第十二話
人の運は、基本的に釣り合っていると言われる。
だから不幸の後には幸が、幸の後には不幸が来ると言われる。
そう云われて信じる者が何人いるだろうか。
怪しげな痩身法に大金を、いや全財産まで投じながら、結局脂肪をまとった木偶人形にしか、なり得なかった女性。
女性など思うがまま、そんな宣伝句に惹かれて次々と催淫薬やフェロモン薬に手を出し、あげくは名前を告げただけでああ、と言われる有名人になりながら、独り身で40に差し掛かった男性。
彼らにとって、運命の女神など呪い殺しても飽き足らないに違いない。
さて、妹の仇を討つつもりが悲惨な返り討ちに遭った、ジャージを愛用する少年のケースはどうなったのか。
彼の少年に、幸と不幸は順番に訪れたのだろうか。
闇の中に、零号機の顔が浮かび上がっていた。
漆黒の闇に浮かび上がる零号機の機体は、どこか攻撃に備えた獰猛な蜂を思わせる。
微かだがその景色に禍々しさを感じたのは、一人や二人ではなかった。
拘束具で押さえ込まれた零号機を、ゲンドウを始め冬月やリツコ、他数人が凝視していた。
「起動開始だ」
ゲンドウの抑揚の無い声が、告げた。
「主電源、全回路接続」
と、これも乾いた声で告げたのは赤木リツコである。
エントリープラグの中で、それを聞いているパイロットは、顔色一つ変えていない。
無表情なその顔は、どこか遠い国のニュースを聞いているかのようであった。
「主電源接続。フライホイール接続開始」
リツコよりも若々しく、そして感情を乗せた声で告げたのは、リツコの右腕を自他共に認める伊吹マヤ。
ただし彼女の場合、有能な助手たらんとする以上の目で見ている気配がある。
もっとも彼女自身は、他人にはその感情が気付かれていないと、思いこんでいるようだが。
そのマヤの声が聞こえたかのように、 ゆっくりと唸りを上げてホイールが回転を始めた。
「フライホイールスタート。稼働電圧臨界点に達します」
その声が終わると同時に、一斉に計器がグリーンに変わった。
俗に言うところのオールグリーンは、何一つ問題ない事を示している。
「エヴァ零号機、起動しました」
極力機械的に告げたマヤの声もやや弾んでいるし、冬月に加えて珍しい事に、ゲンドウとリツコの表情さえ、僅かながら昂揚しているように見える。
声と比例しないのは、本人達の性格から来る物だろう。
だが、それは長続きしなかった。
シンクロしていたはずのパイロット、綾波レイのグラフに乱れが生じたのだ。
零号機の巨体が小刻みに震え始める。
鋭い目を向けたリツコに、マヤが叫ぶように告げた。
「中枢神経回路に異常発生!」
普段から情緒不安定の気でもあるならいざ知らず、現在プラグ内で瞑目しているファーストチルドレン綾波レイは、冷静と無感情の化身みたいな少女である。
今のところは。
突如ヒステリーでも起こしたかのような、こんな現象が起きる娘ではない。
「フィードバックは?」
と、やや大きな声で訊ねたゲンドウの表情も、信じられないと言った感じがある。
だが返ってきた答えは、
「誤差、83%を越えました」
という、考えられない事態であった。
弾かれたように、
「83%!!馬鹿な!これでは…」
ゲンドウが何か言いかけた時、零号機はついに動き出した。
狂ったように身を捩り、拘束具の縛から逃れようとする。
本来拘束具はエヴァ用に、それなりに強化された材質を使ってはいるが、エヴァの巨体が凶暴な精神病患者と化しても、尚束縛できるようには出来ていない。
十秒足らずで拘束具は引きちぎられた。
「零号機、制御不能っ」
悲鳴のような声が上がった瞬間、ゲンドウの斬り付けるような声が飛んだ。
「起動実験中止!電源をすべて落とせ、急げっ!」
瞬時にリツコが反応した。
手にしたファイルをガラスのカバーに叩き付けたのである。
材質が柔らかかったか、ファイルのカバーに鉛が塗ってあったのか、カバーはすぐに割れて破片が吹き飛んだ。
中に手を入れ、非常停止用のレバーを力任せに引いたリツコ。
零号機のボルトが吹っ飛び、ケーブルが強制的に外れた。
壁に恨みがあるらしく、自らの頭部で壁を攻撃していた零号機が、一瞬停止した。
しかし、秒と経たずに動き出す。
エヴァには、対使徒戦でケーブルが切れた場合を想定し内部電源もあるからだ。
「零号機、予備電源に切り替わりました。完全停止まで後、三十五秒」
異生命体を撃破するには、短すぎるかもしれない。
だが、狭い空間内で一暴れするには長すぎる時間と云えよう。
期せずして、ゲンドウとリツコの口から同時に舌打ちが洩れた直後。
まるで猫の如く、瞬時に間合いを詰めた零号機が制御室に迫った瞬間、スピードを乗せたダイナマイトパンチを繰り出したのだ。
惚れ惚れするようなその拳は、咄嗟に身を屈めた研究員達の真上で、窓ガラスを粉砕したのである。
だがそれは、単に方向を間違えただけのようであった。
その証拠に次の一撃は、見定めたようにゲンドウに向けられたからだ。
ゲンドウ達のいた区画のガラスは、そこだけ防弾仕様にでもなっているのか、巨体から繰り出される打撃にも、蜘蛛の巣状に皹が入っただけであった。
だがそれとて、あと数撃も保ちはすまい。
海神ならぬ綾波神の怒りに、ゲンドウを生け贄にしようと皆が考えたその時、
「オートエジェクション、作動します!」
震える声でマヤが告げた。
と、同時に中にレイを搭載したエントリープラグが、強制排出された。
それを見たゲンドウが、
「いかん!!」
叫んだのも当然で、本来ならばパラシュートと逆噴射ロケットで機能する代物なのだが、それは屋外を想定して作られており、不幸な事にここは屋内であった。
ゲンドウが叫んだ数秒後、まず一回天井にぶつかった。
よほど強力なエンジンでも積んでいるのか、そのまま落下するどころか向きを変えて天井を這うように飛び続けたのである。
だが、一見すれば大惨事に見える事も、人によっては予定通りの事もある。
会社の経営に苦しみ、自らにかけた保険金目当てで対向車線に飛び出した車。
その運転手にとっては、対向車が避けたとしたらそれこそ、惨事であったろう。
すでにレイを積んだまま、数回プラグはぶつかっているが、それを冷静に眺めている目があった。
(一回、二回、三回、四回…七回位までは行くかしらね)
悪魔のような科白を、しかもどこか期待しているように胸中で呟いたのは、赤木リツコその人である。
顔は能面のようだが、ピンセットで剥がしたその下は、子を隠された鬼子母神も斯くやと思わせるに違いない。
だが、その眉がぴくりと上がった。
「レイ!」
悲痛にさえ聞こえるゲンドウの叫び声が上がったのである。
その声に呼ばれた訳でもあるまいが、プラグは飛行を停止して、床に激突した。
だが、パイロットはいなくても依然暴走は続いている。
プラグのない頭部が軽すぎるのか、左手は自らの頭部をもごうとしているし、右手はひたすらか壁を殴りつけている。
「特殊ベークライトの注入、急いで!!」
リツコの声が、苛立ちを含んだ叱咤に聞こえるのは気のせいではない。
プラグが床に激突した瞬間、ゲンドウが飛び出したのだ。
別に零号機の打撃から逃げるためではない。
その足は、一目散にプラグへと向けられている。
壁の噴出口から一斉にベークライトが吐き出された。
零号機にまとわりつき、その自由を奪っていく。
それは当然なのだが、零号機の凝固だけが目的だから、それ以外には行かない。
無論、レイのプラグまでは及ばないのだがそれを見て、僅かに舌打ちしたように見えたのは気のせいだろうか。
この二人の間に、何があったのか。
そんなリツコの心など知らないゲンドウは、レイのプラグへ駆け寄った。
「停止まで、後十秒…九…八…七…」
ゲンドウがプラグの所へ着いた瞬間零号機が停止した。
頭部が壁に刺さったままの状態で停止したところへ、ベークライトが降り注ぎ零号機を固定する。
ゲンドウがプラグの前に立った瞬間、衝撃でゲンドウの眼鏡が落ちた。
非常ハッチのハンドルを、素手で掴んだゲンドウ。
人肉の焦げる嫌な匂いがして、ゲンドウの手から一筋の煙が上がった。
「さ、さっさと開けっ」
何を感じたのか手は即座に離れ、瞬時に焼けただれた自らの手をゲンドウが見た。
一瞬瞑目したのは、誰かが脳裏に浮かんだのか。
再度掴むと思い切りハンドルを回した。
手袋はしていないから無論、火傷は進行している。
ハンドルを回した瞬間、そこら中の穴から噴き出した液体は沸騰していた。
ハッチが開いた瞬間、ゲンドウの顔を凄まじい熱気が叩いた。
手で振り払うと、プラグの中に上半身を入れる。
無論パイロットは気絶済みだ。
叩き付けられた割に外傷が見えないのは、不幸中の幸いであったろう。
「レイっ」
声の音量に呼ばれたか、或いはその中に含まれていた物のせいか、レイはゆっくりと目を開けた。
ぼやけた輪郭が、次第にはっきりとした像となった。
「大丈夫か?…」
無言で頷いたレイに、
「そうか…」
と、言葉は短かったが本心からの安堵が含まれていた。
ゲンドウの手がレイに差し伸べられた時、レイは気付いた。
その手に、いかにも出来たてと言わんばかりの火傷がある事に。
(碇司令…)
その二人に、北極海の水よりも冷たいのではないかと思わせるような、凍り付いた視線が向けられていた。
数秒後、ゲンドウのサングラスのフレームが変形を始めた。
レンズのひび割れたそれが、綾波邸の冷蔵庫の上で、大切な宝物となるのは、その晩からの事である。
ゆっくりと少女の目が開いた。
(あの夢を…起動実験が近いから?もう、あの眼鏡は無いのに)
レイが呟いた通り、レイの手元にそれはない。
「自分を通して誰かを見てる碇司令は、赤木博士にあげるの」
そう言った晩、廃棄処分となったのだ。
起こした上半身をスタンドに持たせかけたまま、レイは昨日の事を思い出していた。
リツコに呼ばれた二人は、医務室を訪れていた。
レイに関しては、全権をユリに委任すると告げたリツコだが、そのユリが薬の開発にもう少しかかるという事で、まだ戻っていない。
レイの健康診断は、リツコが行うことになったのである。
ゲンドウの心が未だ、レイを通してのユイにある事は、リツコも承知している。
だがレイに含む事は、すなわちシンジを敵に回す事であり、それはそのままユリをも敵にすることを指す。
それが自殺行為である事は、既に身に染みており、またレイ自身がシンジやユリになついている事で、リツコ自身驚くほど心の内は変化していた。
以前は、レイがこの部屋に来る度にこの部屋に重苦しい雰囲気が充満し、マヤでさえも近づくのを嫌がった程である。
だが、今二人を待つリツコからは、あの禍々しいほどの気は感じられない。
「これもシンジ君の、いえアサシンのおかげかしら」
リツコが呟いた時、ドアがノックされた。
「どうぞ」
ゲンドウならノックはしないし、冬月ならノックと同時に入ってくる。
それ以外の者に対しては、
「誰なの」
と冷たく返していたリツコなのだ。
ノブに手を掛けたシンジが止まった。
レイの驚いたような表情に気が付いたのだ。
「どうしたの?」
いくら何でも、赤木博士がなにか変などとは云えない。
首を振ったレイを見て、シンジはドアを開けた。
白衣姿で脚を組んでいるリツコが、こちらを向いて微笑している。
タイトスカートから濃紺のストッキングに包まれた脚が、すらりとのびているのに、ちらりとシンジは視線を向けた。
傍目には、青少年の当然な反応に見える。
だが、アオイがいればシンジの胸中を見抜いたはずだ。
(三十路でも、あれだけ出してのけるんだな)
どう聞いても感嘆とは対極の位置にある。
だがいつもの通り、顔には微塵も浮かばせる事無くレイと部屋に入った。
今日のレイは制服姿。
届いたばかりの新品である。
一見すると、転校初日の初々しい姿に見える。
だが、その中身は。
「レイ、昨日はよく眠れた?」
「お兄ちゃんに特製の紅茶を入れてもらいましたから」
「特製?」
「ダージリンのワイン入り。ちょっと濃いんだけど」
「そう、良かったわね。それで、身体の具合の方はどう?最近シンジ君がこっちに寄越さないから、記録は取ってないのよ」
「十四年分以上の事を教えなきゃならないからね。前の保護者が良かった所為だ」
穏やかな口調だが、リツコを俯かせるだけの物は含んでいた。
ただし、シンジの方もさして追求する気は無かったようだ。
あっさりと、
「今日はレイちゃんの身体検査だって訊いたけど」
その声に救われたように、リツコが顔を上げた。
「そ、そうだったわね、レイ、いいかしら?」
「はい」
素直な返事に含まれている意味を、リツコは知らない。
制服を脱いで下着姿になる時、一瞬シンジをちらりと見た視線の意味は、リツコにもわからなかった。
何事かとシンジを見たリツコだが、視線がレイに戻った瞬間、その目は大きく見開かれた。
レイが身につけているのは、普段のブラとショーツを併せても500円足らずの下着などでは無かった。
少しでも下着に造詣のある女性なら、誰でも憧れるとある超一流ブランドの下着、しかもフリルの付いた漆黒で、やや透けて見えるシースルーに近い際どさを放っている。
靴下こそ白のハイソックスであったが、それは下着と同色のガーターベルトで吊られていたのだ。
しかもどう見てもそれは、試着を重ねてから選んだとしか見えないほど、ぴたりとフィットしてレイの肢体を包んでいた。
目に続いて口までも、ぽかんと開いたリツコの顔を見て、シンジがにまっと笑った。
どうやらこれが見たかったらしい。
レイの下着は、別にシンジの趣味ではない。
単にリツコの驚く顔が見たい、それだけの理由でシンジが選び出した物である。
類い希なる容姿と、誰もが憧れる肢体の持ち主である、とある女性にシンジはこれと近い物を着せた事がある。
普段の清楚な雰囲気からは、想像も付かない凄まじいまでの妖美に、さすがのシンジも一瞬息を呑んだ。
ただ、レイが身につけると。
シンジの予想通り、大人びた下着を付けた可愛い少女の範疇を出ない。
既に家で、
「これ可愛い?」
と見つめるレイを一周させて、その雰囲気は知っていたシンジだったのだ。
(私の顔が見たかったのね。でも…どうしてこんな下着をレイが持っているのかしら…まさか自分で選んだ?あり得ないわね。でも…シンジ君が…それも考えづらい…でもそれしか…)
「レイ…これは…どうしたの?」
「お兄ちゃんに選んで貰いました」
リツコはミサトとは違い、三手先位なら読める。
冷やかそうが褒めようが、
「あんな安物の下着を、身につけさせておけない」
と、冷たく云われるのは分かっている。
だから、
「レイ、とても似合っているわよ。お兄ちゃんが、良い物を選んでくれて良かったわね」
一番無難そうな言葉を選んだ。
皮肉が皆無であった事と、レイを最初に褒めた事で、藪蛇の結果にはならなかった。
レイが一言だけ、だが幾分嬉しそうに、
「ありがとうございます。赤木博士」
と、言っただけだ。
だが、リツコの驚愕はそれだけに止まらなかった。
レイが脱いだ制服を畳みだしたのである。
普段は無造作に放り出し、無造作に掴んで着ていくあのレイが、である。
「レ、レイ、貴女…」
「お兄ちゃんに教えて貰ったんです」
「保護者とやらは大事な事を全然教えてなかった。こんなんじゃ、お嫁にいけないかもしれない」
非難の口調はない。だからこそ、リツコには響くのだ。
もしこれに非難や嫌味が混ざっていれば、リツコにはまだ楽だったろう。
一瞬室内の空気が重くなった。
シンジは、どこか恥ずかしそうにしているレイを見やると、
「今日は検査でしょ?レイちゃんが待ってるよ」
その言葉に我を取り戻したリツコ。
何かを思い出したのか、じろりとシンジを見たのは数秒後の事であった。
「何?」
歯切れが悪いのは、心当たりが無くもないからだ。
予想通り、
「この間呉にある陸自の基地から、MAGIと私の私室のコンピューターにお客様があったのだけど、心当たりは?」
間髪入れずに、
「ちょっとだけ」
「あなたが上京してくる前にも、一度私のプラグラムがあっさり破られて、中身を悠々と読んで行かれたわ。あれと全く同じ物だったわね」
「それで色々と知ってたんだな、あの二人。つまらない事でも秘密にしたがる親父にしては気前がいいと思った」
「シンジ君は知らなかったの?」
「いや、ユリさんが「学校のデータベースに侵入するからプログラムを」って言うから作ったんだ。簡単な所みたいだし、僕が作ったのも簡単な物だ。ま、さんざん手を加えた筈だけ…あれ?」
リツコの目が虚ろになっている。
自慢のプログラムを大した事無い物扱いされて、しかもあっさり破られたのだ。
怒るよりショックが先に立ったらしい。
それに気付いたシンジが、
「あ、でも今回のは一番厄介だったとは、言ってたけど。それに、僕じゃ多分入れないよ」
その言葉に我に返ったリツコ。
「それは…褒めて頂いたのかしら?」
「アメリカの国防総省−ペンタゴンとか言う所の地下にある、マザーコンピューターは簡単だったと言ってたから、多分ね」
「な、何て事を…」
「僕と違ってユリの場合、結構人のゴシップとか興味あるんだです。あと二十年もしたらテレビの前で、お煎餅囓りながらワイドショーにぶつぶつ言ってるかもしれない」
思わずリツコが声を上げて笑ったが、それは一瞬だった。
「クレームが来なかったのは、僕の仕事の報酬のイロみたいな物だったし」
事も無げにシンジが告げたからだ。
「ミサトさんは知らないはずだが、あなたは聞いているでしょ」
はっきり言われて頷くしかなかった。
「使徒は一匹って思っていたから、さっさと帰るつもりでいたんだが、そうも行かなくなった。はやいとこ本業に戻りたいね」
レイを見て、
「僕は外で待ってる。血を全部抜かれそうになったら僕を呼ぶんだよ。助けてあげるから」
半ば本気のような口調で告げてから、出て行きかけた背中に、リツコが声を掛けた。
「シンジ君」
足が止まった。
「レイはその事を知っているの?」
「“仮面の下は悪魔だったの、私を騙していたのね。何て酷い人”そう思うならそれまでの事。僕の知った事じゃない」
ドアが閉まった後、部屋の中には沈黙が流れた。
しばらくドアを見ていたリツコが、ゆっくりと振り返りレイを見た。
いや、見つめたと言った方が近いかもしれない。
今までとは異なる視線に、レイが視線を逸らしたとき、
「レイ、シンジ君の事どう思ってるの」
質問と言うより呟くような感じであった。
「一番大切なお兄ちゃんです」
間髪入れずに返って来た答えに、僅かにリツコの顔が歪んだ。
それはどことなく、哀しげにも見えた。
「それは本当かしら?」
「勿論ですっ」
ムキになったレイに、宥めるように微笑したリツコだが、初めての表情にももう驚かなかった。
「言い方が悪かったわね、質問を変えるわ。あなたが使徒と変わらない事をシンジ君が知って、人類の敵だとか言い出した挙げ句にレイを嫌いだと言ったら?」
抑揚のない声で訊ねたリツコ。
出ていく時、ドアに米粒大の盗聴器をくっつけたシンジに、会話は筒抜けである。
リツコの突然の発言にも、動かなかったシンジ。
シンジは一言呟いただけであった。
「レイちゃんて、使徒だったんだ。いい事聞いちゃった」
楽しそうとすら聞こえる声に、嫌悪も驚きもなかった。
ただし、レイはそんな事は知らない。
リツコの質問に、レイの顔色が変わった。
ゆっくりと震えだし、目には涙が浮かんでいる。
「そ、それでも私は…私は…お兄ちゃんの事が一番大事です…」
その頭をリツコが撫でた。
「安心しなさい。シンジ君は多分、いえ間違いなくそんな事は言わないわ。でもね」
「で、でも?」
「…何でもないわ…」
離れていくのはあなたの方かもしれない。
先日までの彼女なら、はっきりとレイに告げていたであろう。
しかし、
(レイにそんな事は言えない…)
そんな心の動きに、リツコ自身がやや驚いていた。
数秒後、台の上に横たわるよう命じた声は、既に科学者の物に戻っている。
シンジが呼ばれたのは、数十分後の事であった。
欠伸を手で押さえながら入ってきたシンジに、
「レイの心臓の音は、いい子守歌になったみたいね」
いつもの皮肉を乗せた声に戻っている。
ドアの傍にある水道で手を洗った時、リツコは盗聴器を発見していたのだ。
シンジの顔色が全く変わっていないのを見て、リツコは自分の考えがおそらくだが、正しかった事を感じた。
(レイが使徒でもクローンでも、彼には全く関係ないみたいね。でも、どうしてここまで冷静になれるの…)
シンジの方も、盗聴器発見は既知だったらしい。
「可愛い音だったよね」
と、動じた様子は皆無である。
「シンジ君、今はっきりさせておいた方がいいかしら?」
何れ判る事なら、今の内にそれとなく探ってみた方が、というリツコなりの発想から出た言葉だったのだが。
「とすると、リツコさんをチェーンソーでバラバラにして、レイちゃんが怯えるかどうかを見るとか。あ、それいいね」
自分の発案が気に入ったらしいシンジを、慌ててリツコは止めた。
シンジにかかると、こういう言葉が現実味を帯び出す事を、既に判っているからだ。
ふとシンジがレイを見た。
「これ何?」
いつの間にか、レイが履いていた白いハイソックスは、黒のストッキングに代わっていたのである。
従って、レイの白い肢体を包んでいるのは全て黒、という事になる。
「折角黒のシルクにしたんだから、全部黒で統一しなきゃ駄目よ」
「クリスマス過ぎた売れ残りじゃあるまいし。外見勝負は年を気にする証拠だよ」
「何ですって?」
シンジは知らん顔して、
「結果はどうだったの?」
訊ねた声に、緊張も悪びれた様子もない。
溜め息を一つ吐いてから、
「全く問題ないわ。全て健康体よ。怪我も完全に治っているし」
「あ、あの、お兄ちゃん」
躊躇いがちなレイの声が遮った。
「ん?」
着替えていない事に気がついた。
白より黒がいいと、リツコが半ば強制的に穿かせた物だが、レイにとってハイソックスはシンジの選択肢である。
それを強引に替えさせられ、やむなく従ったものの、シンジの評価が気になる所だ。
しかも、何となくシンジは好感をもっていないように見える。
レイの脚とリツコに視線を向けた。
経緯を読んだシンジは、
「いいと思うよ」
語頭に『とても』が付くのか、或いは『どうでも』が付くのか曖昧な答えである。
レイは、後者を選んだらしい。
一途な心は時として…我が儘である。
満足したのか、いそいそと着替えだしたレイから視線を外すと
「怪我は完治しているし、の後は何?」
「ああ、その件なんだけどね。レイもいい?」
「はい」
ブラウスのボタンを留めながら、こちらを見た。
「碇司令がね。近日中に零号機の再起動実験を行う事を決められたわ」
その瞬間、レイに僅かに緊張が走ったのをシンジは見逃さなかった。
当時はいざ知らず、今のレイには恐怖を喚起したらしい。
リツコもそれに気が付いた。
「勿論、レイが本調子に戻ってからが前提よ」
「当たり前だよ。でも初号機は大分慣れたし、僕一人でもいいんじゃんないの?」
確かに、シンクロ率・仮想空間での戦闘結果、どれを見てもシンジはレイの10人分くらいはある。
だからといって、零号機をそのままにもしておけない。
迂闊な事は言えないリツコが、一瞬とまどった時、
「私、やります」
レイが手を挙げた。
二人の視線がレイに向けられた。
「いいの?」
「私、お兄ちゃんほど強くない、だけど少しでもお兄ちゃんの役に立ちたいから。それに…」
ただし、それを聞いた二人の反応は異なっていた。
リツコは、シンジを慕うかに聞こえたレイの言葉に思わず微笑んだが、シンジは微かながら首を傾げた。
シンジはアサシンとはいえ、アオイと組んできたおかげで人との協調性は高い。
だが、それを知らない筈のレイにとっては、現時点では自分は足手まといの可能性の方が高い事は知っているはずだ。
なのに、どうして数秒考え込んだ後、一転して張り切ったように言い出したのか。
シンジは、レイは言い淀んだ部分に答えがあると踏んだ。
シンジの読みは的中していた。
「零号機の再起動実験は、明後日の10:00(ヒトマルマルマル)より行います」
はいと頷いたレイと部屋を後にしたシンジは、車を湖畔に向けた。
誰もいないことを確認してから、車を停める。
レイは、館内で買ったミルクティーを飲み終えた所であった。
「お兄ちゃん、どうして此処に来たの?」
道順が違うのは、夕食の買い物にでも行くのだと思っていたらしい。
レイが不思議な顔で訊ねた。
シンジはすぐには答えなかった。
ゆっくりと顔を横に向けると、レイの顔を見つめた。
頬を染めたのも一瞬、シンジの気配にレイも見つめ返した。
数十秒後、レイが耐えきれなくなって視線を逸らしたのは、羞恥心からではない。
シンジの視線が射抜くような物へと変わっていったからだ。
レイが思わず横を向いても、その横顔へ射るような視線を向けている。
シンジに嫌われたのかと、内心では泣きたくなったレイだが、シンジの視線はレイを微動だにさせなかった。
このまま時が過ぎるかと思われたとき、ふっとシンジの視線が緩んだ。
やっと緊縛が解けたとき、
「レイちゃん」
いつもと変わらぬ声で呼ばれて、レイの顔から涙が一粒落ちた。
レイはアオイとは違う。
シンジと暮らしてまだ二週間と少ししか経っていない。
彼女にシンジの胸中を読めといっても無理な話であろう。
レイの顔に人差し指を伸ばすと、黙ったまま軽く拭ったシンジ。
レイは、自分の涙には気付かなかったらしい。
シンジの動作に慌てて、
「ご、ご免なさい。わたし…」
謝りかけた所へ、
「一つ訊きたい事がある」
「な、なあに?」
「レイちゃんは、僕の事をどう思っている?」
口調は柔らかいが、どことなく硬い雰囲気のまま訊ねた。
少なくとも、恋の告白を引き出すそれとはほど遠い口調で。