妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二十八話:シンジ=切り裂きジャック?
 
 
 
 
 
「お目覚め?」
 医者のような口調で訊いたシンジに、アスカの焦点が合った。
「あーっ、あんた!」
「ん?」
「あんた、あたしに何したのよっ!」
「ちょっと水掛けて、耳元で囁いただけ」
「なっ!?」
 アスカが眉をつり上げた所へ、
「アスカ、いい加減にしなさい」
「ミ、ミサト…?」
「シンジが来なかったら、あんた一生起きなかったのよ」
「え?」
「起こさなきゃよかったかな」
 うーんと考え込んでから、
「もう一回寝てみる?それも永遠に」
 アスカに真顔で訊いた。
(こいつ本気だ…)
 さすがにアスカの顔色が変わり、
「べっ、別にいいわよっ。あんたも寝かせるの面倒でしょ」
「それもそうだ。じゃ止めておこう」
 拍子抜けするほど、あっさり引き下がったが、
「でも力量分からないと、いずれとんでもない目に遭うよ」
 その言葉に、
「よ、余計なお世話よっ」
 叫んだものの、力は入らない。
 ぐらりとよろめいた所をシンジに支えられ、
「は、離しなさいよっ」
「落ちるぞ」
「離さないでっ」
 はいはい、と別に気を悪くした様子もなく、
「少し横になってた方がいい」
 すっと横たえると、上着を脱いで掛けてやる。
 しかし、こんな所を戸山町の兄妹に見られたら、いくらシンジでも抑えきれるか判らない。まず麗香が危険だし、それを夜香もまた止めようとはするまい。
「……」
 抗わぬ姿に、ん、と頷き、
「山岸、風邪引く前に中に運んでいってやって。多分力は入らないから、ベッドには抱き上げて寝かせて」
「分かりました」
「ちょ、ちょっと大丈夫よっ」
「大丈夫じゃない、ほら行った行った」
 アスカの姿が消えてから、
「さてと」
 ゆっくり向き直り、
「問題児は一人足りないな」
 かすみの事であろう。
「さくらにはさっき言ったが、世話が焼けるのもいるし、帝都(ここ)が陥落して引っ越しするのが面倒な老体もいる。と言うわけでしばらくはここに残る」
 静かな声で言った時、いつの間にかフェンリルがいなくなっている事に、誰も気が付かなかった。
 その気配を、完全に消していたのである。
 シンジの言葉に、アイリスやレイは安堵の色を見せた。
 特にアイリスは、シンジがいなくなっては困る。
 せっかく出来たおにいちゃんなのだから。
「ただし俺は既に言った通り、指揮に付いてはかかわる気はない。藤枝の二人が、指揮は執れば良かろう」
 それを聞いた時、フユノの表情に危険な物が浮かんだ。
 が、口を開く前に、
「アイリスやだよ」
 可愛い抗議の声が上がった。
「どしたの?アイリス」
「アイリスはやだ。おにいちゃんの指揮じゃないと動かないよ」
 駄々っ子モードだが、シンジが何か言い出す暇は与えられなかった。
「私もお断りします」
「はあ?」
 さくらも続いたのだ。
「あの、さくら?」
「アスカさんは別として、他の全員は碇さんの力を見ています。私もマユミも、それにレイちゃんも。少なくとも私は、碇さんの指示なら絶対に安心して戦えます」
「二人ともそんなわがまま言わないの。子供じゃないんだから」
 が、
「アイリス子供だもん!」「いやです、いやです」
 駄目だこりゃ、とシンジが宙を仰いだのを見て、フユノの表情が和らいだ。
 とその時、
「御前様」
 あやめの声がした。
「なんだい」
「責任は取らなければなりません。私とかえでは、本日付けで辞任します」
「こらそこ」
「え?」
「表層的な問題じゃない、もっと違うところに問題があるんだ」
「違う…ところ?」
 分かっていないかえでを見て、
「姉さんちょっと」
 ミサトを呼んだ。
「何?」
 呼ばれるまま、シンジの前に立った瞬間、シンジはその胸の中に手を突っ込んだ。
 一瞬呆気に取られた面々だが、それは三秒後に悲鳴へと変わった。
 姉の胸に手を突っ込んだ弟が取り出したのは、紋様の刻まれた銀のナイフ。
 シンジがそれを一閃させた直後、フユノの首からつう、と鮮血が流れ出したのだ。
 ナイフで斬りつけた、と知るには数秒を要した。
 まず血に悲鳴を上げ、その後にやっと原因を知った。
 動じていないのは、フユノただ一人。
 ミサトやリツコでさえも、さすがに顔色を変えた。
 まさかシンジが、切り裂き魔と化すなどとは。
 一閃しただけだが、皮一枚で斬ったのは三カ所。
 無論、いずれもまぐれではない。
「さすが、ミサト印は良く斬れる」
 軽く振ってからミサトに返す。
 碇フユノ、その存在は絶対的な物であり、文字通り神聖にして冒すべからざるものであった。
 事実ここにいるメンバーで、フユノに抗った経験を持つ者など一人もいないのだ。
 それを…それをシンジは傷までもつけて見せたのだ。
 すうと血の気が引いて蒼白になったのは、何を意味していたのだろうか。
 だが当のフユノは慌てた様子もなく、
「後数センチ斬っても大丈夫さ。気が済むまで斬っておおき」
「ナイフが汚れる」
 その口調は、まだどこか冷たく聞こえる。
「……」
「と言うわけで、俺はどうやらジャック・ザ・リパーの生まれ変わりらしい。こんなのでも付いてくるか?」
 ジャック・ザ・リッパー。
 和訳すると、切り裂きジャックとなる。
 残忍と奸智を兼ね備えた切り裂き魔であり、スコットランドヤードに挑戦するかのように、その膝元で堂々と女性の切り裂き解剖を繰り広げた男である…おそらくは。
 曖昧なのは、とっ捕まっていないため、犯人がまったく分かっていないからだ。
 例え99.9%男と断定されていても、捕まっていなければ真実とはなり得ない。
 堂々と声明文を出し、そしてまったく見つからなかったのは、我が国に於いてはとある菓子メーカーの脅迫事件がある。
 人心を惑わした、と言う点では同じだが、ジャックの方は娼婦をざくざくと斬っており、脅迫犯の方は無差別だ。
 ある意味では、後者の方が恐怖を煽ったと言えるかも知れない。
 とまれ、祖母の首を皮一枚断ったシンジは、自らをそのジャックへとなぞらえた。
「碇フユノの絶対視、これがある限り俺のことは、未来永劫気に入るまいよ」
 人を切った、どころかその辺の木でも切ったような口調に、場が一瞬にして静まりかえった。
 
 
 
 
 
「え?あいつが?」
 シンジが去り掛けた、と聞いてさすがのアスカも一瞬驚いたような顔を見せた。
「でも、あやめとかえでもいい度胸してるわよね、って大丈夫よちゃんと降りられ…あら?」
 ずる、と落ちかけたアスカを、
「いいから、捕まって」
 マユミは、軽々と抱き上げた。
 体格の差はほとんどなく、いやむしろアスカの方が背は高いのだが、マユミはまったく苦にした様子を見せない。
 が、アスカがこれには赤くなって、
「ちょ、ちょっとマユミ、あたし赤ちゃんじゃないんだから」
「離したら、はいはいする事になるけどいい?」
「くっ」
「じゃ、下ろすわ」
 すっとベッドに下ろすと、上から毛布を掛けてやって、
「アスカ」
 幾分強ばった表情で呼んだ。
「な、なに?」
「今回の戦いで分かったのは二つ、一つは私達の力不足ね」
「……で、もう一つは何よ」
「碇さんとの絶対的な差よ。アスカも、腕輪の力で分かったでしょう」
「そ、それは…」
「碇さんを抜きにしてなら、私達に勝ち目はないわ。まして、降魔を向こうに回してこの帝都を守りきるなんて絶対に無理」
「しゃくにさわるわねえ、まったく」
 アスカはわずかに上体をずらすと、
「でもま、しようがないじゃない。あれだけ見せつけられたらね」
「え?」
 マユミには、アスカの反応が意外だったらしい、狐につままれたような顔をしているマユミに、
「あたしだって駄々っ子じゃないし、敵わない事位分かってるわよ。あたしが嫌ってると思ってたんでしょ」
「ち、違うの?」
 好意になったかと思ったら、
「障害は、大きい方が潰し甲斐あるってものよ、そうでしょ?」
 不可能と言う単語もあるのよ、と言おうと思ったが止めた。
「そうね」
 少し曖昧に頷いたマユミに、
「あたし疲れたからもう寝るね。おやすみ」
 言った三秒後、すやすやと寝息を立て始めたアスカを見て、
「そうね、お疲れさま」
 くすっと笑ったマユミは、ふと気が付いた。
 アスカが、シンジの上着をぎゅっと着たままなのに。
 そしてそれが、仕方なくとかやむなく等とは、幾分離れて見えることにも。
 
 
 
 
 
 静寂を破ったのは、意外にもレイであった。
「別にいいんじゃないの」
 視線が集まったが、
「斬りたいから斬った、訳じゃないだろうし、何か理由があるんでしょ?御前様」
 フユノの表情を肯定と見たか、
「だったらなおの事、ボク達が口を出す事じゃないよ。ボク達の親じゃないんだしさ」
 それを聞いてむう、と不満げになったのはさくら。
 無論、自分の台詞を持って行かれたからだが、
「ま、レイの言う通りね。あたしは範疇外だけど」
 ミサトが続けた。
「じゃ、シンちゃんそれでいい?」
「何が?」
「碇シンジが誰を斬っても、あたし達は口を出さない。その条件なら、残ってちゃんと見てくれる?」
 ふむ、と考え込んだシンジだが、
「ま、いいか」
 軽く頷いた。
「が、それはそれとして。あやめとかえで」
「な、何」
「これ、どうするつもりだったんだ」
「え?」
「言っちゃ悪いが、脇侍にあれじゃ戦力としてはきついぞ?」
「そ、それは分かってるわ…」
「それに」
 何か言いかけたが、ふとリツコを見た。
「リっちゃん」
「何かしら」
「棺桶に全身入る前に、病室に運んでいって」
 見た目は変わらないが、既に危険な領域に入っていることを、シンジの目は見抜いていたのだ。
「そう言うことだからさっさと行った」
 言われるまま向きを変えたが、
「シンジ」
「あん?」
「後は、任せたよ」
 フユノの言葉に、ミサトの顔色が一瞬変わった。
 さすがにミサトだけあって、危険な物を読みとったらしい。
「ちょ、ちょっと婆様」
 だが、
「よい」
 軽く手を上げて制すると、そのまま椅子を押させて去っていく。
 が、その後ろ姿へ、
「ちょっと待った」
「何?」
「携帯貸して」
「携帯?」
「マヤちゃんに電話するから」
「マヤに?」
 頷いたシンジに、リツコが携帯を渡す。
 何やら小声で電話していたが、
「明日、いやもう今日だな、全員休校ね」
「休校?」
「ほとんど全員が避難誘導に出ていたからな、今日は臨時休暇にすること。理事長、いいね?」
 ちょっと考えてから、
「分かったわ」
 ただしなぜか、よろしいですか、とはフユノには訊かなかった。
 去っていく車椅子を見ながら、
「シビウでなきゃな」
 シンジの呟きに、
「何ですか?碇さん」
 聞こえたらしくさくらが訊いたが、
「いや、何でもない」
 軽く首を振った。
 ただし、シビウでなければ保たない、それを含んだ意味だと気付いた者は、この場に一人もいなかった。
 幸いであったろう。
 事実、病室に帰り着くなりフユノは、意識不明の昏睡状態に陥るのだが。
「さて、話を戻そう。現状のままじゃ、はっきり言って降魔相手なんか無理だ。使えるのはそう、さくらと山岸くらいだな。後は、綾波と惣流を足して2を掛ける位すれば何とかなるか」
 要するに、使えないという事になる。
「シンちゃん、そんなに…駄目なの?」
 完全に否定されて、さすがに立場が無いと思ったのかミサトが訊くと、
「二人はどうだ?」
 と、あやめとかえでを見た。
 返す言葉無く俯いたのが、その返答であったろう。
「と、言う事だ」
「あ、あのおにいちゃん…」
「ん?」
「ア、アイリスも駄目なの?」
「だーめ」
 魔王の宣告に、みるみるその顔が曇っていく。
 が、
「生身なら強いけどね」
 崩れる、危険なライン寸前で踏みとどまった。
「え?」
「超能力は、エヴァ越しじゃ落ちるでしょ?」
「う、うん…」
「本当は、ここで後衛に回った方がいいような気もするんだけどね」
 一応使える、と診断されて笑顔になったアイリスだが、エヴァに乗っては使えないとシンジは言ったのだ。
 アイリスが搭乗組である以上、それはNGを出されたも同然である。
 ミサトは一人気づいたが、それは口にしなかった。
「兵士の及ばない所は、基本的に指揮官のミスにある。もっとしっかりしてもらわないと」
 そう言ったシンジの視線は、ミサトを視界に入れている。
「うーん、面目ない」
 頭をかいたが、内心はよく分からない。
「ま、何にせよ」
 シンジが締めくくるように、
「今日は全員、それなりに良くやったよ。どんな勇者でも、最初はレベル1だし、スライムにも手こずるんだから」
 RPGのレベル上げの事でも、その頭にはあったのだろうか。
「あ、あの…」
 少しためらいがちに口を挟んだかえでに、
「どしたの?」
「ぜ、全員その…レ、レベル1なの?」
「さくらが10、山岸が6、後は全員5以下。ついでに、碇シンジのレベルは99」
 ただし、シンジを知る者が聞けば、揃って否定する事は間違いない数字だが。
 あっさりと、そして絶望的な返事が返ってきたが、何とか気力を起こして、
「そ、それでどのくらい行けばその…いいのかしら」
「そうだな…」
 ん、と一瞬宙を見上げてから、
「どの位?」
 と何故かアイリスに訊いた。
「え?えーとその…わ、脇侍をちゃんとやっつけられる位?」
「綾波は?」
「脇侍を一人十体位かな」
 と、そこへマユミが戻ってきた。
「ご苦労さん、レベル6」
「…は?」
「何でもない。ところで今、全員の目標を訊いていた所だ。山岸はどう?」
「どうって…」
「アイリスと綾波は脇侍の撃退、だそうだ」
 これはすぐに、
「さくら達はエヴァの習熟、私達はここの完全な防衛です」
 なかなかいい答えが返ってきた。
 が、シンジは更に、
「で、レベル10は?」
 とさくらに訊いた。
「えーと、うーんと」
 何やら考えているのは、どれも違うと朧気に知ったものか。
「あ、あのもしかして…ぎ、銀角…ですか?」
 だがそのもしかしてであり、
「ご名答」
「『えーっ!?』」 
 一斉に声が上がったが、
「えー、じゃないっての。銀角が襲ってきたらどうすんのさ」
「そ、それは」「その、あの…」
「と言うわけで、一人頭銀角十体」
 ど素人に、いきなりエベレストを登頂しろと言うのに似ているかもしれない。
 だがシンジはきっぱりと言いきると、
「それが絶対の最低ラインだ。ま、能力は開発して行けばいいんだし、頑張って行きましょう」
 どっかの教官みたいな口調で告げたが、その言葉に彼等は思いだした。
 すなわち目の前の青年が、絶対的安心とも言える能力を持っている事を。
 そしてそのシンジが、ここに残ってくれると言った事を。
 教え方は不明だが、優秀すぎる先生が出来たのだと言うことも。
「『はい』」
 元気良く返ってきた声に、
「いい返事だ」
 シンジは軽く頷いた。
 続けて、
「さっき理事長にも言ったが、今日は全員休校になっている。疲れただろうから、ゆっくり休むといい。特に、綾波とさくら、それに山岸はよく寝ておくように」
「『え?』」
 一瞬?マークを顔に付けた三人だが、いずれもシンジのブレスレットを身に着けた者だとは、気づかなかったらしい。
 それでも揃って頷いたのを見て、
「アイリスも、ちゃんと休んでおくんだよ」
「うんっ」
「さて、じゃ解散」
 シンジの声に一斉に中に入っていく。
 ただし、住人達だけ。
 残った三人を見て、
「どうした?姉さんも、片づけは一眠りしてからにした方がいいよ」
「え、ええ分かってる…」
 どこか歯切れの悪いそれを、
「ほら、いいからさっさと行く」
 重いお尻をぎゅっと押されると、何か言いたげだったがそれでも出ていった。
 残るはあやめとかえでだけ。
「さて」
 二人を見たシンジだが、
「もう少し、使えるかと思っていたけどな」
 静かな口調で言った。
「先の降魔大戦の時、真宮寺一馬がその身を犠牲に強大な降魔を封じた。あれと同じ事を繰り返すつもりか?あやめ」
「そ、そんな事は…」
「ならば、現状ではあまりにも力が足りない。いや、足りなさすぎると言った方がいいだろう。それと、一つだけ言っておく」
 口調が幾分低くなったような気がして、二人の背に寒い物が走った時、
「まだ始まったばかりだが、この降魔との戦いで、犠牲を出さないと言うほど俺は、きれい事を言うつもりはない。けが人に加え、死者も出るかも知れない。だがそれでも俺は決して、誰かを犠牲にして事を終わらせる事はしない。この俺の名に賭けても」
 さくらの事を言っている、と二人にはすぐに分かった。
 破邪の血と、それに霊刀を持っているさくら。
 だが、彼女を人柱にはさせないとシンジは言ったのだ。
「誰かが人柱になって助かるのは、周りが無力で無能だからだ」
 冷たい口調で言い切ると、
「今、この降魔にその身を持って抗し得るのはただ一人、真宮寺さくらだけだが、さくらを人柱にと言う者があれば、この俺が必ず滅ぼしてくれる。それだけは忘れるな」
 結局一馬の身を犠牲にした、いやしなければこの帝都は守り得なかったろう。
 とは言え、シンジの言葉はあやめには余りにも痛烈な物であった。
 皮肉ではない、と分かっているだけに、俯いたあやめの双眸から、涙が滴り落ちた。
「お婆が何を考えて、お前達二人を指揮に置いたのか、俺には分からない。年寄りのやる事など、そんな物だからな。だが、団員達をあたら、いやここの住人すべてを無駄死にさせる気でなければ、指揮官自らの大幅な能力増が必要だ。少なくとも、銀角程度に振り回されるようではだめ」
 幾分トーンを落として、
「まずは自分の身体を、それが及ばなければ武器の改造を。二人とも、する事はまだまだ多いよ」
 俯いたまま、わずかに力無く頷いた二人に、
「ミクロ菩薩が退いたから、次は葵叉丹の奴が出てくる可能性がある」
「あ、葵叉丹?ミクロ菩薩?」
「そう、さっきのはミクロ菩薩で次は葵叉丹だ」
 とシンジは頷いたが、それがあやめの知り合いの、成れの果てだとは言わなかった。
 帝都を守るべき筈のそれが、悪の大王になって戻ってきたのだとは。
 その代わりにただ、
「ま、前に一度ボコボコにした相手だし、勝てないことはない」
 またも、二人の度肝を抜くような事を平然と言ってのけると、
「ただし、今のメンバーじゃ大苦戦は目に見えているし、気を抜くことだけは絶対に許されない。それは忘れないように」
「『は、はい…』」
 頷いた二人に、
「二人とも、戻って休むといい。しばらくぶりの戦闘で疲れただろう」
 どこか上司のような口調だったが、二人は黙って頷いた。
 シンジに背を向けたその足が止まり、
「あの…足の治療してくれて…ありがとう…」
 小さな声で言ったあやめに、
「姉貴と綾波がしっかりしてないからだ。まったく水のくせに」
 ぶつぶつ言いかけたが、
「ま、それはそうともう完治した筈だ。あの場面なら、出来るだけ怪我はない方がいいな」
 無謀にも思える注文を出したシンジだが、
「努力、してみるわ…」
 あやめはあっさり受け入れた。
 再度、一礼して去っていく二人を見ながら、
「さて、引き上げるか」
 とこれは、疲れなど微塵も感じられない口調で、軽く伸びをして中に入っていった。
 
 
 さて、その少し後の事。
「使えないやつばかりじゃないか、こら」
「お前は使えるんだし、別にいいじゃん」
「それにしたって限度って物がある。私は完体にはほど遠いんだからな」
「細かいこと気にしすぎるぞ」
「なあんだって?マイマスター?」
「あ、何でもない」
「いーや、聞こえたぞ」
「だから気のせいだって、あっこら急に戻るな」
「今日という今日は絶対に食ってやる。さ、素直に肌出せ」
「やだね」
「往生際が悪いぞ、こら待てっ」
 捕まえようとしているのは従魔であり、逃げているのは主である。
 が、それはともかく、ドスンバタンと暴れる音は、鉄壁を誇る防御床に阻まれて、微塵も下の階に響くことはなかった。
 全員が熟睡状態…約一名を除くが。
 最上階を別にすれば、至極静かなまま夜は明けようとしていた。
 
  
 
 
 
(つづく)

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