妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第二十二話:その胸、見覚えありにつき
 
 
 
 
 
「ど、どうしてお前がここに…」
 愕然と呟いた姿からは、今し方までの余裕は完全に消え失せていた。
 見た目は普通の着物姿で、不気味なイメージはそんなに強くはない。
 ただ、妙に首が伸びて見えるのと、胸元を着崩しているせいで、幾分胸が露出しているのを別にすれば。
 ただし、織姫のドレスも肩は大きく出ていたし、すみれだって似たようなものだ。
 その妖気を別にすれば、これが銀角達の親玉だとは、誰も気づくまい。
「久しぶりだな、ミクロ」
 くすりと笑ったシンジに、その眉が上がる。
「…ミロクだ」
「そうそう、そうだった…あれ?」
 ちらりと後ろを振り返ると、マユミが懸命に起こしている所だが、どれもこれもなかなか起きない。
「い、碇さんだめです、起きません」
「しようがないな、まったく。で、あの閉じこもってるのはどうした?」
 さくらは降りていたが、アイリスは降りておらず、ハッチも閉じたままだ。
「呼びますか?」
 マユミが訊いたが、
「出たくないんだろ、別にいいや。じゃ、その寝てる連中全部、ひとまとめにしておいてくれる」
「分かりました」
 よいしょ、と担ぎ出すのを見てから、
「もう、一年くらいになるな。だがそれにしても」
 シンジの視線に気づいたミロクが、慌てて胸元を隠す。
 その視線は、胸を射抜くように見ていたのだ。
「み、見るなっ」
 その声は、紛れもなく降魔ではなく、女の物であった。
「あの時、片乳は吹っ飛ばして置いた筈だ。お前に自己再生の能力はない、では誰が治した?」
「あのお方だ」
 一転して胸を張ったミロクに、
「そうか、あいつも懲りずにまた来たのか。ところでお前、何しに来た?」
「…何?」
「だから、何しに来たのか訊いてるんだよ。この帝都が、あの時と同じと思っている訳じゃないだろうが。理由は聞いてないのか」
「聞いていない」
 ミロクはあっさりと言った。
「だってさ」
 さすがにシンジが、びっくりしたようにフェンリルを見た。
「化け物なんてその程度のモンなんだよ。それよりシビウ」
「何かしら」
「あの胸、片方は整形だぞ。医者の目から見てどうだ?」
「論外ね」
 一言で、そしてばっさりとシビウは切り捨てた。
「き、貴様…」
 ガンになると取っ払ったりはするものの、やはり女と名の付く種族に取って乳房は、大事な物である事に変わりはなく、それを酷評されたミロクが、ぎりっと歯を噛み鳴らした。
「第一、大きさからして不揃いよ。元から不細工ならともかく、整形してあれでは施術主の美的感覚を疑うわね」
「乳は綺麗な方がいいよね」
 フェンリルとシビウが揃って妖しく頷き、ミロクの顔に怒りの青筋がうねる−マユミは何も聞かず、何も見なかった事にした。
「それはそうとミロク、一つ訊きたい」
 真顔だが、敵に訊くのも普通の神経ではない。
「…何よ」
「ここに転がってる連中は、前回の降魔戦争の折には数も少なく、まして誰かに統制するような事はなかった。これは、誰かの手が入ったのか?」
「あのお方に決まっているだろうが。以前よりも数倍威力増に改造され、統制も可能なようにされた。もっとも、脇侍のような下っ端はしていないけれどね」
 さらりと機密を漏らすと、
「この銀角を倒したのが人間共なら、少しばかり修正が必要だけれど、お前なら問題はない。この分なら大した事はないな」
 簡単に洩らしたのも、シンジ以外なら敵にならずとみたせいか。
「…ばれたかな」
 横を見たシンジに、
「指揮官でもなさそうだし、さりとてこの者達を把握している訳でもない。これなら、個別撃破すれば掌握もたやすいね」
「なんかしゃくに障るぞ」
 何故かシビウに言ってから、
「じゃ、この場でお前を倒せば問題ないな」
 だがそれにも、なぜかミロクは低く笑った。
「無駄だ。第一、その気もないくせに」
 ぴくっとシンジの眉が動く。
 え?と言うようにマユミがシンジを見た。
 敵のボスとシンジが知り合いなのは分かった。
 だが、シンジが動かぬような事を口にし、しかもそれが合ってるようなシンジの雰囲気に、内心で首を傾げた。
「生意気なことを」
 とは言ったものの、動こうとはしない。
 ふとマユミを振り返って、
「山岸ならいいだろ。あれ、やっつけてみる?」
 と訊いた。
「わ、私がですか?」
「無駄なことはお止し」
 ミロクは冷たく笑い、
「お嬢ちゃんの手に負えるかどうかなんて、分かり切っているくせに。さて、どうするんだい?」
 敵わない、と断言されてマユミは唇を噛んだが、その通りなのは分かっている。
 しかし、どうしてシンジは手を出さない?
 まさか、と口には出来ぬ疑問が浮かんだとき、
「今日は見逃してやる、さっさと巣に帰れ」
「え!?」
 さすがにマユミが仰天したが、ミロクは平然と、
「ま、それがいいところだね。だが覚えておいで、この胸の借りはきっと返してやるからね。せいぜい、月のない夜は気を付けるんだよ」
 ぶん、と着物の袖を翻した瞬間、その姿は消え失せていた。
 後に残ったのは、銀角の残骸ばかりである。
「あーあ、まったくもう」
 やれやれと伸びをしたシンジに、
「あ、あの碇さんどうして…」
「何が?」
「ど、どうして逃がしちゃったんですか」
「何で倒すの?」
 聞き返されたのには仰天したが、
「だ、だってあれは敵…」
「誰の?」
「はい?」
「お嬢ちゃん、あなたのお知り合いは何をしに来たのかしら?」
「え、あ、あの、シ、シビウ先生…そ、それは…」
 うっすらと赤くなって、
「た、対降魔のげ、迎撃です…」
「その通り。じゃ、碇シンジは何しに来たんだ?」
 と、これはフェンリル。
「え?い、碇さん?」
「マスターどころか、あたしでも倒せる相手だよ。でも、あたし達が片づけたら、そこの小娘達の立場がないだろうが」
「あっ」
「今のお嬢ちゃん達に、シンジの力量を認める容量はまだ無理よ」
「だ、だから逃がして…?」
「そゆこと。もっとも、これは他の連中には内緒だよ」
「あ、は、はい、分かってます」
 こんな事をそのまま言ったらどうなるか、マユミでも分からない。
 よし、と頷いて、
「フェンリル、とりあえずあやめとかえでを起こしてくれる」
 フェンリルがすっと手を伸ばして、軽く指を鳴らした。
 パチン、と音がするのと、寝ていた者達がうぞうぞと起き出すのが同時であった。
「あ、あれここは…?」
「ボク…なにを…」
 口々にもにゃもにゃ言ってる中、
「こら、大将」
 抱き合っていたあやめとかえでが、慌てて離れた。
「何の夢見ていたんだ、まったく。ところでこれ、持って帰るのあるかい?」
 訊かれてもすぐには状況が分からず、
「あ、あの女は…?」
「あの女?」
 かえでを指さしたシンジに、
「そ、そうじゃくて、あの女ボスは…?」
「帰ってもらった」
 あっさりと言ったシンジに、
「『えー!?』」
 一斉に声が上がったが、
「そうよね、お嬢ちゃん」
「は、はいっ」
 マユミが赤くなって頷いたから、全員の視線がシンジに集まった。
「で、持って帰るの?どうするの?」
「じゃ、じゃあ何体かあれば…そ、それであの」
「ん?」
「これ、全部あなたが?」
「違うっての。片づけたのはこっちの二人。俺は胸談義だ」
「む、胸?」
 シンジが胸と言ったとき、シビウとフェンリルが一瞬視線を向けた。
「ま、美術論だよ、美術論。じゃ、車手配して持って帰る用意して。それとさくら」
「ふにゃ?」
 と、こっちはまだ夢の国から帰還していないらしい。
「参号機のパイロット、連れ出してきて。天の岩戸にこもってるから。それから惣流と綾波」
「『なにい〜?』」
 と、これもまだ寝ぼけている。
「銀角を二体持って帰るから、運ぶの手伝って」
「えー、だってこれ大きいよ」
「だから手伝えっての。ほら、さっさと起きる」
 全員に指示を出してから、
「あ、そだシビウ」
 何気ない声だったが、何故かシビウは妖しく笑った。
「なにかしら?」
「山岸を、二日くらい預かって置いて。シビウのとこ、見物したいそうだ」
 どうして、とも言わず、
「喜んで」
 危険な色香を漂わせて一礼して、
「さて、私の何を知りたいのかしら?」
「え、えーとあの、そ、そうじゃなくて…そのっ」
 その肩がびくっと震えたのは、シビウの手がその顔に掛かったからだ。
 赤面を通り越して、もはや魅入られた人形状態になっているマユミに、
「お礼はシンジから頂くから、見物料は結構よ。したい事、何でもしてあげるわ」
 ふう、と吹きかけられた息に、
「あうっ」
 全身がびくりと揺れた。
 それを見ながら、
「あーあ」
 とぼやいて、
「園内は、そんなに傷んでないね」
 フェンリルに話しかけた。
「当たり前だろ。私がそんなミスする訳ないだろうが。そんな事より」
 美貌をずいっと近づけてきた。
「な、何でしょう」
「何を考えてるんだ?」
 殆ど唇がくっつきそうな位置まで、顔を寄せてきた。
 が、その頬をシンジがすっと挟むとすうっと赤くなった。
「何をする」
「約束したからな。でないと、余計な嫉妬されそうだし」
「まったく、余計な所でお人好しなんだから」
 そうかなあ、と首を傾げた所へ、
「シ、シンちゃん終わったよ」
 ぜいぜい言いながら、レイがやって来た。
「ああ、お疲れさん。いいのあったかい」
「ほら、あそこに」
 銀角は全長五メートル位だが、残骸になると単なる金属の鎧みたいな物と化す。
 それをあやめとかえで、それにアスカとレイがよいしょと引っ張ってきたのだ。
 と、そこへアスカが、
「ちょっと優等生」
「は?」
「いいわよねえ、能力が有り余っていらっしゃる方は。わたくし達のような愚民とは違って、何一つ不自由がないんですもの」
「俺って優等生だったの?」
「そうらしいね。私も初耳だけどな」
 ただし、珍しい事にフェンリルは口出ししようとはしなかった。
 本来なら、一撃でアスカが吹っ飛んでいてもおかしくはないのだ。
 それどころか、
「優等生は大変だな」
 にっと笑うと、残った残骸の方へと歩いていった。
 その先では、シビウがマユミを伴って何やら調査の最中であった。
「あのさ惣流、一つ言って置くけど」
「何よ」
「俺は優等生じゃないよ。その代わり」
「その代わり?」
「天才なだけ…あちゃちゃちゃ」
「それが気にくわないのよっ!何でも知ったような顔しちゃってさ。どうせあたしのことなんか、大したことないって見下してるんでしょ」
 力は使い果たしていたが、さっきシンジのブレスレットをはめたせいで、普段の以上の力に戻っている。
 妙な絡み方で、その上火まで出したアスカに、さすがに見かねたレイが、後ろから身体を押さえて止めた。
「ちょっとアスカ止めなよ、さっきだってシンちゃんのおかげで…」
「うるさいっ」
 すっかり駄々っ子になっているアスカに、
「惣流」
 シンジが静かな声で呼んだ。
「な、何…っ!?」
 アスカとシンジの身長は、大体二十センチ位違う。
 そのシンジが、見下ろすようにして、アスカの双眸を覗き込んだのだ。
 視線から逃れようと、身をよじったのもつかの間で、すぐにかくんと首を折った。
「ちょ、ちょっとアスカ?」
 が、次の瞬間、
「碇君…あの、ごめんね…」
「ぶーっ!?」
 聞いたこともないような声で言った物だから、思わずレイが吹き出した。
「ア、アスカ!?ど、どうしちゃったのっ?」
「あまり絡まれても困るからな。少し静かになってもらった」
 更にアスカに、
「疲れただろう。もう、休むといい」
「はい…」
 こくんと頷くと、その全身から急に力が抜け、慌ててレイが支えた。
「寝てれば絡んでもこないさ。綾波、悪いが寝かせてきてくれ」
「う、うん」
 頷いた所へ、
「あ、あの碇さん」
 さくらが帰ってきた。その腕には、アイリスが抱かれている。
「それ、どうした?」
「あの、中で寝ちゃってて、起きないんです」
「困ったもんだな」
 と顔を見ると、涙の痕が付いている。
 泣き寝入りしたらしい。
「フェンリルの催眠にかかったんだろう。惣流といっしょに保管して置いて」
「分かりました」
 ちょうどそこへ、かすみがワゴン車に乗ってやってきた。
「ちょうどいいや。あのワゴン車の中へ乗せて置いて」
 告げた所へ、かすみが降りてきた。
「迎えに来ました」
 と言ったが、その表情はどこか硬い。
 と言うよりもむしろ、シンジを睨んでいるような節さえある。
「俺の顔に何か?」
「碇さん…私はあなたを見損ないました」
 (味噌?粉?)
 切り返そうかと思ったが、外しそうなので止めた。
「見損ない、と言うほどよく知られてはいないと思うが、俺がどうしたの?」
 危ない、とさくらが思わず内心で叫んだのは、かすみの手が震えているのを見たからだ。どうみても、激情を寸前で抑え込んでいるように見える。
 このままでは、平手が飛んでもおかしくはなかったろう。
 もっとも、既に視線を向けているシビウとフェンリルの前での行為に、命の保証など何処にもなかったが。
 辛うじて暴発は抑えたらしく、
「どうして…どうして御前様を…こ、殺そうとしたんですか…」
 その言葉に、周囲が一瞬制止し、全員の視線が二人に集まった。
「よく分からないな」
 シンジはかすみを見ながら言った。
「劇場の二人になら分かる。そして、館の住人であっても。だがどうして、碇フユノの生死に藤井かすみが反応する?あの婆さんの殺生生与権は、藤井の手に移ったか?」
 次の瞬間に起きた事を、数名を別にして誰も分かっていなかった。
 かすみの手がシンジの顔に伸び、それが頬を直撃するかと思われた刹那、それは空中でおかしな形に固定されたのだ。
 そしてその手首に、見る見る赤い色の輪が浮き上がったと思う間もなく、そこから鮮血がにじみ出してきた。
 それは滴ることなく、かすみの腕を下に向かって流れていき、服を赤く染め始めた。
「私の前で、なかなか面白い事をするのね」
 シビウの声は静かだったが、研ぎ澄まされた刃のそれを含んでいた。
 かすみの手が動くと同時に、シビウの針金が宙を飛び、その手首を締め付けたのだとは、シンジとフェンリルだけが気づいている。
「シンジの風刃程綺麗にはいかないけれど、締め付けて切断する位の芸当は可能よ。何秒で落ちるか、試してみるわね」
 隠れたままの片腕、それが操っているのは間違いない。
 外見はまったく動かしている様子はないが、それは容赦なくかすみの手首を締め付けており、あと三十秒もしないうちに、間違いなくそれは地に落ちた筈だ。
 全員が蒼白になる中で、フェンリルは興味もなさそうに、むしろ銀角の残骸点検がいいと言わんばかりにそっちを見ている。
「とりあえず、嬉しそうに言うのは止せって、シビウ」
 その手がすっと上がるのと、かすみの腕ががくっと落ちるのとが同時であった。
 垂れた腕から、鮮血が何条にもわたって滴り落ち、地面を染めていく。
「大事な物は人によって違うからな。もっとも、あれは俺のだけど」
 の、と言う一文字に含まれた意味に、気づいた者がここに何人いたのか。
「医者のくせに血の気が多すぎるぞ、まったく」
 ちらりとシビウを見てから、かすみに近づいてその腕を取った。
「い、いや…」
 ふりほどこうとしたが、骨まで浸透する激痛のせいで、腕が動かせない。
 と言うよりも、身体がもう動かないのだ。
「なんか俺が襲ってるみたいだぞ」
 何を考えたのかは不明だが、イヒ、と笑ってからそこに手を当てた。
「さすがはシビウだな。あと十五秒でタイムリミットだったな」
 シンジが傷口をぐっと握ると、一瞬腕の上部が大きくうねった。
 まるで、血液が急速に輸血されたかのように。
「ヒスは女の特権。でも、命がけのヒスは感心しないな」
 勝手に頷いたシンジに、
「ほ、放って置いてください」
「やだね」
「……」
「何はともあれ、あの婆さんに」
 言いかけたとき、タイヤのスキール音が滑り込んできた。
 ドアが開いて飛び出して来たのはミサトだったが、かすみの腕のそれを見て、
「あちゃあ、やっぱり手遅れだったわね」
 うーんと宙を仰いだ。
 
 
 
 
 
(つづく)

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