第七十八話
 
 
 
 
 
 レイが風呂から戻ってきた時、シンジはブランデーの瓶を眺めていた。
 ラベルを一字一句見ていたのだが、そこへバスタオルを巻いたレイが戻ってきた。
 特に抜き足差し足ではなかったが、シンジは振り向かない。
 それに気付いたレイの口許に、ある種の笑みが浮かぶ――邪悪という名の笑みが。
 つつ、とシンジにすり足で忍び寄り、
「あう」
 ソファの直前でずるっと滑った。
 無論、滑るような場所ではない。
「ん?」
 シンジが振り向いた瞬間、レイの身体からバスタオルがはらりと落ちて、真っ白な裸身がシンジに抱き付いた。
「…何をしている」
 すっと手を伸ばし、レイの足に触ってから訊いた。
 足は濡れていない、と言うより、濡れたままウロウロするような事は教えていない。
「こ、転んだの」
「本音は?」
「本音?」
 聞き返した数秒後、妖しく笑った。
 最近は、こんな芸当も覚えたらしい。
「据え膳」
「スウェーデン?」
「据え膳て言ったでしょう」
 きゅっと裸身を押しつけながら、見上げるようにして睨んでくる。それすらも愛らしいのだが、生憎と相手が悪い。
「あいにくと、僕は百姓の家系でね。レイちゃん、勉強不足だ。据え膳の後に続く単語は何だった?」
「え、えーと…」
 冷静な反撃に戸惑ったか、全裸のまま首を傾げて考え込んでいる。シンジの反応が予想とだいぶ異なっていたらしい。
「ひゃ、百姓でもいいと思うわ」
「ほう?」
「す、据え膳食べないのは百姓の恥って、い、いうもの」
「却下だ」
 据え膳食わぬは男の恥であって、武士も百姓も町人も関係ないのだが、強引に切り替えてきた。
「僕は君に手を出す気はないぞ」
「じゃ、じゃあ私が――」
 にゅっと迫ってきたレイに、
「何をそんなに焦っている?」
 シンジの言葉に、レイの動きが止まった。
「だ、だってお兄ちゃん…アスカにばっかり甘いんだもの」
 レイに甘いんだから、とアスカが同じ事を言っていたと、無論レイは知らない。
「それで?」
「だ、だから…」
 んー、とわずかに唇を開けて迫ってくる。
(……)
 形の良い唇を眺めていたが、ふと視線が下に移った。
「一つ訊くけど」
「なに?」
 してくれると読んでいるのか、口調は妙に甘い。
「その胸わざと?」
 わざとか、とは無論押しつけられている乳房の事だ。
 否定していれば、幾分なりとも結果は変わったかもしれない。
 がしかし、
「感じる?」
 レイが選んだのは地雷の回答であった。
 むくっと起きあがったシンジが、レイを放り出して歩いていく。
 置き去りにされたかと不安げな視線を向けたレイだが、すぐにシンジは戻ってきた。
 その手に荒縄と絨毯を見つけて首を傾げたレイが、その使い道と自分の命運を知ったのは数秒後の事であった。
 
 
 
 
 
「忙しいのにごめんなさいね」
「別に」
 シガレットケースから一本出すと、シンジは口にくわえた。無論、紙を巻いたチョコレートだ。
 ぽりぽりと囓りながら、
「百メートル四方は張らせてあります。上空と地底からの攻撃以外は大丈夫ですよ。それで?」
 リツコを振り返った。
 信濃家本邸にあるマザーコンピューターにアクセスし、今回の作戦の可否を諮っていたらリツコから呼び出されたのだ。
「その、一つ訊きたい事があったの。ここに来る前から、レイの事は知っていたんでしょう?」
「ある程度は」
「作って管理しているのが私だという事も?」
「まあ」
 微妙に頷いたシンジに、
「じゃあどうしてその…さ、最初に会った時未来の夫のって?」
 未来の夫の息子とは仲良くした方がいい、シンジはそう言ったのである。
 言うまでもなく、言葉上だけという事はありうる。
 だがシンジにとってそれが不要だと言う事を、リツコは身を以て知った――そう、シンジがその気になれば、本人と瓜二つのダミーを用意出来るのだから。
 シンジには絶対服従で、なおかつ自分の悪い所を全て除去したタイプくらい、簡単に作ってのけるだろう。
 それが分かっただけに、リツコはどうしても訊いておきたかったのだ。
「つまり、殺しても良かったのにどうしてしなかったのかって言う事?」
 物騒な台詞にも、リツコは黙って頷いた。
 こんな台詞に反応していては、シンジと向き合っていく事など出来やしない。第一、戦自の手の者を数十人始末したと、にせリツコから聞かされたばかりである。
「確かにあなたのした事は許される事じゃない。人が作って良いのはダミーまでだと、太古の昔から決まってます。でもね、作られた対象になったのは僕じゃないんですよ」
「どういう事?」
「一家の大黒柱が、酔っぱらいと無免許を兼ねた男の車にひかれた場合、普通は家族の怒りや哀しみが如何ばかりかとかいうでしょう。でも、実際は違うかも知れない。リストラに遭って一家が路頭に迷う寸前だったのが、死んでくれたおかげで数億円が手に入って、一気に黒字になったかもしれない。勿論、哀しくない事はないでしょうが」
「……」
「レイちゃんは、僕を兄と呼んで結構気に入ってるようです。創られていなかったら、勿論それはあり得ない。今のあなたを恨んでいるか、とレイちゃんに訊いたらストレートに首を振るでしょう。となると、創られた本人はむしろ今の境遇を喜んでいるかもしれないのに、外野の僕が正義の拳を振り上げる事になります。馬鹿馬鹿しい話でしょ」
「でも、その事はあの時点で分かっていなかったでしょう」
「だからですよ」
 カリカリと、半分まで囓ってから逆の手に持ち替えた。
「クローンを創って、しかもその娘と張り合っているような科学者であっても、その事で僕がどうこう言う理由には直結しない。だいたい、レイちゃんだって最初は僕を敵視してたでしょう。確かに、リツコさんのした事は最低の部類には入ります。でも父さんの愛人ではあるし、いずれは恋人に昇格するかもしれない。あの時は、補完計画なんてろくに知りませんでしたしね」
 シンジの言葉にリツコの頬がうっすらと赤くなったが、原因は前半の方らしい。ゲンドウを巡って、レイと張り合っていた自分を思い出したのだろう。
 当人達は真面目だろうが、外野から見れば笑い話にもならない。
「僕は義母でもいいんですよ。義父は困りますけど」
「え…?」
 リツコの反応が一瞬遅れた。
 冗談か本気か分からなかったのだ。
「そ、そうなの…」
 曖昧に頷いたら、
「分からない人は嫌いです」
 と来た。
「ご、ごめんなさい」
 慌てて謝ったが、どう考えてもリツコが謝る所ではない。
「ところで、僕から訊きたい事があるんですが」
「な、何かしら」
「ダミーの方は床上手でした?」
 湖面を見ながら訊いた口調は、至極普通の世間話向けであり、リツコもすぐには理解出来なかったほどだ。
 一瞬にして首筋まで赤く染めたリツコが、
「そ、それはその…あ、あのっ」
「どうなんです?」
 シンジは重ねて訊いた。
「じょ、上手だったわっ」
 何故そんな事を言わせるのかという視線を向けたが、シンジの方は当然のように、
「人間って、新しいオモチャを与えるとそっちに視線が向くのは、老若男女あまり変わらないんですよ」
「…え?」
 奇妙な言葉が戻ってきた。
「マヤさんのあれは真性です。きっかけはダミーですが、目覚めたのは本人の問題ですよ。で、ダミーにあれだけ開発されちゃったわけですが、今でも父さんの事は好きなんですか?」
「……」
 
 
 
 
 
「こらっ、起きろっ」
 レイの頭をぽかっと叩いて起こしたアスカは、この忙しいのに何をやってるのかと問い詰めたレイから返ってきた答えを、
「嘘ね」
 一言で否定した。
「う、嘘じゃないわ」
「嘘に決まってるじゃない。大体、濃厚なキスして力が抜けちゃったなんてあるわけないでしょ」
 ふん、と笑ってから、
「だってあんた、嘘言ってると顔のある部分が動くんだもの」
「そ、そんなはず無いわ」
 慌てて顔に触れたレイに、
「ほんと、見てると飽きないわよね。自分でばらしてどうするのよ」
 一瞬遅れてから、
「だ、だましたのね」
「先に嘘言ったのはあんたじゃない。もっとも、本当にキスだったら大変だったわよ」
「どうして?」
「あんたのお兄ちゃんは、キスした女を絨毯で包装して担いでくる男って事になるんだけど?」
「お、お兄ちゃんはそんな事しないわ」
「じゃ、あんたのが嘘じゃない」
 ころころと笑ったアスカにムカッと来たのか、
「やっぱりアスカは優秀ね」
「優秀?」
「ええ。だって、アスカはお兄ちゃんとキスなんて一生無いのに、そんな心理が分かるんだもの。私は到底及ばないわ」
「そりゃ、あんたとは頭の造りからして…なんですってえっ」
「本当の事を言っただけ…きゃっ」
 アスカがするりと後ろに回り込み、レイの脇腹をくすぐったのだ。抜け出そうとするレイの耳元にふっと息が掛けられ、その全身から力が抜けていく。
 たちまち首筋まで赤くなったレイだが、
「ま、負けない」
 アスカの太股をつうっとなぞって反撃に出た。
「くっ」
 一瞬力の抜けたアスカから素早く抜け出して距離を取る。
 フーッと、春の猫みたいに威嚇し合っていた二人だが、どちらからともなく、ふっと力を抜いた。
「止めとこ。今のあたし達にはそんな余裕無いし。今回は下ろされないみたいだけど、醜態なんか晒したら恥かかせちゃうし。何よりもあたしの野望に支障が出るもん」
「アスカの野望?」
「あたしの妹化計画」
「あ、あなたまだそんな事を」
 レイにとっては、人類補完計画よりこっちの方が一大事である。
 だが、その鼻先にびしっと指を突きつけて、
「いい?あたしを、じゃなくてあたしもって言ってあげてるのよ。そこの所勘違いしないでよね」
(?)
 後からきた癖に、この娘妙に強気である。
 何処に根拠があるのかと首を傾げたレイに、
「あんたがどうして妹って呼ばれてるのか、あたしは知らない。特別な事情があるのかそれとも、他の理由なのかもね。でもね、一つ言えてるのはあたしがその気になればあんたは敵じゃないって事よ。この数日だけど、あんたを見ていて分かったわ」
「ど、どういう事」
 一瞬受け身になったのは、目の前のゲルマン娘の言葉が虚勢ではないと、本能が危険をつげていたせいだ。
「簡単なことよ。レイ、あんたは碇君に余計な事を言いすぎる。具体的に何を言ったかは知らないけど。昨日の事だってそう。全くの嘘を言うとは思えないから、あんたが余計な事をしなかったら、軽くキスくらいされてたんじゃないの」
「見ていたのっ」
 身を乗り出したレイに、
「見てないわよ。そんなはず無いじゃない」
 首を振りながら、
(この子って、心理戦とか全然向いてないみたいね。もっとも、だからこそ今の場所から出られないんだろうけど)
 アスカは内心で呟いていた。
 レイに言った通り、自分がその気になればレイをけ落とすのは、ほぼ確実だとアスカは踏んでいる。
 無論、魅力の勝負なら互角か乃至は少し分が悪いかもしれないが、レイは知ってか知らずか地雷を踏んづけるタイプらしい。
 シンジの場合には、導火線がある程度はっきりしているから、そこを避けていれば大体は間違いがない。
 例えば――シンジの前でアオイの言葉に抗うのは、死んでも避けるべきだ。恋人ではない、とアオイが言ったのは嘘ではなさそうだが、どうやらそれ以上の関係らしいとアスカは気付いていた。
 そして、二人の意志がぴたりと一致している事にも。
 その事は、先日の出撃前の事を見るまでもなく明白だし、レイとてそれは分かっているのだろう。
 なのにどうして、と不思議な気はするのだが、その辺りの事をまだ理解していないのかもしれない。
 そう、日本語がまだ完全ではないアスカが理解している事象を、だ。
「あたしはその場にいなかったし、勿論邪魔もしてないわ。つまり、キスしてもらえなかったのは単にあんたのミスって事よ」
「わ、私の…」
「そ。あたしだったら、少なくとも怒らせて絨毯巻にされるようなミスはしないわ。もし駄目でも、必ず次の機会につなげてみせる。それがエースパイロットというものよ」
 あまり関係あるようにも見えないが、アスカは腰に手を当てて、えへんとふんぞり返った。
 が、反応がない。
(あれ?)
「私は…やっぱりお兄ちゃんにとって要らない子なの?」
「別にそんな事は言ってないわよ」
 他の事なら、文字通り仮面のような表情を崩さぬレイが、シンジの事になると平静さを喪う。
 ある意味面白いのだが、それがどこか火薬を含んだ危うさでもある事に、アスカは気付いていた。
「そんな事言ってないわよ。あたしは別にあんたを排除しようなんて思ってないから、黙って見てなさいってことよ」
「最初はお兄ちゃんの事好きじゃなかったじゃない」
「そ、それは…ただ能力が高いだけでどんな性格かとか、あたしをどう見てるかなんて分からなかったからよ。今だって、勿論全部分かったなんて言うほどバカじゃないわ。ただ――ちょっとだけ力を抜くのも悪くないかなって、思わせてくれたのよ。そ、そう言うあんたはどうなのよっ」
「全部」
 照れ隠しのように早口で訊いたアスカだが、レイの答えは短くそして即座であった。
「ぜ、全部?」
「お兄ちゃんは私に取ってすべてだもの」
「レイ…」
「でもそれは、あなたやお兄ちゃんが思うそれとは違うわ」
「え?」
 今度は妙な台詞が出てきた。
「最近までは確かにそうだったかもしれない。でも今は違うわ。刷り込まれたからでも植え付けられたからでもなく…私の意志だもの。だけど…今の私は多分空回りしているわ。自分でも分かっているもの」
(それって、一種の自己満足じゃないの?)
 内心で呟いたが、口にはしなかった。
 シンジが具体的な対象になっていないような気がしたのだ。
 多分、全知全能で相当美化されている、と言うわけではないだろう。ただ、シンジを慕う自分という図がいつの間にか中心になったのだ。
 何があったかは知らないが、最初は本人が言う通り、自分の意志では無かったのかも知れない。
 だが、それはいつの間にかレイの中でデフォルトになった。
 つまり、崩れてはならない関係となったのだ。
 自分の意志だとレイは言ったが、アスカから見れば自分の中に強迫観念を持っているようにすら見える。
 そう――ちょうど自分がそうだったように。
 エヴァに乗って人に認められる自分、それが来日前は当然であり、またそれがずっと続くと思っていたのだ。
「あのさ、レイ」
「何?」
「レイの思いは分かったわよ。あたしも邪魔はしない。だからさ、その…も一人増えてもいいでしょ?無駄に張り合う事無いじゃない。ね?」
「……」
 数秒考えてから、レイは首を振った。
「駄目。お兄ちゃんは私だけのお兄ちゃんだもの」
(やな奴)
 アスカは独占と踏んだが、実際は異なっていた。
 シンジを独占する、と言うのは実質的に不可能だ。
 アオイとシンジで、それぞれお互いを独占しているようなものだからだ。
 ただ、シンジをお兄ちゃんと呼ぶのは、言うまでもなく他にはいないわけで、その意味ではほぼ間違いなく独占可能な市場になる。
 やはり地雷を踏ませて強制排除しようかと思ったアスカだが、ふと妙な事に気が付いた。
「レイ、あんた今単にぼーっとしていただけで、何も考えてなかったんじゃないの?」
 別に根拠はないが、アスカの勘がそう囁いたのだ。
 レイの脳内会議は行われなかった、と。
 間違っていたらえらく失礼な話だが、レイはあっさりと頷いた。
「ばれたみたいね」
(こいつー!)
「やっぱりあんたは敵よっ!この作戦が終わったら絶対に排除してやるから覚えてなさいよっ」
「望むところよ。あなたなんか私の荷物持ちにしてあげるんだから」
 睨み合ってからぷいとそっぽを向いた二人だが、目の前の光景が二人を現実に引き戻した。
 すなわちこの数日間の成果――山と積まれた餅の大群である。
 これを平らげるまで、他の物を口にしてはならないと告げられているし、啀み合っていては、絶対に減る事のない量である。
 否応なしに停戦条約を結ばされるわけで、シンジが三大欲求の一つを選択したのは、ある意味では大正解だったかもしれない。
 しかし、これから数時間後帰ってきたサツキに尖った空気を見抜かれ、夕食に大量のきな粉餅を指定された二人は揃ってダウンする事になる。
 
 
 
 
 
「分からないのよ…」
 俯いてぽつりと呟いた姿には、冷静沈着な科学者の姿など欠片も残っていない。
「以前、レイの事はあなた達に任せるって言ったでしょう。あの時もそうだったのよ」
「そうだった?」
「確かに、レイには悪い事をしたと思っているわ。でもあの時、私の本能はむしろ恐怖で動いていたのかもしれない。司令の事もそう…いい年してあんな娘と張り合って…でも、本当に好きなのか分からなくなってきているのよ」
「要するに、自分で自分が解析出来なくなった、と?」
 リツコは頷いた。
 今まで、リツコの顔は冷徹な科学者だったし、それを変えるような出来事も人物もいなかった。
 だからそれで良かったのだ。
 だが、シンジ達がこの第三新東京市に来てから、がらりと事態が変わった。
 自分に敵意が向いたり、自分の地位が脅かされたりしたわけではないが、ずっと人形のように扱ってきたレイの変化を目の当たりに見せられ、クローンではないダミーなどという物の存在を知らされ、あまつさえその女に身体の隅々まで開発までされてしまったのである。
 科学者は本来統計やデータを重視するのだが、その常識は根底から覆された。リツコの中には、まだどこかこれが現実だと信じたくない部分があるのかもしれない。
 とはいえ、そんな事は口が裂けてもミサトには言えまい。
 基準は分からないが、消去法で最後に残ったのがシンジだった可能性が高い。
「ある人の完全なコピーを創って、その一部分だけ強化すればオリジナルより価値が上がるのは当然です。ダミーの方が使い物にはなりますが、別にリツコさんには関係ありませんよ」
「でも、私より能力が上なのは確かでしょう。どうして替えようとしなかったの」
「面倒だからって、あれが言ってませんでしたか?」
 あいつ教育をさぼったかな、とぶつぶつ言ってるシンジに、リツコが何か言いかけたが、
「僕もアオイも、ネルフでの地位だの権限だのにはまったく興味がありません。それが一番の理由です。本来なら、人類悪寒計画なんて無かったら、やって来る使徒を片づけてさっさと暗殺稼業に戻ってる所です。まったく、何の因果でこんな事に巻き込まれるんだか」
「お、悪寒計画?」
「織域下レベルとは言っても、全人類の融合でしょう。考えただけでもぞっとする話です。あなたは嫌じゃないんですか?」
「そ、その事は言われたわ。そんな計画に唯々諾々と賛同してないで、今の自分で碇指令を振り向かせてみせろって」
「そうじゃなくて。計画自体は気持ち悪くないんですか。まあ、マヤさん辺りは逆に嬉々として賛同しそうですが」
「マヤが?」
「先輩と一つになれるからって。言ったでしょう、彼女は真性ですよ」
「そ、そんな事は知らないわ」
 視線を逸らしたが、その顔はわずかに赤くなっている。
「大抵の人間なんて、井の中の蛙でしょう。常識が壊されたら、再構築すればいいんです。女に嬲られて感じてる自分がいたら、そんな一面もあったのかと、ふんふんと頷いてればいいんです。さして気にする事もありませんよ。悪寒計画を素直に気持ち悪いと思わない辺り、少々精神神経科にかかる必要はあるかもしれませんけど」
 多分、これもだろうとリツコは気が付いた。
 エヴァと一緒なのだ。全人類の為とかそんな事ではなく、この計画は気持ち悪いから
阻止する――それがシンジという少年なのだ。
 エヴァだって、人類の為になどとは殆ど考えていまい。
 とは言え、そんな少年とその一味に、常識を完全に覆されてしまった自分がいるのは間違いない。
「シンジ君、一つだけ教えて」
「何です?」
「司令を…お父さんを殺すの?」
「殺してどうするんですか」
「え?」
 シンジからは意外な答えが返ってきた。
 シンジ達の裏稼業がアサシン――暗殺者だと言う事はリツコも知っているし、シンジも別に隠そうとはしていない。
 だから、改心しなければ殺す位は言うと思っていたのだ。
「父さんの生存に反対してる訳じゃありません。処分したところで、また同じ事を考える人間が出てきますよ。大体――」
 びしっと指を突きつけ、
「あなたが手練手管で改心させてくれるんじゃなかったんですか」
「べ、別に私は手練手管なんて…」
「そうですか。じゃ、しようがないから片づけて」
「だ、駄目よっ」
「駄目ですか?」
「だ、駄目に決まっているでしょ…あ」
 一瞬ながら、平静さを喪った自分に気が付いたらしい。
 シンジはふむと頷いて、
「一応、まだ好きみたいですね。その方が手間は省けますけど、管理はちゃんとしておいて下さいね」
 うっすらと笑ったシンジに、リツコは首筋まで真っ赤になった。
 一回り以上年下の少年が、実験動物でも観察するかのように、自分を冷静に観察していると知ったのだ。
「用があるんで帰ります」
 シンジはくるりと踵を返し、
「リツコさんが、じゃなくて、多分科学者って自分の分析は得意じゃないんですよ。それでも、超えられぬ壁を知りながら、復讐だ!と叫ぶ人よりは楽です。それじゃ」
 シンジの車が見えなくなってから、
「私は別に復讐なんて…ミサト?」
 かすかに首を傾げて呟いたリツコは、ほんの少し気楽になっている自分に気付いた。
 シンジが補完計画をどうする気かは分からない。
 ただ、ゲンドウを殺して阻止する気はないと言ったのだ。
「でも手練手管と言ったって…私はあの人みたいに床上手じゃないし」
 ぼやいたところを見ると、まだ根に持っているらしい。
 
 
 その翌日、シンジはサツキに呼び出されていた。
「二人の調子はどう?」
「まあ、こんなもんでしょう。後は自覚の問題です」
「ふうん」
 頷いてから、
「で、どうして揃ってぶっ倒れてるの?」
「力が余ってるみたいなんで、胃袋を一杯にさせときました」
「何人分?」
「大した事はありません。四人分です」
 ただでさえ食べ飽きてるところに、四人分も食べさせられたらいくら若い娘でもたまらないだろう。
「ま、若いから大丈夫でしょ」
 勝手に得心して、
「で、何かあったの?」
「いや、レイがこの通り使い物にならないんで。あたしが今夜夜勤なんです。シンジさんのところで預かってもらえませんか?」
「これとこれを?」
「ええ、これとこれです」
 はあ、と頷いて預かってきたのだが、家に運び込んでから、サツキの夜勤をずらさせれば良かっただけだと気が付いた。
 餅が胃袋どころか全身まで詰まっているらしく、夕食は要らないからと二人共早めに寝付いたのだが、部屋に向かうアスカの口許に、妙な物が浮かんでいたのには気付かなかった。
 11時半頃、モミジとの電話を終えたシンジが、電話機を置いてすっと手を挙げた。
 アオイから贈られたリングが煌めき、全部屋を映すモニターが一斉に画像を映しだした。
 文字通り家中が見られるのだが、アスカとレイが泊まっている部屋は除外してある。
 と、ふとシンジの視線がある一台のモニターで止まった。
 そこには、何故か辺りを気にしながら歩いてくるアスカが映っており、しかも何故か下着姿である。
 トイレの前は通り過ぎた。
 風呂場に向かう風情でもない。
 いくらアスカでも、この寒空の中下着姿で散歩に行こうとは思うまい。
「お客さんかしら」
 首を傾げたシンジが、にっと笑った。
 
 
 
 
 
(続く)

[TOP][BACK][NEXT]