悠久の想い人
 
 
 
 
 
「あー、もうつまんないの」
 ぶつくさとぼやきながら、往来の真中を歩いているのはアスカである。
 ようやく外出禁止が解け、真っ先にシンジの所へ遊びに行ったのだが、
「今忙しい」
 エプロンをしながら出てきた姿に、半ば呆れて何をしてるのか訊くと、生クリームの研究の最中だと言う。
 これだから人間はと言いたくなったが、ケーキがおやつから無くなる事を考え、他に八つ当たりする事に決めた。家事は普通のシンジだが菓子類、ことに洋菓子にかけては屋敷内でも右に出る者はいない。滅多に呼んでくれないが、たまに出るケーキはアスカの楽しみの一つでもあったのだ。
 で、まず行ったのがカラオケ。何を熱唱したのかは不明だが、何せ出自が夜の一族だけに奇怪な音波に機械が呼応し店中の機器を破壊、店長から土下座を伴った、涙ながらの退店を懇願された。その数−合計六店。
 渇いた喉には甘い物と、富士屋でマロンケーキを買うがこれが失敗。ろくでもない事が重なって、アスカの機嫌はかなり危険な位置にあった。
 元より、見るからに人懐こそうな雰囲気ではないのだが、今のアスカは針のようなそれへと変わっていた。
 そのおかげで、愛らしいとも言える容貌にもかかわらず、誰一人声を掛けようとはしてこなかった。もっとも、命と引き換えのナンパになると知ってなお、敢行する者がいるかは不明だが。
「まったく…」
 アスカの機嫌が、一層レッドゾーンに近づき掛けたその時。
「ん?」
 アスカの視界に男たちの群れが映った。路地裏で屯している、にしては少々様子がおかしい。それに、彼等は妙に殺気だった雰囲気を放っていたのだ。アスカの鋭敏な聴覚が苦痛のうめきを捉えるのと、その口許がにたっと笑うのとが同時であった。
 シンジからは人間を玩具にするな、とは言われているものの、悪人共に仕置きするなとまでは言われていない。理由はどうあれ一人を多人数でいたぶる連中には、少々きつい仕置きも必要だろう。
 ただしアスカには、人間など下等生物との認識しかない。半ば、いや九割以上憂さ晴らしをする気でゆっくりと近づいて行った。
 囲まれているのは一人の男。そんなに細身でもないのだが、殴る蹴ると、好きなようにされている。
「ねえ」
 アスカが猫撫で声で呼んだ−もっとも危険な兆候の声で。
「あーん?」
 派手なアロハシャツの男が、いかにも顔に合った声で振り向く。凶暴さを帯びた表情が変化したのは次の瞬間であった−欲情へと。
 童顔とアンバランスなグラマーな肢体。とは言え、アスカの顔を見て男の顔が変わったあたり、元からそっちの気もあったらしい。
「何の用だい?」
 急に一転して、奇妙に優しげな口調で男が聞いた。
 男はリーダー格ではないのか、他の者達は獲物に暴行するのに夢中で振り向こうとはしない。
「あのね、その人放してくれない」
「お嬢ちゃんの知り合いかい?」
 男の目が怪しい光を帯びるのを見て、アスカは少し怯えたようにうんと頷いた。
「それは困ったなあ」
 男は大げさに空を仰いで見せた。
「どうしても駄目なの?」
「駄目って訳じゃないが、色々とこっちにも事情があるんだよ」
「事情?」
 と少し首を傾げ、上目遣いに見上げて見せると男の口許がだらしなく緩んだ。
「まあ、放してやってもいいがな。その前に一つ言う事を訊いて貰うよ」
「何を?」
 さも純真そうに訊ねると、男は口許をぐいと拭った。欲情を押さえきれぬ風情で、にゅうとアスカに手を伸ばしてくる。
 毛むくじゃらの手が肩に触れる寸前、アスカの足がひょいと動いた。
「あぐやああっ」
 奇怪な声を上げて、男はその場にぶっ倒れた。痙攣する手が股間を目指しているところを見ると、そこを蹴り潰されたらしい−少女の足の一振りで。
 断末魔の声に、さすがに他の男達も気づいた。
 が…状況が分からない。
 倒れた男は180を越える身長であり、一方の娘はと言うと、140前後にしか見えない。しかも男の屈強さに引き替えて少女の方は、あまりにも線が細い。
 それが瞬時に理解する事になったのは、次の瞬間であった。ゆっくりと少女の足が上がってひょいと降りた−男の肩の上に。
 彼らは見た−少女の足が男の肩を貫くのを。まるで砂浜にでも埋めるかのように、少女の足はその肩に大穴を開けたのだ。
「こっ、このガキ!」
「ふざけやがって、やっちまえ」
 たちまち怒号が上がり、男達の殺気がアスカを包む。しかしそれも一瞬の事で、数十秒と経たない内に、そこには 『元男だった物』の残骸が転がっていた。
 上機嫌プラス、シンジかレイが一緒。この条件が無ければ手加減などしない。まして自分を襲って来た者達に何で容赦しよう、この世に在籍している者など一人もいなくなっていた。
「少しすっきり」
 うふ、と笑ったその笑みは、まるで無垢な天使のようにさえ見える。しかしその右手にはべっとりと鮮血が−無論返り血だが。
 しかしアスカはそれを舐めようとはせず、蹲っている男に近づいた。
「あ、あああ…うああ…」
 顔、容姿共に群を抜く美少女が両手を朱に染めて近づいて来るのだ、怯えるなと言っても無理かも知れないが。
「ちょっとあんた」
 びくりと肩が動き、おそるおそる顔を上げた。
(ん?)
 アスカの表情が僅かに動く。見た目は細身の優男だが、その身体が病魔に蝕まれているのを見抜いたのだ。
「ハンカチ」
「は、はい?」
「ハンカチ貸しなさいってのよ。あんたのせいで手が汚れたでしょうが」
 なかなか強引な台詞だが、普段のアスカなら人間ごときに、目もくれない事を考えるとかなり珍しい例と言える。
「こ、これ使って下さい」
 青年が渡したハンカチは、白いレースの縁取りがされている。純白のそれを深紅に染めたアスカは、青年にぽいと返した。
「あ、あの…」
「何よ」
「た、助けて頂いてありがとうございました」
「あんた女なの?」
「え…いえ男です」
「何でこんなの持ってるのよ。これ女物ってやつじゃない」
 助けた男に興味を持ったかに見える若い娘。しかしレイがここにいたら、度肝を抜かれるかもしれない。
 アスカ一体何を、と。
 もしかしたら、うっすらと流れる宵の風に酔ったのかもしれない。
「それは、僕のじゃないんです。それは彼女ので…」
「彼女?」
「僕の…恋人です」
 少しだけ語尾を下げた青年を見て、あーやだやだとアスカは首を振った。
「人間の、それものろけ男を助けるなんて、私もやきが回ったわね。どうせ何かこぼした時に、そっと出してくれたのを返し損ねたとかでしょ。一生やってなさいよ」
 アスカがなぜ、そんなシチュエーションを知っているかは不明だが、くるりと踵を返し掛けた背に、
「それは…手がかりですから」
「手がかり?」
 自分でもよく分からなかったが、アスカは足を止めた。
 青年が三ヶ月前に入院した時、担当になった看護婦と親しくなり、いつしか恋人に近い物になったのだと言う。清楚な雰囲気と甲斐甲斐しい看護に、先に惹かれたのは彼の方であった。
 それまで彼に寄って来る女達は、みなその容姿に惹かれていたのだが彼女は違った。
「僕が彼女に惹かれたのは優しさ、だったんです。ただ彼女は−」
 個室に収容されていた彼の元に、毎晩消燈後忍んで来たと言う。まるでキス代わりのように分身を呑み込むと、一回目は数十秒と保たなかった。
「いつも美味しそうに呑んで…あっ」
 青年はそこまで話した時、相手に気が付いたらしい。小学生程度の外見をした娘にする話ではない、言葉を切った青年に、
「続けなさいよ」
 無表情にアスカは促した。
 ただしシンジがいれば気が付いたであろう−アスカの目にある種の光が浮かんでいることに。そしてそれが性的な物とは異なった好奇心となっていることに。
 青年も初心などでは無かったが、それがまるで少年のように翻弄され、完全に受けに回って幾度と無く放出を促された。ダウン寸前になるまで男の身体をむさぼると、漸く女は離れるのだ。そして、男の精液を受けた唇をゆっくりと寄せてくる。
「どう?自分の精液の味は?」
 昼間の清楚な雰囲気など、微塵も感じられない淫乱な口調で訊ねると、精液を溶かした唾液を移しこんでくるのだった。
「躰の相性が最高なのよ、私達は」
 妖々と笑って女は囁いた。しかし朝ともなるとまた、いつもの清楚な雰囲気のそれへ戻り、甲斐甲斐しく患者の看護に当たる彼女を見て、青年はいつしか独占感に浸るようになっていた。
 だがそれは長続きしなかった。青年が自分の身体の衰えに気付くのに、そう長くは掛からなかったのだ。情事の後の疲労とは明らかに異種−どこか腎虚にも似たそれは、明らかに衰弱の色を見せていた。
 本来なら問題になるところだが、彼女が専門の担当だったせいで、明るみには出なかったのだ。無論、彼自身が何も言わなかった事もある。
 交わった後、急速に訪れる疲労と倦怠感。そしてそれは次の日まで続いた−そう、彼女とまた寝る時まで。
「で?何で病気のあんたがこんな所にいるのよ」
 それを聞いた時、青年の目が大きく見開かれた。
「ど、どうしてそれを…」
「訊いてるのはあたしよ、人間」
 僅かにトーンダウンした声に、
「は、はいっ」
 慌てたのか青年は少し早口で、彼女が二週間前にいきなり退職した事、それ以来身体は衰弱する一方になっている事を告げた。
「それで探してるわけ?」
 いいえ、と青年は首を振った。
「はあ?」
 僕の心はもう…盗まれてしまったから…
 ぽつりと言った青年に、アスカは冷たい眼差しを向けた。
「人間なんて所詮甘ちゃんね。せいぜい頑張るといいわ」
 背を向けると、アスカはさっさと歩き出す。
「あーあ、帰って飲みなおそ」
 金髪をなびかせて歩く後ろ姿を、青年はどこか驚愕の眼差しで見送った−肉隗と化した男たちと交互に見比べながら。
 
 
  
 
 
「甘さはどう?綾波」
「…ええ、おいしいわ」
「本音」
 パフェを一口に口に入れた時、僅かに眉の動いたレイを見ながらシンジが促した。
「…私に意地悪したいの?」
「実験台になってもらっただけ。アスカがいないからな」
「私はアスカの代役なのね」
 哀しげにため息を洩らしたレイは、
「しょっぱいわ、これ」
 差しこんだままのスプーンを見ながら言った。
「では次はこれを」
 シンジが手に乗せて差し出したのは、一センチほどの黒い玉であった。
「これは何」
「それを噛んでからもう一度食べて」
「……分かったわ」
 さっきよりも長い間合いの後、レイは頷いた。一瞬黒い物体を眺めてから、ぐいと押し込むように口に入れる。
 もぎゅもぎゅと噛んだ後、嚥下してからスプーンを手に取った。
 しょっぱいアイスを、かなり躊躇いながら口にしたのだが、その表情が変わった。
「これ、おいしい!?」
「成功」
「え?」
「これで女性にも利く事が分かった」
「今、何て言ったの」
 だが訊いた割には、レイは音も無く動いてシンジの後ろに立っていた。
「男の味覚を変える、そう訊いてもらった」
「誰に?」
「女」
「女?」
 鸚鵡返しに言った時、レイの吐息がシンジの耳をくすぐった。レイの口許が、わずかに引きつっているのを感じながら、
「無銭飲食で撃ち殺されそうだった。僕はトマトジュースを飲んでいた。以上」
 シンジの三段論法に、
「そうね」
 とレイは言ったものの、その吐息は更に近づいてきた。
「ん?」
 砂糖をすり切ったスプーンを持った手首が、ぐいと掴まれたのは次の瞬間である。
「私と言う物がありながら、人間の女なんかに物をもらうなど許せないわ」
 なんか危険だぞ、と囁く本能に従い避けようとした刹那。
「わたしとひとつになりましょう」
 熱く囁いた声には、明らかに欲情が混じっていた。振り向いた顔にかかる吐息は血の匂い。乱杭歯がゆっくりとせり出して来るのを、シンジは象牙でも見るような顔で眺めた。
 何かに中毒ったのか、完全に欲情状態と化しているレイ。しかしその凄まじい握力に掴まれながらも、シンジはスプーンを落とそうとはしなかった。
 黒玉が招いた結果と知りつつ、
「離さないと縁を切るぞ」
 とりあえず言ってみる。
 すると、
「べつに構わないわ」
 と返って来た。
 そこまで色ボケしたかと思った刹那、
「わたしからはなれられなくしてあげる」
 棒読みながら、凄まじい色香のこもった声でレイは言った。
 それを聞いたシンジの手がゆっくりと動いた−不死人のそれは、夜の一族の力さえ振り切ると言うのか?
 答えはその通り、であった。
 左手、すなわち空いている方の手はゆっくりとレイから離れたのだ。しかしその代償は、その手首に残る紫の痣がまざまざと示していた。
「綾波」
 シンジが低い声で呼んだが、その目はスプーンに注がれている。どうやらぴたりに計った物が、全部こぼれた方が気に入らないらしい。
「なあに?碇君」
 答えた声には、血の翳りと欲情の響きがひときわ強く込められていた。
「いいよ」
 シンジは冷たく言った。
「え?」
「僕と一つになりたい。それでどうする」
 その途端、レイの手がぴくりと動いた。にゅっと伸ばしかけていた手が制止する。
「一つになる仕方を学んでみたい−処女の吸血鬼から」
 言うと同時に、シンジは一歩前にすっと出た。急速にレイから危険な光が消え、逆に一歩下がった。
 シンジが一歩進み、レイは一歩下がる。あっさり入れ替わった両者は、壁際まで進んだ。
「もう後がない」
 むしろ優しげに囁いたシンジが、今度はレイの腕をぐっと掴んだ。軽く持ったままだが、レイは抗する事も出来ない。
 −シンジの、不死人の黒瞳がレイをじっと射抜いていたから−
「一つになってみる?」
「ご、ごめんなさい…」
「許してやんない」
 すっと動いた手が、レイのブラウスをたやすく切り裂いた。第三ボタンの辺りまで一気に裂くと、中から純白の肌が現れる。危険に歪んだのはシンジの口許−それを見たレイの顔にほんの少しだが、何かを期待するような色が浮かぶ。
 それが驚愕に変わったのは次の瞬間であった。胸元に一直線に伸びた指は…十字を描いたのだ。吸血鬼のレイがそれを、しかも素肌に禁忌(タブー)のそれを描かれたらどうなるか。
「あ…うぅ」
 小さく洩らすと、レイはそのまま崩れ落ちた。肩に寄りかかったそれを軽々と担ぎ上げたが、少しだけ手荒くソファに降ろした。
「マロンが駄目になった」
 レイに押された時、栗の入った瓶が床に落下していたのだ。
「綾波にはあげない」
 どこか不機嫌な声で不死人の少年は呟いたが、レイの身体がぴくりと動いたことには気づいていない。
 無論−レイは失神中。
  
 
 
 
 
「あなたを入院させろですって?」
「うん」
「命題としては面白そうね」
 アスカがリツコの所を訊ねたのは、青年に会った二日後の事である。
 リツコは、アスカ達のことを知る数少ない人間の一人であり、彼女に取ってアスカの頼みは面白い物ではあった。何しろ、凄まじいまでの自己治癒能力を持つ彼らは、怪我をすることはあっても数分も持たないのだ。早い話が、長時間怪我できない便利な体質という事なのだが。
「でしょ?夜の一族に人間が怪我を負わせたなんて、一大スクープよ」
「でもないわ」
「え?」
「対妖魔用の札や薬品を使えば、いくらでも重体にすることは出来るわよ。それに殺すこともね」
 じゃあやれば、と言いたくならないのは、ひとえにその口調の為だ。誇張でも虚栄でもなく、ただ淡々と事実を告げるだけのリツコ。
「だけどそれじゃ入院出来ないじゃない」
「突発の外来で入院したいのね」
「そうなのよ」
「あなたの姉さんはいいって言ったの?」
「姉さん?どうして?」
「プライドの高い夜の一族が、人間ごときに傷を付けさせていいの?」
 真紅のマニキュアとモカのブラック。その奇妙なコントラストにも似たものを、アスカはじっと見ていた。
(赤木さんに訊いたのは失敗だったかしら)
 仲が悪い訳ではないのだが、リツコとレイの何となく微妙な関係を、アスカはその感覚で知っていた――無論、原因は決まっている。
 どうして、と訊いたアスカに、
「種族が違うからじゃない」
 とシンジは言ったが、実際はシンジ絡みだろうとアスカは見ている。ただシンジがそれを知らないのか、あるいは知りつつ興味が無いのかはよく分からないが。
「…私は子供じゃないわ」
 これが余人なら笑うのを許されるが、相手はアスカである。リツコにも、アスカの実際の年齢は分からないのだ。
「そうね、失礼したわ」
 リツコは頷いたが、
「でももう一つあるわよ」
「もう一つ?」
「何故入院したくなったの?凍夜町にも、医者はたくさんいるでしょう」
「セックスのうまい看護婦を捜してるのよ」
 リツコが一瞬妖しく笑いかけたが、
「男が急速に衰弱する位のね」
 続きを聞いて、その顔がすっと引き締まった−刑事の顔へと。
「興味があるわね」
 顔を寄せ合った二人がなにやら密談を始め、アスカが出ていったのは十五分後の事であった。
 
 
 
 
 
 吸血鬼達の住む街−凍夜町。夜の世界の住人達は、その反動として朝は弱い。人と魔が共栄するこの街に於いては、当然のように自己防衛が求められる。
 そのためガードマンを初めとして、身分の怪しい者は街に入る事すら出来ない。一応人間である碇シンジが、綾波邸に無心さで入れるのはレイの意志があるからだ。
 ただし、新入りのガードマンに一度拒まれた時、ここの住人が数十名死んだのはあまり知られていない。
 しつけも出来ない小娘のシェパードに、シンジは道中で手にしたケーキを襲われたのである。そして運の悪い事に、それはシンジの会心作であった。犬を八つ裂きにしたシンジは服を朱に染めて現れ、服を掴んで止めようとしたガードマンを肩から大きく斬り下げたのだ。
 しかし奇妙な事に、その時シンジは手ぶらで来たとされており、どこからか出した白刃で、それはもう楽しそうに斬っていたと言われている。
 当主とその妹、二人と妙に親密なシンジに妬いたのかは不明だが、うじゃうじゃと加勢した者は全員骸を晒す羽目になった。
 死人の山を築くとシンジは帰ってしまい、その後数日間当主とその妹は、監督不行届だとして電話にも出てもらえなかったらしい。おかげで鬱々たる数日を過ごした、とされているのだったが。
 だが企業でもそうだが、平社員とトップの間には往々にして、大きな意識の隔たりがあることが多い。そしてそれはこの凍夜町においても、例外ではなかった。綾波邸を守備する者達は、自分の身体が塵と化しても不審者は入れようとしないが、街の入り口の者達には若干の気のゆるみがあったのかも知れない−そう、白衣姿の美女の侵入を許したのである。
 腑抜けになったガードマン達が発見されたのは、侵入後数時間してからであり、すぐに捜索の手が伸びたがその姿はどこにも見あたらなかった。
 
 
 
  
 
 凍夜町の中央病院に、当主の妹が入院したのは数日後の事である。超弩級VIPの突然の来訪に、院内は上へ下への大騒ぎとなった。
 しかも来るなり、アスカは奇妙な要求を出したのだ。
「一番の美青年と夜だけ部屋を変えて」と。
 奇怪な要求だが、当主の一族のそれを断る訳にはいかない。それに、一緒の部屋にしろとは言っていないのだ。ただし一応連絡した方がいいだろうと、レイにすぐ連絡が取られた。
「いない?」
「はい、ここ数日姿を見せておられないとの事です」
「アスカ様は入院されるし…それにレイ様はおられないし…」
 中年の婦長は頭を抱えたが、とりあえず個室を手配してから、最大限丁重に扱うよう命じた。
 
 
 
 
 
「まあこんなもんよね」
 安静にしていればいいからと、手術は無論診査も断ったアスカは白い天井を眺めていた。
 リツコが、アスカの体内に入れたのは食妖虫。その名の通り、魔の一族にしか効かない虫で、人間には全く無害である。ただ魔には効果てきめんとあって、この街では殆どお目にかかる事はない。いわば虫に取っての、強力な殺虫剤みたいな物だからだ。
 寝間着の襟をはだけると、アスカはうっすらと変色している胸元を見た。鎖骨の少し下辺りは紫色になっており、幾分ふくらみかけている。直に入れればひとたまりも無いが、リツコは麻痺させて挿れたと告げた。
 なぜそんなのを持っていると訊いたら、試験管で大量に飼っているのだという。いい実験台がいて良かったわと、嬉しそうに話すリツコを見てアスカの背になにやら寒い物が走った。
「鑑識課より科学者の方があってるわよねえ…いたっ」
 話題が飼い主に及んだ事を知った訳でもあるまいが、アスカの胸が少しうずいた。
「もういい…寝る」
 狭い範囲とは言え、アスカの肌にはやや醜悪。それを見たアスカは夜まで眠る事にした。体力を奪われたのか、急速に睡魔が来襲して来ていたのである。それから数分もしない内に、穏やかな寝息だけが室内に物音となっていた。
 結局アスカは、夕方になっても目を覚まさず、婦長自らが起こしに来たのだが、かなり不機嫌な様子を見せたためそのままとなった。
  
 
 
 
 
 草木も眠ると言われる丑三つ時。
 アスカの部屋のドアが音もなく開いたのは、それから半刻後の事であった。
 自動ドアではなく、今時珍しい重い樫の扉が静かに開くと、人影が一つすっと滑り込んだ。
 広い室内は完全な闇に閉ざされているにも関わらず、まるで滑るようにアスカの枕元に近づいた。
 大胆な手つきで掛け布団を剥がすと、起きているかのような寝相のアスカがいた。その両手は、胸の上で組み合わされていたのである。普通、なかなか保ちづらい姿勢を器用に保っているアスカ。
 一瞬侵入者は足を止めたが、寝ていると分かるとにっと笑った−空気がわずかに揺れたのだ。
 何を思ったか、肩からはらりと白衣を滑り落とす。中から現れたのは豊かな肉付きの女体であった。あたかも白衣が清楚を形作っていたかのように、みるみる妖艶な雰囲気が全身から吹き上げる。すっと伸びた指が寝間着にかかると、腰の辺りまで一気に引き裂いた。絹が裂けるような音で二つに割れると、中からは肢体に不似合いな程の乳房が現れる。
 右の乳房の上を見ると、
「食妖虫まで入れて私をお捜し?希望通り来てあげたわ」
 熱い吐息と共に囁くと、アスカの両肩を掴んでいきなり唇を重ねた。猫は鼻を押さえるともがくというが、吸血鬼とはいえいきなり呼吸を止められれば気づく。
 が、アスカの意識が覚醒した時、既に舌は口腔に入り込んでいた。当然抵抗しようとしたが、流し込まれる唾液がその力を奪った。或いは、食妖虫が仇になったのかも知れない。
 もがくアスカの手足から、力が抜けるのを確認してようやく女は唇を離した。
「殺す前に、たっぷりと可愛がってあげる」
「う…くうっ」
 起き上がろうにも、完全に力は抜けている。アスカは食妖虫を選択したリツコを、ほんの少しだけ恨んだ。
「この胸…宿り乳かしら?ご馳走は後回しね」
 アスカの胸を見て舌なめずりすると、邪悪な手を下腹部に伸ばす。
「や、やめて…」
 アスカの肢体が恐怖に震えた次の瞬間−
「ここに…いたんですね」
 それを聞いた時、女は反射的に飛びのいていた。
 そしてそれに続いて、
「この街の病院に押し入った事、度胸だけは認めてあげるわ」
 氷よりも冷たい声がした。
 部屋の明かりが点くのと、
「み、見ないでえっ!!」
 叫び声がするのとがほぼ同時−女の声で。
 
 
 
 
 
「長倉瑞樹。半年前にふらりと現れて看護婦になる。腕の良さと勤勉さを買われ婦長代理にまでなるも、それ以前の経歴は不明」
「眠っていたのよ−長倉瑞樹の中で」
「だとすると、本人を食い破って出てきた、と?」
「そう。ただし吸精型だから、男の精を吸わないと体が持たないのよ。魔族ならもっと良い獲物ね」
「それで?何で全部ちゅうちゅう吸わないで逃げたのかな?」
「逃げた−いえ、姿を消したのかも知れないわね」
「どうして逃げたの?獲物から」
 どこか面白そうに訪ねる少年に、
「さあどうしてかしらね」
 いつものような声で言うと、スプーンを手にした。
 アイスをすくって口に入れ、
「ミックスパフェの二人前…少し恥ずかしいわね」
 あまり恥ずかしくなさそうな声で呟いた。
 
 
 
 
 
「衰えた姿を男に見られたくない。だから黙って姿を消した」
 蛍光灯が、醜く崩れ掛けた女の体を容赦なくさらけ出す。
「ね、姉さんどういうことなの?」
「身体を張るのもいいけど、相手をよく見なさい」
 レイの声は少し冷たい。
「は、はい…」
「吸精型の半妖女が、獲物を食べていた。でもその相手の想いに…」
 言い終わらぬ内に、レイは地を蹴っていた。ろくろっ首のように伸びた手が、レイのいた場所を襲ったのはその一瞬後の事である。
「想いも遂げられない、口下手吸血鬼の出る幕じゃないわ。小娘が知ったふうにっ」
 ぶん、と伸びた手を、今度は避けなかった。レイは真正面からそれを捕まえたのだ。
「想いを遂げられない、と言ったか」
 異様なほど静かな声で言った途端、
「たわごとを」
 はき捨てるように言うと、その手をごきりとへし折った。
「が…ああああああっ」
 二つに折れ曲がった腕を押さえて、苦痛に身を折った女を見ながらレイが長剣を取り出した。
 電光を浴びて鈍く光るそれを振り上げたが、
「邪魔をするの」
 女の盾となるように、あの青年が立ちふさがったのだ。
「僕が協力したのは、彼女を殺させる為じゃありません」
 アスカが興味を持ったのは、セックスがそのまま衰弱に繋がったと見抜いたから。だがそれだけでは女の手がかりにはならない。会わせてやると言う条件で、青年に血液検査を承諾させたのはレイであった。
「気が変わったのよ、どきなさい」
 シンジが胸に描いた十字架は、レイを持ってしても丸四日の間、身動き一つさせなかったのである。あっさりと前言を翻したのも、その辺に一因があったのか。
「お、お姉ちゃん?」
 アスカの方はレイの不機嫌の理由を知らない。一体どうしたのかと訝しげに姉を眺めたが。冷たい一瞥が返って来た。
(寝不足?)
 首を捻ったが、危険な兆候を知って静観に回った。レイの危険兆候は、シンジ以外が触れるとかなり危険だからだ。
「もう一度だけ言うわ、どきなさい」
 レイの赤瞳が青年を射抜く。赤光も伴わないのは珍しいが、逆に冷たい迫力で迫ってくる。
 だが何か言う前に、その服がぐっと掴まれた。
「え…み、瑞樹さん…」
「いいのよ坊や」
 右腕は肘の辺りで逆に折れ曲がり、肩の肉は崩れかけている。明らかな死相を浮かべながらも、声だけはほんの少し苦しげに女は言った。
「あ、あなたとは…か、身体が合っただけよ…」
「う、嘘だっ、あなたは…あなたはっ」
「どいて」
 女の言葉に有無を言わせぬ物が含まれ、青年は一歩横に動いた。
「それでいいのよ」
 苦しげに笑うと、ゆっくりと立ち上がった。
「半妖でも…人間の坊やに助けられたくは…ないのよ」
 傷を覆うのは気力、傷を押さえていた左腕がぐぐっとせり上がり伸びていく。
「来なさい」
 その声に反応するかのように、女が動く。レイもまた動き、二人の女は空中で交差した。互いに向けて突き出した物、片方は空を切りもう片方は−
 珍しいわね、とアスカは小さく呟いた。刀も短刀も使えないレイではないが、こんな時に使うのは珍しいのだ。
 予想通り、あるいは当然の結果と言うべきか、妖女は肩からばっさりと斬り下げられていた。肩から崩れ落ちた女に青年が駈け寄る。
 急激に血の気を喪って行く顔に、ほんの少しの微笑を載せ、
「め、迷惑な…坊やよね…」
「み…」
 言い掛けた青年の前で、がくりと女が首を折る。その肢体がみるみる灰塵と化していくのを、青年は何故か冷えた目で見ていた。
「アスカ、帰るわよ」
 踵を返したレイの背に、 
「待って下さい」
 振り向いたレイも、そして見ていたアスカも無表情−青年の手に拳銃が握られても。
 その手にあるのはS&W・M10。リボルバーを自分に向けている青年を見て、レイは冷たく笑った。
「子供のおもちゃではないわ」
 ぴくっと動いたアスカをレイが目で制した次の瞬間、四インチの銃身が六発の弾を叩き出した。ただ軽量化されたコンパクトガンとは言え、ひ弱な青年がいきなり扱ってぶれずに撃てる物ではない。六発の内二発が壁にのめり込み−残る四発がレイの身体に穴を開けた。
「ホローポイント位の芸は欲しかったわね」
 事も無げに言うと、軽く胸を叩いた。ぽん、と言う感じで転がり落ちたのはぐしゃりとひしゃげた弾丸であった。
「あ…あ…」
 立ち尽くす青年から興味を無くしたように視線を外し、
「後は任せるわ」
 アスカに短く告げて出て行った。
 
 
 
 
 
「それで?」
 四つ目のケーキを平らげた二人を見ながら、シンジが訊いた。
「アスカに任せたもの、私は知らないわ」
 静まり返った室内に響く銃声。そしてその向けられた先は一族の当主。アスカがレイに続けば事は済んだであろう。看護婦たちと屈強なガードマンたちが入ってきて、彼は五体ばらばらにされた筈だ。
「で?」
 とブルーベリーに手を出したアスカを見た。
「シンジあのね」
「は?」
 逆に呼ばれて一瞬虚を突かれたシンジの顔を見て、レイがくすっと笑いかけ−慌てて引っ込めた。シンジがちらりと見たのである。
 固まったレイから視線を戻すと、
「それで何?」
「好きな人とだったら、ずっと一緒にいたい?」
 それを聞いたレイが、ちらっと視線を動かしてシンジの方を窺った。シンジは表情を変える事も無く、軽く首を傾げた。
「あの世行くまでならいいかな」
 それを聞いたアスカがうっすらと微笑した。容貌に似合わぬほどのそれは、アスカの意図をシンジが完全に読んだことを知ったから。アスカの牙が頚動脈を裂いた時、薄れていく意識の中で青年はこう言ったのだ−ありがとう、と。
「私はずっと一緒が良いな」
 ぽつりと言ったアスカがシンジを見る。二人の少女の視線を一身に受けたシンジがすっと立ち上がった。
「紅茶でも持ってくる」
 数歩行った時、シンジはくるりと振り向いた。
「綾波は?」
「え…私?」
 何故か一瞬うろたえたレイは、これも僅かに首を傾げるとこう言った。
「ずっと一緒じゃなくてもいいけど…お別れの時は送って欲しいわ−その人に」
 向けられた視線を何と読んだのか、
「考えておくよ」
 シンジの姿が見えなくなった時、
「いいわよねえ、お姉ちゃんは」
 アスカが羨ましそうに呟いた。
「どうして?」
「だってあっさり許してもらえるんだもん。私だったら一生無理よ」
「私の想い人だもの、当然でしょう」
「はいはい、ご馳走様」
 言うなりアスカは、レイの前のケーキにひょいと手を伸ばした。
「あ、駄目よそれは」
 折角チーズケーキを取って置いたのに、と睨んだレイに、
「いいじゃない。慶事には寛大にする物よ」
「慶事?」
「シンジと仲直り出来たんだから」
「…それもそうね」
 だがひょいと顔を出したシンジが、
「すぐ発情する娘(こ)は嫌い」
 冷たく言った物だから、その顔が見る見る曇り…
「ア、アスカそれ返しなさいっ」
「やだ、もう食べちゃったもん」
 立ち上がり、皿を持って逃げ出すのをレイが追いかけた。
 自分の作ったケーキを巡り、どたばたと暴れている二人を見ながら、
「一体何をやってるんだか」
 シンジは呆れたように呟いた。
  
 
 
 凍夜町の住人は殆ど皆、夜の一族である。妖魔、それも上級になるほど自分の力量は知り尽くしている。
 なのになぜ?何故半妖の女は当主のレイに挑んだ?−討たれるのを臨むかのように。
 なぜ男は、自分に死を送る少女に礼を言った?−心からの笑顔を見せて。
 
  
 
 
 
「先に待ってるから、って感じだったのよねあの女」
 最期に青年の服をぎゅっと掴んでいた女と、自らの血を吸われながらも幸せそうな笑顔だった青年と。
「送ってあげたの?」
 そう聞かれた時、少女は首を振った。
「鬱陶しいから追っ払ったのよ…二人まとめてあの世にね」
 肩をすくめてぼやいた少女に、彼等はどう映っていたのだろうか。
 相思相愛?それとも?
 
 
 
 
(了)

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