妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第四十六話:晴れ、所により一時アイリス(後)
 
 
 
 
 
「ふふふーん♪」
 妙にご機嫌なアイリスを眺めながら、やっぱり嘘の方が良かったかなと、シンジはぼんやり考えていた。
 出自のせいか、お洒落なドレスに身を包み、ちょこんと座っている姿はなかなかの物である。
「おにいちゃん、何にするか決まった?」
 メニューから上げた顔には、満面の笑みがあふれている。
 
 
「NO、だ」
 シンジが一瞬考えたのを、アイリスは見逃していなかった。
 でも違う、と言うかと思ったら、あっさりと認めた。
「やっぱり…」
「で、どうしてそう思った?」
「なんとなく違うと思ったの。それと…」
 遠慮がちにすっと唇を指差して、
「おにいちゃんのじゃないような気がして…」
 言いながらぽうっと頬を染めているアイリスに、
「ったくませてるんだから」
 言いかけた途端、
「何か言った!?」
「ううん、何でもない」
 さっと逸らしたシンジの視線を、アイリスのそれが追ったが、すっと離れた。
「でもおにいちゃん」
「ん?」
「アイリスにしたのフェンリルさんでしょ、どうして駄目って言わなかったの?」
「泣かれると嫌だから」
 単純な答えにやや拍子抜けしたアイリスだが、
「じゃ、アイリス以外でもしてたの?」
 ふと気が付いたように訊いた。
「そんな事はないよ」
 シンジは首を振って、
「他の連中なら、入った瞬間にウェルダンだ。そうだね、肉汁たっぷりのこんがりだ」
 にっこり笑ったが、この笑みは怖い。
 何しろ、既に茹でアスカと茹でレイを作りかけたシンジなのだ。
「ア、アイリス焼いても美味しくないよう」
 されると思ったのか、顔色が少し青くなっている。
「大丈夫、アイリスにはしないから」
「本当に?」
「多分」
「うー…」
「冗談ですよ、冗談。今ここでは、一番アイリスが力無いからね」
「!?」
 表情が強ばったアイリスに、
「弱いって言う事じゃなくて、胸のそれ。そのペンダント、力の抑制用だね?」
「ど、どうして知ってるの?」
「アイリスはまだ子供だからね。自分で制御しきるのは無理だよ。ま、さくらとかも暴走したりするけど」
 何を思い出したのか、シンジはふふふと笑った。
 笑った顔のまま、
「現時点で、アイリスの能力はどの程度解放されている?」
 と訊いた。
「かなり少ないの」
「ほう」
「この間の対降魔戦、さくらとマユミを連れてテレポートは出来たけど、感情が働いては駄目なの」
 対降魔戦、などという言葉を使ったのは、シンジの影響だろうか。
「つまり、暴走は無理と言う事?」
「う、うん…」
 何故か、アイリスの声が小さくなる。
「んー?」
 ひょいと顔を動かして覗き込むとすっと逸らす。
「ん〜?」
「っ!?」
 赤くなった顔を逸らしたアイリスに、
「前に、暴走した事があるの?」
「そ、そ、そんな事ないもんっ!」
「嘘つきは嫌い。さっさと降りて」
 顔は笑っているが、実に意地が悪い。
「ま、ま、待ってっ」
 折角確保した場所なのに、放逐されては大変だと慌てて、
「ま、前にね…い、一度だけあったの」
 消え入るような声で言った。
 しかし告白を引き出した割には、シンジの口調は驚いた様子も見せず、
「ま、そんな事もあるか。ところでもう一つ」
「なに?」
「首のそれは、碇フユノが付けろと言ったの?」
 顔は見なかったが、シンジの口調から笑みが消えたのをアイリスは知った。
「ううん、アイリスが頼んだの」
「アイリスが?何故」
「アイリスはまだ子供だから、駄目って分かっていてもまた暴走しちゃうから。だからおばあちゃんに頼んだの」
 簡単に言うが、感情の波を一定ラインで感知するシステムなど、そう簡単に出来る代物ではない。
「そっか、それ見せてくれる?」
 おそらくは、マヤかリツコ辺りが作った物だろうと見当を付けたが、その口調は元に戻っていた。
 アイリスもそれに気づき、
「う、うん」
 がさがさと胸元から取りだしたのは、純金製の十字架(クロス)であった。
 無論、中にはセンサーもどきが入っているから、全部が金製な訳はなく、おそらくは塗装面だけだろう。
 とは言え、見た目は重厚な感じに作られており、かなりの値打ち物に見える。
「へ、変じゃないかなあ」
 ただ、とかく罪とか購いとか、そう言った関係の象徴に使われるそれだけに、先に訊くことにした。
「デザインは?」
「形?これはね、アイリスが考えたの。クリスマスの時にね、教会で見たそれがすっごく綺麗だったの」
 子供らしく、目を輝かせているアイリスを見て、シンジは内心で微笑した。
「綺麗だよ」
「うんっ」
 満面の笑みを見せると、
「大人になればね、きっともっと似合うの。でもその時には、抑えなくてもいい物を使うの…大人?」
「どうしたの」
「大人…思い出した!」
「え゛?」
 何となく嫌な予感がしたシンジだがもう遅い、
「アイリスに嘘言った事、まだ許した訳じゃないんだから」
(あーしつこい)
 無論口にはせず、
「あ、あのー、それでどうすればいいんでしょう」
「ふふん」
 何やら怪しく笑うと、ぴょんと膝から降りた。
「許してあげないこともないよ、おにいちゃん」
(許してもらう…って俺なの?)
 脳裏に?マークがぽこぽこ浮かんだシンジだが、そんな事にはお構いなく、
「おにいちゃん今日暇?」
「今日?別にいいけど」
(げっ)
 おかしな事を、と気付くべきだったのだ。
 しまったと悔やんだ時にはもう、アイリスはにっこりと笑っていた。
「じゃ、今日の夜お食事行きましょ。いいよね、おにいちゃん?」
「…はいはい」
 気乗りはしないが、これで済むならよしと、シンジは首を縦に振った。
「約束だよ、おにいちゃん」
「分かってる、破りはしない」
 軽く頷いたシンジを見て、
「じゃ、後でおにいちゃんの部屋に行くからねっ」
 言うなり、すっとその姿が消える。
 少女を吸い込んだ空間を見ながら、
「だってさ」
「私の知った事ではない」
「あ、従魔のくせに冷たいぞ」
「お前ごとき小娘が、マスターを引っ張り出すなど一億年早い、そう言えば良かったのか?」
 真っ白な毛皮をつつきながら、
「そうじゃないんだけどさ…ま、仕方ないか」
「あっさり諦めたのね」
「うんて言っちゃったし。そんな事よりフェンリル、もう逃がさないぞ」
 巨体をがしっと掴むと、その脇腹に無理矢理頭を乗せた。
「お昼寝の時間が足りない。夕方になったら起こして」
 そう言うと、十秒も経たず寝息を立て始めた主に、妖狼はふうと溜息をついた。
「断っても良かったものを。夜香が聞いたらあの娘、全身の血を吸い取られるな」
 
 
 
 
 
「アイリスに任せるよ。適当に選んじゃって」
 人任せのシンジは、ずらりと並んだワインをぼんやり見ている。
「じゃ、コースにしておくね。焼き方はウェルダンでいい?」
「いいよ」
 頷いたのはいいが、アイリスが白ワインなど頼んだものだから、
「お客様、大変申し訳ございませんが、未成年の方にはちょっと…」
 当然の答えが返ってきたが、
「やだやだ、アイリスおにいちゃんと飲むの」
「は?」
 駄々をこねる少女に、たちまち店内の視線が集まり、さすがにこれはまずいと止めようとした所へ、上司らしいのがやって来た。
「お客様、どうかなさいましたか?」
 とは言え、店内の視線が集まっている原因に、分からない筈が無い。
「あ、いや何でもない」
 シンジが言いかけたが、ふと店員がおやという表情でアイリスを見た。
「何」
「失礼ですがお客様、イリス・シャトーブリアン様でしょうか?」
「そうだよ、何で知ってるの」
「やはりそうでしたか」
 表情が幾分緩み、
「実は私の娘が帝劇の、それもアイリス嬢のファンでして。本来は、未成年の方にアルコールはお出し出来ない事になっております。ですが、もしよろしければ、お出しできますよ」
「ほんとに!?」
 乾杯、とシンジと杯を合わせる事を想像していたのか、アイリスの顔がぱっと輝く。
 シンジも首を捻ったが、店の奥へと言いもすまいと黙ってみていた。
「少々お待ちを」
 一旦店の奥へ引っ込んだが、すぐまた戻ってきた。
「こちらに、ご署名をお願いいたします」
 カード伝票みたいな言い方だが、持ってきたのは色紙とペンであった。
 何のことはない、サインしてくれればとの条件だったのだ。
(んー?)
 一瞬首を捻ったシンジだが、売店にアイリスのサイン入りだけは無かった事を思い出した。
 もっとも、さくらとすみれのがあるとしか見ていなかったのだが。
「ありがとうございます」
 深々と一礼して戻って行ったが、まもなく別の男がワインを手にテーブルへとやって来た。
 白ワインが、アイリスのグラスに注がれていくのを見ていたシンジだが、表情が一瞬硬直したのは、
「さ、おにいちゃんも」
 とアイリスが言い出した時であった。
「ちょ、ちょっと俺も?」
「アイリスが何飲んでるか、知らないといけないでしょう?おにいちゃんは保護者なんだから」
 後半はもっとも、しかし全体では意味不明な事を言いだし、無理矢理シンジのグラスにも注がせたアイリス。
 ウェイターが下がっていくと、
「さ、おにいちゃん」
(…不覚)
 その辺のレストランだと思っていたから、最初からアルコールなど頭にない。
 従って、消化準備も頼んでいなかったのだ。
 頼んで断るフェンリルではないが、万が一いないと困った事になる。
 と言っても、住人達の間では蟒蛇シンジの印象があるし、崩すのはなんか癪だしと、グラスを持って待っているアイリスに合わせた。
「『乾杯』」
 グラスを傾けて、舌の上に乗せてから飲んでいく。
 年を考えれば奇妙だが、妙に様になっているアイリス。
 一方こちらはと言うと、グラスの中身が悪魔の体液に見えているシンジ。
 こうなればやむを得ないと、覚悟を決めた。
(南無三!)
 運を天に任せて、いっきにグラスを傾ける。
 食堂を滑り落ちる寸前、その感覚がふっと無くなったのをシンジは知り、内心で大きく安堵の息をついた。
「この前、おにいちゃんが用意した方が美味しかったけど、ここのもまあまあよね」
 ワイン評論家か、ソムリエみたいな事を言いだしたアイリスに、
「いい所知ってるね」
 と、取りあえず頷いておいた。
 褒められて気をよくしたのか、すっと手を上げてまた呼んだ。
「次は赤にして」
 アイリスの言葉にちらりとシンジを見たが、
「潰れたら背負って帰るから、構わないよ」
 懐から出したのは、ゴールドのクレジットカード。
 リツコにもらった代物だが、使うのはこれが初めてである。
 先日リツコに会った時、
「少しも使っていないのはどういう事かしら」
 と、もう少しで拉致監禁されそうになったのだ。
 無論目的は、シンジを使った新薬の実験に違いないのだが。
「…分かりました」
 出したくない、と言う良心の動きはあったようだが、客の意志優先でそれを抑え、ワインを手にして戻ってきた。
 
 
「おにいちゃん…アイリスの事変だって思ってる?」
 どこか舌足らずな声で訊いたのは、シンジがデザートに取りかかった時であった。
 飲んでいない−正確には自分が消化してはいないから、アルコールの影響はまったくない。
 アイリスと二人で、既に数本空にしているが、今すぐ酒気検査に引っ掛かっても、検査機はぴくりとも反応するまい。
 当然思考は普段通りだし、
「どうして?」
 奇妙な事を言いだした少女にも、穏やかな声で訊いた。
「子供って言われるのはやだって言ったり、でもおにいちゃんの前では子供って言ったり…アイリス変だよね」
「どうして」
「え?」
「アイリスに限った事じゃないけど、女の顔が一つだったら困るよ」
「ア、アイリスお化けじゃないよ」
 三つ首とか、そっちの意味に取ったらしい。
 ちがうよ、と僅かに苦笑して、
「例えば結婚したら、子供に見せるのは母親としての顔。だけど、自分の夫に見せるのは、勿論母親じゃなくて妻としての顔。そしてよそに行けばまた、そこでの顔を身に付ける。女が幾つも顔を持ちたがるのは、さしておかしな事でもないよ」
「ふえっ?」
 ほんのりと赤い顔は、無論ワインのせい。
 そのアイリスには、少し難しかったかもしれないと、
「ましてアイリスの場合、女神館の住人達がそんなに精神年齢で大きく上を行っていないからね。アイリスがそう思うのも無理はないよ」
「ほんとに?」
「うん」
「ほんとのほんとに?」
「本当だよ」
「良かったあ」
 嬉しそうに笑い、
「アイリス、だからおにいちゃん大好きなんだよ。ずっと、ずっとアイリスの側にいてくれるよね?」
「出来るだけ」
 駄目、とは言わなかった。
 しかしいいよ、とも言わなかった。
 ただそれに満足したのか、アイリスはグラスを傾けると一気に空けた。
(後三分かな)
 アイリスがくてっとダウンしたのは、シンジが時計を見てから二分五十秒後である。
 
 
「迷惑かけたね」
「いえ、とんでもございません」
 首を振ったのは、さっきアイリスからサインをもらった男である。
 ボーイ長でもあろうが、それが自ら出てきたのだ。
「飲んでは大変かとも思いましたが、眠ってしまわれましたね」
 ちらりと、シンジの背にいるアイリスに視線を向けた。
 ワインは出せない、と言った時の反応からして、酔ったら虎にでもなるのかと思ったら、あっさりと寝てしまった。
 次々とグラスを空けている間も、頬を染めこそすれ、大きな声を出すこともなく、ほとんど酔いの兆候は見られなかったアイリスなのだ。
「女優だもん、きっとそう言うだろうな。ところで」
「何でしょうか」
「良くは知らないが、アイリスのサインは出ないのか?」
「はい、極めて希少です。劇場でもサインをする事は少なく、売店の方にもミスアイリスのサイン入りは売られていません。あの、失礼ですがお客様は?」
「俺?帝劇の住人達が住んでいる所の管理人」
「そうでしたか」
 感心したように、
「皆さんはいずれも、舞台を背負って立つ人材ばかりです。宜しくお願い致します」
 と、まるで我が事のように深々と頭を下げた。
「分かっている」
 軽く頷きながら、これが帝劇の人気なのかと、内心では感心していた。
 店を出てからふと気づき、出したカードを見てみると、ちゃんと自分の名前になっている。
 確かもらった時点ではシンジ名義ではなく、何時の間に取り替えたのだと妙な感心をしながら、アイリスを背に月の下を歩いていく。
 と、その足が止まった。
 首に巻き付いたアイリスの腕に、ほんの少しだが力が入ったのだ。
「おにいちゃん…大好き…」
 起きている感触はないから寝言だろう。
 それを聞いたシンジは、
「はいはい、お姫様」
 と珍しく、冷やかす口調でもなしに呟いた。
 
 
 館に帰ってきたシンジが見たのは、裏庭で一心に薙刀の修練に励んでいるすみれであった。
 息遣いからして、数分のそれでは無さそうだ。
 それを見たシンジは何を思ったか、にゃっと笑った。
 アイリスを背にしたまま、そろそろと近づいていき、一息ついているすみれの後ろへそっと忍び寄った。
 そして次の瞬間、その耳にふうっと息を吹きかけたのだ。
「はううっ!?」
 妙に色っぽい声とともに、びくっと身体を震わせたすみれに、シンジはにやあと笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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