第五話
 
 
 
 
 
 自分が誰かに対して一方的に思いこんでいた感情が、単なる間違いであったと知った時、素直にそれを認められる者は極めて少ない。
 大抵の場合は、あれこれと理屈を付けて正当化したりしようとする。
 特に相手が異性であったりした場合、その傾向は顕著に現れる事が多い。
 また、女という生き物の場合にはもっと厄介である。
 自らの思いこみで害をもたらしてしまった事が発覚しても、それをもみ消すべくあれこれと策を巡らし政治を混乱させたり、果ては国家間の戦争にまで発展した例は幾らもある。
 さて、とある暗殺者が興味を持った蒼髪の美少女は、先達の例に倣うだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 シンジのサブマシンガンの弾が尽きた時、ゲンドウの身体から1センチの間隔で、身体のラインに沿って銃弾が穴を開けていた。
 100発も入っていないから、びっしりと隙間無く、とは行かなかったが、それでも足首から上をほぼ一定の間隔で打ち抜いたのは、大した腕と言える。
 さすがに青ざめたゲンドウが、何か言いかけた時革靴の音が響いて、二人の保安部員が飛び込んできた。
 彼らが目にしたのは、綺麗な長髪の少年が、最高司令に機関銃を向けている姿であった。
 運の悪いことに、彼らはその少年の正体と、ついさっき使徒を壮絶に殲滅してきた事も、知らなかった。
 動くな、と取りあえず銃を向けたのは、相手が悪かったとしか言いようがない。
 とはいえシンジはプラグから這い出したばかりで、手には全弾撃ち尽くした機関銃以外、何も持っていないかに見える。
 だがシンジのそばにいるのは、単にきれいなお姉さんではなかった。
 シンジに敵する者を決して許さないある女性と、宗旨を同じくする長門ユリである。
 ユリの右手はレイの顔に触れており、人差し指が下頬の辺りを動く時、その表情にどことなく、うっとりしたものを浮かばせている最中であった。
 その手が次の瞬間秒速の動きを見せた。
 保安部員の銃を見た瞬間に、即座に懐へ差し込まれたのである。
 差し込まれた手と変わらぬ早さで引き抜かれた、小型拳銃−ワルサーP99−は、乾いた音を立てて、哀れな警備員達の手にあるリボルバーを撃ち壊した。
 普段シンジの両足首を彩る、物騒な住人達の一味である。
 グリップの底に刻まれた「AtoS」の文字は、アオイからシンジに贈られた事を意味している。
 小口径に加えて特別仕様の衝撃吸収剤は、ユリの手に殆ど反動を感じさせる事はなかった。
 無論それには、シンジの欠かさぬ手入れの結果もあるのは、言うまでもない。
 手首への凄まじい衝撃に、うめき声をあげている二人に向かって、
「碇シンジに銃を向けた者が辿る運命の、唯一の例外と知っておくといい」
 さっきレイに話しかけたのとは、途方もなくかけ離れた、我が子を奪われた鬼子母神の如きユリの声に、保安部員達は痛みも忘れて硬直した。
 緊迫した空気を和らげたのは、シンジの至極のんびりした声である。
「やり過ぎじゃない?」
 ユリが思わず苦笑する。
 自らに銃口を向けた者に辿らせる、共通の命運に例外を設けないシンジの主義は、今までの付き合いで良く知っているからだ。
 ユリが撃ったのは、一つにはシンジの左足首に装着されている、小型ナイフが反撃する時、間違いなく保安部員の眉間に突き立つことを知っており、来て早々二人も消すことは無いと判断したせいだ。
 いくら、移植を待つ者の多い、自らの実家の状況を考慮したとしても、である。
 たしかに度を過ぎる程可愛がる少年に、人を殺させたくはないという一見慈愛に満ちた考えに基づく行動ではある。
 だが、実際は単にシンジの銃を撃ってみたかったという方に、遙かに重きが置かれていると知ったら、周囲はどんな顔をするだろうか。
 P99特有のグリップは、足首用に幾分削られており、使われている特殊金属のおかげもあって、銀玉鉄砲とは行かないが、かなりの軽量化が図られている。
 アオイのコルトパイソンも、シンジの本命P88も、ここまで材料に改良が加えられてはいない。
 せいぜい、銃弾を取り替えて殺傷力をアップとか、命中精度45%アップとか、そんなものである。
 銃口から立ち上る、微かな硝煙に口をすぼめて、ふっと吹き消す。
 その妖しい仕草に、男性オペレーターはともかく、女性陣までが何故か、視線を惹き付けられた。
 ユリは気にも止めず、拳銃をシンジに放った。
 何事も無かったように足首に付けたシンジが、床に膝をついたままのゲンドウを見やった。
「で、何時までここで、使徒を待てばいいのかな?」
 一回撃って、幾分すっきりしたらしい。
 表情から危険そうな物は霧散している。
 密約があるから、まさか殺しはしないだろうと踏んでいたリツコだが、シンジにちらりと視線を向けられ、近寄ってゲンドウの手を引いて起こした。
 シンジの視線の行方に気づいたゲンドウが起きる際、小さな声、というよりリツコにしか内容は聞き取れない大きさで、
「すまんな」
 と言ったのには、言った本人が驚いたらしい。
「いえ」
 と、これも微かな声で言ったリツコの頬は、僅かに染まっている。
 それを振り払うように、
「使徒はね…」
 その言葉が終わらないうちに、その口から小さな悲鳴が洩れた。
 シンジがくずおれたのである。ミサトより、リツコより、先に動いたのはゲンドウであったが、ユリの方がより早かった。
 瞬時に間を詰め、腕の中にシンジを抱き留める。
 何か囁いた言葉に、シンジが苦しそうに一言返した。
「キャリーを」
 の一言で運ばれてきた担架の上に、シンジを軽々と乗せる。
 ユリの手がシンジの耳から、ある物を外したのだが、周りは気付かなかった。
 第二ボタンまでを素早く開け、白い指を差し込んだ。簡単な触診の後、
「血圧と、脈拍が幾分上がっている。安静にしていれば直る…多分」
「ドクター、多分てどういうことです?」
 ミサトの問いに、
「シンジの数字は40%前後だったが、本来の負荷は400%近く、あるいはそれ以上の負荷がかかっていたようだ」
 ミサトは首を捻ったが、リツコは、
「まさか、じゃあ、あの暴走みたいな戦い方した彼は…別人!?」
「さて。それよりも、安静が先だ。あなたの横でいい?」
 訊ねられて、つい頷いてしまったレイ。
 病室へはユリが自ら、押して行った。
 レイも再度病室行きと言うことで、ゲンドウも付き添いを望んだが、委員会からの呼び出しに、やむなく断念した。
 不機嫌さを身体で表現して去っていく姿に、冬月が思わず首をかしげた。
 一体どっちにだ、と。
 
 
 
 
 
 シンジが深い眠りについている時、ゲンドウはとある小会議室で、老人達と向かい合っていた。
 楕円形のテーブルの席の大多数は白人系で占められ、アジア系はゲンドウを含めて、ごく少数である。
 最初に沈黙を破ったのは、唯一人、誰とも並ばぬ位置に席を取り、ゲンドウと向かい合う場所に座った、サングラスの老人だ。
 いや、よく見ると普通のサングラスとは違う。洋画に出てくる、未来から来た殺し屋が付けているようなサンバイザーに近い。
 中年でデブで、陰鬱な雰囲気、とくれば目を合わせずに、通り過ぎる条件が揃っているが、その目元まで見てしまった日には、迷わず警察への通報をして、指名手配犯のリストとの照合を依頼したくなる。
 こんな人物が、話を続けて貰いたくなる声を出すはずは無いのだが、果たして、
「かねてより、危惧されていた使徒出現が、ついに現実の事となった」
 と、来た。やはり、十秒と聞いていたくない声である。シンジが聞いたら、
「判りきった事言ってないで、さっさと本題に移ったら?」
 と、皮肉を込めて言うに違いない。
「まあ予想通り大混乱、と言うヤツだな」
「ふん、15年前と同じだな」
 皮肉るような物言いに、別の人物が、
「予測しえない事態に対しては、昔からパニック以外の手段を持たないのが、我々人間ですからな」
「ゲシュタルト崩壊かね?当然だな」
「かといって、何もしないわけにはいくまい」
「その通り。エヴァの正体まで知られた以上、全てが闇の中、と言うわけにはいかんからな」
 ゲンドウの言葉が割り込んだ。
「使徒の正体やら、襲来理由やら、公表事項は山積みになっています」
「肝心の、使徒の正体も分からずにか?」
 皮肉と言うより、単に嫌みに聞こえる言葉に、
「無論、真相は控えます。しかしネルフではありとあらゆるダミーの情報を…」
「文字通り嘘八百が、用意してある訳だ。で、今回の対処パターンはB−22か」
 
 
 
 
 
 大東亜戦争時の重爆撃機みたいな名前が出た頃、使徒サキエルが巻き付いて、無意味な自爆を遂げた爆心地では、立入禁止のバリケードが張られ、設置された簡易テントの中では、小型テレビが記者会見の模様を流していた。
 見ていたミサトが、“B−22ね”と、呟いた辺りこれも知っていたようだ。
「広報部は、久しぶりの仕事に喜んでいたわよ」とは、リツコ。
「うちも気楽なものね」
「どうかしらね、本当はこわいんじゃなくって」
「当たり前でしょ」
 会議室で、延々と続けられていた話が、零号機と初号機の修理代云々に移った時、ゲンドウの胸にあった携帯電話が震えた。
 シンジとの直通の物だが、本人からの筈はない。
 黙って当てたゲンドウの耳に、シンジの目覚めを告げるユリの声が響いてきた。
 シンジがいるから、ネルフへの異動を承認したユリにとって、ゲンドウ個人は別に好意の対象ではない。淡々と事実だけを告げて、ではこれでと、切られたユリの声だったが、目の前の老人達の粘っこい声にうんざりしていたゲンドウには、砂漠のオアシスのように聞こえた。
 とはいえ、
「私の息子が目覚めましたので、これで」
 と、席を立つ訳にもいかない。
 ようやく話の終焉が訪れて、
「…いずれにせよ、使徒再来によるスケジュールの遅延は、認められない。予算については一考しよう。ご苦労だったな碇司令。後は委員会の仕事だ」
 委員長である、キールの声が終わると同時に、老人達が−立体ホログラフ−消えた時に、ゲンドウはやれやれと呟いた。
「それにしてもうるさい連中だ。同居などしてくれそうもないから、家は用意したのだが、さて」
 
 
 
 シンジが目覚めた時、最初に真っ白な天井が目に入ったが、それを見て最初に口にしたのは、
「悪趣味」
という、言葉であった。
 普段から寝起きのような口調に加えて、文字通り寝起きだから、抑揚というか殆ど感情のない言葉であったが、枕元に座っていたユリが、それを聞いて微笑した。
 だが、目を向けたシンジへ、
「綾波レイは既に目覚めている。寝起きの悪い男は嫌われるワースト2位よ」
と、声だけは冷たく告げた。
「抱き枕がなかったし」
 ユリの柳眉を幾分上げる口調で言ったとき、病室内に二人きりで、マイクやカメラの類が無いことは、視線を走らせて確かめてある。
 もっとも、ユリがシンジを寝かせる病室に、監視器具の設置を許すはずはないと、知った上での発言だが。
 だからユリの、
「私では不足?」
 と聞いた声も、どこか妖しかったし、
「胸がね」
 ぬけぬけと言い放った頬をむに、と引っ張る仕草も余人には決して見せないものだ。
 たっぷり一分間引っ張った後おもむろに、
「気分は?」
 と、聞いてから、
「これだけ惰眠を貪って、上々以外の科白は許されない」
 冷たく断言した。
「悪くはないね。で、あの後あっさり勝ったの?それとも?」
「降りてきた時には、既に君だったが記憶はないの?」
「ユリさんが言った通りだよ。僕の脳内にはちょっと高すぎるシンクロ率との重圧がもろに来ていた。あれが、代償だったらしいね」
「私の関与するところではないが、ともかく自らを俺と呼ぶ、私の想い人が無様に負けると?」
 どこか、冷たい友人の言葉に起きあがると、黙って手を差し出した。
 ベッドの下から取り出した着替えを受け取ると、むこう向いて、とも言わず着替えだした。
 着替えと一緒に渡された物を見て、あ、忘れてたと言った。 
 ユリが渡したのは、シンジが倒れたときに外した、ブルーのピアスであった。 
 アオイのそれと同じなのだが、単なるお揃いのアクセサリーとは、程遠い意味を持つことをユリは知っている。
 ゆっくりと外に目を移したユリの目に、ガラスに反射したシンジの上半身が見えた。
 レイほどでは無いにしろ、かなり白いシンジの上半身が、ユリの瞳に映える。
 着替え終わった時、インターホンが鳴った。
「誰もいません」
 シンジの声に、ドアが開いてゲンドウが入ってきた。横にレイを伴っている。
 レイのシンジを見る目は、幾分堅いままだが、ユリと目があった瞬間うっすらと頬を染めたのはどういう訳か。
「具合はどうだ、シンジ」
 声からして、いきなり銃撃された恐怖がまだ、拭い切れてないらしい。
「記憶が無いんだな、これが。使徒祓いの代償は、高すぎるシンクロ率の受け皿だったらしい」
 言われている意味が分からなかったが、取りあえずそうか、と頷いてから、
「家の方は完全に整備が出来上がっている。今日からでも入居は可能だが」
「だが、何?」
「いや、その…だな」
 ゲンドウの言い淀んでいる内容を、人の心を読む事にも長けている、美貌の女医は見抜いたらしい。
「シンジ、私の部屋はまだ、整備に手間取るようだ。今日はシンジの館に泊めてもらいたい」
 と、言ったのである。
 実はこの時、ユリの言葉通り彼女の宿舎は、未手配だったのである。
 ゲンドウが、わずかにしまった、と言う表情になりシンジが、
「僕はこの、見知らぬ病室で見知らぬ天井を見ながら、しかも、抱き枕も無しに一晩過ごすの?」
「抱き枕は本心では、卒業がお望みと聞いていたが?それに、ここで過ごせとは言っていない。上官への突如発砲は、本来なら死刑に値するところを、お咎め無しになりそうだから、そのお礼をするといいわ」
 お礼?と怪訝な表情になるシンジ。ユリがゲンドウの方を見た。サングラスに隠されはっきりとはしないが、良く知る者には判る、ある種の感情を込めて頷くのを見て、レイの表情が少し変わった。
「これで決まりね。碇司令宅の今日の夕食当番は、碇シンジ。ご意見は?」
「大ありだよ。何で素人の家に泊まらなきゃならないの?だいたい、キーパーソンが一緒にいるなんて、無茶もいいとこだよ」
 もっともな言い分に、ユリがゲンドウの方を見た。ゲンドウの表情が、ゲンドウ宅の警備について、シンジの言葉通りであることを表していた。
「では、夕餉の給仕まではしてくるといいわ。晩はお付き合いするわ」
「あいにく、枕が変わると寝られないんだ」
 やんわりと、だがあくまで事を拒むシンジに、ユリの雰囲気が少し変わりかけたその時、
「私の家なら空いているわ」
 突如のレイの発言に、文字通り場が凍り付いた。
 ゲンドウはむろんシンジも、そしてユリさえもが。
 いや、ユリはどこか実験体を見るような視線でレイを見たが、他の二人はそうはいかなかった。
 二人の顔がぎこちなく動き、彼らの視線がレイの顔に集まるまで、たっぷり十秒以上掛かった。
 シンジとユリは、レイがシンジを敵視しているとの認識で一致していた。
 そしてそれが、感情表現の希薄な綾波レイという少女が、唯一心を寄せているかに見える碇ゲンドウの、シンジに見せる気遣いから来ていることも。
 ゲンドウは、そんなことは知らない。こちらは単純に、レイのクローン源である人物の魂でも目覚めたかと、焦っただけだ。
 しかしレイはアオイの告げた通り、現時点において、無意識でも碇ユイの母親としての感情が、シンジに対して感じられる事は無かった。
 ゲンドウが、自分を通して誰かを見ていると知りながらも、対象に気づかなかったのはそのせいであり、現段階では全くの別人格といえる。意識下においてもだ。
 そのレイの発想を覗くとこうなる。
「碇司令は息子を自分の家に泊めようとしている。碇シンジは嫌がっているけど、この長門ユリと言う人と、一緒に寝るのも嫌みたいに見える。このまま行けば、碇司令が家の周りに、黒い服の人たちを張り付けて、泊めるかも知れない。現時点の最優先事項は、碇司令の家に碇シンジを泊めない事。だから私の家につれてくる。連れてきたら、お風呂に入れて、濡れたまま玄関の寒い所に泊めるの。そしたら、きっと風邪を引く。風邪を引いたパイロットなんか用済み。用済み?そう、用済みなの、くすくす…」 かなり物騒である。
 ユリが、零号機の暴走時の原因に対する、リツコの見解を訊いていたなら、こう言うであろう。
「間違いない」
 と。
 起動実験時の零号機よろしく、レイは完全に暴走状態にあった。
 ユリは、レイの表情に浮かんだ一見可憐に見える、だがはっきりと邪悪を含んだ笑みに、何らかの企てが在ることを見抜いた。
 だが、今のシンジに対する思いは、もう一人のシンジに対するものとは違う。
 静かに微笑して、
「本当にいいの?」
 目が合ったユリの顔が、全てを見通しているのをレイは感じた。 
「碇君なら…いいです」
 俯き気味に言った姿は、いかにも恥じらいを浮かべた乙女の姿に見える。
 さすがに、どこが良いの?と聞きかけたシンジだが、嫌いを通り越して、憎悪に近い物を抱いているかに見えたレイからの、思いもかけない好意につい頷き、素人の家という意味では変わらん、と正当な異議を唱えかけたゲンドウもユリの、
「シンジの食ははアオイ仕込み。その辺の暴利だけを貪る料亭より、余程」
 の、言葉に陥落した。
 無論、余程と言う後に、不味い、などと言う言葉は来ない。
 アオイが大学生の当時、シンジとアオイは互いの弁当を、一人が二人分交代で毎日作っていたが、シンジが作った日は、いつもアオイはつまみ食いしたがる、暴鶏達の群から我が昼食を守るのに、大変だったことをユリは知っている。
 また、シンジも学校において同様であった。
 別に彼らが、自分の分を作った時、味が落ちる訳ではない。
 だが、何故か相手の昼食を誂えたとき、その腕は冴え渡るのであった。
 その事は、ユリの穏やかだが、たっぷりと毒を含んだ冷やかしに近い言葉を、しばしば受けるのに十分すぎた。
 結局夕餉は、ユリとレイも相伴に預かることになり、ゲンドウ宅からレイのマンションまで、シンジが送って行く事になった。
 しかし、レイを連れて出て行きかけたゲンドウが、ドアの所で振り返った。
「済まないが、夕食はシンジの家にしてくれるか」
 独身男の台所は軍事力が貧弱である、と言う噂は事実だったようだ。
 素人ながら、本職の料理店並に器具の揃っている信濃家の台所とは違う事に、シンジも気づいたようだ。あっさりと受諾され、二人は出ていった。
 ドアが閉まるのを待ってから、
「何を企んでる?きりきり吐いて貰おうか」
 言葉は一人前だが、迫力皆無の口調で脅したのはシンジである。
 だが、
「綾波レイ嬢とは仲良くしておいた方がいいと思うわ」
 の言葉に、あっさり断念した。
 美貌の友人がこんな風に物事を言う時、何をしてもその本心が、厚いベールに包まれる事を長いつきあいで良く知っている。
 追求を断念し、鞄から取り出したブラシを、髪に当て始めたシンジに背を向けて、ユリはミサトにシンジの意識回復を報せるべく、携帯を耳に当てた。
「シンジ君の意識が戻ったそうよ」
 ミサトの言葉に、リツコが良かった、と言うより前に、
「精神汚染は?」
 と、パイロットとしての部分の支障を気にしてしまったのは、科学者の性か。
 訊いてから自分でも反省したのか、
「脳神経にかなりの負担があったものね、倒れるのも無理はないわよ」
「心、の間違いじゃないの」
 ミサトに突っ込まれた。やはり余り変わっていない。
 第三新東京の中央とも言える、爆心地からは、建設中の高層ビルや、工事中の町並みがよく見える。
 巨大な銃がクレーンで運ばれているのを見ながらミサトが、
「エヴァとこの町が完全稼働すれば、いけるかも知れないわ」
 真顔で言ったのに対し、車の中から顔を出したリツコが、
「使徒に勝つつもり?相変わらず楽天的ね」
 幾分皮肉が入っているのだが、長いつきあいで、天然物と知っているミサトは、気にもせず、
「あら、希望的観測は、人が生きてく為の必需品よ」
「…そうね、あなたのそう言うところ助かるわ」
 感謝してるのか呆れてるのか、分からない、いや半々に見えるリツコの言葉に、
「じゃ、機関銃乱射少年の様子、見てくるわね」
 と、笑顔で告げ、手を振ってから車で走り去った。
 それを見送ったリツコが、
「確かに負けたら…私の夢、叶わないのよね」
 呟いて数秒してから、自分の言葉に気づいたらしい。
 どこか自嘲を含んだ声で
「夢…ね」
 そう言うまで、数十秒の間があった。
 
 
 
 ただこの時点で二人とも気付いていなかった。
 使徒を倒す人類、と言う図式の中で、碇シンジと言うあまりにも強力な武器を手にした事に。
 そしてそれは、同じチルドレンとしても、レイの能力とは雲泥の差があることに。
 さらに。
 既に、その碇シンジが初戦を制して見せたのだ、という事も。
 
 
 
 病室にミサトが入った時ユリの姿はなく、向こう向きになっているシンジの黒髪が、ミサトの眼に映った。
 艶を取り戻している髪に、思わず触れたくなったが、自分から一センチと離れていないところを、身体のラインに沿って穿ち抜かれたゲンドウを思い出し、ため息だけで抑えた。
 それに、綺麗すぎる髪は、触れていると羨望に加えて余計な感情まで誘発しかねないと自粛したせいもある。
「シンジ君、具合どう?」
 自分の髪に、何やら危険な物を含んだ視線が注がれているのには、とうに気づいていたがおくびにも見せず、
「おかげさまで」
 だがそれには、何もしていないミサトへの、二重の痛烈な皮肉が込められている。
 一つは、文字通り何の訓練もしていないどころか、ろくな知識さえない筈のシンジをあっさりと使徒退治に送り込み、あまつさえ操縦法すらも、教え忘れた事に対する言及が一つ。
 自分が倒れたとき、少なくとも意識のある範疇ではおろおろしていただけの、傍観者と化していた事に対する言及が二つ目だ。
 ただし、会って二日目の見知らぬといっていい女性に、そんな物を感じさせる程、シンジは人間が出来ていない。アオイとユリなら、わずかに感じ取れる位の物である。
 ミサトが気づかずに、
「そう、良かった」
 と、素直に言ったのも当然と言える。
 シンジがこちらを向いた。
 目が合った時ミサトは、
「シンジ君て、綺麗な髪してるわね。どうやってるの?」
 と、訊くつもりだった。
 だが、口から出たのは、どうして、あのとき乗る気になったの?という、全然関係ない言葉であった。
 なぜそんな事を訊く、という表情をしたシンジに、
「綾波レイは貴方を敵って、言ったでしょう。お父さんの命令に従うのは嫌でも、怪我してる女の子を気遣って、というなら分かるけど、レイは敵、とまで言ったのよ。あのレイがどうしてそんな事言ったのかは知らないけどね」
 “知らないんじゃなくて、解らない、の間違いでしょう”
 そう言いたかったが止めて、
「乗らなくても良かったんですか?」
 と訊いた。
 シンジが俯き気味になったのは、詰問されたと勘違いしたからだろうと、
「ごめんね、そう言う意味じゃ…」
 途中で途切れたのは、シンジが顔を上げたからだ。
「あ、あなたは…」
 それ以上言葉が続かず、硬直状態になったミサトを、シンジは冷たく見ていた。
「俺のする事が、お前と同じ使徒への復讐だと、言うつもりか。葛城ミサト」
 思わず拳銃を向けたのは、ミサトの防衛本能にあらず、恐怖心だ。シンジの気に圧倒された、というよりもむしろ、見透かされている事への恐怖からでた行動だ。
「15年前のセカンドインパクトの日、南極にある父娘がいた。極寒の地に、それも決して楽しい道行きとはならず、旅の目的も14才の娘にはつまらないものだった」
 ミサトの目が大きく開いたのは、銃口を向けられながらも、全く意に介した様子もなく、歌うように言ったシンジの口調と、それ以上に内容だった。
 “どうして、この子がそれを知ってるのよ!”
 叫びたくなるのを必死に抑え、
「どうしてあなたがそれを?」
 と、訊いたとき既に銃口は下がっていた。
 シンジは続けた。
「かつて愛した女を捨ててまで、研究に没頭した、いや取り憑かれた男は、単に側におくために、娘を同行したわけではない。禁断の実に触れさせるためだ。14才という特定の年齢の子供が、それに触れたとき何が起きるか、男の関心事はそこに尽きた」
「嘘よ!」
 絶叫したミサトが再度銃口を向けたが、今度は看過されなかった。
 引き金に指が掛かる前に、両肩にナイフが突き立つ。
 僅かに呻いて、拳銃を取り落としたミサトは、がっくりと膝をついた。
「アオイの方が遙かに役に立つ。だが、あいつがつまらん約束をした、赤木リツコとか言ったな、あれにはお前がまだ必要だろう、それにゲンドウにもな」
 生かしておく、シンジはそう言っているのだった。
「葛城ミサト、覚えていないか?お前が目隠ししたまま、触れさせられたものを」
 ミサトの脳裏に悪夢が甦る。
「お前の力が必要なんだ」
 反発しながら、それでも慕っていた父。悪魔の囁きとは知らずに、目隠しをさせられて、ざらついた感じの、硬い物に触れた瞬間、ミサトの意識は飛んだ。
 脱出ポッドの中で意識が戻ったとき、胸部からあふれ出す鮮血に気づいた。
 自慢の豊満な胸に、そこだけは今なお、十字架として刻まれている傷跡は、最新技術の粋を尽くしても、20センチ以下に縮むことは無かった。
 満身創痍の父が、自分をポッドに入れてくれた事、そしてその時に目が合った事を思い出したのは、ショックにより引き起こされた失語症から、立ち直る直前であった。
 後に、海面の水位を10メートル近く上げ、地殻変動並びに、億単位で過剰人口を消し去った災害が、「セカンドインパクト」と知った。
 南極で起きた大爆発が、子細は分からぬまでも自らの手で、引き金を引いたであろう事は想像に難くなかった。
 原因は巨大な隕石の落下による物と、公然と虚偽が流布される中で唯一、真の原因を知るミサトにとって、失語症は唯一残された逃げ道であった。
 ミサトしか知らない筈…そう、おおかたの事を知るゲンドウを始め、委員会の連中も、“人と使徒との接触”としか掴んではいないのだ。
 それを何故、あどけなさを残すこの少年が…。
 だが、ミサトは感じていた。
 目の前の自らを『俺』と呼ぶ少年が、実は少年では無いことを。
 それどころか人かどうかさえ怪しい気がする。
 人間の仮面を取り去ったとき、下から現れる物は何か。
 肩の激痛も忘れ、ミサトが思わず身震いした時、
「モグラ叩きのモグラの頭部に、核爆弾のスイッチが設けられていたとしたら、一枚のコインと引き替えに、ストレス発散を選択した人間は、ついでに人類滅亡への道も選ぶ事になろう。だが、誰がそれを責められる?少なくとも俺は責めはしない」
 相変わらず、貫くような声は変わっていない。
 だが、ミサトはどこか、暖かさに近い物を感じた。
 “全部知ってて、でも…責めてはいない”
 そう知った時、頬に熱い物を感じた。自分の涙と気づくまでに数秒掛かった。
(やだ、どうして…)
 即座の輸出禁止を命じたが、生憎、“涙はすぐには止まらない”の言葉通り、なかなか止んでくれそうもない。
 膝の辺りに浸水し、スカートに染みを作り始めた時、すっと何かが差し出された。
 ハンカチだと、気がついたミサトは、シンジが戻っている事も気づいた。
 予想通り、
「これで拭いて。ところで…その肩から生えているキャノン砲は?」
 自分を俺と呼ぶシンジは、普段のシンジの意識とは繋がっている。
 だが、その逆は出来ない。おそらく意識的に、情報のリークが、行われているのだろうと、ミサトは考えた。
 だから、直には答えず、
「ハンカチ差し出されるの、これで2度目ね。そういうとこに気が付く人に、女の子は弱いのよ」
 冗談めかして言った口調に、涙の痕は微塵も無い。
 ちらりと肩を見やって、抜いたら一気に堰を切ることを悟り、
「さっき、『胸も出てるが腹も出てる、ダイエットしろ』って言ったのよ。それで、一番利くツボに、針代わりに荒っぽいけど、刺して貰ったの。あ、悪いけどリツコが待ってるからもう行くわね。シンジ君が元気そうだって報告しなくちゃならないし」
 出て行きかけて、振り向いた。
「人を好きになったり、嫌いになったりって、結構理由無かったりするでしょ。このエヴァに乗る理由も、そんな感じの人がいたって、いいと思う。取りあえず一人、エヴァにしか自分の価値がないと思ってる娘も、あたしは知っているんだけどね」
 軽く手を振って出ていったミサトが、閉まったドアの向こうで、“ありがと”と、呟いたのは誰に向けられた物か。
 ミサトが出ていった後、足首を点検するシンジ。
 やはりというか、当然というか2本足りないのだが、完全に意識を封じられていたシンジは、事の経緯が分からない。
 ため息と同時に、
「誰か、僕の観察記録でも付けてくれないかな」
 真顔で呟いた後ふと、気づいたように、
「女の子って…誰のこと?」
 不思議そうな顔の、シンジの問いは誰にも訊かれる事は無かった。
 ミサトが出ていって数分後、ユリが入ってきた。
 どこへ、と訊かれる前に、
「地下2層、地上3層の5層建てになっているシンジの家の、ガードの一時解除を赤木博士に依頼してきた。解除しないと一歩踏み込んだだけで、高電流でこんがり焼き上がるそうよ」
「おいしそうだ」
 シンジが、どこか本気めいた口調で言った時、ユリは、室内の血の臭いを捉えた。
 シンジに近寄り、ズボンの左裾をそっと持ち上げる。
 足りないことを知り、シンジを見た。
 二人の視線が合った時、部屋の空気が一瞬だが、凝結したように見えた。
 それが解けたとき、その事に関する議題は既に終了したらしい。
 シンジに呼ばれた時、ユリは言葉に僅かに含まれた、甘い響きを感じた。
 無表情に、何か?と訊ねたユリに、
「一つだけ教えて欲しいんだけど」
「私に教えられることなら何なりと」
 嘘ばっかし、そんな言葉が脳裏をよぎったが、振り払い、
「綾波レイを、敵にしたの、それとも味方に?」
 と、訊いた。
「綾波レイがクローンであることを、シンジは既知であるとは、告げた。だが」
「だが?」
「それについては無反応だった」
 クローンであると言うことは、いわば出生の秘密である。
 それを知られても、動じなかったというレイに、確固たる精神力とは、異なった物を感じたシンジ。
「案外、本人からばらしてくれるかも知れないね。あと、もう一つ」
「一つだけって言ったのに…嘘つき」
 言葉とは裏腹に、口調は笑っている。
「あの娘に…何をした?」
 訊かれたときも、笑みは変わらない。どころか、一層深くなったように見える。
 それが答えと見たシンジが、
「やっぱり、新しい犠牲者だ。僕が言ったとおりに…むぐっ」
 胸に押しつける代わり、すっと後ろへ回り込み、腕を巻き付けたのだ。
「仰せの通りだ。だが…私の想い人は唯一人。連れなくするのもまた愛情の証。でも、一度でいいから、一晩共に過ごしてみたいものね」
「伝言しておきます」
 自らではない自分の事だと、知った上でのシンジの言葉であった。
 ユリが持っていた、シンジの携帯が鳴った。
 電話の相手はリツコからであった。
「司令も今日は早めに、切り上げられるそうよ。家への警備装置の解除はあと数十分かかるそうね」
 え?と訊いたシンジに、
「調理用具はあるそうだが、材料は殆ど無いと聞いた。帰る途中、店によって仕入れてから、行くといい。同行者付きで」
「同行者?」
「私が行ってどうなる?地元の人間が一番だ」
「地元…」
「リツコ嬢は急な依頼のお礼に、夕食に招いておいたが、私と一緒に行くことになっている」
「もしかして…」
「もう来ている」
 その言葉が終わらないうちに、ノックと同時で入ってきたのは、レイであった。
「君と一緒?いいの?」
 訊ねられて即座にかまわないわ、と返したレイの表情には、どこか決意めいた物があるのを、シンジは気づかなかったが、仕掛け人は無論知っている。
 ミサトの来室時、席を外していたユリが、レイに何やら吹き込んでいたことを、シンジは知る由もない。
 単に、ユリの毒牙にかかったせいかなと、思っただけである。
 いいのかな、とちらりと送った視線が、真っ向から受け止められたのには、シンジが驚いた。二人の視線が絡み合ったまま、時が止まったのをユリは黙って見ていた。
 一分近く経った時、先に視線を外したのはどちらだったのか。
 レイには、異性と見つめ合うことに羞恥を感じるような事はなかったから視線を外さなかったのだが、シンジの場合幾分事情は異なる。
 8才年上で、女なら誰しもこうありたいと、願う肢体の持ち主であるアオイと、風呂も寝床も最近まで一緒だった少年に、異性への特殊な感情は殆どない。
 こちらは、恥ずかしいと言う感情の無さに加えて、レイを読んでいたのだ。
 “僕に何かしてくるつもりだ。しかもあの藪医者まで絡んでる”
 ユリを知る者なら死んでも吐かないような暴言を、胸の内で呟いたシンジの考えは当たっていた。
 だが、具体的な内容に思い至る前に、レイが促した。
「少し、時間が掛かるからもう行きましょう」
 と。
 シンジが先に出てレイが続いたが、出る間際に振り返った。
 ユリの頷きに押されるように出ていったレイの後ろ姿に、ユリは呟いた。
「お兄ちゃん、か。シンジ、君にはもったいない位の妹だ」
 病室を出たものの、右も左も分からないシンジ。
 左右を見たシンジに、こっちよ、と先に立ってレイが歩き出した。
 レイに続き病院のドアを出るシンジ。さりげなくだが、周囲に視線を走らせるのは忘れない。
 広い駐車場に車は多くなかったが、一番奥に強烈な存在感を主張しつつ、純白のベンツが停まっていた。レイを軽く制して、車の周りを先に一周する。危険物の存在が無いことを確認してから、リモコンキーで開ける。
 ベースになっているのはCLK。スポーティが身上のモデルだが、リツコ自ら改造を設計した車は、走る戦闘車両と言ってもいいくらいである。
 ただ車の下に取り付けられた、機関銃を隠すためでもあろうが、リップスポイラーにシンジは今一つだな、と言う感じを受けた。後ろのリアウイングの方はいかにも戦闘形なだけに惜しまれる。
 車の天井部分を見たシンジは、隠されてはいるが、縦に入る亀裂を見つけた。
 まさかね、と呟いて、ダッシュボードの説明書に数秒で目を通したシンジ。
 そこには紛れもない、対空ミサイルの取り扱いに関して記載された部分があった。
「これって…狂科学者(マッドサイエンティスト)?」
 だが、その顔はどこか嬉しそうであった。
 車を見てから運転席に乗り込むまで、その間十秒。
 レイに目をやり、ベルトをしてないのを見て、ベルトを付けるよう促した。
「シートベルト。シートベルトとは何?」
 安全装置だと教えられたレイだが、付けようとはしなかった。
 どうして?と訊くシンジにレイは、
「私は何かあっても構わない。私が死んでも代わりはいるもの」
 それを聞いたシンジが、強制しなかったのは、この年齢でそれを口にしたレイの事を思った為である。
(私が死んでも代わりはいるもの、か……)
 キーをひねると、辺りを威圧するような重低音が響き渡った。
(6速でツインターボ。ところで…消音は?)
 ユリが乗ったときに気づかなかったのは、爆撃機の爆音のせいなのだが、この閑静ともいえる病院の敷地内では、かなりの音量で響く。
 回転数をさほど上げる事無く、滑るように飛び出したベンツの速度計は、出口に差し掛かる頃には、2速のまま80キロを指していた。
 とはいえ、回転計は1万4千回転まで付いており、レッドゾーンは1万3千から、ついでに速度計は最高が320キロになっている車にとっては、微々たる物である。
 パワーウィンドーで窓を開けたシンジは、エキゾーストが静まっているのを感じた。
 ちらっとレイの方を見る。無表情に前を見たままのレイ。
 “止めとこ”
 珍しい事を考えたシンジは、ポンピングブレーキで丁寧に減速してから、ゆっくりとハンドルを切ろうとしたが、その直前レイの方を見た。
 真っ白な人差し指が、自分の視線の方向を指すのを見て、左に曲がる。までは、良かったのだが、ハンドルを戻した直後、レイが呟いた。
「何も知らないのね」
「ご迷惑かけます」
 どちらも淡々とした言葉だったが、即座に帰ってきたシンジの言葉に少し、レイの表情が緩む。数キロ走って交差点の中に差し掛かった時、不意にレイが言った。
「ここ右に曲がって」
 無人の市街地を走っていたせいもあり、70キロ近くでている車である。
 やや強めの横Gを搭乗者にかけながら曲がるとき、シンジの左手は、レイを押さえていた。座席はレカロシートに近いが、本物ではない。まして、相変わらずベルトもしていない同乗者の怪我を気にしたのである。
 最初に会ったとき、床にもろに落ちかけたのを救われて、その手を振り払ったレイだが、今度はその手をどけようとはしなかった。
 ほぼ水平に、レイの身体を横切るように伸ばしたシンジの肘には、柔らかい感触があったのだが、シンジは反応しなかった。
 いや、気づいていても反応もすまい。
 同い年の愛らしい胸に反応していては、とうの昔に、出血死間違い無しの境遇で育ったのだから。
 レイの方も、無反応であったが、手が引っ込められたとき、一瞬胸元に視線を落とした。うっすら紅くなったのは、シンジの手の感触を楽しんだから、ではなさそうだ。
 現時点において、ゲンドウはレイとの性交渉はない。ユイとうり二つに作ってあれば別だったかも知れないが、さすがに息子と同年齢の容姿を持つ、娘とも言えるレイに手を出すような近親相姦的願望は、さすがのゲンドウと言えども無かった。
 では、誰が偶然とは言え触れられた胸から何かを思いだして、頬を染めるようにレイを変えたのか。
 シンジ達が第三新東京市に来る前は、極めて感情表現の希薄であった綾波レイを。
 この先にお店が?と訊いたときレイは腕の時計を見た。
「そろそろ時間ね」
 呟いたレイは、直進を指示した。
 1キロほど走った車は、町並みが見下ろせる高台に着いた。コイン式の展望台もある辺り、それなりに有名なのかも知れない。
 シンジが制する間もなく、先にレイは降りたのだが、シンジは周囲を一瞥する事を忘れない。
(トラックに品物積んだ移動店舗が来るのかな?)
 ぼんやりと、そんな事を思ったときレイが、
「見て」
 シンジの視界に、地面から生えだすビル群が映った。
 おそらくは、使徒撃退時の戦闘仕様の街から、形態を変えているのだろうと、シンジは見た。
 あ、すごいと言ったのは、シンジなりの感動である。
 どうして、これを?と訊ねたシンジにレイは、
「これがあなたの守った街。そして、私も一緒に守ることになる所」
 と、言った。
 数秒の沈黙が流れた。レイの科白が、何かの前触れに過ぎないと、見抜いて待ったシンジと、その通り何かを言おうとして、止めかけたレイとの間の沈黙であった。
「二つ訊く事は問題ない?」
 妙な言い方だが、シンジは頷いて、
「何なりと」
「ユリさんが、言ってた。あなたは私のクローンの事を知っている。でも、私に興味を持ったのだと。どうしてなの?」
「それが一つ目?」
 こくんと頷いたレイ。
 シンジはレイの言葉から、ユリの手回しを知った。
(既に従順な子猫と化したか。それにしてもユリ、と呼ばせるとはね)
「分からない」
 シンジの答えはあっさりしたものであった。
「分からない?」
 オウム返しに聞き返すレイに、
「君が、僕の親父に寄せる絶対的に見える感情は、どこから来るの?」
「碇司令は私の全てだから…」
「だが、あれは僕の大事なお父さんだ。さっさと返して貰おう」
 シンジがそう言ったとき、レイの目が潤みだすのを見た。目元にじわりと、涙が浮かんでくる。
 それを見て、宗旨替えしたのか薄く笑って、
「そのつもりだっだけれど」
「けど?」
「君の涙に免じて、売ってあげる」
「売るとは?」
「あれは、僕の父親を解雇する。君の、綾波レイの父親にしておくといい。思い切り甘えているといいさ」
「ほんとに?」
「二言はない。第一、僕が親父に甘えに来たのではない、まして、君から碇ゲンドウを返却させる為などではないと、ユリさんから訊かなかった?」
「あ、ありがと」
 一転して、1オクターブあがった声になったレイは、ふと自分の顔に触れた。
「これ…涙?私どうして泣いているの?」
「さっき、胡椒を振っておいた」
 あっさりぶちこわして、
「さっきの答えだけど、君の写真を見せられて、何となく惹かれた、と言うのが本当の所。と、これじゃ答えにならないかな」
(別に愛してる、とは誰も言っていないしね)
 シンジの心中の声は無論レイには届かなかった。
 シンジの言葉に、レイがゆっくりと首を振ったから、2つ目は、と訊いた。
「わ、私が作られた人形だと言うことは気にならないの。それとも碇司令みたいに私を通して誰かを見て…」
 言葉が途中で止まったのは、シンジの指が顎に掛かり、持ち上げたからだ。
「言っておく。二度と自分を人形と呼ぶな。そして、碇ゲンドウの女の名前を決して僕の前で出すな」
 普段のシンジのままだが、どこか逆らいがたい物を感じて、レイは素直に頷いた。
(碇ゲンドウの女?妻、とは違うのかしら…)
 余計な事を言ったとも知らず、レイの素直な反応に、シンジの表情が緩んで指が離れた。
「牛がクローンになったら猪になるの?僕は違うと思う。クローンになった君は、化け猫になったりする?君は君、綾波レイでしょう…そう、人間だよ」
 それを聞いたレイ、ゆっくりと頷いた。
「そう思ったのね。でも、その言葉本当かどうか見せて貰うわ。本当にあなたが私の全てを見ても、今のあなたでいられるか」
「確かめてどうするの?」
「さて、ね」
(あの藪医者の口調そっくりだ。)
 さすがに口にはせず、少しだけ眉を上げたシンジに、
「ここからは、少し遠いわ。行きましょう」
 と、告げた。
 どこへ引っ張って行かれるのかと思ったが、着いたのは食品市場であった。
 それなりの品揃えだったが、シンジはレイが肉類を口にしないことを知った。
 量が多かったので宅配も考えたが、既に夕方になっていることもあり、自分で運んで行くことにした。
 予め、ユリから場所を聞かされていたらしい、レイの誘導に従ってシンジ宅へ向かう間、会話らしい会話は殆どなかった。
 シンジは、取りあえず、献立の中身を検討中であったし、レイはユリとの会話を思い出していたからだ。
 ふと、何かを思いだしたように、頬を染めしかも唇に人差し指をそっと当てたが、それを視界に入れてもシンジは驚かなかった。
 そう言うことか、と思ったのみだ。
 二人がシンジの家に着いた時、既に月が輝く時間となっており、半月がその美貌を地上の者達に見せようとしている所であった。
 アサシンとの邂逅は、レイに取って何をもたらすのか。
 己の存在すら知らぬような少女は、出会った事でその変貌を遂げるのか。
 
 
 
 
 
(続く)

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