第六十二話
 
 
 
 
 
 何らかの分野に於いて自分より上、つまり到底及ばない相手を見た時、人の反応は大凡二つに分かれる。
 一つには無論、絶対負けないと敵愾心を燃やすものであり、もう一つはあっさりと諦めるものだ。
 綾波レイ。
 汎用人型決戦兵器エヴァンゲリオン零号機操縦適格者にして、造られし者−すなわちクローン。
 しかも、羊や牛からの合成ではなく、その外見と魂にはシンジの実母にして尤も忌まれている碇ユイが含まれていた。
 妻の亡霊に取り憑かれた父ゲンドウだが、シンジを知り合いに預けてきた。これでろくでもない預け先なら、レイの変わった外見に距離を置き、中身を知った時点で憎悪でも向けたかもしれない。
 だが、あいにくシンジの預けられ先は代々アサシン−暗殺を裏家業とする一族ではあったが、シンジを粗末にしてくれる所ではなかった。
 何よりも、美貌の孫娘とはすっかり気が合ってしまったのである。
 とは言えレイはレイだと放置してくれれば良かったが、元より美少女を特に好む美女医のせいでレイはあっさり陥落し、美女二人と接してきて耐性の付いたシンジの性格もまた、レイにとっては頼れるものだと映ってしまった。
 結果、妖しい女同士のキスと共に植え込まれた『お兄ちゃん』の呼称が定着したのだが、やや甘えも含んだ不用意な台詞で同居は解消され、レイを呼び戻すことなくシンジはドイツに発っていった。
 しかも目的はセカンドチルドレンの家だというから、例え本人がいないから行くにせよレイとしてはあまり嬉しくない。
 ただ、少し前に出来た初めての友人山岸マユミから得た怪しげな知識に基づいて深夜に、それも全裸で忍び込んでみたら寒空の中へ放り出される事もなく、おまけに手編みの手袋まで貰ったことで手と心は暖かいのだ。
 しかし、人間の欲にキリがないのは太古からの法則であり、ヒトの心を手に入れ、しかも内なる異人格は淫靡な造語の発端と言われる妖姫と来れば、もう他人の存在などただ一人を除いてはまったく興味もなく知りもしなかった頃のレイではいられない。
 数ヶ月も経たぬ浅い付き合いだから、シンジの事を知らぬのも当然と言えば当然なのだが、自分よりもよほどシンジと近く、そして容姿能力共に並外れている娘がいれば、気になって仕方ないのは当然であったろう。
 しかも、シンジが留守の間はずっと一緒なのだ。
 使徒退治に熱意は燃やしているものの、生憎根本的な情報部分が不足しているミサトより既に必要な情報を仕入れ、なおかつシンジの能力を引き出せる上司の方がいい事はレイだって分かっている。
 同じ美貌でも、もう一人の方は趣味が美少女だけあって、なんの躊躇もなく引き寄せるのだが、こっちの方はそう言ったものを持ち合わせていない為に−それが普通なのだが−何となく近づきにくい。
 無論、そこに自分の知らぬシンジを知っており、しかも自分より遙かにその距離が近いと言う点が含まれているのは否めなかったが。
 包み込むような感触の座席をいい事に、そっと寝たふりしているのもそのせいだ。
 がしかし。
「この車は体を丸めた姿勢だと首が疲れるわ。普通に体を倒した方が楽よ」
 遠くだけを見て運転していると思っていたアオイに声を掛けられ、レイの体がびくっと動いた。
「い、いつ…から?」
「最初から。寝ている人間が急にぱっと起きる事もあるから、一目見れば分からないと困るのよ」
 ハンドルを握りながら、アオイの神経が四方に配られていたことなどレイは知らず、よくわからないままはいと頷いた。
「それで、私に何か訊きたいの?」
「そ、それはその…」
「自分のうわさ話に敏感なお兄ちゃんは海外出張中。訊いておくなら今だけよ」
「…」
 見抜かれたと知って起きあがったレイだが、すぐには答えず前方の一点を見つめていた。
「あの…」
 その唇が動くには、十数秒を要した。
「なに?」
「お、お兄ちゃんと、その……お、お風呂に入った事あるんですかっ」
 刹那悩んだ結果、選ばれた質問はこれだったらしい。
 シンジとの回線を切っておいて良かった、アオイの脳裏にまず浮かんだのはそれであった。
 
 
 
 
 
「鍛え方が足りない。妹に構い過ぎて、少し鈍ったのではないかね」
「余計なお世話だ。それにユリの場合には女の子の肢体から精気を吸い取ってるじゃないか。健康な中学生の僕と一緒にしないでくれ。だいたいだな−」
「何か」
「マユミ嬢は何時になったら解放する気だ」
「そんな予定はない」
 急勾配の坂を、まったく息切らすことなくさっさと上がったユリは、遅れてやって来たシンジを冷ややかな目で見た。
「それに、君にだいたいなどと言われる理由はない。あの子と私の関係は、当事者同士の合意に基づいた至極普通なものよ。異存があるなら、至上の快楽を知ってからにすることね」
「当事者同士で問題がなくても、よそから口を突っ込みたがるのはいるんだよ」
「君のように?」
「そうそう僕みたいに関係ないところへ口を出して…って違う、誰がそんな事を言ったんだ」
「私よ」
「…もういい。で、問題の家はまだ先かい」
「次の角を右に曲がったところよ。それにしても、この国はまだセカンドインパクトからの復興が日本よりだいぶ遅れている。政治家の無能度は日本の方が上を行っている筈だが、やはり上の組織かしら」
「多分ね」
 
 
「仕組まれてる?」
「その通りじゃ。聞こえているなら聞き返すな愚か者」
「以後気を付けよう」
 ヌクヌクと言ってから、
「仕組まれてるって何が?」
 とシンジは訊いた。
「お前達のしている事がじゃ。もっとも、分かっている者はおらぬであろうがの」
「…」
 数秒考えてから、
「死海文書自体が、正しく解読されてないって事だな。使徒がどういった類のものでどこへ何をしに来るか、それが間違いなく分かっていればエヴァを運んでくる事などあり得ない。少なくとも、自分の国へ化け物が来ると分かっていながら唯一の対抗手段を手放す国はない−違うの?」
 なぜか、妲姫の表情に微妙なものが見えたような気がした。
「分かっていればせぬ、と申したか」
「子供の主観ではね」
 言葉は反射的に出たが、自分では制御していなかったような気もした。
 そして、
「女のためなら滅びの道も選択するさ。でも、ここには理性を投げ捨てて飛びかかりたくなるような女もいないし快楽もない。口から出た台詞が妊婦の腹裂きだったどこかの王様みたいなのはいない筈だ」
「何を絡んでおる?」
「普段は品行方正だから、たまには絡んでみたくなるんだ」
 と言ってから、やっと自分が戻ったのを知った。
「ほう、何も知らぬ娘に血の味を教え、近親相姦の道に引き込む兄が品行方正とな。わらわの知らぬ間に単語の定義もずいぶんと変わったものじゃ」
「ざくざく国を滅ぼしてきたお前が言うな。そんな事より、古文書の中身は知ってるのかい」
「知らぬ。それにそのようなものに興味もないわ。それに、カビの生えた代物など所詮はくるくると変わるもの、それを解き明かしも出来ずに踊らされているなどとは愚の骨頂、人間がつくづく進歩せぬよい証拠じゃ」
「つまり、見てないから分からないだけ?」
「当たり前じゃ愚か者」
 全身から放っている気は普段より鋭く、そして淫靡だが、肢体の方はレイと変わっていない。
 にもかかわらずここまで別人の印象を与えるのは、案外赤いままの瞳にあるのかもしれないと、シンジはぼんやり考えていた。
「なにをぼんやりしておる?」
 気付かれたらしい。
「正気に返ったらどうなるのかなって」
「正気?どういう事じゃ」
「だからさ、お前が滅ぼしてきた国の王様達ってのは、お前の乳を手にしていじくりまわしていると思考能力がおかしくなったんだろ。で、手に乳を乗せながらろくでもない命令を出すわけだ」
「その通りじゃ」
「でも女の体なんてその内見慣れるし、いつかは正気に返る。その時って発狂したりしないか?」
 希代の妖女を前にろくでもない台詞を口にしたシンジに対し、一瞬妲姫の表情が動いた。
 すっと色は消えた。寸前で抑えたらしい。
 自分が本来の容姿ではないことと、なによりも自分の想い人がこの小癪な少年の内にあることを思い出したらしい。
 そう、それが忌々しい事ではあっても。
「お前はまだ女を知らぬ。長門ユリにせよ信濃アオイにせよ、まだまだ足りぬわ」
 まだ一少女の姿でありながら強がりとも自惚れとも思わせぬ妖女の言であり、
「お前がそれを口にするのは、まだ真の女を知らぬゆえじゃ。そのような言葉、本当に女を知ってからにするがよい」
「知りたくない、と言うより僕達の関係を歪曲してるな」
「なんじゃと」
「だいたい、僕はアオイとそう言う関係じゃないしユリは言わずもがなだ。それに、僕はあいにく石橋を叩いて渡るタイプなんだ。わざわざ地獄の業火の中へ快楽の栗を拾いに行くのはやだよ。何よりも、乳に溺れた先君の二の舞なんてお断りだ。まあいいや、要するに目下ある文書通りに事態が動いているけど、中身をまともに把握できてないって事になるんだな。でもそうなると、日本にだけエヴァが二機もあるってのは妙な話になる」
「碇ゲンドウは既に女の妄執に取り憑かれておる。せかせかと動き回った挙げ句とあらば、別におかしくもあるまい。もっとも、お前もそのおかげでただの役立たずにはならずに済んだのであろうが」
「まったくだ。じゃ、早いとこその文書をもらいに行くか」
「わらわは読まぬぞ」
「なんで?」
「興味など無いからの。わらわの興味は想い人の勇姿のみじゃ。正体も対策も分かり切った敵など、倒したとは呼べぬ。お前が怖いならば、ずっと内にこもっているがいい」
 無論の事だがエヴァは完全ではない。従って、現時点まで現れた一番目と二番目の使徒は来襲日時はともかく、正体が分かりきっていれば街の被害も少なく、日本中の電力を用意する事なども必要なかったのだ。
 エヴァが動けばそれだけ一般市民は迷惑するのだ−望む望まないにかかわらず。
 アオイが、興味本位のみでエヴァを知りたがるケンスケの排除を命じたのも、無論そこから来ている。勝手に出てきて勝手に死のうと知った事ではないが、愚かな少年の欲望のせいでエヴァの運用に余計な支障が出ては傍迷惑だ。
 容貌からはあまり窺い知れないが、アオイそしてシンジ共に裏の家業はアサシンであり、仕事上の支障をいつまでも放っておく性格ではない。
 まして、エヴァに現在シンジが乗っているとなれば尚更である。
 死など恐れる性格ではないが、エヴァに乗ったまま死ぬのだけは御免である−ましてそのコアにもっとも忌むべき対象があるとなれば。
 怯懦と言われてシンジの表情が一瞬動いたが、何も言わなかった。
 
 
 妖姫との会話内容をユリに告げなかったのは、無論二人の敵対関係を考慮に入れたからだ。
 こんなところで闘志を燃やされてはいい迷惑である。しかも、その対象は自分ではない自分なのだから、迷惑な事この上ない。
 目下、アオイは妖姫と普通の関係だが、妖姫から情報を入れた事がばれると面倒だから、黙っておく事にする。月の出てない夜に射抜くような視線で見つめられると、結構怖いのだ。
「この家かな」
「ここよ」
 結構大きいな、とシンジは上を見上げた。
 三階建てになっているレンガ調の家は、建築にはだいぶ費用を投じている事を感じさせた。
 ただ問題はこの家の醸し出している雰囲気が、平和な家族のそれとはだいぶ異なっている事にあった。
「趣味悪いな」
「配置の問題よ。一つ一つは悪くないけれど、雑然と詰め込むとこうなる」
「まったくセンスが無いんだから。アオイちゃんの家がこんなだったら僕はとっくに逃げ出してるぞ」
「それだけ?」
「何?」
「それとアオイの胸が小さかったら?」
「考えた事ない。とりあえず、どっかのレズ医者より大きいし感度いいの分かってるから僕には十分だ」
「ほう」
 訊く方も訊く方だが、わざと嫌がらせの回答をする方もする方だ。美貌はともかく、胸ではアオイに及ばないと知っての嫌がらせである。
 無論小さいわけではないが、ブラのサイズは二つほど違うのをシンジは知っている。
 閑静な住宅街に、そこだけ妙な雰囲気が立ち込め始めたそこへ、
「うちに何か御用ですか?」
 家の前で外国人が二人して奇妙な雰囲気を出していれば、普通の家人は気になるところだ。
 くるりと振り向いた二人だが、そこにはもう一瞬前までの気は微塵もなく、
「ネルフの長門ユリです。娘さんのことで、少しお話をお聞かせ願いたいのですが」
 と流ちょうなドイツ語で告げた。
 
 
 
 
 
「どうして気になるの?」
 エヴァの事など訊くとは思っていなかったが、モミジかカエデ辺りの事でも訊くかと思っていたのだ。
「そ、それはあの…お、お兄ちゃんが初めてじゃないみたいだったから…」
 微妙な言い回しね、とアオイは内心で呟いた。初めて同士だと思ったのに、妙に相手が手慣れていて戸惑った少女みたいである。
「入った事は何度もあるわ。ついでに添い寝も」
「!」
 分かっていた事ではあった。
 同じクラスの少年達は、同年代の娘の肢体に向けるのはあくまで好奇心でしかなかったし−時折血走った目もあったような気もするが−自分の容姿が普通でない事は、そしてシンジがそれをいとも容易くあやした事も分かっていたのだ。
 大きすぎる力は時々人を不幸にする、シンジは以前レイにそう言った。
 魂だけ転生した希代の妖女がなぜかレイを殺そうとしなかった事は、彼女に生理という奇妙な現象を起こした。
 そしてもう一つ、確立された自我というものも。
 横にいる女性は、自分が決して敵わぬ相手だとレイは本能と理性の両面で知ってしまっていたのだ−自己を、そして他を認識するようになったが故に。
 以前のレイならば、気にすら留めなかったかもしれないが。
「妙だとは思わなかったの?」
「え…」
「普通、14歳と言うのは大人と子供の間でうろうろしている年頃よ。そして、大人へと移行しようかどうか身体と本能が迷っている時。レイちゃんにあっさりキスしてのけるなんて、ましてそれが治療だなどと、普通の子供にはまず出来ないわ」
「し、知っていたんですか」
「ええ」
 アオイはあっさり頷いた。当たり前のような反応であり、二人の関係からすれば普通の事なのだが、レイにとってはショックであった。
 ちらりとバックミラーに目をやってから、きゅっと唇を噛んで俯いたレイに、
「それで、事実を知りたいだけなの?私が側にいるから自分はもう居られない、とそう思っているの?」
 追い討ちみたいな言葉に、レイの顔からすっと血の気が退いていく。
 だがそれが激情に変わらなかったのは、アオイが不可視の力を使って見せた事もあるが、何よりもシンジとの関係であった。
 ここで自分がアオイに敵意を見せれば、それが何をもたらすかはレイにも分かっている。あからさまな敵意がそれこそ十倍以上になって反響し、おそらくは二度と口も利きはすまい。
 それはある意味、レイにとって死よりも遙かにつらく、苦しい事であった。
(それだけは…それだけはいや…)
 内心で激しく首を振ったレイに、
「その程度じゃ、やはりシンジとは一緒に住めないわね」
 アオイが向けたのは奇妙な台詞であった。
「…え?」
「シンジと一緒に居たいんじゃないの?」
「い、居たいですっ」
 叫ぶように言ったレイに、
「ならば、余計な事は気にしない事ね。下らない事を気にしすぎるわ」
「く、下らないって…わ、私には…」
「私に同じ事を言わせるつもり?」
 視線は向かなかったが、それだけでレイは硬直した。
 実のところ、アオイとシンジの事はほとんど分かっていないレイであり、ましてシンジはともかくアオイについての知識は皆無と言っても過言ではないのだ。
「ご、ごめんなさい」
「レイ」
 名前だけで、しかもこんな声で呼ばれたのは初めてであり、
「は、はい」
 とかすれた声で返すのが精一杯であった。
「ユリに名前通りの性癖があるのは知ってるわね」
「な、名前通りですか?私は何も聞いていません」
「ユリは百合、一言で言えばレズよ。何かされなかった?」
「な、なんにも…」
 顔を真っ赤にして首を振ったレイに、
「大丈夫よ。別に責めているわけじゃないから」
「え?」
「ユリも、その癖さえ無ければ名医なのだけど。とは言っても、ユリはあるレベル以上の美少女にしか手を出さないわ。どういうレベルなのか、私には分からないけれどね」
「そ、そうなのですか」
「私が言うのだから間違いないわ。朱に交われば赤くなる−ユリと付き合いがあるおかげで、シンジには女の子を引き寄せる力があるのよ。先天的な物でも努力したものでもなく、単に伝染(うつ)ったようなものだけど」
「し、信濃大佐もその−」
 言いかけた途端、
「私は別」
「は、はい」
「私とシンジの付き合いの方がユリのそれより長いのよ。そんな事より、そんなつまらない事ばかり気にしていると、シンジが離れるわよ。シンジが綾波レイを人間だと言ったのに、レイちゃんは気にしてばかりいたでしょう。もしもシンジが、自分がお兄ちゃんでいいのなどと何時までも気にしてばかりいたら、嫌にならない?」
「そ、それは…」
 シンジについていけば大丈夫、とばかり思っていたレイにとっては想像すらつかないが、確かに言われればくどかったような気もする−ほんの少しではあったが。
「それに、シンジにはもうお手つきの子がいるのよ」
「お手つき?」
「抱いた娘よ」
「抱いた…」
 咀嚼するみたいに舌の上に載せていたレイだが、不意にその顔色が変わり、
「だ、誰っ」
 叫んでから相手に気付いた。
「申しわけありません…」
「別に謝る事はないわ。それと、相手は私じゃないわ」
「え…?」
 アオイの言葉に、レイは目を数度ぱちくりさせた。
 てっきりアオイだと思ったのである。
「モミジ−土御門モミジよ。聞いた事はないかしら」
「土御門…土御門…」
 おや、という表情をアオイが見せたのは、レイの顔にある色が浮かんだからである。
 そしてそれは、憎悪という色であった。
 
 
 
 
 
「優秀な娘さんだと言う事は、既に手元の資料で分かっています。そして非常にプライドが高いと言うことも」
「ええ、その通りです」
 父親は頷いた。
 シンジの目は既に父親と義母、そして家の中をほぼ観察し終えていた。
 上手く隠蔽しているとか言う事は別にして、父親の不義な欲情に怯える娘が枕の下にナイフを隠して寝なければならないような空気は、今のところは感じられない。
 だが普通、女が子連れと再婚する場合、相手の財産が目的でなければ相手の男を愛しているからであり、子供ははっきり言ってお荷物である。再婚相手の連れ子を殺したりする事件が多いのはそのせいだ。
 もっとも、自分の股の間から顔を出した子供も、羊水が乾いた途端に愛情が冷めるのか、行き過ぎた折檻と称して暴行を加える母親も増えてはいるのだが。
 しかもアスカにしてみれば、まるで母親の死を待つかのように再婚した女であり、おそらくなつくのは難しかったろう。
 アオイは、アスカがエヴァにだけプライドを見いだしていると言った。こんなろくでもない物のどこがいいのかは分からないが、それはそれで構わない。
 しかしそれはおそらく義母への−と言うより両親への当てつけだろうとアオイとシンジの意見は一致している。
 アスカが身を守っているのは、女同士相容れぬ義母ではなく実の父親からなのだ。
(それに…どこか妙だ)
 何よりも、シンジの心の線に何かが触れたのだ。その境遇故に、みずからもまたクラスで虐げられた経験のあるシンジだからこそ、それに気付いたのだ。
 これがアオイなら、おそらく気付かなかったろう。
 そしてもう一つ、シンジは両親の表情が動いたのにも気付いていた。
 非常にプライドが高い、ユリがそう言った時、二人の表情は僅かに苦いような物になっており、それは決して自分達の娘はそんな少女ではないと庇うようなものではなかったのだ。
 ユリもこれには気付いており、
「私がわざわざお伺いしたのは、無論チルドレン達の担当医だからと言う事もありますが、サードチルドレンの彼が一緒に来たのは、同僚としてよく知っておきたいと言う事でした」
 占める割合は興味の方が多かった、とは決して口にしない。
 アオイとレイに後を任せてあるが、使徒の襲来日時が判明してない以上、褒められた行為ではないのだ。
「えーとですね」
 ユリに視線を向けられてシンジが口を開いたが、もっと伸ばしておけと言う意は無論口調から伝わって来ている。
 そう、嫌がらせだ。さっきの仕返しである。
「本来なら僕は余り気乗りがしないんですが」
「気乗りがしない?」
「ええまあ。例えば医者の仕事でも、才能だけあって資質に問題がある人より、能力に開発の余地は多分に残していても人格者の方がいいでしょう?」
「それはそ−」
 言いかけて口をつぐんだ。
 この場に二人の女医がいる事に気付いたらしい。
 びくっとその身体が硬直したが、張本人は平然としている。
「あなた、随分とドイツ語がお上手なのね。どこで習ったのかしら」
「天然です」
「え?」
「あ、いや高地ドイツ語なら覚えやすいでしょう。ツレに教えてもらいました」
 いつの間にか出来ていた、などと言っても信じたくないし、別に自慢したい事でもない。
「器用な子なのね。それで、あなたは何を知りたいの?」
 子、と言われた刹那、シンジの表情が動いた事に女は気付かなかった。
 もっとも、あからさまに反応などするようなシンジではないが、
「再婚相手の子というのは、妻にとっては邪魔ではありませんか?」
 奇妙な事を言いだした。
「どういう事かしら」
「僕なら邪魔です」
「『……』」
 非難しに来たわけではないようだが、その意志が読めない。
 怪訝な表情でシンジを見る二人に、
「さっきも言いましたが、僕はエヴァなんて代物は好きじゃありません。あんなのにファイトを燃やすのはよっぽどの物好きか、あるいはそれしかない人です。しかもプライドまで賭けているみたいですし、最初から好きだったのかとも思うんですよ。事情はどうあれあなたはご主人の不倫相手でしたし、アスカさんはなつこうとしなかったんじゃないんですか?」
 不倫相手、少年の口から出たその単語に一瞬母親の表情が険しくなったが、そんな事など気にも留めず、
「言う事聞かない子って、可愛がるのは難しいですよね。まして、血も繋がっていないなら尚更です。最初は多分アスカさんの方だったのでしょう、彼女があなたになつこうとはしなかった。そしてあなたも対抗するように遠ざけていった−違いますか?」
「その通りよ」
 母親はあっさりと認めた。
 シンジの口調に詰問調のそれがなかった事、そしてそれを隠そうと思わぬ程に関係が冷え切っていた事もあったのかもしれない。
「確かにあなたの言うとおり、私は最初から彼を愛して結婚したし、正直に言ってあの子の母親が死んだ事をまったく喜ばなかったとは言えないわ」
「恋敵はいない方がいいですし」
 ろくでもない相づちを賛同と取ったか、
「でもね、私は彼にだけ溺れていたわけではないわ。付いてきた子だからって、邪険に扱ったりもしなかった。でもあの子は、まったく私に自分を見せようとはしなかった。いつも見せるのは被った仮面だけだったわ。自分を全く信じない患者には、どんな医者でも愛情は持てないのではなくて?」
 向けた視線の先には、ユリではなく夫が居た−視線を向けられもしないのにその美貌に魅入られており、逸らそうとするもすぐまたその顔に視線が吸い付く夫が。
 やや尖った声はその光景も多分に含まれていたに違いない。
「その通りだ」
 ユリが静かに頷いた。
「だが、あなたの言い分には根本から問題がある。子供というのは本来、汚れきった大人とは違って多感な存在だ。あなたとご主人は、当時アスカ嬢の母親が実験に失敗して精神を病み、入院している時期から不倫の関係だった。これが入院患者の夫と見舞いに来た友人とやらなら、人の道から逸れてはいても許されぬことでもあるまい。だがあなたはその時から、そして今でも医者だ。医者が入院患者の、それも精神を病んだ患者の夫と不倫関係に落ち、あまつさえその死を願っていたがごとき発言など、医者の風上にも置けぬ存在だ」
 紗のような声は研ぎ澄まされた刃を伴い、得々と性癖を疲労していた女医と、途中から間抜けに硬直している夫を揃って彫像と化さしめていた。
「医者であっても、一歩家に入れば主婦であり、あるいは母親の役目をせねばならん。義母と娘の確執など私の知るところではないが、もう一つ欠点がある。自分の夫の生態を把握し、常に知っておかなくてはならないのにあなたはそれを怠った」
「そ、それはどういう…」
 辛うじて唇の動いた妻に、
「ご主人の性癖だ。アスカ嬢に興味を持ち、一度ならず数度寝床を襲った事をご存じだったかしら」
 不意に女の口調へ戻ったユリに、母親の視線が一瞬激しく揺れた。
(あれ?)
 どうやら知らなかったらしい。
「……」
 不意に母親の顔が変わった。
 妻から、女の顔へと。
 嫉妬で歪んだ表情のまま、奇声を上げて夫へ掴みかかる女から、シンジはすっと身を避けた。
 椅子に躓いて転びながらも、すぐに起きあがって掴みかかろうとした途端その全身は金縛りにでも遭ったかのように動かなくなった。
 背後から、壮絶な鬼気が押し寄せたのである。
「女が一方的に襲うのは武士道に反するな。ドクター、二人ともその気にしてやるがいい」
「そうね」
 目の前にいるのは決して自分を僕とは呼ばぬ武人−そう知ったユリの口元に妖艶な笑みが浮かんだ。
 
 
「こんなこと言うのはなんだけどさ」
「はい?」
「同じ女として許せん、とか言うなら分かるけど、医者としてどうこうは無いんじゃないの」
「義母に、あのアスカという娘を寝取られたのなら別ですが」
「そうか、あいつはそう言う医者だった。とはいえ」
 シンジはちらりと背後を振り返り、
「アスカ嬢の部屋、勝手に見せてもらったけど…慈しまれた娘のそれは欠片もみられなかった。なにより、本性を解き放てば殺し合うような親の元では無理な話だ」
 アスカは既に、彼らにとっては自分達の評価を高める道具にしか過ぎなかったのか、本性を解放された二人の取った道は殺し合いであった。
「確かにろくでもない親だが、アスカ嬢が同じように成長していれば残念だけど−」
 言いかけてから、
「いや、それは本人に会ってから決める事にしよう。ネルフのドイツにも、マギもどきはあるらしい。この際だから、ユリが市内で美少女漁りしてる間に見に行こうか」
「ええ…あの」
「なに?」
「街で美少女鑑賞はされても誘う事はされませんし…」
「どっちでもいいいんだ」
「え?」
「問題は、女のくせに美少女収集の癖がある女(ひと)の事は、僕には向こう岸の存在って事だ。ま、本人の好きにさせとこう。行くよ」
「は、はい」
 遺体が二つ運び出された家の事など忘れたように、二人とも歩き出した。
 
 
 
 
 
(続く)

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