妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第五十八話:策士と書いてマユミと読む事
 
 
 
 
 
「若様、そんな事しちゃ駄目です」
「もー、うるさいなあ葉ちゃんは」
「そんな顔をしても駄目です。さ、お屋敷に帰りますよ」
 池のピラニアを、宙に浮き上がらせている若主人の腕を掴み、葉子がずるずると引きずっていく。
 自分と六つしか変わらないくせに、やんちゃで困った子供だが、彼女はこのご主人様が可愛くてたまらない。
 ただし。
「お前が俺に指図?三億光年早いんだよ」
 人参を残しちゃいけません、シンジにそう言った中年のメイド長は、抵抗する間もなく宙に浮き上げられ、ピラニアが乱舞する池の上まで連れてこられた。
 葉子が気付かなかったら、間違いなく魚の餌になっていただろう。
 また別の娘は、三国志の影響でシンジが作った『避客牌』に気付かず、部屋の掃除に入った所いきなり下着に火が点いた。
 なお『避客牌』とは、三国時代の名将関羽が帰らぬよう、謀将曹操が門に掛けた物であり、これがある時はどんな用事があっても帰るのが礼儀とされている。
 その時も、葉子が水を飛ばしてシンジを濡れ鼠にして、仲間を助けたのだ。
 要するに、このシンジを唯一操縦出来るのがこの葉子なのであり、フユノもそれを見越してシンジに付けてある。
 そして勿論−こんな風に、シンジを肩に担いで荷物みたいに運んでいけるのも。
 葉子に運ばれていくシンジの後ろで、ピラニア達が主を見物するように一斉に飛び跳ね始めた。
 
 
 
 
 
「劇場のって…い、碇様の関係者だったのですか?」
「そうよ。既にシンジからは、名前で呼ばれているわ」
 敵視、或いは道具だったら良かったかもしれない。
 だが名前だと聞いて、麗香の顔からすうっと血の気が引いた。
「そ、それで先生、具合の方は…」
 辛うじて自分を抑えているが、やはり語尾は幾分高い。
「血は吸わなかったのでしょう」
「は、はい」
「数時間安静にしていれば治るわ。大した事はないわね。それと夜香」
 シビウが、美貌の青年に一瞥を向けた。
「何でしょう」
「監督不行届−正確には情報の収集が不足しているわ。不足は命取りになりかねなくてよ」
「シンジさんには、私からお詫びしておきましょう。お怒りは−私のミスでしたね」
 しなやかな眉が僅かに寄る。
 確かにシビウの言う通り、劇場の三人娘がシンジの知り合いだと分かっていれば、失神させるような事はしなかったのだ。
 そう、絶対に。
「兄上…申し訳ありません」
 俯いた妹に、夜香は首を振った。
「お前が気にする事ではない。命じたのは私なのだから」
 そうは言ったものの、口調はどこか低く地に沈むように聞こえた。
 
 
 
 
 
「みんなが随分と心配してましたが、余計なお世話だったようですね」
 マユミはにっこり笑って、
「ベッドの上で一体化してたって、さくら達に伝えてきますね。じゃ、これで」
 すっと出て行こうとするのを、
「お、お待ちなさいっ」
 慌ててすみれが止めた。
「何ですか?」
 振り向いた顔にはあどけないとも言える表情が−ただし、かなり邪悪を含む。
「べ、別にわたくしと碇さんは何もその…」
「すみれさんの上に男の人がいるのを見るのは初めてです」
 聞きようによっては、いやそのままでも十分とんでもない事を言い出すと、ちらりとシンジを見た。
「さっき、ミサトさんと瞳さんが来られました」
「ミサトと瞳が?」
「劇場の方で、かすみさん達が失神していたとか」
「…!」
 それを聞いた時、シンジが音も立てずに起きあがった。
 刹那表情が険しくなったがすぐに戻して、
「それで容態は」
「さきほど、こちらに搬送されて来たようです。ただ、病室まではお聞きしていませんが−お心当たりが?」
「いや、そうじゃないけど」
 何か考えているらしいシンジを置いて、
「マユミさん」
「なんでしょう?」
「べ、別にわたくしと碇さんはなんでもありませんの、よろしいですわね」
「私はただ、状況を伝えるだけですから」
 マユミも結構出来る。
「くっ」
 すみれが一瞬詰まった時、シンジがこっちに帰ってきた。
「山岸」
「何ですか?」
「条件は」
「もう春ですし、甘い物とかいいかも知れませんね」
「はあ?」
 何を言い出すのかと、すみれが怪訝な顔でシンジとマユミを見たが、
「善処しよう」
「分かりました」
 二人の間では、ちゃんと会話が成立しているらしい。
「ちょ、ちょっと碇さん何の話を…」
「ちょっと出てくる。山岸、それの世話しといて」
「それ?」
「ベッドに寝てる物体。じゃすみれ、大人しく寝てなさい」
「い、碇さんっ!?」
 顔まですっぽりと布団を掛けると、黒髪を翻して音も立てずに出て行った。
 二人きりになると、すみれの方がなんとなく気まずく、こうなると布団を掛けられたのがとても助かる。
 自分から布団を被るのはわざとらしいし、第一そんな事はすみれの性格からして出来ることではない。
 一方、マユミの方も何故か声を掛けようとはせず、中庭を眺めている。
 白雪の積もった中庭に月光が静かに降り注ぎ、どこかのおとぎ話の世界のようにも見えるが、足跡の一つもない事で一層幻想的な世界を創り出している。
(あそこで座禅を組んだら、精神統一も最高の成果が上がりそうね)
 住人達の事も降魔のことも忘れ、ぼんやりと中庭の景色に見とれていたマユミが、ふと手を動かした。
 いつもそこにある物体が無いのだ。
 そう、シンジが来てからこっち、いつも刀を持ち歩くようになったマユミだが、ここでは通らなかった。
「危険物は受付に渡してね」
 すみれの病室を、なぜかあっさりと教えた看護婦は、マユミの手にあったくるまれた物の正体を訊きもせずにそう言った。
 無論マユミは、来院する者はすべてこの病院−シビウの管理下にある事を、そして一挙一動がすべて監視されている事は知らない。
 まして、見舞客ともなれば重度の精神病患者と並んで、絶対の監視下に置かれる。
 見舞客が、瞬時に暗殺者と化す事は決して珍しくなく、実はこのマユミが、刀を持って来院して無事に済んだ第一号だったのだ。
 本人は知る由もないが、病人に会うのに刀を持って駆けつける者が部屋にたどり着けるほど、この病院の管理は甘くないのである。
 ともかく、現在マユミの手に刀はない。
 刀を持って端座している自分の姿をイメージした時、手に刀が無いことを思い出したのだ。
 数回手を開閉してから、
「すみれさん」
 居るのを思い出したように呼んだ。
「な、何ですの」
「さっきの事は、別に言いませんから安心して下さい」
「なっ…」
「碇さんにキス、なんて知られたら大変ですから」
「マ、マユミさんあなたっ…」
「アイリスにおやすみのキス位はするかもしれませんが、それ以外で誰かにするような人じゃありませんから−碇さんは。それに、すみれさんが碇さんにする事は、それが一番可能性高いですし」
「え?」
「かまを掛けてみたんですが、正解だったみたいですね。でも、二重の意味で良かったかも知れません」
「二重?」
 怪訝な顔でマユミを見たすみれに、マユミはすっと一本の指を上げた。
「一つは無事に済んだ事です」
「無事、とは何のことですの」
「碇さんは、自分から住人達にそう言うことをされる方ではありません。それに、一度の小さな悪戯が即命取りに変わる人です」
 これはすみれには思いも寄らない、そしてシンジを一番見ているマユミであればこその台詞であったろう。
 最初に遭遇したのはマユミだし、祖母を死の淵までいとも簡単に追い込んだのも見ているのだ。
 そして何よりも対ボス戦−ミロクを逃がしたのを目の当たりにしたのは、マユミだけなのだ。
 その意味では、やはりマユミが一番シンジを知っていると言える。
「そ、それで二つ目とは…?」
 マユミに言われて気付いたのか、すみれの声が幾分トーンダウンした。
「見られたのが私だった事です。他の住人だったら一大事です」
 マユミの指がもう一本上がった。
「さくらのは分かり易いんです。要するに碇さんの力ですから。さくらの家は代々続いた名家ですし、経済的には別に困っていません。何よりも、そっちに興味がないのは碇さんと同じです。でもその代わり力には惹かれます。碇さんの力など、その片鱗だけでもさくらを惹き付けるには十分すぎるでしょう。それに我を喪いかけたさくらを連れ戻しに来たのも碇さんですし」
「……」
「ですが」
「ですが?」
「単に尊敬してるのかそれともそれ以上なのかは、私にも分かりません。ただ、さくらって焼き餅焼きですから、この間も碇さんに浮気者、とか言ってましたし」
「う、浮気者?それどういう事ですのっ」
 語尾の上がったすみれに、
「知りません」
 あっさりとマユミはかわした。
「さくらの言う事を全部理解していたら、今頃私とさくらの対戦成績は、私の常勝無敗になってます」
「そ、それもそうですわね」
 ふむ、と納得したがやっぱり気になる。
「マユミさん、あなた今さくらさんのは、っておっしゃいましたわね」
「ええ?」
「もしかして、他にもあるんですの?」
 さくらさんだけで十分ですわ、と思ったかどうかは定かでないが、
「アイリスはおにいちゃん認定してますし、アスカも妙に変わってきました。まともなのは私とレイちゃんだけです」
「ま、まともって、ちょっとそれどう言う…あ、何を!?」
「お静かに」
 マユミがすみれに近寄り、何を思ったか布団の中に押し込んだのだ。
「少しは具合悪そうにしていなさい」
 マユミがすみれに命令するなど、今までに一度も、ただの一度たりともなかったのだが、妙な気迫に気圧されたすみれが頷いた。
 そしてその直後、マユミの奇妙な行動の原因が明らかになった。
 どやどやと人の気配が、それも多人数の気配が近づいて来たのである。
 
 
 
 
 
「碇様、申し訳ございません」
 代理とは言え吸血鬼一族の当主が平身低頭していると知ったら、一族の者が血相を変えるに違いない。
 だがもう一つ、相手を知れば苦い顔をしながらも諦める事も、また間違いないのだ。
 シンジの視線が冷たい上に、間に入るべき適任者がいない。
 そう、フェンリルがいないのだ。
 一日行方不明でさっき帰ってきたが、宮田を異空間に放り込んで預けたらそのまま戻ってこない。
 神崎財閥総帥邸に重傷を負った執事が持ってこられた事は、ここにいる誰もまだ知らないのだ。
 怒気こそ無いが、シンジのこの視線は見る者に、面を背けさせるだけの物は持っている。
 第一、その逆の激昂など見られる方が珍しい位だ。
 既に麗香は顔を上げていられず、その容貌は文字通り血の気を喪った死人(しびと)のような色になっている。
 そこへ夜香が、
「要らざる連絡をせぬよう、指示を出したのは私です。申し訳ありません」
 すっと頭を下げたのに一瞥だけして、
「シビウ、後遺症はないね」
「それは大丈夫よ、この私が保証するわ」
 私が保証する、と言ったシビウの言葉にほんの少しだけ表情が緩んだ。
「分かった。でも、次はノークレームとはいかない」
「はい…」
 脅しでもなく恫喝でもない。
 まして身の程をわきまえぬ安っぽいいきがりでもない。
 短いが淡々とした口調に、麗香は顔を上げる事も出来なかった。
 くるりとシンジがきびすを返し、静かにドアが閉まる。
 院長室に静寂が流れた後、
「ドクター、碇さんは−少し変わられましたか?」
 夜香がシビウを振り返った。
「変わった、と言うのは適切ではないわ。ただ、少しばかり共闘を優先するようになったのよ」
 そう言いながらシビウ自身、シンジの変貌には気が付いていた。
 すなわち、自分より遙かに格下の娘達と同居するようになってから、性格的に変化が見られるようになった青年の様子には。
 
 
 
 
 
「すみれちゃん生きてる〜?」
「シンジ、あんた何やってるのよ!」
 ドアが開いて、住人達が一斉にうぞうぞと入ってきた。
 が、そこにシンジはおらず、すみれは布団からわずかに顔を出している。
「あ…」
 さすがにそれ以上騒ぎ立てようとはせず、
「シ、シンジはどこに?」
「他にも入院患者があってね、きっとそっちに行かれたのよ」
 かすみ達の名前は出さなかった。
 これ以上、不用意に動揺させる事もないと思ったのだ。
 室内にちょっと沈黙が漂った後、
「すみれ、あんた具合は大丈夫なの」
 住人達の間で出た結論は、シンジが誘ったのは裏がある、と言う物であった。
 仮説を立てたのはレイだったが、色々な状況を考えてもそれが一番妥当に見えた。
 その時マユミがいないのに気づきすわと色めき立った所へ、、すみれがシビウ病院にいると連絡が入ったのだ。
 さすがの住人達も、血相を変えて病院へ駆けつけたのまではマユミと同じ、そして刀を受付で取られたのはさくらもこれまたマユミと同じであった。
「大丈夫ですわ、わたくしはそんなにヤワではなくてよ」
「ならいいけど…で、何があったわけ?」
 来るまでは、
「こんな時間まで…碇さん不潔です」
「あいつらー、病院に着いたらとっちめてやるからねっ」
 と気勢を上げていたのだが、布団の中のすみれを見ては、さしもの彼らも言い出せなかった。
「訓練ですわ、ちょっとした実地訓練の」
「訓練?じゃあやっぱりシンジが?」
「希望したのはわたくしですわ。おかげで大体の事は分かりましたし」
 さくら達同様下っ端が精一杯で、ボスまではとてもとても、と言う結果ではあったのだが。
「それですみれちゃん、一日中その訓練ってのしてたの?」
 レイの質問にすみれは首を振った−抑えきれない、と言った感じの笑みと共に。
(あ、やだ…)
 マユミの予感は的中した。
「ちょっと用事があって、碇さんと回っていましたのよ。アイリス、その布を取ってちょうだいな」
 部屋の隅に何かが置かれ、その上に布が被せてある。
「これ?うん、いいよ」
 さっと取った瞬間アイリスが固まった。
 いや、アイリスだけではなく他の住人達までも仲良く。
 そこにはずらりと箱が並び、どれも「神崎すみれ様」と丁寧に記してある。
「まあ、ちょっとしたお買い物ですわよ。やっぱり、男の方がいらっしゃると便利ですわね」
 固まっていた娘達が、ゆっくりと振り向いた。
「…すみれ」
 最初にアスカが口をいた。
「なんですの」
「これがどーいう事か、説明してもらえるかしら」
 普段すみれは、買った物を自分で持つことも執事に持たせる事もない。
 全部女神館か、本邸の方に運ばせるのだ。
 そのすみれの買った物がここにあると言う事の意味を、乙女達は直感で察していたのだ。
「どう言うことも何もそ−」
 言いかけた時ドアが開いた。
「すみれ気分は…」
 言いかけて、室内の住人達に気が付いた。
「何時来…ぎゅ」
 言葉不要。
 それを地で行く感じで、すすっとアスカがシンジに近寄ると、きゅっと首に手を掛けたのだ。
「言い訳は後で訊くわ。その前に、いっぺんあの世に行ってこーい!!」
「ふぎゅぎゅうー!!」
 ぎゅっと、両手で首を締め上げられてたシンジの声は、潰れたミトコンドリアみたいに聞こえた。
 
 
 
 
 
(つづく)

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