妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第五十三話:DD7−あっさり流す青年(ヒト)
 
 
 
 
 
 碇フユノ、経済界の事を少しでも知るなら、その名を知らぬ者はいない。
 広大な人脈と莫大な財力は、国内は無論海外にもその名を広く知らしめている。
 人を見る目は無論十二分に持っているが、それを使いこなせるのは、人材不足もまた関係しているのかもしれない。
 フユノが当主になって以降、一族の数は大幅に減ったのだ。
 政界が財界の下に位置することは常識であったが、それは今も変わっていない。
 フユノがその気になれば、総理の首すら好きに改造出来よう。
 ただし、彼女がそれをする事は無い−たった一つの場合を除いて。
 すなわち、碇シンジの為でなければ。
 すべてをシンジのために、そう思っているフユノだが現在は病床におり、それもシンジが原因である。
 悲嘆でげっそりと窶れているのは、無論元凶がちっとも姿を見せないせいだ。
 本人も自分のせいだと分かってはいるが、割り切りが完璧なら、今頃人類は宇宙まで支配しており、こんな惑星に逼塞してはいないだろう。
「警察はそんなに暇なのかい?」
 窓の外を眺めていたフユノが、そっちを見たまま口を開いた。
 ほぼ、二日と開けずにここへ来る冬月コウゾウだが、一介のサラリーマンでも隠居した好々爺でもない。
 桜田門の頂点に立つ警視総監であり、日本中の治安と安全をその双肩に背負っている筈−なのだ。
「いいや。だが、見張っていないと、あなたが何をするか心配でね」
「こんな老婆に何が出来ると言うんだね。後は、白骨化を待つだけの身だよ」
「だから、私が来なければならないんだ。他の事なら、何があっても泰然自若のあなたがどうして、シンジ君の事になると自信を喪失するんだ」
「儂の孫だからだよ」
「……」
 ふう、と冬月が内心で溜息をついた時、廊下で鈍い音がしたような気がした。
(ん?)
 SPを二人貼り付けてあるし、何よりもこの病院において襲撃などの不安はない。
 おそらく、廊下で何かあったのだろうと、冬月が立ち上がりかけた時、ドアが向こうから開いた。
「やっぱり、日本は暇なんだ」
 シビウを後ろに、開口一番の台詞がそれであった。
 冬月の眉がちょっと寄りかけた刹那、背後の気配に振り向くと、フユノが跳ね起きた所であった。
「シンジ…来て…来てくれたのかい…」
「日干しになる前に末期の水を」
 奇怪な事を口走ると、シンジはうっすらと笑った。
 
 
 
 
 
 病院の外へ出たすみれは、すぐに宮田の姿を見つけた。
 無論、すみれが言った通り神崎家に仕える執事であり、すみれの事はお襁褓の取れない頃から知っている。
 と言うよりも、母雛子をよく抑えてきたと言った方が正解かも知れない。
 今、スイスのサナトリウムで療養中の雛子だが、雛子と比べればすみれなど、まだまだお尻の青い小娘であり、癇癪とてさしたる事はない。
「宮田」
 すみれの声に気付き、恭しく一礼した。
「お嬢様、ご無事でしたか」
「無事?わたくしが危害など加えられる訳はないでしょう。まして、碇さんがご一緒なのに」
 碇、の名前に宮田の表情が僅かに動く。
 
 
「最近、本宅へもあまり戻っていないようだな、すみれは」
「はっ」
「それと、寮の方へ屋敷の者が入れない、とはどう言うことだ」
 神崎忠義の表情が険しいのは、無論女神館の、と言うよりも碇シンジに原因がある。
 すみれが風邪に倒れたと知り、すぐに医師団を派遣したら、中に入る事すら出来ずに追い返された。
 聞けば、結界が作動したという。
 しかも、料理当番は各人に回ってくるから、すみれの時は料理人を行かせるか、或いは料理を運ばせていたのだが、最近はちっとも言ってこない。
 と言うことは、自分で何とかしているのだろうが、それにしたって忠義としては面白いものではない。
 本来ならこの屋敷にずっと、自分の手元に置きたかった孫娘なのだ。
「でも、自分で出来るようになったのなら、それはいいことだと思いますが」
 忠義に頭が上がらない重樹が、珍しく口を挟んだのは、決してシンジを庇った訳ではない。
 二人とも、既にフユノが入院しており、ミサトが悪戦苦闘しながら代行している事は知っているが、重樹の方がその事を重く見ているのだ。
 即ち、その原因がシンジにあると言う事を。
 原因がシンジと言う事は、フユノが黙って受け入れたか、或いはシンジの力量がフユノを凌駕したと言う事になる。
 後者ならともかく、もし前者だとしたら対碇シンジのそれは、そのまま碇フユノを敵に回す事になり、それの意味する所の認識は、確かに重樹の方が上であった。
 だが、
「お前は何も分かっていない。すみれは、あんな所で腐らせる娘ではない。第一、家事を自分でしなければならぬような境遇に、私は置いた記憶はないぞ」
「そ、それはそうですが…」
「宮田!」
「はっ」
「遅かれ早かれ、いずれは摘まねばならぬ異分子だろう、この碇シンジと言う男は。過程がどうあろうと結果が全てだ。名前の未記入で試験を落ちるなど言語道断、ましてこんな奴がすみれと一つ屋根の下だなどと、断じて容認は出来ん。良いか、この男の事を完全に調べあげるのだぞ」
「はい」
 頷きはしたものの、宮田も唯々諾々と承った訳ではない。
 すみれに取ってもう一人の祖父みたいな彼は、この時点で二人が知らぬある事を掴んでいたのだ。
 すなわち、碇シンジが『すみれお嬢様』を呼び捨てにしていると言う事であり、事もあろうにそれをすみれが了承しているらしいと言う事であった。
 よほど鈍感でなければ、それの意味する事くらい分かる。
 どうした物かと考えていた所に、すみれからの連絡があったのだ。
「碇さんにお誘いされたのよ」
 それを聞いた時、一瞬さすがの宮田も絶句した。
 だが次の瞬間、
「薙刀を持って付いてきて。ただし、決して目立つ動きはしないように」
 その言葉を聞くのと同時に、宮田の顔が引き締まった。
 そこには確かに、神崎家に半世紀近く仕えてきた執事としての顔があった。
 
 
「それはそうと宮田」
「はい」
「目立つ事はせぬように、そう言って置いた筈よ。わたくしが持ってくるように言ったのは、碇さんに何かされるなどと、思っての事ではなくてよ」
 しかしすみれは、シンジに宮田の事など知らぬような素振りを見せていなかったか?
 だとしたら−女優のそれにシンジが引っ掛かったと言う事になるのだが。
「申し訳ありません、すみれお嬢様」
 深々と頭を下げた宮田に、
「まあ、いいわ。ただし、以後はわたくしが持てと言うまで動いてはなりません、よろしいわね」
「はっ」
「それと、そのコートは屋敷に戻しておいてちょうだいな」
「し、しかし…」
「何ですの」
「この寒い中、お嬢様はいかがなさいます。そんな薄着で万が一、風邪などお召しになったら…」
「ならないわ」
 否定に、何故か笑みに近い物があるのを宮田は知った。
「もっと、もっといい物があるからいらなくてよ。そ、そんな事よりコートはすぐに戻しておきなさい。手になど持って、痛んだらどうするおつもり」
「分かりました、では直ちに」
 早足で去っていくそれを見ながら、
「どんなお値段でも…碇さんのそれには敵うはずありませんわね」
 言ってて恥ずかしくなったのか、ぽっと赤くなった顔を隠すように足早に中へ戻っていく。
 が、それを逐一受付から見られていた事を、無論すみれは知らない。
 何よりも、このシビウ病院の敷地内に於いて、密談など決して不可能なこともまた。
 
 
 
 
 
「いい窶れ具合だ。ただし、担当医を藪と断ずるには不安材料が残る」
 そう言ってシビウを振り返った。
「シンジ君、何があったのかは知らないが、一時の感情の動きに左右されるのは感心せんな。白昼堂々、暴行傷害もどきをしでかすものでもある…!?」
 その身体が硬直したのは、シンジからの視線でもなく、妖艶な女医の針金の動きでもなかった。
 ついさっきまで、気力を全て喪ったように、焦点の合わぬ視線を窓の外に向けていた老婆からの視線であった−それも、浴びた者を呪縛せずにはおかぬ凄烈とも言える程の殺気を帯びたものが。
「あんたがシンジに手錠を掛けてみるかい−この儂の前で」
「い、いや私はその…」
 フユノがやつれて行くのを目の当たりにしていただけに、つい口から出てしまったのだが、まさかフユノから殺気をぶつけられようとは思わなかった。
 硬直している警視総監をよそに、
「まったく、ベッドでも元気で危ないばーさんだ」
 シンジの言葉に、フユノの顔がぐにゃっと緩む。
 こんな顔など、他では死しても見せないだろうが、シンジの言葉に何かを感じたからなのは間違いない。
「俺のことを、シンちゃんとか呼ぶのを一人減らしておいた。で、その時に聞いたんだが、売られた娘の研究所、そこの職員はどうした?」
「レイが話したのかい」
「お嬢様に人は斬れない、そう思ってたが教育が出来てたようだ。ここの役に立たない看護婦とは大違いだな」
「恐れ入るわ」
 シビウが妖艶に微笑んだ。
 ただし、どの辺が恐れ入ったのかは分からない。
「シンジの出番はないよ」
 あっさりとした、だが通じる者に取ってはこれ以上ない返答であった。
「あったのは葬儀屋の出番だけか、はーあ」
 大仰に溜息をついたのは、自分が始末でもしたかったのだろうか。
 もっとも、フユノの性格を考えれば、聞く前から答えはわかっていたようなものではあるが。
 ただしそれが、治療を求めて人々が訪れる病院で、なおかつ警視総監の前でする会話として適当かは別問題だ。
 とは言え、一人はもっか硬直中だし、当該の院長は性格に問題の無い医者がいない事を、もっとも端的に表している人物でもあり、問題はあるまい。
 ふむ、と頷いてからフユノの顔を眺め、
「少しやつれたねえ」
 それを聞いた刹那フユノが顔を逸らしたのは、顔を見られたく無かったからだ−みるみる涙のわき上がってきた双眸も。
「シビウ、元通りに完全治癒まで掛かる日数は?」
「三週間ね−通常は」
 通常は、と言った。
 では今回は?
「ただし、治療代は余分に貰った事だし、その分投薬も増やせる。そうね、三日あれば十分よ」
 三日、それはシンジがすみれに告げた日数と、図らずも一致している。
 もっとも、シンジの場合シビウの言葉を読んでいた節が強く、口づけを受け入れたのもその辺りに原因がありそうだ。
「姉貴が色々やってるようだけど、そろそろ疲れて来る頃だ。とっとと変わってやった方がいい」
 小さく頷くのが、フユノには精一杯であった。
「じゃ、俺はこれで−シビウ?」
「客人のようね」
 指輪の煌めきと共にドアが開く。
 立っていたのはナースであった。
 ただし、荷物付き。
「碇シンジ様宛に、お屋敷から荷物が届いております」
 恭しく一礼したが、その荷物を見てシンジは何とも言えない表情になった。
 そこにいたのは、たった今話に上ったミサトだったのだ。
 そして、瞳と。
 それはいいが、共通点は二人の顔にある引っ掻き傷。
 歳問題から、結局取っ組み合いになった娘達だが、そこまではシンジも知らない。
 だが、その表情を見れば何があったか位はすぐ分かる。
「あの…」
 シンジが言いかけた時、
「シビウ先生、この物体は片づけても宜しいでしょうか」
 訊ねた声は無機質な物へと変化しているが、理由は勿論対象にある。
「冬月総監、この病院では物騒な物の持ち込みはお断りしてある。今後、二度と持ち込まないで頂こう」
 未だフユノの呪縛が解けぬ冬月に、凍夜の白刃にも似た台詞が向けられ、その表情が見る見る白蝋と化していく。
「不燃物で良ければお引き取りさせて頂くわ。望まないのなら、さっさと持って帰って下さらない?」
 六十を越した老人が、体格のいい部下二人を担いで、蹌踉とした足取りで去っていくのを、運んで来られた荷物娘二人が唖然として眺めた。
 が。
「『い、痛い』」
 ぎうう。
 シンジがその頬をぎううと引っ張ったのだ。
「姉さんが酔っぱらいと喧嘩したなら分かる。で、何で瞳が付いていてそうなる?しかも瞳の頬のそれは何?」
「そ、それはあの…」
「全く、女同士ってどうしてもどれもこれも肉弾戦が好きなんだか」
 小さく呟いたシンジに、フユノがちらっと視線を向けたが、その顔に涙の痕は微塵も見られない。
 涙の方で、数十秒とせぬ内に撤収したらしい。
「シンジ」
「ん?」
「この二人には、儂がよく言っておくよ。お前に迷惑を掛けるなとね」
「そうしてもらおう。じゃ、治ったらすぐ公務に戻るんだぞ。俺に代理、とかおかしな話が舞い込む前に」
「分かっているよ、シンジ」
「じゃ、俺はこれで」
 軽く手を上げて、シビウと共に病室から出て行くシンジ。
 見送るフユノの相好は崩れていたが、その姿が消えると同時に、
「ミサト、瞳」
「『は、はいっ』」
「愚か者どもが」
 地底から響いてくるような声に、二人はびくっと身を硬くした。シンジの数分と掛からぬ来訪だったが、完全に復帰したらしい。
 部屋を出たシンジは、
「ところで、レニはどうなってる?」
 と聞いた。
「ほぼ出来上がってるわ。じきに宅配してあげる」
「それは良かった」
「…ん?」
「何?」
「あの子の分を合わせれば、口づけだけでは足りなかったわね。舌を入れても良かったようね」
 病室の前での、院長と見舞客の会話である。
「ここの地下、確か鉱泉があったね。今度一緒に入る、と言うのは?」
「……」
 極めて珍しい申し出に、一瞬シビウが言葉を喪った。
 これも非常に珍しい現象である。
「約束よ」
 少しだけ焦ったようなような言葉に、シンジは軽く頷いた。
「はいこれ」
 すっと差し出された小指に、すぐ意図を知ってシビウのしなやかな指が絡みついた。
 
 
「で、なにしてたのさ?」
 ロビーに降りたシンジは、うろうろしているすみれを見つけて保護に成功した。
「いえ、それがあの…」
 同じ所を通った筈なのに、何故かまた、ここへ戻ってきてしまったのだと言う。
「だからシビウ病院なんだよ、院長の名に相応しい所だ」
「え?」
「なんでもない。さ、行こうか」
 促したシンジは、無論起きた現象とその理由は分かっている。
 でなければ、ここに侵入など出来はしない。
 ただしそれはすみれには言わず、並んで外に出た二人が空を見上げると、いつの間にか薄日が差し込んでいた。
「天気上がった…食事でも行こうか」
「そうですわね」
 はい、と差しだされた手に一瞬躊躇したが、何故かもう背後からの視線は感じなかった。
「じゃ、じゃあ…」
 おかしな感じだが、遠慮がちに握り返した手が、力強く引かれる。
 寄り添って歩いていく二人だが、
「すみれお嬢様、やっぱり…」
 疾風のように屋敷に戻り、飛ぶように戻ってきた老執事が、じっとそれを見ていた事をすみれは気付いていない。
 
 更に。
「あれが碇シンジか。へえ、なかなかやるじゃねえか」
 もう一対の視線が二人を偵察している事は、カップルの内一人だけが気付いていた。
 
 
  
 
 
(つづく)

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