね、シンジ」
「え?」
 スクランブルエッグは、ちょうどいい未熟さだったかと、そっちが気になってシンジの反応は一瞬遅れた。
 だがこれが悪かった。
 たちまち猜疑と奇妙な物が混ざった視線がシンジに殺到し、
「碇さん、何か知ってるんですね?」
「おにいちゃんアスカに何したの!」
「碇さん、少しお話しなくてはならないようですわね」
「お、俺?」
「『そう、俺!』」
 レニまでもが、
「シンジ最近プレイボールになってる」
 と言いだし、何がプレイボールだとウェルダンにしてやりたくなったが、何とか抑えた。
 大体シンジにしてみれば、アスカがご機嫌になる理由が分からない。デートの約束などしたわけではないのだ。
 しかもボーイならまだしも、ボールにされる理由など身に覚えがない。
 むう、と内心で首を捻ったそこへ、
「ごめんくださーい」
 妙に明るい女の声がして、ほっとした次の瞬間、
「何!?」
 と目を剥いた。
 
 
 
 
 
「緒方、何だその格好は?」
 来客がある、これだけでシンジに取っては一大事である。
 何せこの女神館、結界が来る者を阻んでおり、今では門から中に入るだけで一般人すら拒むのだから。
 何で客が、とシンジは立ち上がり、
「俺が出るからいい」
 と、娘達を制して自分が出た。
 結界に不備はない、だとしたら万が一という可能性を考えたのである。
 だがそこに立っていたのは織姫であり、なぜかその背中には星也がいたのだ。
「門を入ろうとしましたら、結界に阻まれまして」
 そう言う星也の服はあちこち裂けており、結界が正常動作している事を示している。
 しかし織姫はなぜ入れた?
 シンジの表情にそれを呼んだのか、
「きれいなお医者さんに加工してもらいましたでーす」
「か、加工?」
 織姫によると、話を聞いたシビウが、
「それなら、あの傍迷惑な結界に悪影響を受けぬ処置が必要ね」
 処置自体は数秒−シビウの手首が胸に沈むのを見た時、織姫は失神し、その間に終わったらしい。
「俺に恨みでもあるのかあいつは」
 シビウが聞いたら無論、日頃のつれなさに対するお礼だと言うに違いないが、ふとシンジは織姫の発音が少し変わっているのに気がついた。
 相変わらず妙ではあるが、少し前までのおかしな物とはやや異なっている。
「で、何しに来た?」
「はい、実は−」
 言いかけて、織姫もういいよと背中から降りた。そんなに体躯の差はない二人だが、大の大人を軽々と背負った織姫もまた、たいしたものである。
「その前に碇さん、この度は色々とご迷惑をお掛け致しました」
 深々と腰を折った緒方に、
「気にするほどのものじゃない…って、お前誰から聞いた?」
 シンジが見た感じでは、シンジを襲ったのはソレッタ・織姫の肉体を持つ少女だったが、織姫の自我はそこにはなかったのだ。つまり、記憶も残っていないに違いなく、状況など分かるはずはないのだが、
「シビウ医師(せんせい)に、深層意識レベルで残った記憶を取り出して実体化していただきました。ただ、娘の方はまったくその事を覚えておらず…お恥ずかしい限りです」
「碇さん、ごめんなさいです」
「いやそれは別に…織姫、なんか語彙集とか変わった?」
 せめて発音が、と言っても良さそうだが、この辺はやはりシンジの性格だろう。
「私がね、私だけになったらこうなってたです」
「はあ」
 いい方に転がった、と一概に断じきれない部分はあるが、まあこんなものかとシンジは納得する事にした。
「あの、碇さん」
「ん?」
「先ほど、魔道省へ辞表を出してきました」
「辞表−辞めるのか?」
「はい。織姫はもう大丈夫ですし、私が才能ないのにこの職に就いては、他の方にご迷惑をかけますから」
「人の進路は個人の物だ。俺がどうこう言う筋合いじゃないが、辞めてどうする?」
「もう一度、画家の道をやり直したいと思っています。織姫も賛成してくれました」
「パパには、自分の好きな事をしてくださいって私が言ったです」
「そうか。それも一つの道だな。それで、いつ発つ?」
「え?」
「国内で水彩画の勉強する訳じゃないんだろ?」
「ご存じでしたか。一週間後、フランスへ発ちます。それであの、碇さん、大変申しわけないのですが…」
「旅費なら貸すぞ。一億まで、年利1.125%でいい」
「と、とんでもありません」
 慌てて緒方は手を振った。
「碇さんからお金などお借りする事はできません。そんな事をしたら、発つ飛行機が呪詛されてベルサイユ宮殿かエッフェル塔に突っ込まされてしまいます」
「自爆テロじゃあるまいし、そこまではしないだろ。金以外で何か?」
「大変申し上げにくいのですが…」
 次の瞬間、ぴょんと織姫が跳んだ。避ける間もなくその腕はシンジの首に巻き付けられており、
「私、今日からここの住人になるです」
 艶めかしい声で熱っぽく囁くのと、
「娘を、お願いしてもよろしいでしょうか」
 緒方が申し訳なさそうな口調で言うのと、
「シンジ、何なのよその女はっ!!」
「碇さんに何してるんですかっ」
 どやどやと娘達がなだれ込んでくるのがほぼ同時であった。
 どうやら、女が来たと言う事で揃ってひっそりと聞き耳を立てていたらしい。
 飛び込んできた娘達の表情をどう見たのか、織姫はいっそう強く腕を巻き付けて、いーだ、と舌を出した。
 
 
「優しくするだけが愛情ではない。獅子は我が子を千尋の谷に落とし、人間の親も子供を三千里の旅に出すのよ。まして君が相手なら、乗り越えなければならない状況を作るのは想い人としては、当然の役目ではなくって?」
 ある病院の地下室で、世にも希なほど美しく、そして極めて危険な声がした。
 
 
「餅搗けじゃなかった落ち着けって。レイ、とりあえず落ち着くもの持ってきて。大至急だ」
「アイアイサー」
 ひょいと敬礼して、レイは身軽に立ち上がった。
 現在応接室には危険な空気が満ちているが、原因は無論織姫にある。正確には、シンジにまだ巻き付いたままのその腕に。
 さすがに首からは離れたが、しっかりと絡めた腕はまるでそれ自体が彫刻でもあるかのように、絶対放そうとしないのだ。
 なおレニだが、織姫の顔を見た途端殺気を漲らせたが、
「織姫に手を出すなら、先に俺の相手をしなくてはいけないよ」
 穏やかな声だったが、みるみる萎縮してしまい、他の娘達も実力或いは武力行使出来ない原因はそこにある。
 ほぼ間違いなく、織姫への攻撃はくっついている厄介な人間要塞に阻まれるからだ。
 そんな中、ハーブティーを持ってレイが戻ってきた。
「とりあえず落ち着けや」
 シンジの口調を真似してみたものの、すぐ凄まじい視線に遭い、かさかさと角へ退散した。
「話は既に聞いたと思うが、ソレッタ・織姫がここの住人になりたいと言ってきた。何か意見のある人は」
 これだけなら即座に反論の嵐だが、話は既に聞いたと思うが、の部分を強調することは忘れない。つまり、住人達が盗み聞きした事を暗に責めているのだ。
 無論、そんな事はどうでもいいのだが、一斉に騒がれても困るし、さしあたってもっとも有効な口封じと言える。
 住人達もそれを察し、すぐに反論する者はいなかったが、少しして最初に口を開いたのはマユミであった。
「碇さん、その前に一ついいですか」
「なに?」
「レニがさっき、その人を見た途端に凄まじい殺気を帯びてましたが、レニに何かしたんですか?」
「してない。レニが勝手に殺気立ってるだけ」
 言下に否定したが、それではさすがにあんまりと思ったのか、
「一応話しておこう。俺は先だって、織姫に襲われた」
「な、なんですって!?」
「おにいちゃん、この人に襲われたのっ!」
「話に続きがある」
 騒ぐ住人を制してから、
「正確には、織姫の父親が召魂で乗り移らせた妖猫の仕業だ」
「しょ、召魂?碇さん、あの技ってかなり危険なんじゃないんですか?」
「先の降魔大戦の折、重傷を負った娘にど素人の父親が掛けたものさ」
「『ど、ど素人…』」
 重なったさくらとマユミの声は、その意味を二人とも分かっていると見える。
「とは言え、古い話を引っ張り出して鞭打つのも面倒だしそのま−織姫、シリアスな雰囲気が壊れるからちょっと離れて」
 くっついたまま織姫は、アスカやすみれの殺気すら混じった視線を一歩も引かずに迎え撃ち、現在空中戦を展開中だ。
 その織姫を少し離し、
「織姫、一つ訊くけど」
「なんですか?」
「シビウは、織姫がここに住む事は知っているの?」
「いいえ、先生には来る事を言っただけでーす」
 分かった、と頷いてシンジは携帯を取り出した。
 全員の視線が集まる中、シンジの指がダイヤルを押す。
 いつもの通り、すぐに出た。
「今何してた?」
 シンジにしては珍しい事を聞くと、
「冷たい想い人がいない孤閨を癒していた、と言えば納得するかしら?」
「今度お邪魔します」
「結構。役立つ保証はないけれど、足手まといにならない程度にはしておいたわ。私のような三流医者でも手術は色々舞い込んでくるのよ、失礼するわ」
 電話機から聞こえる一定音を耳にして、シンジはわずかに首を傾げた。無論、用件を読まれた事に対するものではない。
 電話を切ってから、
「決まりだ。ソレッタ・織姫を住人の一人に加算する」
「…どうしてですの」
 織姫と睨み合いを続けているすみれが訊いた。視線は織姫から外していない。
「シビウの手が入った加工品だからだ。俺の権限で決定した。それともう一つ」
「はい?」
「女神館の新住人、と言うだけではなく、機体も追加しよう。無論エヴァのだ」
 一瞬皆が愕然とした表情になり、次の瞬間それが大爆発を起こしかけたが、それを止めたのはシンジの一言であった。
「ドクトルシビウは、無駄なものは作らない」
 強権発動も出来たろう、俺の顔に免じてとか何とか言う事も出来たろう。だがシンジが選んだのは違う方法であり、それはあまりにも効果的であった。
 敵意を露わにしていたアスカやすみれの顔から、その色がすうっと消えていき、そしてそれはさくらやアイリスも同様であった。
 何より、当の織姫もまた、何かを得心したかのように、その表情にあった宣戦布告の色みたいな物が消えていったのである。
 ドクトルシビウ、その名は帝都に、そしてこの街では誰一人知らぬものはなく、本人の存在自体を必要としないものとして、確乎として存在しているのだった。
 室内の静寂を破ったのは最初に作った男であり、
「織姫、聞いた通りだ。ようこそ、この女神館へ」
「い、いいですか?」
 聞き返すには若干の時間がかかったが、シンジが軽く頷くとその顔にぱっと喜色が浮かんだ。
 こほん、と一つ咳払いしてから、
「ソレッタ・織姫でーす。今日からここの住人になりましたよろしく。でーも」
 アスカとすみれを真っ向から見て、
「絶対負けませんからね」
 シンジが、は?と言う表情になった途端、
「じょ、上等じゃない、こっちだってあんたなんかに負けるもんですかっ」
「あなたごときが、わたくしに勝とうなど三億と六百年早いですわよっ」
「あの〜、何の話を」
 言いかけた途端、その身体がふっと消えた。
 一瞬皆がぎょっとした表情になったものの、その身体はアイリスの真横に出現した。
「みんな争いごととか好きだよねえ。アイリスはおにいちゃんだけいればいいのに」
 きゅうっとその頭を抱きしめたから、
「おにいちゃん?碇さんの妹ですか?」  
「いや、これはちょっと訳ありで」
「アイリス、本当の妹じゃないけどもっとすごいんだから」
「すごい?」
「アイリスなんかおにいちゃんと一緒に…もごっ」
 緊急警報を発した本能に従い、咄嗟にシンジはアイリスの口をおさえたものの、止せばいいのに疑いの視線にちらっと目を逸らしたものだから、たちまち取り押さえられて上に乗られる事となり、
「碇さん、いつもこんな事されてるですか?」
「女の子ってほら、血の気が多いから」
「じゃ、私が助けてあげまーす」
 織姫が引っ張ると、当然すぐに対抗して反対から引っ張る者が現れ、両手を左右から引っ張り合われたシンジが、いだだだと悲鳴を上げた。
 そして五分後。
「仲良くしといてもらおうか、ねーちゃん達」
 面白半分で参加したレイはともかく、マユミまでもが宙に吊されており、アイリス以外全員食人族の餌食というところだ。
 ビリ、と服が囁いた事で点火したのかどうかは知らないが、娘達は反撃に遭ってあっさりと宙づりの憂き目とあいなった。
「織姫もだ。何の勝負してるか知らんが、むやみに挑発するんじゃない」
「は、はい…」
 叩かれたりした訳ではないが、凄まじい風が吹き付けてきたと思った瞬間、身体は宙に固定されており、さすがの織姫も度肝を抜かれて素直に頷いた。
 そこへ、
「あ、あの碇さん、な、なんで私も…?」
「止めなかったから。見物してどうする」
(だ、だって原因は私じゃないもん)
 と無論思いはしたが、口に出した途端元凶達から睨まれそうな気がして止めた。
「まあいい。俺は別に懲罰係じゃないし、監視員でもない。だけど、俺は巻き込まないでね。勝負事とか好きじゃないし」
 残念ながら、この場でこの男に突っ込みを入れられる存在は、この帝都にはない。
 シンジの指がふっと上がると、全員がへろへろと床に降ろされ、
「明るい内に織姫の荷物、運んじゃおう。君らも手伝うんだよ」
「あたし達が〜?」
「そう、あたし達」
 アスカは無論、さくらもすみれも織姫が来る事に全面賛成している訳ではなかった。
 この娘、どっからどう見てもシンジに気があるし、来て早々宣戦布告までかましたのだ。ただでさえライバルが多いのに、これ以上増えては迷惑だ。
 何より、当のシンジにまったく伝わっていない状況では。
 一歩出ているのはすみれだが、これは自分が未熟だからとシンジに告げてしまっており、レベル的には他と大差ない。
 すみれの言うとおり、シンジはすみれの躰で自分が楽しんだわけではなかったのだ。
 とは言え、他の二人もシンジに翻意させるのは難しいと思われ、不承不承ながらも頷いたところへ、
「夜は美味しいものでも食べに連れて行ってあげるから…え?」
「シンジのでいいわよ。その辺の店より美味しいし」
「そうですよ。だから今夜はあたしの好きな物にしてくださ−むぐっ」
「何勝手に決めてるのよあんたはっ。シンジ、今日はあたしのだからね」
「いいえ、私のですわ」
「おにいちゃん、アイリスの好きな物だよね」
「…あー、うるさい」
 一旦耳を塞いでから、くるりと向き直り、
「こんなところだが、ま、よろしくね」
「碇さんと一緒ならどこでもいいでーす」
 にこりと微笑ったものだから、
「ぬあんですってー!!」
 ひときわ騒ぎが大きくなり、早めに終わった引っ越しだったのに、乙女達の自我が戦闘を始めたせいで一時間も決まらず、結局その晩は至極普通の食事となってしまった。
 ただし、普段よりも妙におかずが多かったのは、一品限定で希望が叶ったためだが、おかげで和洋中が全部入り交じった、見た目はなんともバランス悪げな代物になってしまったのは、やむを得ない事だったろう。
 
 
 
 
 
(つづく)

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