第八十八話
 
 
 
 
 
「ユリ様からのお呼び出し、何事でしょうか」
「何かは知らないけど――」
 シンジはシートに身を沈め、ハンドルはモミジに任せている。
 モミジは強硬に主張し――シンジもその方が良かったのだが、状況は以前と変わっていない。すなわち、アスカとレイはサツキの家で飼われており、モミジはシンジの家にいる。
 シンジはアオイと暮らすべきだと主張したモミジだが、
「カエデが狙ってくるのはシンジ、命を狙っているのはモミジよ」
 とアオイに却下されて現在に至る。アオイが何を優先順位の上に置いたか分かるだけに、モミジには不満が残る。モミジにとってレイの評価は別段上がっていないのだ。
 当然のように、依然として身体は重ねていない。普通とはかなり異なる関係のこの二人に取って、セックスの意味は非常に大きいのだが、モミジなりの抵抗かもしれない。
 なお、アスカとレイが“飼われている”ままなのは、サツキの評価が変わっていない為だ。
「自分が普通である事が恥だと?やはりお前達は当分ここで飼っておかねばならんな」
 えらい言われようだが、相手がサツキの場合何となく納得してしまうから不思議だ。
 とまれ、先だっての一件以来モミジとレイの仲は一応修復されたのだが、やはり問題はアスカにあった。
 シンクロ率は下降気味で、ハーモニクス値も安定しない。とはいえ既に方針は固まっているから、にせリツコに複座タイプのプラグ開発を急がせている所だ。
 なぜにせリツコの方なのか?
 本物はマヤの付き添いと、怪しい薬の開発にせっせと勤しんでいる最中だからだ。
 単純に自分の身体ではゲンドウを取り戻せないと知り、方針を切り替える事にしたらしい。勿論、強引にやらせる事も可能だが、心ここに在らずの開発者では、良い結果など出せようもない。
「ろくな事じゃないのは確かだ」
 呟いた十分後、車は病院の地下駐車場へ滑り込んだ。
 正面玄関から入るとマユミが待っていた。
「お待ちしておりました。院長がお待ちです」
「うん」
 マユミの後について歩きながら、
(シンジ様この方は?)
 訊ねた途端、シンジは哀しげな表情で眉を寄せた。
「シ、シンジ様?」
「僕が道を狂わせちゃったんだ」
(え?)
 異なる表情ながら、二人の少女の顔に同時に?マークが浮かんだ。
「ビルの上から負傷して落ちてきたから病院に運んだんだけど…」
「『だけど?』」
 二人の声が重なったのは偶然だが、思考は全く異なる。二人とも初対面だし、特にマユミの方はモミジなど全く知らず、あまりすべてを話してもらいたくはない。シンジとの関係など知らないのだ。
「ここの院長に食われた。おまけに今も餌食になってる」
「……」
 これがアスカなら別だが、全く見知らぬ相手だった為、一瞬モミジのリアクションが遅れた。それを呆れられたと取ったのか、首筋まで染めたマユミが早足で歩き出す。
「あの、待って下さい」
 慌ててモミジが呼び止めた。
 マユミの足は止まったが、こちらは振り向かない。
「その、初対面でこんなお訊ねするのは失礼かと思いますが…どうしてこの病院へ来ておられるんですか?」
「す、少しその…看護婦のお仕事とか興味があって…」
「ここへ来るようになった事を後悔しておられますか」
 重ねて訊いた。
 一瞬間があってからマユミが首を振る。
「ほらシンジ様」
「何がほら、なのさ」
「後悔しておられないなら、それはその方の生き方です。もしかして、シンジ様が振られた方ですか?」
「…帰ったら覚えてろ」
 こっちを見ていないから雰囲気は分からない。険悪になったと思ったのか振り向いたマユミが、
「あ、あの碇さんには助けて頂きましたけど、好きとかそう言う事じゃなくて…え?」
 シンジはそっぽを向き、モミジはうっすらと微笑んだ。
「シンジ様は優しい方ですから大丈夫です。ご挨拶が遅れました、わたくしは土御門モミジと申します」
「山岸マユミといいます。あの、よろしく」
 マユミが自分からこんな事を言うのは珍しい。或いは、どこか波長が合うと思ったのかもしれない。
 わたくしの方こそよろしく、ときゅっと握手してる二人を見て、シンジが今度は反対側にそっぽを向いた。
 理由はよく分からないが、何となくつまらない。
 気分的に対極にある二人組と一人が、見せられたのが霧島マナのデータであった。
「こんなのがどうして堂々とやって来ると?」
「工作員が密かにやってくる、と思うのは時代遅れよ。かつて日本人を拉致した国があったが、工作員は平然と日本人の中に紛れ込んでいた。逆に言えば、一般人の中に紛れ込めない者は、工作員としては使えないという事になる」
「はあ」
 破壊工作も少々こなしはするが、暗殺業の方が本命だからよく分からない。曖昧な表情で頷いたシンジに、
「ところで、何故モミジと二人だけを呼んだと?」
「正直どうでもいい。変態院長の思考に興味はないんだ」
 ユリの表情が一瞬動き、マユミの顔色がすっと変わったそこへ、
「教師は常に生徒の反応が気になるのよ」
 姿を見せたのはアオイであった。
「こんな教師(せんせい)は嫌」
(……)
 アオイに声を掛けられたシンジの気が、ふっと緩んだような気がしたマユミだが、実はそれよりも前、即ち気配を感じた瞬間だった事までは分からなかった。
「どの程度の工作員かは知らないけど、僕やレイちゃんを狙ってくるほど物好きでもないでしょ。というよりも」
 シンジが振り返った。
「アスカへのラブアタックでしょ」
「え!?」
 これを聞いて度肝を抜かれたのがマユミである。じっと画面を見つめたが、どう見ても男には見えない。
(でもアスカさんも女の事でこの人も女で…え?)
 あからさまに狼狽えはしなかったが、秘かにあたふたしている様子は、他の面々には丸分かりである。無論、自分はどうなると訊かれれば、違う意味で赤面して狼狽えるに違いないが。
 代表してモミジが、
「女の子同士なのに、って思ったでしょう」
「え、ええ…」
「女の子同士だから、ですよ」
「え?」
「わたくしも詳細は分かりませんが、おそらく同性愛――要するにレズの訓練も受けてきているはずです。相手が異性の場合より警戒心は薄いですから。普通なら通じない手でも、今のアスカになら使えると踏んだのでしょう。普通である事にコンプレックスを感じているそこへ付け込み、最後は快楽で虜にする――ある意味分かり易い手段です」
 モミジの雰囲気はどちらかと言えばアオイに近い。そのモミジの口からレズの訓練などと言う言葉が出ると、妙に淫靡に聞こえる。ユリを見たが、当然のような表情で聞いている辺り、間違っているとは思っていないらしい。
「で、でもあの…」
「はい?」
「分かっているなら予め防いだ方が…」
「良くないんですよ」
 引き取ったのはシンジであった。
「碇さん?どうしてですか」
「モミジが言ったでしょ、催眠術じゃないって。尤も、催眠術でも本人が心からいやがってる事はさせられないらしいけど。今のアスカは、自分が役に立たないと思いこんじゃってる。そこを突かれると分かってるなら、防ぐ手だてはないさ」
「でも…」
「いいのよ」
 アオイが柔く抑えた。
「こればかりは、他人がどうこう出来る事じゃないの。今この時に、普通の人間である事をどう思うかは本人の価値観だし、自分で理解するしかないわ」
「そーゆー事」
 ふわ、と小さく伸びをしたシンジが、
「それに直接の原因は分かってる、この間僕らを襲って全滅した事だ。アスカをレズに引っ張り込んで終わる筈はないし、この際一気に叩いておいた方が後々すっきりする」
 アスカの精神面の問題だから仕方ないと言いながら、黒幕を引っ張り出す事まで考えているのは分かった。
 ただ、駒が足りない気がする。
「お話は分かりました。このことは綾波さんには?」
 レイの姿がないのだ。
「話す必要もない事だし、話していないわ。子供に話せる事じゃないのよ」
(信濃大佐…)
 マユミはレイがモミジを襲った事は知らない。
 ただ一つ分かった事がある。
(綾波さんの株が大暴落したのね…)
 
 
 
 
 
(おかしい)
 広げた新聞で顔を隠したまま、冬月は呟いた。
 第三新東京市からの帰り、電車内でリツコとシゲルに会った。シゲルは直立不動で挨拶したが、リツコの方は軽く一礼したのみだ。
 無礼とは言わない。
 シゲルと比べれば遙かにリツコの方が自分達とは近い関係だからだ。
 だが何かが違う。
 リツコと同じだが別人――しいて言えば中身だけ取り替えたような、そんな感じがした。
 そしてそれは正解であった。
 ここにいるのはリツコ本人ではないからだ。
 にせリツコの方である。
 コインランドリーでシゲルと会ったのだが、言うまでもなく本来ならば必要ない。
 ただし、造り主とシンジの意向がリツコ排除に無い為、あまりオリジナルとかけ離れた行動は取れないと、必要もない行動を取っていたのだ。
 くるくる回る白衣を見ながら、ダミーに気を遣われるオリジナルも大変ね、と少々逆転発想的な事を呟いていたにせリツコである。
 マヤの傷は回復しつつあるが、依然としてリツコにべったりくっついており、そこだけ見ると瀕死の重傷にすら思えてくる。ただにせリツコには関係ない話なので、レズという趣味に口を出す気はないが、問題はシンジから上がってきている複座式のエントリープラグにあった。
 言う事は分かるが、そもそもエヴァはチルドレンが一人で乗り込むものであって、うぞうぞと複数で乗るものではない。
 アスカとモミジを組ませた場合、確かに数値は上がる上に安定するかもしれないが、それを見たシンジが、
「じゃ、もう二人でも大丈夫だね」
 と、さっさと帰る可能性は決して低くない。
 そもそもシンジは、最後まで付き合う決心をしたのだろうか。
 どう考えてもデメリットの方が大きいような気がして、機嫌の針は真ん中より少し悪い方に振れていたにせリツコであり、そんな時に悪の頭領に会って機嫌が良くなる訳はない。
 悪の頭領――正確に言えばアオイとシンジの排除を企んでいるのは、ゲンドウではなく冬月にある事は既に知っているにせリツコである。
(そう言えば悪の組織の親分は墓参だったかしらね)
 
 
 
 
 
 この小さな袋に入っている破片、それが亡妻の思い出の全てである。
 三度の徹底的な破壊を経て、それでもなお墓石に固執する父親に呆れてくれた、のかは分からないが、とりあえず共同墓地にある四番目の墓はまだ破壊されていない。
 ただし、ユイが四度生き返った訳ではない。さすがのゲンドウも、四番目の墓へ最初の物へと同様の想いを向けるのはやや難がある。袋に最初の墓石の破片を入れて持ち歩いているのはそのためだ。
「すべては心の中だ…と言い切れる程私はまだ成長していないか?ユイ…」
 シンジに聞かれたら、墓石もろとも銃撃を浴びそうな台詞を呟いた。
 時折思う事がある。
 もう一度ユイと会えた時…ユイは何と言って自分を迎えてくれるのか、と。
「困った人ね」
 そう言って笑うか、或いは一瞥もくれず立ち去るかも知れない。それはその時になってみなければ、分からない事である。
 ただ問題は――心の底から愛していた妻の行動が、まったく予測出来ないという事にあった。
 無論、シンジを強制排除しない理由はそんな所にない。戦力として計算した事に加えて、シンジ達に怪しい素振りが全くないからだ。
 既に人類補完計画は潰すと決めているアオイとシンジの二人組だが、二人、風呂の中でベタベタしながら決めたと知ればどんな顔をするか。
 風に吹かれながら手にした袋を見つめていたゲンドウだが、不意に携帯が鳴った。
「私だ。そうか…分かった」
 短い対応の後、電話を切った。
 向こうの話は未だ終わっていなかった。
 
 
 
 
 
「シンジ様」
「なに?」
「今年はどうなさいますか」
「どうって、あれ?」
「はい」
「ほっとく。たまには好きにさせとこう。普段ならいざ知らず、今は僕がいる。墓石の建築にかかりっきりで職場放棄されたら困るからね。とばっちりが来たら大迷惑だ」
 端で聞いていても怪しい会話であり、
「あの、何のお話ですか?」
 マユミが聞いたとしても責められまい。
 とりあえず突っ込んでおかないと、後で傍観責任でも問われかねない気がする。
「破壊工作です」
 モミジの笑顔は至極普通の少女の物であった。
「は、破壊工作!?」
「共同墓地で一つだけ墓石を銃撃するのは結構難しいんですよ」
「……」
 マユミの口が小さく開いた。
 呆れたとまでは行かないが、物が言えなくなったのだ。
 言うまでもなくマユミは日本人であり、少なくとも霊や魂に対する畏敬の念は持っている。無神論とか言うならいざ知らず、墓石の破壊と来たのだ。
「マユミ嬢」
「…はい?」
「三回壊されても、まだしつこく作り続ける人がいるんです」
「…そう…なんですか」
 シンジは軽く頷き、
「悪の秘密組織ネルフの総司令碇ゲンドウ――僕の父さんです」
「!?」
 勿論自分の墓を予め造っておく筈は無いし、いくらシンジでも先祖に怨みを持って墓石を壊しはするまい。
 マユミは一つだけ訊いてみる事にした。
「あの、碇さん」
「何?」
「最初にそのお墓が造られた時、埋葬されていたのはお一人ですか?」
「一人ですよ」
 シンジの言葉を聞いた時、マユミの中でいくつかの単語が電撃的に繋がった。
 
  
 
「碇、訊きたい事がある」
「何だ」
「赤木博士の事だが、何かあったのか?」
 その視線は、下の方で実験の指示を出しているリツコに向けられている。無論、オリジナルではない。
「何か?見たところ健康面に問題はなさそうだが」
「そう言う事ではない。さっき会ったが何かこう…別人のような気がしたぞ」
「そうか」
 会話自体はさしておかしくはない。
 問題は二人の位置にある――机に座っていつものポーズを取っているゲンドウと、その横に冬月が立っている図なのだ。
 普通に考えれば、到底会話が成立する図には見えない。
「別に問題はない」
「それならいいが…」
 やはり、普通の会話は成立しなかったようだ。
 大抵こんな感じだが、常に成立しない訳ではない。今日はゲンドウが意図的に外したのだ。
 無論、別人のようなどころか別人のリツコが存在する事は分かっている。さして自慢にはならないが、女を一人しか知らぬゲンドウではないし、そもそも女が一日だけ妖女に変貌する事などどうしてあるというのか。
 ただ、リツコが二重人格だとはどうしても思えず、無理矢理吐かせようかと思った事もあるが、現実にはしていない。
 勿論リツコに気を遣った訳ではない――たった一度きりの体験ながら、熟女に搾精される童貞少年のように弄ばれた記憶が、強烈な麻薬のようにもう一度求めたい一方で精神的外傷にもなっているせいだ。
 手袋に隠れた口元が僅かに歪んだその時、不意に視界が暗転した。
 
 
 
 
 
「レイにはさ…悪い事したと思ってるのよ…」
「……」
 シンジ達が破壊工作話で微妙に盛り上がっていた頃、アスカとレイは芦ノ湖に来ていた。
 無論、黒服のおまけはない。出勤前のサツキに送ってもらったのだ。
「割合から言えば、姿形通り無力で弱い人間の方が圧倒的よ。あんたやモミジみたいに異形の力を持ってる方が数は少ない。レイがあたしと喧嘩した時だって、力なんか使ってないし、持ってる力を振り回そうとしてないのは分かってる。なのにあんたを化け物みたいに言った事は悪かったと思ってるわ。ごめん…」
「うん…」
 レイは頷いたが、どこか心ここに在らずの風情であった。
「レイ?」
「あ…うん何?」
「何って…どうしたのよ」
「私は、アスカ達が襲われた事で少しだけほっとしているの。勿論、アスカを嫌いとかそんな事じゃない。でも、今回のような事じゃなくて違う場合だったら…もっとアスカの反応が違ったと思うわ」
「それは否定しないわ」
 緑色の湖面を眺めながらアスカが言った。
「確かにあの時、何も出来ない自分がどうしようもなく嫌だったけど、モミジやレイを怖いとか気持ち悪いとかは思わなかったもの。でもさ、もしそうなった場合でも裏切られたとは思わないわよ」
「裏切る?」
「そ。あたしはさ…一応…あんたの事友達だって思ってるし…」
 アスカにすればかなり言いづらい台詞だが、レイには不発だったようで目をぱちくりさせている。
(こいつはー!)
 とは言え、この数日間でレイとゆっくり話す機会はあり、クローン云々以外にアスカの感じていた疑問は大体分かった。時折見せる妙な感情の発露は、その生まれ育った環境から来ている事も、シンジの母ユイをベースにしたクローンでありながら、そのユイはシンジにとって憎悪の対象でしかないと言うレイの置かれた微妙な立場の事も。
「だからさ、あんたの持ってる能力って使徒と同じ物でしょ…何よ」
「使徒の構成成分は九割九分人間と同じで、だから私のが使徒と同じ…いひゃい」
「うるさい」
 頬を左右に引っ張り、
「そんなこと言ってるんじゃないわよ。もしもあんたが人間を攻撃する側になったとしても、あたしの目が曇ってたんだって諦めるって言ってる…あにすうのよ」
 今度はレイがアスカの頬をきゅっと引っ張った。
「それはつまり、私がアスカの敵になる事を今から想像している、と言う事なのね?」
「え?べ、別にそんな意味じゃないわよ。あ、あくまで例えよ例え」
「本当に?」
「あ、当たり前でしょ。あたしがそんな事考える訳無いじゃない」
 思考にすら上らない事は例えにしないと思う、そう言いかけたのだが止めた。別に気分を害した訳じゃないし、そんな事で喧嘩にでもなったら馬鹿馬鹿しい事この上ない。
 相手の頬から手を放した二人は、何となく湖を眺めていたが先に口を開いたのはレイであった。
「私は…アスカが羨ましい」
「なんで?」
「私から力を取ってもアスカにはならないもの。でもアスカが私と同じ能力を持っていれば私以上になれる」
「……」
「少し位力を持っていたって、最近の私はどんどんお兄ちゃんから遠くなっていく気がする」
 気がする、じゃなくて現実よ――アスカは声に出さずに呟いた。
 
 まったく、どうしてあたしが最後には慰め役になっちゃうのよ。
 可哀想な薄幸の美少女はあたしなのに。
 
 アスカにしてみれば、レイは自分からせっせと墓穴を掘っているようにしか見えないのだ。大体、シンジは別段複雑な事を要求してくる訳ではないのに、レイが勝手に地雷を踏んでいると言った方が正しい。
 はーあ、と内心でため息をついてから、レイの後ろに立ったアスカが肩に手を回して軽く抱きしめた。
「それはさ、あんたも普通に生まれて普通の生活送ってきた訳じゃないから、空気とか雰囲気読めなくてもしようがないじゃない。そもそも前提が違うんだから」
「それもあるけど、それだけじゃないと思うの」
「何で?」
「アスカは力がないから、余計な抵抗をせずに生きて帰って来られた。だけど、アスカに力があったとしてもお兄ちゃんに縛られて吊されたりはしないでしょう」
(ああ、モミジの事ね)
 仇敵によく似た女を見た場合レイがどうするか見たい、とアオイが考えたのなら話は別だが、双子の存在を知らされていた以上単純にレイが悪い。
 ただアスカはそう言う事も含めて、前提が違うと言ったのだ。確かに自分がレイの立場なら、あんな風にいきなり突撃したりはしない。まして、モミジはシンジと抱き合うような姿勢になっており、シンジを巻き込む可能性だって決して低くは無かった筈だ。
 
 
 アスカとレイが未だサツキの家にいるのは、サツキの判断もあるが決定したのはアオイとシンジの判断である。レイが黒服などより遙かに役立つのは事実だし、先の使徒退治で仲良くはなったから、その観点で言えば間違ってはいないと言える。
 だが――。
 今のアスカに必要なのは、自分を守ってはくれるが妙なコンプレックスに魘される娘ではない。“無力は罪ならず”としつこく、それも説得力を持ってヒソヒソと囁き続けてくれる者であり、それが出来るのはシンジ以外にいない。
 レイであれば、結局は傷の舐め合いになってしまうのだから。
 精神的に補助を必要とするアスカの方が、補助する立場のレイより精神年齢が高いのに、効果など期待出来るはずもない。
 戦自の出方を見る為に泳がせる、と言うのは一つの方針だが、アスカを戦力として考えた場合、それは明らかにアオイとシンジの選択ミスであった。
 
 
「ちょっとあんた何したのよ」
「何をした、とは心外だが…俺が何かしたと思ってるのか?」
「あんた以外に誰がいるのよ」
 気乗りしないがエレベーターでリョウジと乗り合わせる羽目になったミサトだが、目的地に着かぬうちにいきなりエレベーターが止まった。
 一時的な物だろうと思っていたが、十分経っても動き出さない。
「赤木が実験でもミスったかな?」
 あり得ないわね、と即座に否定したのは、今いるリツコが彼女の知るリツコでないと分かっているからだ。
 無論ネルフも停電を予想せぬほどボンクラではないから、電源は正と副に加えて予備との三つがある。
 これだけの時間動かないというのは、天災によるとは考えづらい。九割九分九厘までは人災と考えるべきだろう。
 そもそも――本部への連絡すら繋がらないのだ。
 以前のミサトなら、リツコが妙な実験をやって何かが暴走した、で済ませたかも知れない。
 が、今のミサトは違う。アオイの傀儡になっている事は識域下レベルの話だが、知識自体もグレードアップしている。
 素知らぬ顔で横にいる男が、秘かに動いた結果と疑わぬ程単純ではなくなっているのだ。
 ひどい言いがかりだな、と横を向いた男を余所に、ミサトの思考はここから得られる効果を計算していた。
 一番分かり易いのは、本部の攻略ルートである。電源の落ちた施設など、中の者を皆殺しにするのに何の苦労も要らない。
 勿論ある程度のトラップは想定すべきだが、正常時に比べれば遙かに容易となる。
 他にも幾つか考えられるが、やはり内部構造の把握と考えるの一番近いだろう。
(何にせよ…こいつが一番怪しい)
 加持リョウジの絡んだ工作員による破壊工作――ミサトの脳裏で結論が確定しようとしたその瞬間、ミサトの身体がぶるっと震えた。
(…まずいわね)
 身体の告げた要求はトイレ、即ち尿意であった。
 
 
 
 
 
「本部と連絡が付かない?」
「下で何かあったらしいね」
「停電ってこと?」
「正確には人為的な停電、ってやつ」
「『え!?』」
 内容と比して、シンジの口調はいつもながら緊張感がない。迎えに来たシンジから聞かされた内容に、アスカとレイは思わず顔を見合わせたのだが、ハンドルを握るシンジの表情はいつもと全く変わらない。
「お客さんが来ると困るから、とりあえずネルフに向かうが、僕はユリと違って中を妙に把握はしてない。だからレイちゃん頼む」
「はい?」
「非常口の侵入ルートとか、一応あるんでしょ」
「あ…はいっ」
(…顔見れば直るんじゃん…)
 レイの横顔を見ながら、アスカは内心で呟いた。
 シンジがいない時は、距離が遠くなっているとか自分は役に立っていないとか、色々ぼやくくせに、シンジの顔を見た途端ぱっと回復している。
 要するに半分以上は、アオイやモミジへの嫉妬から来てるんじゃないかと、少し冷たく突っ込んだ時、シンジの携帯が鳴った。
「僕です。はい、ええ…え?出た?了解、何とかします」
 電話を切ったシンジが振り向いた。
「酔っぱらいが寿司を持ってこっちへ向かってるらしい」
「『え?』」
 古典的なスタイルを模したそれは、二人には通じなかったらしい。
 電話を寄越したのは長良であった。今度から使徒襲来をシンジに告げる仕組みになった訳ではあるまい。
 明らかにヤマトの意向が絡んでいるはずだ。
(でも今まではなかったこと、それがどうして今回に限って…)
 僅かに首を傾げたが、結論は出なかった。
 シンジは振り向き、
「使徒がこっち向かってるってさ。素手で倒せる相手じゃないし、とりあえず本部に行きますよ」
「『はーい』」
 後部座席の二人からは、明るい返事が返ってきた。
 
 
 
 
 
(続く)

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