第七話
 
 
 
 
 
 
 
「あなたのクローン元は碇ユイよ」
「碇…ユイ?」
「そう、碇司令の妻であり、シンジの母親。そして、シンジに取ってはもっとも忌むべき存在。ただし、あなたの役目は妻ではないわ。だから、シンジとあなたはいわば兄妹みたいなものね」
「私と碇シンジが兄妹?」
「その通り。それから一つ覚えておいた方が良い。碇シンジは私の大切な友人だと言う事を。そして、シンジを自分より大切にしている、私の友人がいる事も」
 微妙ながら冷たくなった口調を感じ取り、僅かにうなだれた少女の顔に指が掛かって、くいと持ち上げられた。
「ご、ご免なさい…あの…」
「長門ユリ。あなたはユリ、で構わないわ」
「ユ、ユリ…さん」
「良くできた。ついでにもう一つ、お兄ちゃん−と」
「お兄ちゃん?…」
「碇シンジの母となるより、兄妹の方が繋がりも固いし聞こえも良い。それに、さして父親至上主義ではないシンジと兄妹なら、総司令の思いの行き先を、不安がることもなくなるわ」
「で、でも…」
 向かい合う二人の影は、片方の腰まである髪と、もう片方の肩上でやや、シャギーの入った感じの髪を映していた。
「でも?」
 少女は見ていた。白衣に身を包んだ妖艶な女性の美貌が、身体を呪縛して離さない妖気を含み、ゆっくり近づいてくるのを。
 少女は動けなかった。いや、動かなかったのかも知れない。
 来ないで…という声は、どこか遠くに聞こえた気がした。
「古より伝わる秘密のお呪いと」
 二つの影はゆっくりと重なり、数秒後離れた。
 影が離れた時、その周辺の空気はどこか、危険で淫らな物に変わっていた。
 少女は既に、影すら赤く見えるほど真っ赤になっている。
「今一度聞く。碇シンジとは?」
「私のお兄ちゃん…です」
「お見事。だが突然兄が出来る事に不安があるなら、こうすると良い」
 影が再度重なったのは、単に耳元に口を寄せただけなのだが、それでも少女は僅かに身を捩った。
 敏感な場所に、言葉と共にそっと吹きかけられた息は、計算ずくだったのは言うまでもない。
 何やら、悪魔が純真な少女に、奸計を授ける図に見える。
 策を授けられた少女は、素直に頷いた後、そっと目の前の女性を見上げた。
「あ、あの…も、もし…言えたら…」
 そこまで言うと俯いてしまった。
 妖艶な女医は、その先を見抜いた。
「ご褒美にね。ところで、手付けと言う言葉はご存じ?」
 三度影が重なった時に耳を傾けていれば、僅かな甘い声を聞き取れた事であろう。
 そして、それを音声として収める事に成功した者は、好事家から莫大な金額を引き出せたに違いない。
 しかし一瞬だが、その声がはっきりと聞こえた時も、そして二つの影が離れる時に至るまで、惜しむべき事にその付近に人の姿は、無かった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 いつの間にか酔いも醒めたらしいレイは、ネルフ正面への横付けを指示した。
 足下が千鳥足になっていた少女の、一変した面持ちを見ればそれが伝染っても良さそうなものだが、シンジにその欠片もない。
 一年中春の日差しの国へ、数年の間置き去りにされたからだという、美貌の女医の指摘は正しいのかも知れない。
「エヴァでも見に行くの?それとも下の方とか?」
「はるか下よ。本来貴方の権限では入れない筈…」
 言葉が途切れて目が大きく開いたのは、事も無げに出して見せたシンジのIDカードにある。
「どうしてそれを持っているの?」
 驚きと共に、軽い嫉妬の響きがあるのに本人は気付いているかどうか。
「作ってくんなきゃ、またまた暴れちゃうぞって」
 とある主人公を真似て見たが、レイには通じなかった。
 無表情に戻ると、
「碇司令を脅したの?あの時機関銃で撃ったみたいに」
 軽く肩をすくめて、
「失礼だがレイちゃん、君はもう少し冗談と言う物を知った方がいいと思うよ」
「いい、私には必要ないもの」
 予想通りの反応に、切り札を出しかけて、止めた。
 あまり何度も使っては、効果が薄れると言う物だ。
「でもね」
「何?」
「ユリさんに褒められて、顔を紅くして喜んでいたレイちゃんの顔は、可愛かったよ」
 照れも見せない直球がかえって効いたのか、
「な、何を言うのよ」
 何やらうっすらと頬を染めて顔を背けられたが、そこにある種の感情がなかったのをシンジは知った。
 そう、お前に言われても意味がない、と言うそれが。
 ここで言った本人も紅くなったりすると、ある意味では面白いのだが、シンジにとっては、単に事実を告げただけである。
 それに、この程度でシンジを赤面させるのは到底無理がある。
 その雰囲気にレイも我に返ったらしい。
 エレベーターが目的の階に着いたようで、僅かな衝撃と共に停まった。
 さっさと出るかな、と思ったら立ち止まっている。
 こんな時、どうしたのとシンジは訊かない。訊くように、周囲から教育は受けていないからだ。
  レイが振り向いた。シンジの顔をじっと見つめる。
(二度目だな、これで)
 そう思ったシンジも視線は外さなかった。
 見つめ合った、と言うよりもシンジがレイの視線を受け止めていた、と言った方が正解だろう。
 三十秒ほどで、レイが先に視線を外す。
「本当に、いいのね」
 何か注文したかな、と思ったがそれは口にせず、
「何を見せたいの?」
 と訊いた。
「ユリさんに言われたの。レイちゃんのクローン元を考えたら、貴女はシンジの兄妹だって。だから、“お兄ちゃん”って言うようにって」
 シンジの表情は変わらない。 
「どうして、妹、なの」
 区切るようにしていったシンジの胸中は分からない。
「私は今まで、碇司令が全てだった。私を通して誰かを見てる、そう判っていても」
「純粋だね」
 その言葉は賞賛だったのか。
「だから、貴方が来る時、とても不安だった。貴方の家を用意するよう、赤木博士に命令した碇司令が言ってたもの−碇シンジは切り札だって」
 “切り札の別称は、使い捨てって知ってる?”
 そんな言葉を飲み込んだ。
 使い捨てにはしないわ、そう反論されると困るからだ。
「貴方が来たら、碇司令を取られるんじゃないか。何か…そんな嫌な感じがしたの。だから、いきなり助けてくれて、服に私の血が付いても構わなかった貴方に邪魔だって言って…ごめんなさい」
「構わないよ」
 構わない、と言った後にシンジが呟いた声は、レイには届かなかった。
「ユリさんはこう言っていたわ。碇シンジは優しいから、貴女の良いお兄ちゃんになってくれるって」
 言った瞬間レイは愕然とした。
 “違う、私はこんな事言おうとしてない。シンジは父親第一主義じゃないから、兄妹になれば、余計な不安は持たないで済む。そう言われたって言おうとしたのに”
 だが、勝手に口は動いた。
「優しいお兄ちゃんは欲しい?そう訊かれて私がはいって言ったら、じゃあシンジにレイちゃんの全部を見せてからにするといいわ。シンジがどんな人間か、自分の目で確かめるといいって言われたの」
 そう告げたとき、ユリも全て知っていたわけではない。
 ただ、悟りとも自棄と違うレイの行動を見て、一種異様な物を感じたのだ。
(この娘には、かなりの秘された部分がある)
 医者としてより、女としての直感に近い物で、そう感じたユリの言葉であった。
 無論、すでにレイがクローンでありそれが誰を元にしたものか、それは知っていたユリである。
 ただし、完全に細部までを知り尽くしたわけではなかったのだ。
「レイちゃんの全部?」
「付いて来て」
 シンジとレイが着いた場所は、シンジは知らなかったがセントラルドグマと呼ばれる場所で、やたらと立ち入れないのは無論の事、侵入を企てるだけで独房に一ヶ月は放り込まれる場所であった。
 セキュリティゲートのスリットにカードを通すレイ。
「僕は?」
「カメラが見ているから良いわ。ユリさんと碇司令と赤木博士に連絡が行く筈よ」
 だが次の瞬間、
「前から独房には、一度入ってみたかったんだ」
 言葉が終わらないうちに、銃声が鳴り響きカメラを破壊した。
 レイの告白を映像で保管する事もない、との配慮だったが、口にはしなかった。
 こんな時P99だと、殆ど手はぶれない。
 アオイから送られたこの小型拳銃が、シンジのお気に入りとなっている理由の一つに、その操作性も含まれていた。
 延々と続くリニアエレベーターがある。レイが先に乗った。
 ふとレイの手を見た時、シンジは白磁のような手が震えているのに気が付いた。
(急性アルコール中毒じゃなさそうだ)
「レイちゃん」
 呼ばれてレイが振り返った時、シンジはその手をそっと握った。
「何?」
「嫌なら、止めても良いよ。別に何見ても驚きはしないけど」
 握られた手に視線を落とし、
「ありがとう」
 手を握られたままちょっと考え込んだがすぐに、
「とても…あたたかい手ね」
 言葉と共に握り返された手が、レイの答えであった。
 手を繋いだまま、二人はさらに下へと下って行った。手に入る力は、レイの方が強くなっている。
 しばらく降りた時、シンジの眼に何か記された電光板が映った。
「人工進化研究所 弟3研究室」の文字がある。
(進化。神の座に王手を掛けたか。人間が)
 ライトが点灯し、部屋の中の様子を映し出した。
 一見すると、極度の精神病患者でも幽閉するための部屋のようなイメージがある。
 むき出しのコンクリートに、アルファベットや数字が直に描かれ、金属製のベッドや空のビーカーが置かれている様は、まさしくその物と言っていいかも知れない。
「此処は?」
 シンジの問いに、
「私が生まれ育った所」
 そう言った瞬間、手が離れた。
「悪いけど僕は帰る」
 悲しげな表情を見せたのに、レイは自分でも気付いていなかった。
「そう」
「勘違いしないで」
「え?」
「碇ゲンドウと赤木リツコを五体バラバラにしてくれる。エヴァで踏みつけて総仕上げだ」
 わずかにしなやかな眉を寄せ、危険な雰囲気と共に去っていこうとするのを、あわてて引き留めた。
「私の…ため?」
「どうでしょう」
「私はいいの」
「…なぜ?」
「赤木博士が言ってたでしょう。私の事はユリさんに任せるって。それに赤木博士が私に謝ったの、初めてみたもの」
「レイちゃんは優しいんだね」
 感嘆というか、呆れに近い物を含んで、それでも微笑したシンジにレイは、
「見ず知らずだった私の事で、怒ってくれた貴方も…優しい、と思う」
「あ、どーも」
 もう一度差し出された手は、しっかりと握られた。
(震えは止まったか)
 実験場を抜けた二人は、巨大な空間に出た。
 そこには、ホバー上からちらりと見えた、エヴァの頭部と骨があった。
 きれいに食べられた焼き魚の骨、そんなイメージをシンジは抱いた。
 だがその脳裏では、エヴァの機体が幾度か作られたのだと、瞬時にはじき出していた。
 これが使徒相手の物ではなく、出来損ないの失敗作なのだと。
「最初にネルフに来たとき、壁に頭が刺さったままのこれ、見たような気がするんだけど」
「これは、私の機体零号機よ」
「共食いでもしたのかな?」
「これは失敗作。いきなりエヴァが完成した訳ではないわ」
「何時の?」
「赤木博士は10年前、と言っていたわ」
「て、事は使徒撃退用の兵器を既に作ってたって事になるね。もしかして判ってた?」
「ええ」
 短く告げたレイは、軽くシンジの手を引いた。
 あまり、見られたくない物だったのかも知れない。
 無論シンジは、それを見たとてレイを見る目が変わる訳ではないが、出来損ないを十年間も放っておいた事に、むしろ感心していたのだ。
 隣の部屋へ入った時、レイがライトを点灯させた。
 シンジの眼に飛び込んだのは、巨大な水槽であった。
 壁一面を使った巨大な水槽の中にはオレンジの水がある。LCLだと見抜いたシンジは水槽の住人達を見た。
(綾波レイの生け簀?)
 シンジが胸中で呟いたとおり、その中には全裸の綾波レイが大量に浮遊していた。
 その姿はどこか、タツノオトシゴにも近い。
 漂うそれを見て、魂がないのをシンジは知った。
 なお魂とは、生命その物の事ではなく、むしろ自我に近い。 
(魂はないな。肉体が滅んだら次に入れ替えか…。だが、何のために此処まで造る必要があった?でもこれは、ユリが持ってる僕のダミーより精巧かもしれないな)
「レイちゃんの叩き売りが出来るね」
 悪趣味なジョークを飛ばして、思わず近寄った時、レイの手は離れていた。
 水槽の前に立ったとき、中にいたレイの姿をした者達が、一斉に近寄ってきた。
 シンジが横に動くと、その後を追う。手を叩く必要もない。
 ふと、その中の一人と目があった。
 と、次の瞬間綾波レイは、にいと笑ったのである。
 どうみても可愛くない。
 笑ったと言うか嘲笑ったというか…いや、そのどちらでもない。
 あえて言うならそう…死人の口元を操れば、こんな風になるのかも知れない。
 しかもそれにつられたのか、全員が同じように『嗤った』のだ。
(何処かで見たような)
 数秒後に、この顔を得意とするある人物を思いだし、どこかうんざりした表情になった。
 しばらく、数十人のレイと、無言のお見合いをしていたシンジが、レイに訊ねた。
「これは、生者のそれとは明らかに違う。でも笑ってるよ?」
「これはみんなダミーよ。魂は無いわ」
(そういう顔に造ってあるのか。でもそれにしてはこの子が無表情すぎる)
 訊いてみたかったが、抑えた。
 布の擦れ合う音がして、レイの服がすべて床に落ちた、と気付いたのは次の瞬間であった。
 身じろぎしないシンジの首に、真っ白な腕が巻き付けられた。
「これが私の正体。貴方がこれを見てどうするか、知りたかったの。さっき私に箱入り娘だねって言ったでしょう。私がそうよ、と言ったのはこれを指していたの」
「……」
「軽蔑されても、怯えられてもいい。でも、優しくされてから捨てられるのだけは嫌だったから」
 ゆっくりとシンジが振り向いた。
 レイの顔を両手で挟み込み、目を覗き込んだ。
(やっぱりそうか)
 胸中で僅かに呟いた瞬間、シンジはレイと唇を合わせていた。
「ん…むう…ん…」
 三十秒ほどで唇が離れたとき、レイの目は濡れていた。
 目は泣き出しそうに潤み、口元は半開き、頬は染まっている。
 典型的な欲情の表情と言えた。
 いきなりキスしておきながら、しまった、と小さく洩らしたのはどうしてか。
「気持ち悪いと思った相手に、こう言う事はしない。これが僕の返事だよ」
 その首に、再度腕が巻き付けられた。
「気持ち…良かった…もう一回、ねえお兄ちゃん…」
「医療ミスだ」
 その言葉が、やや後方でも同時に呟かれた事をシンジは知らない。
 
 
 
 
 
 保安部員から、セントラルドグマへ二人のチルドレンが入り、しかも監視カメラを撃ち壊した、との連絡があったとき、三人は既に車中にいた。
 レイが、自分を全て明かすとしたら何をする、とのユリの問いに、リツコは少し考えてから、
「自分の全て…。ダミー達かしら。いえ、でも、まさかそんな」
「そのダミーシステムは何処に?」
「ネルフの地下にありますが、シンジ君のカードでは…あ」
「シンジには、葛城一尉から既に最高級のカードが行っているはずだ」
 ゲンドウの言葉に、
「私もそれに興味がある。拝見してもよろしいかしら?」
「止むを得ませんな。許可しましょう」
 不承不承を言葉に乗せたのは、総司令としてのせめてもの威厳維持だったらしい。
 アルコールをあまり飲んでいないゲンドウの運転で、三人はネルフ本部へ向かった。
 もっとも、一番平然としていたのはユリだったが、
 保安部員から連絡があったのはネルフへ着く直前だったのである。
 手出しの禁止と、映像の停止を命じ三人は地下へ向かった。
 三人が水槽部屋の入り口に着いた時、シンジが全裸のレイにキスした所であった。
「あの二人、一体…」
 目を見張った二人にユリが、
「あれは治療だ」
 と、告げたのである。
「治療!?」
 思わず大きくなりかけた声に、慌てて自分の口を押さえたリツコ。
「先ほど口移しで催眠術を施して置いた。シンジの命名した私の“催眠キス”、口づけで解けるのは、シンジともう一人だけ。ちなみに微量だが催淫効果もある」
「じゃ、今のレイは色情狂…」
「言葉を慎んだ方が良かろう。なんなら、自慰が止まらぬ状態までして差し上げてもよろしい。未熟ながら、指二本あれば十分だ」
 あわてて首を振り、
「も、申し朱ありません。で、ではあれはレイの…」
「彼女なりの、自分の全てを見せる方法だ。でなければ、今頃シンジに昏倒させられているはずだ」
 ユリがそこまで言った時、レイがシンジの首に抱きついたところであった。
「ド、ドクター、あれはやはり…」
 言い淀むゲンドウにユリは、
「医療ミスだ。シンジ、動揺したわね」
 
 
 
 
 
 レイの表情を見て、シンジは医療過誤を悟った。
 ユリが言った通り、文字通りの口封じなどという、古風な手段を取った訳ではない。
 極めて希にしか見られないユリの『催眠キス』は、シンジとアオイにしか解けず、しかも方法は同じ口づけに限られる。
 だが、ほぼ同等の術を仕掛けられるのはシンジ只一人。
 術の解き方は、舌の裏側のある部分に、舌で直接触れることなのだが、触れている時間が10分の1秒でも狂った場合、一気に催淫効果が増加する事になる。
 さすがのシンジも、回遊魚ならぬ回遊レイ達を見て、判断が狂ったらしい。
 こんな時の対処法はただ一つ…多分
 シンジは躊躇うことなく再度唇を合わせた。
 すこし空いた歯の間から、一気にレイの口腔内へ舌を押し込んでいく。
 舌の上をなぞると、レイの背が一瞬びくりと震えたが、おずおずと応じてきた。
 その舌を、音を立てる程の勢いで吸い寄せ、激しく絡めていく。
「ん、ふう…」
 背がびくびくと波打つのを感じながら、歯の裏側や舌の裏側も、余す所なくかき回す。
 レイの手足ががくがくと震え出すのを確認して、ゆっくりとシンジは唇を離した。
「ふあ…あぅ…」
 小さく洩らしたレイの目は、濡れているのを通り越して泳いでいる。
 始めての、それも激しい快感に理性がその辺に落ちたらしい。
「これでいい?」
 表情を変えぬまま訊ねたシンジだが、レイはこたえる事ができず、こくこくと小さく頷いたのみである。
 しかも、数秒と持たずして、おぼつかない足取りでレイは座り込んでしまった。
 その手を軽く取ったシンジ。
 すぐには立たせようとせず、じっとレイを見た。
「一つ言っておく」
 その言葉に、美少女とのキスを楽しんだ響きは微塵もない。
 一方こちらは余韻覚めやらぬ声で、
「なあに、お兄ちゃん?」
 とろんとした眼差しを向けた。
「私が死んでも代わりはいるとは、二度と口にしない事。僕の妹でいたかったらそれだけは、守って貰おう」
 レイが真顔になって頷いた時、その後二度と破られる事のなかった約束が成立したのである。
 ゆっくりと、立たせた。
 自分のキスの効果を良く知るシンジは、レイがイった状態にある事も知っていたのである。
 服を着たレイをシンジは背中におぶっていった。
 やはり、ふらついてまともには歩けなかったのだ。
 セントラルドグマを抜ける頃、酔いが回ったか緊張が解けたか、レイは静かな寝息を立てていたが、シンジが誰かに出会うことは無論、一度も無かった。
 
 
 
 
 
 シンジがレイと約束をしていた頃、既に三人は地上へ向かっていた。
 リツコもゲンドウも、ユリがレイに告げた、
「シンジを兄と呼ぶように」
 との事には異論は唱えなかった。
 セントラルドグマの殺風景な空間が、レイの部屋と変わらぬ事を訊いたユリが、
「妹が頼まなければ、お二人とも明日の月夜は病室で、あるいは三途の川の畔から見ることになる」
 冷たく告げたからなのだが、シンジ達に声も掛けず、先に退散してきたのは、
「シンジのキスは、された本人は無論だが、見ている者すら中毒る厄介な代物だ」
 という、ユリの言葉があった為である。
 だが、既に遅かったようだ。
 ユリは一番後ろから付いていったのだが、リツコの様子が妙なのにすぐ気付いた。
 タイトスカートの下で、何やら足をもじもじと摺り合わせているし、何より躰から漂わせている雰囲気が妖しくなってきている。
 ゲンドウは気付いていない。
 男が一般的に鈍感とか、無神経とか言われるのはこの辺りにあるのか。
(ネルフ随一を誇る女科学者も、シンジのキスには抗しきれず。当然の結果か)
 出口に出た時、ユリがリツコを呼んだ。
「リツコ嬢の自宅、ここからの距離は?」
「ここからだと、幾分あります」
「では、シンジの家に寄って車を取っていっては、遅くなり過ぎるな。睡眠時間の不足は、衰えかけた肌を押さえるのに一番の大敵だ」
 一番リツコが気にしてる事をさらりと言うと、
「碇司令、私は一人で帰りますので」
 ゲンドウに視線を向けた。
「私が赤木博士を送るのは構わないが、ドクターの足はどうされる?」
「さっき、アオイと話した時、私の車がじきに着くと言われました。ネルフの方へ陸送するよう依頼して置いたので」
 そう言ってから、辺りを見て、
「どうやら来たようです」
 ユリの視線の先には、シルバーメタリックのスカイラインが停まっていた。
 同行者は、さして車には詳しくなかったが、車好きの者がいれば、目を輝かせて見入ったに違いない。
 既にGT−Rが3リッターとなっている時代に、ユリの車はR32GT−R。
 2,5リッターで280馬力を絞り出す、シリーズ中の最高傑作と言われる車だったのである。
 無論ユリの乗る車がノーマルな訳はなく、1万1千回転で四百四十馬力まで出るようエンジンに細工はしてあるが。
 ユリはシンジと同様、4リッター近くは空けている。いくら酔いの片鱗も見られないからと言っても、さすがに心配になったリツコだが、
「今日は、碇司令宅に泊まられた方がいいわ。女にのみ許される美容法を試す、良い機会よ」
 とユリに耳打ちされて、かなり心が動いたらしい。顔が紅くなった。
「シンジのキスを見続けて、魅入られないのは、普通の人には無理。幸い今宵は月の時間も長そうだ。ゆっくりと過ごされるがいい」
 年下のユリの囁きに、頷いたリツコ。
 ゲンドウも何か感じる物があったのか、
「では、よろしいですね」
 の一言に、あっさり承諾した。
 車に乗り込む直前、リツコは何処か嬉しそうにユリに一礼したが、その意味が分からないユリではなかった。
 あくまで他人事のような口調で、
「碇司令の腎虚とリツコ嬢の若返り−どうでもいいことだ」
 そういうと、車に乗り込んだ。
 インパネを瞬時に点検する。こちらは重低音を響かせて走り去っていった。
 シンジがレイを背に乗せて上がってきたのは、ゲンドウとリツコが去り、ユリの車が爆音を響かせて去った10分後であった。
「姫、着きましたけど」
 のんびりした感じにも、やや疲労があるのは片手だけで、お尻の下から支えた為だ。
 ゲンドウはともかく、ユリとリツコが来ていたのは判っている。見つけ次第文句を言ってやるつもりでいたのだが、どうやら既に退散したらしい。
 万が一にも襲撃があった場合、両手が塞がっていては、パイロットを一気に二人失うことになりかねない。
 常に右手は空けておくのがシンジの鉄則なのだ。
 既に起きていたのか、レイの腕はシンジの首にしっかりと巻き付けられている。
 降ろそうとしたのだがいやいや、と首を振る。
 無表情なレイからは信じ難い程の変貌ぶりなのだが、与えられる感情が、今までに大きく不足していた事の証かと、シンジはぼんやり考えていた。。
 先ほどレイは、
「優しくされてから捨てられるのは嫌」
 と、確かにそう言っていたのだ。
 何かあったのかな、とレイの境遇に想いを馳せたシンジだが、実は本で読んだだけである。
 正確には、見せかけの愛に翻弄されたヒロインを、自らの境遇に重ね合わせたレイだったのだ。
 無論、それが悲恋だとレイが思った訳ではない。
 ただ、いずれ用済みにされてしまうのだと、どこか哀しく思ったのみである。
 しかし、シンジがそれを知っても、
「そうだったの」
 位しか言わないだろう。
 別に笑いもするまい。
「あの、そろそろ降りて…」
「嫌ぁ」
 甘ったるいが確固たる返事に、シンジは実力行使に出ることにした。
 とは言っても、放り出す真似は決してしない。
 緩み掛けていた左手でしっかりとレイを押さえた。
 まるで、逃がさないとでも言うかのように。
 そして空いている右手を、レイのスカートの隙間から差し込んだのである。
 膝のすぐ裏に人差し指を当てると、そこから一気に上までなぞったのだ。
 更にその手が後ろへ回る。 
 それがどんな刺激を与えたものか、次の瞬間、レイは嬌声をあげて身を捩った。
「そ…そこ…だめっ…あうっ…」
「降りてみる?」
 わざとらしく訊いた時も手は休めない。
「お、降りっ…降りっ…あうっ…あんっ」
「聞こえなかった。はい、もう一度」
 まだ手は止まらない。
「わ、私…も…・もう…お…降りるーっ」
「良くできました」
 漸く手が止まったとき、既にレイは息が上がっていた。
 後数秒続けていたら間違いなく、いった筈だ 
 今度は達する直前で止めたのだが、シンジの指技は単なる悪戯では無かった。
 暗殺依頼の標的が、とある美少年好きの婦人だった時、単なる逆恨みからきた依頼と知って引き揚げようとしたのだが、よほどシンジが気に入ったのか、余りにもしつこく言い寄った挙げ句、鞭とロウソクを持ち出して、思い切り虐めてくれ、ときた。
 その時シンジは指2本で、文字通りよがり狂わせたのである。
 翌朝発見されたとき、自慰行為の真っ最中だったその婦人は、極度の精神異常を来しており、今なお手が空き次第、自慰行為に走ろうとするため、両手は鎖に繋がれたままだという。
 その後2,3日シンジはご機嫌斜めであった。
 二十代後半にして、自慰が生き甲斐となった彼女は、時折鎖から解放されて、狂ったように自慰に励むという。 
 シンジが今レイにかけたのは、その秘術の3%以下の効果に抑えた物ではあったが、処女な上に完全と言っても良いほど純粋なレイには、やや刺激が強かったようだ。
 呑気な声で大丈夫、と訊いたシンジにも潤んだ目になって、
「ら、らいじょうぶよぉ」
 と答えた。どう見ても大丈夫では無い。
 だがその気がないシンジの術は、数分で消えるし、後遺症も無い。
 レイも車が走り出して、数キロ行った頃には、普段の顔に戻っていた。
「あ、あの、お兄ちゃん」
 ふと、レイが呼んだ。
「何?」
「私の家に来ても…驚かないでね」
「と言うと?」
「驚いたり怒ったりしないで欲しいの…」
 さして怒った訳でもないが、お兄ちゃん、と呼ぶ事への違和感は皆無になったようだ。
 レイとの会話がどこか、双子の妹と話している、そんな気さえしたシンジ。
「一応訊いて置くけど、あの部屋に似てるの」
 頷くレイ。
「でもって、そう言う部屋にしたのは親父かリツコさん、て言う訳だ」
「う、うん…」
 小さな声で肯定した。
「綾波レイの意志なら無視するかも知れないけど、妹の意志ならそうも行かないね」
 シンジの言葉に、良かった、と笑顔を見せたレイ。
 シンジが軽く首の辺りを揉んでから、レイの顔を見た。
「私の顔、何か付いてる?」
「やっぱり」
「な、何…」
 不安そうな顔になったレイにシンジは、
「レイちゃんは笑った顔の方が可愛い」
 真顔で告げた。
 紅くなったレイは、今度は嬉しさを隠そうとはしなかった。
「もぅ…」
 そう言いながら何やらもじもじしている。
 ところで、シンジが首に触れたのは、
(何か、お兄ちゃんて呼ばれる度にこの辺が、何となく)
 などと怪しからん事を思っているのだが、そんな事はレイは気付く由もない。
 部屋に着いた時、レイはシンジの確約を取り付けて良かったと、つくづく思った。
 他に人がいるのかいないのか判らないような、コンフォートマンションを見ただけでシンジの眉は上がったし、カギの壊れたドア、郵便物の詰め込まれたポスト等を見た時は今にも、
「あの二人、やっぱり死刑だ」
 と、出かけかねない危機感さえ抱いたのだ。
 しかも、怒っている感じはないだけに手に負えない。
 あくまでのんびりと、だがそれでいて止めに入らずにいられない、何かを感じさせるシンジである。
 部屋に入ったシンジはしばらく宙を仰いだ。
 地下で見た巨大な部屋と、殆ど変わらなかったのである。
 土足で入る趣味はないから、当然靴は脱いで入ったが、違和感を感じてふと足下を見ると、風化したゴキブリの死骸が転がっていた。ちらっと見ただけで、シンジの眼は十以上の数を数えていた。
 人の生き方だったのだと自分をおさえ、
「レイちゃん、雑巾とバケツある?」
 と訊いた。
 掃除用具ならお風呂場に、そう言われて風呂場へ行ったシンジが見たものは、二つのバケツであった。
 なおその一つは血染めの包帯が押し込まれ、もう一つには乾き切った雑巾が無造作に押し込まれている物であった。
 自らの裏稼業も尋常でないシンジは、レイの境遇を云々するのは止めようと、自らに言い聞かせた。
 と、同時にアオイがいなくて良かったと、ぼんやり考えた。
 彼女がいれば、ゲンドウもリツコもどうなったか、シンジでも想像が付かない。
 シンジと同い年の少女に与えられた、非人道的な境遇を知って看過するような精神の持ち主ではないのだ。
 全身包帯男と全身包帯女がベッドで呻く様を想像し、アオイに代わって自分が現実化させたくなったが、面倒なので止めた。
 やってしまうと、エヴァ関連で人手不足になるからだ。
 取りあえず包帯の始末は後回しにして、未使用の雑巾をフル活動させ、部屋が人の住処と姿を変え始めた時、優に1時間が経過していた。
 後回しにしていた冷蔵庫の周りに来たとき、ふとシンジはある物を見つけた。
「何処かで見たような」
 首を捻るシンジにレイが何か言いかけたとき、
「あ、これは確か、親父の眼鏡。此処にあったんだ」
「お兄ちゃん、それ知ってるの?」
「親父がレイちゃんを助け出したことがあった筈だ。次の日似合わない白い手袋してたんだけど、どうしたのか聞き忘れた。火傷したせいだと、ユリさんに聞かされた。ついでに眼鏡も変わってて、3千円くらいの物からフレームはブランド物に変わっていた。たしかKENZOだった気がするな。それはそうとレイちゃん」
「は、はい…」
 これは返せとか…。
 シンジは別に悪魔ではない−多分。
 うすく笑って、
「これ、宝物だね?」
と訊いた。
 シンジがそう訊いたとき、レイは不思議な感覚に襲われた。
 考える前に言葉が出た。
「今までは」
「過去形?」
「お兄ちゃんは私のことを普通に見てくれる。それにユリさんも。ユリさんは私の事全部は知らないから…」
「知ってるよ」
 途中で遮られてえ?と聞き返したレイに、
「さっき、リツコさんをお供にしてセントラルドグマにいた。あの水槽は見た」
と告げたのだ。
「じゃ、じゃあ…」
「あれは別に驚くには当たらない。僕にも、ましてあのお医者さんには。ユリさんには、綾波レイは普通の女の子なのさ。もっとも、美味しそうだって付け加えるかもしれないけどね」
「お、美味しそう?」
「いや、何でもない。それで、僕とユリさんがどうしたって?」
「お兄ちゃん私に言ったでしょ、碇ゲンドウはレイちゃんに売った、好きなだけ甘えるがいいって」
「そうだね」
「今度は私があげるの、碇司令を」
 あれを?と聞き返したシンジに、
「赤木博士にあげるの」
 はっきりと告げた。
「知ってたの?」
「いつもは見せないけれど、たまに赤木博士が碇司令に向ける態度は『恋』だって、本に書いてあったの」
 レイらしい発言だ、シンジはそう思った。
「と、いう事は君は」
「え?」
「僕に甘えるわけだ」
「だめ?…・」
 そっと上目使いに見上げた目の、何という妖艶なこと。
(この娘知らないでやってるな)
 レイの将来を考えるのはひとまず置いて、
「いいよ」
 あっさり承諾すると、レイの頭を撫でた。
「ありがとう…あ」
「どうしたの?」
「私、お兄ちゃんに有り難うって…」
「それで?」
「私今までこの言葉、一度も言った事がない。感謝の言葉って知ってはいるけど、碇司令にも言った事が無かったのに」
「そこまで価値が無かったせいだね」
 軽く言ったのは、レイが自分は普通じゃなかった、等と言い出すのを避けるためだ。
「でも、人にお礼を言えるのは良い事だよ。さ、もう少しで終わるから待っていてくれるかい?」
 素直にレイはベッドの上で座った。
 ふとレイが窓から空を見ると、白い光を地上に向けている月が見えた。
 シンジが上京してくる前の日と、同じ形の月ながら、見上げる自分の心の中は180度近く変わっている事を、レイは実感していた。
 
 心が暖かい。お兄ちゃんが側にいてくれるだけで、私の心は一杯になっていく。ずっと空っぽだった私の心が…。
 
 やっと掃除を終えたシンジがレイを見たとき、月を見上げたまま泣いているレイが目に入った。
 
 絵になってるな。
 
 少女の涙を見ながら、そんな感想が先に浮かんだのは、シンジの性格のせいもあるが、レイの涙が悔しさとか悲しさから来る物ではないと、察していたからだ。
 その辺に関して、シンジが敏感なのは、アオイやユリと接してきたせいである。
 彼女たちの面目躍如と言えよう。
 だが、気付いてもそれに答えようとするかは、別なのだが。
 取りあえず、清掃用具の後始末を先にした。
 戻ってきて、
(あ、まだ泣いてる)
 万人から糾弾を浴びそうな科白を胸中で吐いてから、そっとレイの横に座った。
 抱き寄せるような真似はしない。
 この二人の組み合わせなら、それなりに絵になるのだが、この時シンジの心には一つの思いがある。
  
 この娘の手は血に染まっていない。
 
 極端に言えば、ガラスを割るのも人を消すのも、さして変わらないシンジにとって、正体を知ったレイが離れていっても、べつに構うことではない。
 ただ、万が一にもレイが自分に普通以上の感情を持った後で、それを知ったらレイが傷つくのではないかという、シンジにしては珍しい発想であった。
 もう遅い、という見方もあるのだが。
 ベッドに置かれたレイの手に、軽く手を重ねた。
 レイが振り向いたのは数分してからであった。
 お兄ちゃん、そう呼んだレイが、シンジの手を自分の涙の痕に当てたのは、さすがのシンジも少し驚いた。
「これは…涙、という物」
 誰にでもなく呟くレイ。
「教えて、どうして私は泣いているの?悲しく無いのに」
「レイが人間(ヒト)だから」
 初めて名前を呼び捨てにすると、分析してから立ち上がった。
 もとより、下着と制服しかない事は知っている。
 持参したシルクのパジャマをレイに手渡した。
「もう遅い。今日は色々あって疲れたでしょう。これに着替えておやすみ」
「これ、お兄ちゃんのじゃ…」
「明日はレイちゃんと街に出て、トラック十台分の服を買ってくる。経費はあの人でなし共に持たせる。と言う訳で今日はそれに着替えて」
「でも…いいの?」
「レイちゃんの下着姿は可愛いけれど、人がいる前でそういう…」
(しまった)
 自分の迂闊さを呪ったのは、レイの目を見たからだ。
(お兄ちゃんが下着姿は可愛いって…可愛い…可愛い…可愛い)
「本当に?」
 と訊いた目は既に、危険な色が漂っている。
 この時シンジは、自分の免疫機構を嘆いた。
「僕がおかしな事したくなるとこま…」
 言いかけたのも、
「いいの」
 あっさりと対空ミサイルに撃破された。
 
 お兄ちゃんの側にいると心が暖かくなる→お兄ちゃんは大事な人→お兄ちゃんになら何をされてもいい。
 
 かなり単純だが、それだけに無敵の論法である。
 こんな所で狼狽しているシンジを見たら、アオイとユリは間違いなく笑い出すに違いない。
 ふと気付いたシンジは言い方を変えた。
「下着姿は可愛いけど、このパジャマはきっと似合うと思うよ。レイちゃんがそれを着た姿、見せてくれる?」
 物は言いようとはこの事で、あっさり宗旨替えしたレイは素直に着替える、
「可愛い?」
 と上目遣いで見上げた。
 うん、と頷き、
「素直に着替えたご褒美に、今日は寝るまで手を握っていてあげる」
 微笑したまま告げられて、レイの顔に喜色が浮かんだ。
 疲れ果てた上に酔いもあったのだろう、すやすやと寝息を立て始めるまで、数分とかからなかった。
 時計を見ると、既に午前2時を指している。
 ポケットから携帯を取り出すと、躊躇いもせずにダイヤルし耳に当てた。
 一度呼び出し音が鳴った後、
「はい」
 鈴を振るような声が聞こえてきた。
「おいこら」
 第一声がこれである。
「そんな人は知りません」
「何時からいた?」
「行き先は知らなかった。リツコ嬢に訊いて到着したとき、既に濃厚な口づけの儀式は始まっていた」
「で」
「二度目が始まる前に引き揚げた。君の方は何時から?」
「何処かの藪医者が、優しい兄は欲しい?なんて言わせた時だ」
「その割には、医療過誤が見受けられた。裁判沙汰になってもおかしくない」
「あの二人はどうした?」
「あの濃厚な口づけに中毒(あた)った。今夜は徹夜ね」
「一晩中上下運動か」
「綾波邸で何を見たの?」
 シンジの口調から何かを察したらしい。
「あの精神病患者の部屋みたいなのが、あてがわれた家だった」
「あれと同じ?」
「全く同じ。ついでに栄養は水と錠剤、及びカプセル剤だけで賄われている。許し難いね、全く」
 言葉は立派、だがどこか他人事のような口調で言ってから、
「あ、そうだ」
「製薬のご注文かしら?」
「完璧な妊娠薬はあるでしょ。で、生理がない娘に生理を起こす薬」
 レイの部屋を掃除していて、この年頃の娘の部屋に当然あるべき物が無い事を気が付いたのだ。
 単に遅いだけかも知れないが、やや遅すぎる。
 と言うより、シンジの本能の直感であった。
「明日は妹君と、洋服店の買い占めかな?」
「そうする」
「明日、実家へ行って来るわ。チーフ達が揃っていれば、まず3日」
「よろしく」
 電話を切ろうとしたシンジをユリが止めた。
「何?」
「シンジには勿体ない位の妹よ。では」
 一方的に切られた電話を、シンジはしばらく見ていた。
 やがてアオイへの直通を取って、こちらは、一瞬時計を見た。
 でもやはり躊躇い無しに通話ボタンを押す。
 ユリと同じく、一回だけ鳴ってから、
「はい、アオイです」
 柔らかい声が応答した。
「あ、僕」
 何を話していたのやら、電話はいっこうに切れる気配がなく、二人の通話がようやく終わった時、既に夜は白々と明け始めていた。
 
 
 
 
 
(続く)

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