妖華−女神館の住人達
 
 
 
 
 
第八話:First kiss…
 
 
 
 
 
「あ、あうう…」
 ぬいぐるみを抱えたまま、アイリスは硬直している。
(なんかイヤだな)
 シンジが思ったのは、びっくりしたと言うよりも、人食い虎にでも会ったような反応だったからだ。
(ま、泣かないだけましか)
 と思った瞬間。
 ふえっ。 
 じわっと涙の浮かんできた顔を見て、これはいかんと、シンジは慌てて部屋の中に引っ張り込んだ。
 ほとんど、幼女誘拐の光景である。
 ところでこのシンジ、子供相手に泣かれた経験など今までに一度もない。
 従って既に半分フリーズ状態なのだが、
「あ、あのねアイリス…」
 言いかけた途端、
「ア、アイリスそんなつもりじゃなかったもんっ…」
 ぐしぐしと泣きだした。
 どうやら、シンジに誤解されたと思いこんだらしい。
(本当かな?)
 こんな時、外すと後々まで尾を引くから、シンジもちょっと躊躇ったが、
「が、外国は確か…ね、寝る時にキスするんだよ…ね?」
「…え?」
「寝る前の挨拶だよね、ね?」
「う、うん…」
 別にそんな習慣はないが、違うと言うとちょっとまずい。
 一瞬内心で葛藤があったが、
「そ、そうだよ。ア、アイリス寝る前にキスするのは習慣だから…」
 よしクリア、と
「ありがとう」
 よしよしと頭をなでたが、
「おにいちゃん!」
「え?」
 疳の虫かと思ったら、
「アイリス、子供じゃないもん!」
「はひ?」
「おにいちゃん今、アイリスの事子供扱いしたでしょう!」
 今度は、ぷーっと頬をふくらませてしまった。
 いや、その様子がまた何とも言えず可愛く、そっち系の人間には危険な刺激になりそうだが、そんな事はともかく。
「し、してない、してない」
「嘘、したもん」
「してないってば」
 こうなると、引き込まれた方の負けである。
 完全に駄々モードに入ったアイリスに、
「分かった、分かった。で、子供は俺に何をさせ−げ!?」
 つい口走った途端、シンジは猛烈に後悔した。
 みるみるその顔がゆがみ、
「子供って…子供ってゆったあ…」
 言っておくが、深夜室内で幼女を大泣きさせた場合、一切の言い訳はきかないのだ。
「ご、ごめんアイリス」
 爆発直前でその口を押さえて、
「な、何でもするからさ、ね?」
「ほんとうに?」
 嫌な予感はしたのだ。
 だって、それを聞いた瞬間なんとなく、アイリスがにぱっと笑ったような気がしたのだから。
(俺がいったい何をした!?)
 と嘆いても始まらない。
「な、何をすればいいの?」
「おにいちゃんもキスして」
「なっ!?」
「ち、違うよ」
 慌てて訂正して、
「お、おやすみなさいのキスだもん。おにいちゃんもしてくれたら許してあげる」
(うーん…)
 回答パターンはいくつかある。
 その一、「子供はさっさと寝なさい」と言ってみる。間違いなく大泣きされて、起き出してきた住人にろくでもない勘違いされて、いやそれ以上に、何をされるか分かったモンじゃない。 
 その二、「じゃ、目を閉じて」と、素直にしてあげる。この場は一応収まるが、プライドが許さない。いや、そんな事より体のどこかにロリコンの烙印が押されそうな気がする。
「あ、あのねアイリスそれは…」
 言い終わる前に、
「やっぱりおにいちゃんしてくれないんだ。アイリスの事えっちな子供だとおもってるんでしょ!」
 とんでもない事を言いだした。
 妙に早熟な事を口走っているが、いやそんなことは、とか言って通用する段階ではなくなっている。
 仕方ないな、と覚悟を決めて、
「分かった、じゃしてあげるから」
「ほんと!?」
 嬉しそうな顔になったアイリスに、シンジはちょっと良心が痛んだような気がしないでもないでもなく−多分気のせいだろう。
「だから目を閉じて」
「うん」
 きゅっと目を閉じたアイリスに、何を思ったかシンジは手のひらを近づけた。
(あ、なんか息がかかって…ちょっとくすぐったいかも…)
 ぎゅっと目を閉じながらも、この少女結構冷静である。
 近づいてきた、と思った瞬間、頬に何かがすっと触れた。
 すぐにそれは離れ、
(キス・・してもらっちゃった)
 少し赤くなりながら目を開けると、キスしたにしてはちょっと距離の遠いシンジが、
「これでいい?」
 と訊いた。
「うんっ、おにいちゃんありがとう」
 ぺこっと頭を下げると、
「お、お、おやすみなさいっ」
 急にぱたぱたと走り出した。
 シンジの顔が妙に冷静だったのに、アイリスが疑問を抱かなかったのは幸いだったかもしれない。
「転ぶんじゃないよ〜」
 小さく呟いてから、
「あー疲れた。ま、いいか」
 手を上に伸ばした途端、
「まだ終わってないだろうが」
 ぐいと手が伸びて、あっという間にシンジは床に引き倒されていた。
 ここの住人が見たら、おそらく卒倒したに違いない。
 なぜなら、シンジの上に手を−いや足を置いているのは人間ではなかったのだから。
 人はそれを、狼と呼ぶかもしれない。
 だが、
「悪かったってば、フェンリル」
 フェンリル、シンジは確かにそう言った。
 フェンリルと言えば、その名は北欧神話に、神々の敵として登場してくる巨大な妖狼の筈だが、それがどうしてこんな所で出てくるのか。
「私はお前以外の人間に興味はないんだ。それを、よくもあんな小娘に口づけなんかさせてくれたものだな」
 妙に流暢な日本語で言うと、ぐいと前足でシンジの胸を押した。
 忽然と湧いて出たそれだが、大きさはその辺の虎よりは大きく、シンジなどあっさり食われてしまいそうだ。
 それにしても、言葉からすると雌にも見えるのだが。
 それよりも、嬉々として戻ったアイリスだったが、その頬に触れたのは妖狼と言う事になる。
「まあまあ」
「何?」
 妖狼に押さえつけられたまま、シンジはにっと笑った。
「ちょっと放せ」
 何かを感じたのか、フェンリルがその足を下ろした。
 シンジはひょいと起きあがると、
「さっきの脇侍、お前も見ただろ?少しは楽しめそうだ」
 奇妙な事を言った。
「本当か?」
「降魔、魔を自ら喚んだのは人間だが、あれも人間が在る限り殲滅は出来ない、そう言ったのはお前だったろ」
「だから私はお前をマスターにしてやったんだ」
 光る赤い目でシンジを見る妖狼の頭を、シンジは軽く撫でた。
「何をする?」
「その通りだな。けど、いきなり喚んであれじゃ悪かった。今夜一晩、街で遊んできてもいいぞ」
 では、この巨体を解き放つと言うのか。
「ばかな事を」
「ん?」
「私はお前といる方を好む」
 ちょっと乱暴な言い方だが、実力行使はさらに乱暴であった。
 行くぞ、そう言うとシンジの襟をくわえて、ずるずると引きずって行ったのだ。
 ベッドの上に軽々と放り投げると、自分もまた身軽に飛び乗った。
「さ、マスター来い」
 命令すると、自分からシンジの枕のようにごろりと横になった。
「行かないのでいいのか?」
「二度も言わせるな」
 真っ白な腹に、ぽんと頭を乗せて横になった様子は、まるでどこかの有閑マダムか何かが、密輸した毛皮を枕にしているような感じもする。
「ところで」
 視線を窓の外に向けたまま、シンジがフェンリルの頭に手を伸ばした。
「マスター、止めろ」
「成都の奥地にいた方が良かったか?」
「ここの管理人、やる気になったみたいだな」
 フェンリルは、双眸を閉じたままで低く笑った。
「先の降魔対戦の折、さくらの親父さんがその身に代えて魔を封じ込んだ。本人知ってるのかな」
「気になるか?」
「別に」
 シンジはあっさりと否定して、
「同じ命運を辿らせちゃかわいそうだな、と思ってな」
「それを気にしている、と言うのだろうが」
「何言ってる、微妙に違うんだよ」
「お前がそう言うならいいさ。それよりマスター、いいのか?」
「何が?」
「降魔の相手するのは私も退屈せずに済むが、一カ所にとどまってると会うかもしれないぞ?」
  その途端、シンジがかすかに分かるほどだが、ぴくりと肩を動かして、
「今日はもう寝るぞ。おやすみ」
 さっさと目を閉じた主に、妖狼は少し口元を微妙な動きを見せて、
「気にはしているみたいだな、そんな所も好きだよマスター。おやすみ」
 これはちょっと顔を動かして、シンジの顔をぺろりと舐めてから四肢を少し伸ばして眠りについた。
 出現した場所と言い、そして寝床から完全にあふれているその巨躯と言い、完全に人外の生物だが、結構シンジの事は気に入っているらしい。
 
 
 そして、主従共に眠りについてから六時間後−
「碇さーん、おはようございます」
 さくらの声がして、扉がノックされた。
 先に気づいたのは枕役の方であり、
「朝から元気な娘だな」
 するりと起きあがると、朝日が作るシンジの影にその巨体を滑り込ませた。
 消える直前、大きな前足でシンジの顔を軽くつついて、
「ほら、起こしに来たぞ」
 と囁いたのだが、こっちはまだ寝ぼけている。
「ふげご?」
 起きた時には、既にバランスを崩しており、
「ふぎゃ」
 綺麗に顔から床に落ちた。
 ドスン、と音がしたものだから、さくらが慌てて、
「碇さんっ、大丈夫ですかっ?」
 勢いよくドアを開けた時、ちょうどそこには落ちたばかりのシンジの姿が。
「お、お、おはようございます…」
「さ〜く〜ら〜!!」
 むくっと起きあがり、じりじりと迫ってくるのへ、さくらがじりじりと後退する。
 そして。
「見〜た〜な〜」
「ごめんなさーい!」
 どうして心配した自分が怒られるのか、さくらにはよく分からなかったけれど、なんとなく身の危険を感じて走り出した。
 そのさくらを、シンジは四階の階段途中まで追ったが、途中で止めた。
 朝からじたばたしている場合ではないのだ。
 男にしてはかなり上質に入る黒髪を、軽く手で梳きあげてから、着替えを手にして部屋を出た。
 が、体内時計は空腹を示しておらず、
「今何時だろ?」
 時計を見ると、まだ六時を回ったばかりだ。
「これだから剣道娘は…」
 とぶつぶつ言っても、寝直す気にもならない。
 きっと、朝から素振りでもしていたに違いない。
 まあいいや、と階段を下りていくとばったりレイに会った。
「おはよ、シンちゃん」
「は?」
「だから、おはようってば」
「……」
「もう、冷たいんだからあ」
 妙になつっこいと言うか、かなり馴れ馴れしい。
 だいたい、このシンジをちゃん付けで呼ぶなどミサトくらいのものだ。
「今、年幾つだっけ?」
「ボク?今度高一だよ」
「だよねえ」
 何か言いたげなシンジに、
「いいじゃん別に」
「良くない」
「もーう、このボクが仲良くしてあげるって言ってるのに」
(んー?)
 シンジは内心で首を傾げた。
 アイリスが来たのは晩だからいいとして、さくらが起こしに来た。
 いや、さくらは分からない事がないでもないが、レイの態度が妙に豹変しているような気がする。
「お婆が来たな?」
 聞いた途端に、わずかだがぎくっとなりそれでも、
「き、き、来てないよ、ホントだよ」
 と首を振った。
 あからさまに怪しすぎる。
 ミサトかと思ったが、この分ではフユノらしい。
「で、なんて言われた?怒らないから言ってみ?」
「だ、だから来てないってば」
「もう一回、茹でレイになってから白状するか?」
 ちりちりと手に炎を作りながらシンジが訊いた。
「だ、だからその…」
 とは言いながらも、昨日茹でられた事を思い出したのか、急速に語尾が弱くなっていく。
 
 
 レイがとうとう白状した所によると、フユノが来たのは明け方だと言う。
 そう、シンジがフェンリルを枕に夢の世界にいる頃だ。
 全員を叩き起こして−すみれだけは来なくて、ついでにさくらとマユミは剣の稽古で起きていたが−改めてシンジの管理人を宣言し、結界の模様替えも伝えたという。
「ボ、ボクが言ったのは内緒だよ」
 念を押した所を見ると、フユノが厳重に口止めしたらしい。
 それにしても、ここではフユノの命令は絶対と見える。
「お婆の命令か、まあいいや」
 独り言のように呟いたシンジに、
「ああ、それ違うよ」
「は?」
「ボク、強い人は嫌いじゃないからね。それにここの結界も、もう君のになったんでしょ。ここで生活するんなら、仲良くした方が得じゃない?」
 結構あっさりした性格らしい。
 改めてよろしく、と差し出された手を握り返したが、ふと気になって訊いてみた。
「その髪、天然?」
 肌が白いのは別に珍しいとも思わなかったが、蒼というのはあまりいない。
 ブラックかブロンドか、あるいはブルネットか。
 なお、アスカのはブルネットでアイリスのはゴールド。
 それ以外は全員ブラック−黒髪である。
 訊かれた時、一瞬レイの表情が動いたが、すぐにうち消して、
「お風呂で教えてあげる」
「はあ?」
「お風呂だったら、全部分かるでしょ」
 すう、と赤くなったシンジを見て、にゃっと笑うとそのままぱたぱた走っていった。
 だが、
「気にしたか」
 軽く首を振った時にはもう、元の表情に戻っており、どうやらこれは意図的に赤くなったらしい。
 ともあれ、レイの言葉で目的を思い出し、
「そうだ、風呂だ風呂」
 タオルを引っかけて浴場へと歩いていった。
 
 
「すみれちゃん、すみれちゃん入るよ?」
 フユノに呼ばれても来なかったすみれを、レイが起こしに行った。
 アスカとは性格がよく似ているせいで、かなり相性が悪いすみれだが、レイとはそうでもない。
 と言うよりも、あっけらかんとしたレイの性格に毒気を抜かれている、と言った方が正しいかもしれない。
「ふえー、相変わらずだね」
 さすがに財閥当主の一人娘、と言うべきか室内の贅を尽くしたつくりは、シンジの部屋に勝るとも劣らない。
 いや、シンジの方が費用は掛かっているが、クラシックな雰囲気を好むシンジに対して、最新の家具や電化製品を揃えているこの部屋の方が、逆に豪華に見える。
 だいたい、隣の部屋に置いてあるピアノは、一千万を下るかどうか微妙だった筈だ。
 テレビの鑑定番組で、レイは見た記憶があったのだ。
「すみれちゃん?」
 声を掛けて入ろうとした時、
「ま、待って…」
 弱々しい声がした。
「すみれちゃん?」
「わたくしは…わたくしは大丈夫ですわよ。いいから、いいから先にお行きなさい。わたくしも、もう少ししたら起きますわ」
 これがアスカだったら、レイは間違いなくベッドまで行っていただろう。
 だが相手がすみれなだけに、レイもそれ以上は聞けなかった。
 普段から帝劇のトップ人気を誇るスターとして、そしてエヴァのパイロットとしてもプライドが人一倍、いや人の数倍高いすみれなのだ。
 だからレイもそれ以上は入れず、
「ちゃんと来てね」
 と、それだけ言ってきびすを返した。
 だが、もしレイがベッドまで行っていたら気が付いたかもしれない。
 一晩で、げっそりと憔悴したその姿に。
 そしてプライドの高い美姫が、
「くやしい…」
 と唇を噛んで呟いていたことに。
 何よりも、一睡もしていないと一目で分かる姿に、気が付いたに違いない。
 
 
 
 
 
「ぬるいぞここ」
 もとより、こんな都会の真ん中に温泉など湧いていないが、フユノの事だから、どうせどこぞの温泉からパイプで引っ張って来たに違いない。
 ただ、今のシンジには出自よりも温度の方が問題であった。
 水質はいいけれど、温度は熱めを好むシンジには少しぬるい。
 勝手に火を使って温度を三度ほど上げる。
 なお、現在温度は四十三度。
 常人なら、かなり熱い部類に入る。
 だいたい、ここ最近の気温の温暖化で、熱い風呂は好まれていないのだ。
 それでも、
「うーん、気持ちいい」
 なんか茹だっていそうな中で、うーんと背伸びをすると、髪を軽く洗って三十分後に出てきた。
 家庭用の風呂と違い、露天でいつも湧いているのはかなり便利である。
 幸い、誰にも遭わずに上がったシンジ。
 偶然とは言え、また追いかけられるのは嫌なのだ。
 が。
(あれ惣流?)
 脱衣場を出た時、ちょうどアスカの姿を見つけた。
「覚えてなさいよ!」
 とリベンジを叫んでいたのはシンジも覚えているから、ここはやり過ごす事にした。
 すっと脇に隠れると、シンジには気が付かず浴場に入っていった。
 ふう、と安堵してから長い髪を少し手に取った。
 あまり時間を掛けていないから、ちょっとトリートメントには不満が残る。
 それでも、
「ま、こんなもんか」
 と隅々まで点検して、歩き出した直後。
「あっつーい!!」
「ん?…げ」
 そうだ、と温度を戻していなかったのに気が付いた。
 あの温度がスタンダードなら、みんなあの温度に慣れているに違いないのだ。
 失敗したかな、と呟いた途端、その目が点になった。 
「どこのバカよまったく!!」
 赫怒したアスカが、バスタオル一枚で飛び出して来たのだ。
「あ、惣流」
「あっ、あんたっ」
 二人の視線が会った瞬間、シンジの姿を認めて急ブレーキを踏んだせいで、過負荷がアスカのボディに掛かる。
 正確には、その身を覆っているバスタオルに。
 真っ白なバスタオルが、その瞬間はらりと落ちた。
「ちょっと、風呂熱くしたのあんたでしょ!」
 自分の姿にも気が付かず、髪が少し濡れているシンジを見て犯人だと知ったのか、びしっと指差して言い放ったアスカ。
「あの…」
「何よっ」
「全部見えてる…」
「え?」
 ギギギ、とアスカの顔が自分の体を見た。 
 胸。
 さくら以上マユミ未満−現在露出中。
 ぷるっと控えめに揺れる乳房から、僅かな色づきが自分では気に入ってる乳首まで全部モロだ。
 腰。
 豊かな髪と違ってうっすらと茂ったあそこ−これも、全部見えてる。 
「いやああああっ!!」
 マユミの時とは違う、アスカの叫びが響き渡った。
 
 
 
 
 
(つづく)

TOP><NEXT