妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第十話:いわゆる、歩く惚れ薬?(前)
 
 
 
 
 
「それはそれとしてほら」
「ん〜?」
 妖しい光を目に湛えて、シンジを捉えているフェンリルだが、その人化した肢体はあまりにも妖しいと言えた。
 第一、公称Fとされるミサトよりも、間違いなく胸は大きい。
 まるで、白狼の時の厚い胸板がそのまま乳房に換わったような感じさえ受ける。
 そんなのが押しつけられたら、理性の堤防の破損防止に追われるだろう。
 それにしても、本性は間違いなく妖狼の筈だが、どうしてそれが美女の形を取っているのだ?
「昼間からはやっぱりまずいだろ」
 シンジが言う通り、生徒達が球技に興じている声がさほど離れていない場所から、鮮明に聞こえてくるのだ。
「じゃ、夜ならするか?」
「そんなストレートな」
「やっぱり逃げる気だな。こら待て」
 逃げようとしたマスターをがしっと掴み、自分の方を振り向かせる。
 それだけでも絡みに見える危ない姿勢なのに、
「あげる」
 何をあげるのか、胸に押しつけようとしたのだ。
 だが次の瞬間。
 先に反応したのはフェンリルであった。
 目から危険な光が消え、一瞬で鋭い眼光へと変わる。
 シンジは、これは表情を変えずにフェンリルの胸元へ顔を近づけながら、
「距離は約180メートル。で?」
「右後方、五時の方角だ」
 見ずとも、シンジには標的の距離を捉えられていた。
「わかった」
 頷くと、そのままフェンリルの胸に手を当てる。
 圧巻にも近い感触を楽しむように、二度手を動かした。
「ちょ、ちょっとそんな事したら変に…んっ」
 身悶えするようにして、左脇の下に隙間を作る。
 押し倒すように見せて、シンジの手がすっと伸びたのは次の刹那。
 シンジから放たれた炎は、まるで矢のように吹っ飛んでいった。
「一体だな。こっち見てたか?」
 体を合わせた姿勢のまま、シンジが訊いた。
「いや、違う」
「違う?」
「マスターの指のせいで感じたんだ」
「こら、それはお前が−」
 言いかけた時には、再度捕獲されていた。
「外の方が燃える。さ、今日こそいただ…痛!?」 
 スパン!  
「情操教育に悪いだろうが」
「情操教育?」
 シンジの視線に振り向くと、そこには真っ赤な顔をした娘が三人立っていた。
「誰が貴様らは」
 いい所だったのに、と思ったかその口調は危険な物がある。
「あ、あの理事長から言われて碇シンジさんを…そ、そのお迎えに…」
 マヤから連絡を受けて、絶対に失礼がないようにとリツコの念押しもあり、迎えに出てきたら妖気を感知した。
 慌てて飛んできたら、絡み合ってるようにしか見えない二人に遭遇したのだ。
「あ、ご苦労様」
 助かった、と言う感じで起きあがると、
「続きはまたね」
 フェンリルにささやいたが、
「今まで777回も約定を反故にされている…覚えているがいい」
 従者にあるまじき言葉を呟いたが、だとするとしょっちゅうこんな事をして、その度にシンジに逃げられているらしい。
「帝劇の三人娘って、君らの事?」
「あ、はいそうです」
「案内してくれる?」
「は、はい」
 最中ではなかったようだと知り、やっと我を取り戻したらしい。
 ちょっとまだ顔は赤いが、
「あの、こちらです」
 シンジの先頭に立って歩き出した。
 
 
 
 
 
「幾ら君の頼みでも、少し強引すぎるぞ」
 言葉の割には、かなり萎縮して見えるのは警視総監の冬月コウゾウである。
「愚か者」
 一国の警視総監を前にして、むしろのんびりと観察しているようにすら見えるのは無論碇フユノだ。
 その前に置いてある萩焼の湯飲みには、五回目のお茶が入っている。
 妙な表現だが、客のコウゾウにいれさせたのだ。
 降魔の件もあり、凶悪犯罪よりもむしろ霊的な件の方が警視総監の彼には届くようになっている。
 シンジを逮捕しようとした警官隊が、すべて壊滅させられた件はフユノの、
「もみ消しておおき」
 の一言で片づけられたが、結構大変だったのだ。
 そこで妖婆に文句の一つも言ってやろうと来たのだが、
「薬缶はそこ、葉はそっちだよ。いいかい、湯飲みを割ったらあんたの命程度じゃすまないからね」
 だったら自分でやればいいだろうとは思うが、余人には湯飲みの値段など決して口にはしない事を冬月は知らない。
 ロボット経歴の哀しさからか、手が勝手に動いてしまう。
 入ったよ、と持ってきたら味も見ずにやり直し、と来た。
 五回目で、ようやくOKが出たのである。
「シンジに手を出すなと、どうしてお前が通達して置かなかったのじゃ」
「い、いやそれはさすがに…」
 魔道省では知らぬ者がなく、未来を約束されたエリートだと言っても、全組織に特別扱いの通達は出せない。
 無論、フユノもそれは知っての言葉だが。
「やくざの屑共をシンジが片づけたんだ、本来なら金一封も包んで持ってくるのが当然であろうが。お前、それでも警視総監かえ」
 シンジの前では孫煩悩な老婆だが、一歩外に出れば、警視総監さえもまるで子供扱いされている。
 まあよいわ、と少し口調を和らげて、
「それよりコウちゃん」
 幼なじみの口調で呼ばれた時、やっとコウゾウは生きた心地に戻った。
 
 
 
 
 
「藤井かすみです」
「榊原由里です」
「高村椿です」
 順番に名乗っていったが、最後の椿を見て、
「一番元気?」
 シンジが妙な事を訊いた。
「え?は、はい。でもどうして」
「一番生きがいい」
「『はあ?』」
 内心で首を傾げたが、シンジの優秀さは既に聞かされている。
 天才のする事はわからないのだと、自分に言い聞かせた。
「あ、あの碇さん」
「何?」
「ま、前から一度お会いしたかったんです」
 かすみと由里が揃って椿を見たが、
「碇さんはご存じないと思いますけど、いつも年度代表馬に選ばれていたんですよ」
「だいひょう…ば…馬?」
 なお、フェンリルはその姿のまま、アイスコーヒーにミルクを入れ、そのコントラストをつついている最中だ。
 琥珀色の、微妙な加減がお気に入りらしい。
「ば、馬鹿ねっ」
 慌ててかすみが椿を肘で突いて、
「あ、あの申し訳ありませんっ」
 由里と二人して頭を下げ、椿の頭も強引に下げさせた。
 が、
「あ、いや別にいいや」
 気にしてない感じの言葉におそるおそる顔を上げる。
「代表馬って何?」
「あ、いえその…」
「言わないといじめるよ」
「そ、そのっ」
 脅されて慌てて、
「が、学園で男女それぞれの一番人気がある人を選ぶんです」
「そうなの?」
 その割には、シンジは女神館で知られていなかったが。
「出席日数があるから、碇さんノミネートはされていなかったんですけど、裏の人気は毎年一番でした」
「ちょっと待って」
「はい?」
「それ、誰がやってるの」
「実は、風紀向上委員会って言うのがあって、そのメンバーが毎年選ぶんです」
 下がりそうだよなあ、と相づちを求めるべく横を見たが、氷をつついている相棒にあきらめた。
 そんな所なら、おそらく勉学一筋だった住人達は知らないだろう。
 あるいは、レイ辺りなら知っていたかも知れないが。
 それにしては冷たかった、と内心で呟いてから、
「それで、君らは学院生?」
 いいえ、と三人は首を振った。
「去年卒業して、そのままここへ入ったんです。今は、劇場で正式に働いています」
「うちのばーさんが選んだの?」
「は、はい」
 歯切れの悪い口調に、
「どした?」
「あ、あまり御前様の事をそう言われない方が…」
 その言葉に、僅かにシンジの眉が寄る。
「お前ら、分かってないな」
 氷を下に突っついて落としたフェンリルが、娘達に視線を向けた。
 射抜くような視線に、一瞬全身が硬直したのが分かった。
「シンジがお婆様、なんて言ったら首吊るぞ。マスターに指示しようなんざ十兆年早いんだよ」
「あ、あのう…」
「ん?」
「こちらの方はどなたでしょう?」
 かすみがシンジに訊いた。
「あ?」
「さ、さっき伊吹さんからは、碇さんが狼さんに乗ってくるって連絡がその…」
「狼ってこれが?」
 フェンリルをまじまじと見る辺り、シンジも人が悪い。
「い、いえ、そのあの…」
「私が狼だと?」
 鋭い視線に、娘達の顔から血の気が引いた。
 古の時代に、主神さえも牙に掛けたと言われる伝説の妖狼、フェンリル。同じ名を冠する者の視線は、彼女たちに取っては耐えられない代物だったろう。
「まあ、その辺で」
 シンジが頭に軽く触れると、美女が一気に白狼へと姿を変えたのには、今度は度肝を抜かれたように唖然として眺めた。
「う、うそ」
「お、狼に…」
「そ、そんな事って…」
 狐につままれたような顔をしている娘達へ、
「驚かせちゃった?」
 ちらっと向けた流し目は、人の形をしたフェンリルのそれに、勝るとも劣らない。
 三人が揃って顔を赤くした時、
「OUCH」
 脇腹に一撃が入った後、すっと姿を消したものだから、口をあんぐりと開けてシンジの顔を見た。
「下僕のフェンリルだ。もっとも、マスターより偉いのが難点だな」
「『は、はあ』」
「ああ、ところで」
「え?」
「さっき、一匹片づけてきた。多分敷地の外に転がってる筈だから見てきて」
「片づけたって…あっ」
 やっと目的を思い出したらしいが、
「椿、行って来て」
「ちょ、どうして私が。かすみ行ってよ」
「わ、私だって…ゆ、由里が行けばいいじゃない」
 何やら押しつけ合っているのを見て、
「いいよ、俺が行くから」
 立ち上がった途端、
「「じゃ、じゃあ私もっ」」
「はあ?」
 何なんだ一体、と思ったが、
「しようがない、三人とも一緒に行く?」
 はいっ、と一斉に頷き、シンジを囲むようにして歩き出した。
 
 
 
 
 
「それで、シンジ君は受けるのかい?」
「さあね」
 湯飲みを空にしてから、
「あの子の心を推し量るには、あたしの人生経験は数百分の一さね。ただ、その気になってくれれば、あの子以上の指揮を取れる者はいないよ」
「一つ訊いていいかい」
「なんだい」
「どうして、わざわざ落とした?学生でも、十分管理人は出来ただろうに」
「百回受ければ百回受かる、それは分かっているからさ。それに高校時代は甘やかしたからねえ」
「出席日数は、ほとんどアウトだったからな。碇シンジの名前を知らない子が多いのもそのせいだろう」
 コウゾウが言うように、テストは完全過ぎるほどのシンジだったが、外国にしょっちゅう出かけたせいで、日数だけは極めて不足していたのだ。
 こればかりは裏から手を回さなければ、卒業できたかどうかすら怪しい。
「もっとも、そのおかげであの子にもいい相棒が出来た。シンジの素質を向上させたのは、儂でもミサトでもないからの。それより、一基はどうしておる」
「ああ、米田なら昨日連絡があった。劇場の事を気にしていたよ」
「支配人がいても、団員がなくては劇など出来ぬであろうが。それより、あの子はどうなのじゃ」
「だいぶ元気になったらしいが…でも、どうしてあの娘(こ)が」
 言いかけたのを、
「お前が知る必要はない」
 むしろ、冷たく切り捨てた。
「そうか…」
 この調子は昔から変わらないが、ふとコウゾウの表情が動いた。
 フユノがわずかに、わずかに笑ったように見えたのだ。
 楽しんでる?
 まさかな、と内心で否定した時、ドアが遠慮がちにノックされた。
「冬月総監、まもなくお時間です」
「分かっている、下がっておれ」
 低い声は、フユノに向けた物とはがらりと違い、警視庁をその手に持つに相応しい貫禄を兼ね備えていた。
「やれやれ、こんな職業になると面倒なもんだよ」
「なら、さっさと辞める事だね」
 フユノの声は冷たいが、少し違うと当人達には分かっていた。
 自信がないと迷っていたコウゾウを、
「あんた以外に出来るのはいないよ」
 と、まるで鶴の一声で決心させたのはフユノなのだから。
「出来るのはまだ私しかいなからな。そうだろう?」
 ふん、と笑ったが、どこかに暖かい感じがある。
「それよりも」
「なんだい」
「パトカーの損失は何とでもなるが、お礼参りだけは気を付けるようにな」
「儂の孫にかい」
 いいや、とコウゾウは首を振った。
「あんたが任命した寮の住人達が巻き込まれないようにだ。それくらいは、考えていたのだろうな」
 叩き上げの敏腕と呼ばれた、かつての面影を一瞬だけ見せた双眸は、フユノでさえ刹那表情を動かした程のものであった。
「またな」
 ドアを開けて出ていく後ろ姿を見ながら、
「シンジは−儂の孫はそんなに弱くないわ。館の住人程度、片手で護ってくれる」
 が、ふと首を傾げて、
「護る…気になるかの?」
 思い出したように呟いた。
 どうやら、ころっと忘れていたらしい。
  
 
 
 
 
「嘘…」
 学園の外は、取り囲むように舗装道路が設置されているのだが、シンジ達が着いた場所で、三人娘は声もなくそれを眺めた。
 すなわち、見るも無惨に頭部を吹っ飛ばされた機兵に。
「魔装機兵を一撃で…?」
 信じられないように訊ねた由里に、
「二撃掛かるなら、フェンリルのマスターは失格だよ」
「あ、あの碇さん」
 横からかすみが口を挟んだ。
「ん?」
「フェ、フェンリルって、あのもしかして…古代神話に出てくる巨大な狼…の事ですか?」
「さて。何にしてもペットショップに売ってない事は確かだな。その名前に、符合するかどうかは別だけど。確か、脇侍よりランクが上の奴だったな、これは。見つかると面倒だから、片づけて置いて」
「はい」
 直立不動で敬礼した三人に、
「上司じゃないんだから、気を遣わなくていいって」
「いえっ。すぐに処理致しますっ」
 とこれは、シンジの力量を素直に認めたらしい。
「椿、そっち持って」
 シンジが頭部を吹っ飛ばしたせいで、胴体はそこに残っている。
 担いで行こうとしたのだが、次の瞬間由里と揃って後退った。
「どうした?」
「あ、あ、あの…」
 僅かにシンジの目が細くなる。
「こいつだな」
「間違いありません、頭」
 頭、と呼んだ男がそのままシンジの肩に手を掛けた。
「おい、てめーだ…はへ?」
 十台以上の車が止まる−いずれも黒塗りのベンツだ。
 囲んでいる強みからか、偉そうにシンジを振り向かせようとしたが、
「不燃物」
 自分の腕が、あり得ない方向に曲がっているのに気が付いた。
「お礼参りか、しつこい連中だ」
 興味もなさそうに言うと、
「爆風」
 腕を折られた男の顔に手を当てた瞬間、凄まじい風が男を襲う。
 歯を撒き散らして吹っ飛んだ途端、一斉にドアが開いて男達が飛び出して来た。
 数十名の殺気立った男達に、三人娘が蒼白になる。
 問答無用で銃が向けられようとした刹那、
「マスター、これじゃ満腹にはなれないな」
 シンジの影から飛び出した巨体が地を舞い、申し合わせたようにシンジが娘達を自分に引き寄せた。
 見るな、と言うように顔を自分に押しつけた背後で、凄惨な絵図が展開した。
 まるで、楽しむように暴れている妖狼が行くところ、次々と手足が空に舞い、男達の絶叫が響いた。
 シンジが風を起こして、娘達の聴力を奪っていなかったら、あるいは失神したかも知れない。
 現れたのは、約四十名。
 白狼一匹が全てを生ゴミと変えるまで、およそ五分と掛からなかった。
 何よりも奇妙なのは、返り血が次々と綺麗になっていった事だ。
 正確には、それを浴びたフェンリルの毛皮が、比例するかのように艶を増していったのである。
「一応ご馳走様」
 変わらぬ風情でフェンリルは、綺麗に主の前に着地して見せた。
「肌が綺麗になったな」
 頭を撫でたシンジに、
「そうか」
 妖狼は、うっすらと笑った。
 
 
 
 
 
(つづく)

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