第八十六話
 
 
 
 
 
「先輩…」
「何?」
「あたしもう…駄目ですよね」
「そんな事無いって言ってるでしょう。大丈夫よ」
「あ、また嫌な言い方した。本当はもう駄目なんでしょう」
「そんな事はないわ。だいじょうぶ」
「本当ですか?」
「本当よ」
「じゃ、手、握ってて下さい」
 土御門モミジの霊体から作られた妖鳥の一撃は思いの外深く、マヤは即入院する事になった。
 しかし、外傷は確かにひどいが、神経はきっちり外してある。救急車の隊員がそれを見て驚いた程である。
 無論、付き添っているのは赤木リツコ本人の方だ。
 傷つけられたプライドを回復すべく、怪しい薬の開発に勤しんでいた所を、にせリツコに引っ張り出されたのだ。
「看病しなさい」
 事情の説明など一切無いまま、リツコが押し込まれたのは手術後昏睡状態のマヤがいる部屋であり、そこで初めてマヤの負傷を知ったのだ。
 付き添うのはいいとしても、自分は科学者であって看護婦ではない――コスプレの経験はあるが、マヤには絶対言えない。
 にせリツコの方が適任だろうと思ったが、部屋に押し込まれて間もなく、リツコは自分が選ばれた理由を知った。
 生贄だ。
 話を聞けば、確かにマヤは別段悪くない。瞬時に反応出来るシンジと一味の方がおかしいのだ。
 先だって、自分の乳房を自分で舐めるプレイをさせられた事は、無論忘れていない。
 とはいえ、この状態で冷たくするのも気乗りせず、目が覚めるまでずっと付いていたのだが、リツコに気付いた最初の反応は――大泣きであった。
 文字通り、白衣がびっしょり濡れるまで泣いた次は甘えと来た。
 完治などしていないし、当然片手は絶対安静状態だから、いかに二人きりと謂えども妖しい事は出来ないのだが、視線が危険なのだ。
 ちょっとでも目を離すと自由な方の手で裾を握ってくるし、部屋を出ようものなら視線が粘着糸のように張り付いてくる。
 で、室内にいる時は上記の――本人は真面目だが周囲には鬱陶しい事この上ない会話が繰り返されるのだ。
 大怪我をして弱気になっているのは、暫く前に常識とプライドを根本から覆されたリツコには分かる。ただ、ここまで縋り付かれるとさすがにイライラしてくる。
 さすがに我慢も臨界点を超え、
「マヤ、少し休みなさい。あなたには休息が必要よ」
「嫌です」
 即座に否定された。
「だって、だってそしたら先輩どこかに行っちゃうから…」
「行かないわよ。付いていてあげる」
「でも…」
 全く信用していない――勘は鈍っていないらしい。
(……)
「じゃあマヤ…」
 勇気ではないが、よく似た親戚筋の動員を必要とした。
 ゆっくりと深呼吸してから、
「さ、おやすみなさい」
「先輩…」
 目元にキスされたマヤの顔がうっすらと赤くなっていく。
「ありがとう…ございます…」
 五分後、漸くマヤは寝息を立て始めた。
 ポケットからタバコを取り出し、火を付けようとしてくしゃっと握りつぶした。
 まったく鬱陶しいわね、と思ったかどうかは分からない。
 
 
 
 
 
「ちょ、ちょっとこれどういう事なのっ」
「見ての通り」
「見て分かるなら訊かないわよ」
「だから他人には限界がある」
 横たわっているレイを一瞥し、
「僕はこれと遊んでる。モミジ、彼女は任せた」
「はい」
「これが鍵とカード。で、説明の方は」
 そっと顔を寄せたモミジに、シンジが躊躇わず唇を重ねる。
 二人の顔はすぐに離れた。
「大丈夫そう?」
「ええ、これなら大丈夫ですわ」
 喉元に指先を当て、こくっと何かを嚥下した様子だったが、それは事態を掴めぬまま見ていたアスカが、思わず赤面したほどのものであった。
「連行して」
「はい」
 微笑って頷いたモミジが、
「さ、アスカさん行きましょう」
「行くってどこに?」
「海岸の散歩でも。わたくしに訊きたい事は沢山あるでしょう?」
「そりゃあるけど…」
 ちらっとシンジに視線を向けて、慌てて逸らした。
 無論、シンジが睨んでいた訳ではない――シンジはレイを見つめていたのだ。
 ただし、危険な薬を試す被検体を前にした紐医者のような視線であった。
 ろくな腕を持っていない医者を藪医者というのは周知の事実である。藪医者が、悪しき方面にランクアップすると紐医者になる。
 その心は、言うまでもあるまい。
 本当はシンジに話してもらいたかったが、とりあえず触れてはならぬと本能が強く警告している。
 消去法の結果、モミジと行く選択肢が残った。
 旅館を出てからある事に気付いた。
 アオイから告げられていた事だが、シンジを始め自分にもレイにも黒服はついていない。今になって付く事もあるまい。
 だが、シンジは二人きりで行かせた。
(あたしを信頼…なわけないわよね)
 取りも直さず、この娘はシンジからの信頼も相当厚いという事になる――そうでなければ、自分がどうでもいい存在という事になるではないか。
 さくさくと砂を踏みながら、二人は少しの間無言で歩いていた。
 アスカには無論、訊きたい事が山積みしている――さっきシンジとキスした事も含めて。
 ただ拒絶とは違うが、どこか話しかけづらい所がある。自分に対して、悪意や敵意を持っていないのは分かるが、良い評価を持っているとは限らない。
 そこまで考えた時、
(何であたしがこんな事考えなきゃならないのよ)
 招待主(ホスト)はモミジであって、自分は客なのだ。考えるのはモミジの方だ。
 と、ふとモミジが足を止めた。
「放っておいてごめんなさい。ちょっと考えていたんです」
「別に良いわよ。何考えてたのよ」
「何をどこからどうやってお話しようかなって」
「知ってる?そう言う時は最初から始めて、終わりまで来たら止めるのよ」
「最初はわたくしの名前から、次は何がいいですか?」
「知ってるだろうけど、一応言っておくわ。あたしはアスカ、惣流・アスカ・ラングレーよ。よろしく」
「あまり気乗りしませんか?」
 普通に聞けば、無理矢理言わされたと思うであろう口調であった。
「今の時点ではね、と言っておくわ。あたしまだ、風邪が治ったばかりなのよ。病み上がりでいきなり常識を覆されるとは思ってなかったわ。さっきレイが出したのはやっぱり使徒のあれ?」
「そうです」
 モミジはあっさりと頷いた。
「わたくしは、ああいう人にはシンジ様のお側にいてもらいたくないんです。銃で狙うならまだしも、いきなり襲ってくるなどシンジ様にはご迷惑なだけです」
「それってあたしも入ってるんじゃないの?あんた随分強そうだし」
「お答えする前に、一つして頂きたい事があるんです」
「何?」
 聞き返した途端、アスカはぎょっと目を見張った。モミジがすっと取り出したのは、その細腕にはどう見ても不似合いな大型のサバイバルナイフであった。
「あ、あたしナイフは使えないわよ」
「大丈夫です」
 モミジはうっすらと笑った。
「わたくしより強いか試す訳ではありませんから。さ、持って下さい」
 ケースの掛かっていないナイフを持たされたまではいいが、モミジの口から出たのはとんでもない台詞であった。
「それでわたくしを刺して下さい。斬っても構いません」
「ちょ、ちょっとあんた何考えてるのよっ。そんな事出来る訳無いでしょう」
「分かりました」
 モミジはあっさり頷いた。
「アスカさんには出来なかったと、シンジ様にお伝えしてきます」
 くるりと背を向けたモミジの手を、アスカは慌てて引っ張った。
「ま、待ちなさいよ。ちゃんと説明してよ」
「あなたは普通の人です。勿論凡才ではなく、とても優秀です。でもそれはあくまでも通常社会に於ける知識の範疇です。アスカさん、あなたが今から知ろうとしている事は人外、つまり普通の人間には決して理解し得ない事なんです」
「…分からないけど分かる。確かにレイが使徒と同じ能力を使えるなんて、それだけでも尋常じゃないし、レイは自分の事を決して話そうとはしなかったもん。だけど、初対面の人間にナイフ渡されて自分を刺せって言われて、素直に刺す方が危険でしょ」
「アスカさんに刺されました、とシンジ様に言うと思ったから――ですか?」
「そ、そんな事は…」
 否定したが、アスカは明らかに動揺している。
「その分なら大丈夫そうですね。もう一度だけ言います、わたくしを刺して下さい」
「う、恨みっこなしだからねっ」
 モミジの意図も精神構造も全く理解出来ない。が、ここまで言う以上シンジも了解、或いは指示の可能性もある。
 おまけに臆病者のように言われて、ここで引き下がっては惣流・アスカ・ラングレーの名前に傷が付く。
 一瞬躊躇ったが、それでも何とか突きだした先は腕であった。
「よく出来ました」
 モミジが微笑んでアスカの目元に触れた時、アスカは自分の目に涙が浮かんでいる事に気が付いた。
 どうして泣いているのか、自分では分からなかったが、十四歳の娘としては至極当然の反応であった――いかなる理由にせよ、自分は人を刺したのだ。
 鮮血の滴る自分の腕を見るモミジの表情に、苦痛の色は全く見られない。
「もういいです。抜いて下さい」
 ナイフを抜いた途端アスカは唖然とし、そしてモミジが命じた世にも奇怪な言葉の意味を知った。
 傷がふさがる――数秒と経たないうちに、傷は全く消えてしまったではないか。
「し、使徒とか言う…ネタじゃないわよね…」
 いいえ、と首を振ってから、
「人の気配も無いようですし、座ってお話しませんか?」
 並んで腰を下ろしたが、少し距離は開いている。
「私の組織・神経はごく普通のもので、変わったところはありません。超人ではないし勿論天使や悪魔でもありません。ただ、死なないだけなんです」
「…それって十分変わってるわよ」
「そうですね。ただ、死なないと言うのは少し語弊があります。不死身ではなくて一つだけ死ぬ方法があります。それは――」
「ちょっと待って。自分を倒す方法なんてあたしに教えていいの?」
「構いません」
 妙に力強く頷いてから、
「シンジ様が亡くなられる事です」
「…今なんて言ったの?」
「シンジ様が亡くなられる事、と言ったんです。勿論後を追うと言う事じゃなくて、私の命はシンジ様の中にあるんです。それと、さっき綾波レイさんを叩きつけたことですが、普段はあんな事はできません」
「しません、じゃなくて?」
「出来ないんです。主危急の時、その下僕(しもべ)無限の力を発揮するもの也…本当はナイフで刺されると痛いんですよ。ただ、まだ力が漲っていたから平気なんです」
 くすっと笑ったモミジに、何故かつられてアスカも笑ってから誰かに似ていると気が付いた。
(あ、そうか…)
「つまり…モミジの命は自分の中には無いって事?」
「やっと名前で呼んでくれましたね」
「まあ正直言うと…怒られそうな気がしたからなんだけどさ」
「シンジ様に?」
「まあね。で、その命を移すとかってどうやってやるの?」
「訊かない方がいいと思います。特にわたくしのケースは」
「てことは、やっぱり気持ち悪い手術とかするの?」
「いいえ。一応儀式ですが…」
 一瞬言い淀んでから、
「わたくしにはとても気持ちのいいことです」
 ひく、とアスカの眉が上がった。女同士だからかアスカの勘が働いた為か、ともかくモミジの言わんとするところが分かったのだ。
「なんかしゃくに障るけどまあいいわ。レイの事聞く前に、モミジは何しに来たの?」
「差し当たっては弐号機に乗る為に」
「な…んむっ?!」
 今度こそアスカの眉がつり上がったのだが、次の瞬間アスカは引き寄せられていた。
 間髪入れず唇が重ねられ、アスカは目を白黒させたが、舌は入ってこない。シンジの時と同様、数秒で唇は離れた。
「落ち着きましたか?」
「モミジあんた何言って…あれ?」
 さすがにひっぱたこうとは思わなかったが、言うまでもなくアスカにレズの趣味はない。シンジに言いつけて、定形外で元いた所に送り返してやろうかと思ったのだが、妙な事に気が付いた。
「なんか暖かい…ような気がする…何かしたの?」
「気を移したんです。勿論、アスカさんに女同士の趣味がない事は知っています。ただ生死を共にする以上――わたくしは死にませんが――気の相性は大切ですから」
「生死をって、あんたもチルドレンなの!?」
「いいえ、ただ弐号機に乗るだけです」
「…訳わかんない事言ってないで、さっさと教えなさいよ。あたしを試すだけ時間の無駄よ」
「分かりませんか?一緒に乗るんです」
「は?」
 アスカの口が小さく開いた。
 シンジと言いモミジと言い、このラインの人間には驚かされる運命でもあるのかも知れない。
「何で?」
「先の使徒戦で、シンジ様と弐号機に乗ったでしょう。随分いい数値が出ていました。でもそれは、シンクロ率であってハーモニクス値は違います。つまり、安定はしないんです。わたくしの体質は媒体、つまりブースターのような役目を果たします」
「あたしが不安定って事じゃないわよね?」
「半分そうです。シンジ様と乗った場合、安定の指数は下がります。それが不安定と言う事です。わたくしと一緒の場合、シンジ様の時ほど上がりませんが、ぐっと安定します。シンクロ率はそうですね、大体1.5倍くらいになります」
「1.5倍…」
 無論張り合う気はないが、シンクロ率は高いに超した事はない。
「それと、わたくしが一緒に乗る利点は、安定だけではありません。高すぎるシンクロ率は無意味、シンジ様にはそう言われませんでしたか?」
「言われた」
「どうしてと?」
「シンクロ率が高いと、その分機体の感覚も共有に近くなるからって言ってた」
「その通りです。でも、わたくしと一緒ならシンクロ率は上がっても、痛みの感覚は軽減出来ます」
「なんで?」
「さっき口づけしたとき、吐き気はしなかったでしょう?」
「……」
 気持ちよかった、とか言うなら分かる。
 しかし何故吐き気なのか。
 今度こそアスカの口がぽかんと開いた。
「女同士だからとかそう言う事じゃなくて、相性が合わない相手だと失神する事もあります」
「…つまり?」
「簡単に言えば相性チェックです。ただし、シンジ様との口づけはまた別物です」
 言われて思い出した。
「思い出した、あれどういう事なのよ」
「シンジ様から記憶をもらったんです。色々話すよりも、その方が手っ取り早いですから」
「もらったって…モミジが妙にいやらしく何かを嚥下したあれ?」
「ええ。そんなにいやらしく見えました?」
「とってもね」
 アスカの答えを聞いて満足げに頷いた。
「シンジ様とはいつキスを?」
 表情も口調変わらない。
 それなのに、何故かアスカは背筋をひんやりした物が撫でたのを感じた。
「やっぱり…怒ってる?」
「お二人の事はアオイ様からお話は聞いています。特に綾波レイさんは、未だにシンジ様が右は歩かせないと。シンジ様の頭の中が不思議なだけです」
(……)
 シンジがいないから、ではなく本人の前でも同じ事を言うのだろう。
 そしてシンジは、あっはっはと笑うのだ。
「それで、アスカさんはシンジ様の事好きなんですか?」
 多分訊かれると思っていた。
 答えも決まっている。
「分からない」
「……」
 本心かどうか位、見て分からぬモミジではない。
「あたしは確かに、エヴァのパイロットである事に誇りを持ってきた。でも日本(こっち)へ来て知った事は、あくまでもパイロットである事だけ、だったのよ。モミジも聞いてるんでしょ?」
「いえ、その辺は興味がなかったので」
「…はっきり言うわね。まあいいわ、とにかくあたしの知った現実は、やる気なんかまったくないもう一人のパイロットが、到底敵わない数値をたたき出してエヴァを操縦している事と、結局あたしの誇りは独りよがりでしかなかったって事よ。仮にエヴァが人類を救ったとしたって、本来ならば既にヒロイン扱いになってもいいあたしの事は機密扱いだし、シンクロ率が上がるとその分痛いのも増えるよ、なんて経験から言われたら返す言葉ないじゃないのよ。確かに頼りにはなるし、いい感じだとは思う。だけど、好きとか何とか言うには…なんか距離を感じるのよ」
 黙って聞いていたモミジは、アスカの言葉が終わってから頷いた。
「一ついいですか?」
「なによ」
「確かにシンジ様の言う事は一応合っていますが、絶対ではありません。そもそも、プライドとか言うのは、たいていの場合自分の内にだけあるものです。色々隠された事はありますが、エヴァがなければ人類が滅びるのは事実でしょう?その最前線にいるのは立派な事だと私は思います」
「ほんとにそう思う?」
「はい」
 シンジとの絆は厚いようだが、完全にシンジと瓜二つの思考でもなさそうだ。
 ちょっと見直した、と言いかけた時、
「初号機は基本的に碇シンジという操縦者を念頭に出来ているから、シンジ様が高い数値を出すのは当然です。量産型の弐号機で同じ事を求めるのがまち…あう」
 気付いた時には手が伸びていた。
 きゅっと首を絞めてから、
「やっぱりあんたは弐号機に乗せない。絶対にイヤ」
「分かりました」
 頷いたモミジが、
「アスカさん、あまり顔近づけない方がいいですよ」
「…どういう意味よ」
「キスはシンジ様より上手なんです。正確に言えば――効果は高いんです。わたくしの思うがままに操る事も簡単です」
 次の瞬間、アスカは弾かれたように飛び退いていた。
「それが正解です」
 くすっと笑ったモミジに、内心ムカッと来たのだが、事実だとするとシャレにならなくなるので攻撃する訳にもいかない。
「じゃ、アスカさんは今まで通り、一人で操縦されるという事でよろしいですね」
「あた――」
 当たり前よっ、と言いかけたのだが、
「一応…あくまで一応訊いておくけど、モミジはどうするのよ」
「訊かなければ分かりませんか?」
 モミジの襟を掴んで引き寄せたアスカが、
「あんたはあたしの相棒。プラグの改造さっさとしなさいよ!」
「分かりました」
 あくまで表情から笑みは消えぬまま、モミジは頷いた。
 正直なところ、苦手意識を持たされた感はある。おまけにシンジと違って女同士と来た。同乗したって別に気持ちよくもない。
 しかしそれよりも、断られたモミジの行動の方が余程問題なのだ。シンジと乗る事は間違いない。
 120%断言出来る。
 そんな事をされるくらいなら、自分が多少の不自由を我慢した方がはるかにましというものだ。
「アスカさん、よろしくお願いします」
「……」
 黙って手を握り返した途端、いきなり引っ張られた。
「んむっ!?んっ、んうんっー!」
 唇が重なると間髪入れずに舌が入ってくる。無論抵抗したが、不安定な姿勢なのにアスカの身体はびくともしない。
 歯の裏側まで丹念に嬲られてから、やっと唇は離れた。
「モミジあんた…遺言があるなら今の内に言っときなさいよ…」
 危険なオーラをまとったアスカだが、モミジは気にした様子もなく、
「アスカさんじゃ私に勝てない、と何回言ったら分かるんですか」
「言ってないわよっ」
 ちょっと小首を傾げて、
「あ、そうでした。でも、今のキスはわたくしから相方への贈り物です。要らないなら返してもらいますが」
「贈り物〜?大体返すってそれどういう事よ」
 アスカの耳元へ口を寄せたモミジが何やら囁く。
 ごにょごにょ囁かれたアスカから、急速に危険な気は消えていき、十数秒後、その表情はどこか赤らんでさえ見えた。
「ほ、ほんと?」
「勿論」
「あ、ありがと…」
 小さな声でもにょもにょ言ってる所を見ると、一時間も経たないうちに女同士のキスを二回も経験した、と言う事実を相殺して余りある内容だったらしい。
 
 
 
 
 
「ん…」
 意識が戻った時、レイの身体は宙に浮いていた。
 無論、物体浮遊とは違う。
 不安定な身体を認識し、ついで身体を束縛している物を感じた。
「…お兄ちゃん…」
「お目覚め?」
 窓から海を見ていたシンジは、顔を向けぬまま言った。
「起きた。それで…これは何」
「見ての、或いは感じたとおりだ。君の拘束具」
「……」
 今のレイは下着姿で、ついでに荒縄が身体を拘束している。その状態で宙づりにされているのだ。
「下ろし…ひゃぅっ!?」
 胸元に奇妙な感覚が走った。見ると、機械仕掛けの筆が胸の谷間を行き来している。
「一応アオイに確認しておいた。モミジの事は話してあると回答が来た。筆の先には微量ながら薬が塗ってある。十五分保ったら下ろしてあげる。尤も、それまで精神が保ったらだけどね」
 いつもと同じ、だが違う。
 口調は変わらないが、その底にあるものがはっきり異なっているとレイは気付いていた。
 それはそれで構わない。別に黙って嬲られる気は無いのだから。
「お兄ちゃんが私をくすぐって遊びたいのは分かったわ。でも今はそう言う気分じゃないから下ろして」
 いつになく、と言うより初めて見せた強気の態度だが、シンジの表情は変わらない。
 その表情に薄い笑みが浮かぶのを見て、レイの眉が寄った。
「自分の身体がどうなってるか、分からない訳じゃないだろうけど、一応言っとく。モミジに君のATフィールドは通じない。尻に二枚貼ってある札は、ATフィールド対策ではなく猫除けだ」
「猫…ま、まさか…」
「僕には出来ない事でもモミジなら出来る。今君が妲姫に身体を渡す事は出来ないよ」
 レイを見ながら話しているのは、無論レイがどう反応するかを見物する為だ。レイを縛って置いた場合、二割ほどの可能性で、妖姫へ身体を明け渡すと脅迫してくる可能性があると読んでいた。
 発想としては良かったが、少々相手が悪かった。レイの思考などお見通しの上に、対策まで万全に立ててくる相手なのだ。
 一瞬蒼くなったレイの顔が、次の瞬間首筋まで真っ赤に染まった。乳房を撫でるように動く筆に塗られているのは、明らかに媚薬の類であった。
 頭からつま先まで瞬時に快感が突き抜け、それが全身を覆うまで数秒と掛からなかった。筆の方は数秒おきに軽く触れるだけだが、薬の方は確実に効果を上げており、早くもレイの目元は妖しく染まりだしている。
 秘所が濡れてきているのは分かっているが、実に巧妙に縛られた身体はまったく動かない。きつく締められてはいないが、その代わりに自由は全くないのだ。
 やがてレイの息が荒くなり、快感と苦悶が綯い交ぜの表情になった頃、シンジは徐に近づいた。
「お、お兄ちゃんもう許し…あぅっ」
 一気におかしくなるような快感ではない。むしろ、一定量の快感が絶え間なく続き、それが決して増量されない事が問題なのだ。
 首筋に息を吹きかけられたレイの身体がびくっと震えた途端、縄がきゅっと締め上げた。
「駄目」
 その声は明らかに甘いが、煽っているのは言うまでもない。
 背骨に沿って、シンジの指が柔らかく這っていく。その指使いは、平時には決して見せぬものだ。
「い、意地悪っ…」
 じっとしていた場合、一定量以上決して増えぬ快感に責め苛まれる事になり、シンジの指の動きに反応した場合、忽ち縄が身体を締め上げてくる。
「うん?」
 何かに気付いたように、シンジがレイの下半身に手を伸ばした。
 にゅり、とシンジの指が音を立てた途端、レイの身体は文字通り一瞬にして茹で蛸よろしく染まった。
「濡れてる」
 何の変哲もない口調も、レイにとっては十分であった。既に愛液で濡れている下着を無駄と知りつつも、何とか隠そうと必死になって身をよじり、それはそのままスイッチが入る事を意味している。
 三十秒後、文字通り限界まで緊縛されたレイを見ながら、シンジは携帯を手にした。
 その双眸には、冷ややかさはないがあくまでも景色を見るそれしかない。
「これ以上よがらせると符術の効果が薄れる。この体勢で出てこられるのは少し困る」
 止めにしたのはレイを思ったからではなく、あくまでも妲姫が出てくるのを防ぐ為だったらしい。
 通話はすぐに繋がった。
「…分かった…アスカがモミジにキスされた?それも二回?了解、このまま盗撮を…」
 言いかけてから、
「いや、もういい。モミジも完調に戻ったみたいだから、放っておいても大丈夫だ。戻ってきて」
 通話を切ったシンジは携帯を放り出し、
「あっち見てた方が二十五倍楽しかった」
 やれやれと肩をすくめると、そのまま出て行った。
 レイには視線を向けようともしない。
 
 
 
 
 
「改めて、よろしくお願いしますね」
「うん、ちゃんとあたしのフォローするのよ」
 柄は悪いが、差し出された手を握り返した時、もうアスカの心に引っかかりはなかった。
 上手くやっていく自信はまだない。それでも、シンジとの関係からして勝手な申し出はするまい。ましてエヴァに関しては尚更だ。
 シンジが容認しているという事だが、役に立たない娘を同乗させたりはするまい。作戦に支障が出るようなら、さっさと下ろせば済む事だ。
「それと、あたしの事は普通にアスカでいいわよ。さん付けしろとは言われてないんでしょ」
「ええ」
「じゃ、アスカで決まり。それとモミジ、言っとくけどパイロットはあたしだからね。あたしより有名になったりしたら許さないわよ」
 ある意味アスカらしい台詞だったが、モミジは小首を傾げた。
「どうしたのよ」
「アスカ、シンジ様の前では絶対に言わないで下さいね」
「なんで?」
「うちのモミジが迷惑掛けたね、じゃあ僕の機体に積んでおくから――シンジ様は間違いなくそう言われますから」
「つまり――」「わたくしがシンジ様と一緒に搭じょ…」
 むにい、とその頬が引っ張られた。
「何かあんたムカつくわ。とりあえずムカツク」
 思い切り引っ張ってから離すと、頬はぽよんと元に戻った。
 モミジの顔をまじまじと眺めたアスカに、
「何ですか?」
「モミジってさ、怒ったりする事無いの?普通は顔引っ張られたら怒るわよ」
「アスカは、自分がされたら怒る事を人にはするんですか?」
「別にそう言う訳じゃないけどさ…ただレイを叩きつけた時だって、怒ってなかったじゃない。ごく普通の表情だったでしょ」
「シンジ様が怒って怒鳴ったりするのを見た事はありますか?」
「ないわよそんなの。只の一度もね」
「わたくしはシンジ様ほど気長ではありませんが、感情的に何かをしたりするのは、出来るだけ避けるようにしています。万一の時、それもシンジ様の身に危機が迫るほど普通の人とは力に差が出ますから。それにアスカはともかく、わたくしが頬を引っ張られた位で怒っていたら、シンジ様に笑われてしまいます」
「…何でアスカならともかく、なのよ」
 うっすらと笑って、
「どうしてでしょう」
「あんたのそーいう所があたしを子供あつか――」
 言い終わらぬうちに、モミジがアスカの頭を撫でた。この辺りの精神はよく分からない。
 当然のように、アスカの眉が危険な形をつくり始めたが、
「子供には見せられない物です」
「え?」
「言ったでしょう、あなたが見るのはこの世界の物ではない、と」
「…宇宙人とかそう言うネタ?」
「そうではなくて、アスカの常識を構成している世界を超える…平たく言えば常識の範疇を遙かに超えている事なのです。アスカが子供だと思ったら、シンジ様がわたくしと行かせると思いますか?この土御門モミジは、子供の守り役ではありません」
「なんか納得出来ない所もあるけど…いいわ、そこまで買われてるのにこのアスカ様が逃げる訳にはいかないわね。案内してよ。レイの正体でしょ?」
「ええ、ただし半分だけです」
「全部は見せられないってわけね」
「違います」
 モミジは首を振った。
「実際に見るのはわたくしも初めてですが――アスカに見せられないのは、わたくしも見る事が出来ないからです。出来れば…見ないで済んだ方がいいと思います」
「……」
 三十分後、シンジと実によく似たモミジのハンドルさばきに、アスカの身体は左右に振り回されていた。
 シンジの車をいとも簡単に振り回すモミジを見て、どうやら知識を口移しされたというのは本当らしいと知った。実を言えば、二割くらいしか信じていなかったのだ。
 ゲート前に滑り込んだ車から二人が降りる。
 このルートは、以前シンジがレイに連れられて来たルートなのだが、モミジもそこまでは知らない。
 中に入り、まっすぐ下層を目指す。
 一度も来た事のない筈のモミジが、迷うことなく歩く後ろを、アスカは少し複雑な表情で歩いていた。
 認めたくない事実――レイにも、そしてモミジにも自分は及ばないという事。無論シンクロとかそんな事ではなくもっと必要な――生きる為に戦う力を――自分は持っていない事を嫌でも認めざるを得なかった。
 歩く内にもう一つのゲートにぶつかった。
「モミジここは?」
「セントラルドグマへのゲート。この先は、シンジ様のカードじゃないと入れないんです。さあ行き――」
 言い終わらぬ内にモミジの身体が吹っ飛び、振り向こうとしたアスカの喉元に、一枚の紙切れが突きつけられていた。
「だ、誰よあんたっ」
「私と会うのは初めてね。よろしく、秀才のお嬢さん」
 嘲るような口調にアスカの眉がつり上がったが、この状態では何も出来ない。紙切れが何なのかは分からないが、レイが手も足も出なかったこのモミジを、構える隙さえ与えず吹っ飛ばしたのだ。
 漸く起きあがったモミジが、
「土御門カエデ…私の姉です」
「姉?」
 顔は見えないが、おそらくはモミジと瓜二つであろうとアスカは踏んだ。モミジを見た時、レイは明らかに殺気を漲らせていた。
 よく似たモミジと間違えたのであり――おそらくは、このカエデに襲われた事があるのだろう。そうでなければ、レイがあんな反応は示すまい。
「忌まれて田舎で育ったくせにシンジ様に取り入った下賤の女。あんたなんかに姉と呼ばれたくないわね。この娘の命は我が手中にある。自殺させたい所だけど、死ねない女には無用の事。さ、地下まで案内してもらうわよ――クローンの水槽へね」
 カエデが憎々しげに笑った。
 
 
 
 
 
(続く)

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