SUMMER WALTZ 

 5th story The second part   : Rei_B

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、シンジは寝起きのボサボサ頭のまま、郵便受けから新聞と郵便物を取り出した。

 何通か来ていたDMをポンとテーブルの上に放ると、朝刊に目を通す。

 いつもの習慣だ。

 テーブルの上には昨日ふたりで飲み散らかした酒の瓶やつまみの残骸が散らばっている。

 どうせ、自分が片付けることになるのだろうが、今は気にしない。

 せっかく、気持ちの良い朝なのだから。

 二日酔いで痛む頭は抜きにして…。

 

「おはよ…」

 

 寝ぼけまなこのまま、アスカがトイレに入っていく。

 アスカもどうやら二日酔いらしい。

 

「おはよう」

 

 トイレから出て来た彼女の頭に響かないように気を使いながら、挨拶を返す。

 そんな気遣いを気付きもしないアスカは、シンジが読んでいる新聞の見出しに目を留めて、手に取った。

 

「えっ、地震?…日本じゃないのか」

 

 アスカが新聞を取ってしまったので、シンジは仕方なく郵便物を手に取る。

 瞬間、シンジの体は固まった。

 カオルからの、手紙だった。

 そこに、書いてあったのは―――

 

私達結婚しました』

 

 しかも、幸せそうな花婿花嫁の写真入り。

 花嫁の顔がどこかシンジに似ているのは気のせいに違いない。

 自分と同じ童顔で、一見少年のように見えたとしても、女性に違いない。

 エアメールの消印が同性の結婚を認めている国のものだったとしても、そうなのだ。

 

 『僕達幸せになります。だからシンジ君も幸せになってくれると嬉しい。君との思い出は僕とって…』

 

 新たな門出を伝えるようで、その実、シンジへの未練タラタラの文面を読むのを途中で止める。

 これ以上読むと、二日酔いが酷くなりそうだった。

 

<それより、今は…>

 

 これをアスカが見れば、どうなるかわからない。

 シンジはアスカにわからないように、そろり、そろりと自分の部屋に行こうとした。

 

「ねぇ、震源地のアトランタってどこの首都…だっけ?」

 

 およそクォーターとは思えない質問。

 新聞を読んでいたアスカが、なにげなくシンジに顔を向けた。

 あわてて手紙を後に隠す。

 そんな彼を見て、アスカの無駄に鋭い勘にピンと来る。

 目つきが猫科の猛獣のように鋭くなった。

 

「……何隠したの?」

 

「いや…」

 

「その手」

 

「関係ないよ。僕に来た手紙」

 

「カオルでしょ!」

 

 見事、的中。

 思わずシンジは呟いた。

 

「野生の勘…」

 

「見せなさいよ!」

 

「えーっと、止めたほうが…」

 

「いいから、見せなさいってば!」

 

 だが、シンジは絶対に見せようとしない。

 野生の猛獣と化したアスカには所詮無駄な足掻きだとはわかってはいても。

 先程までの寝ぼけた様子がウソのような動きで、シンジの背後に飛び掛り、そのまま彼を羽交い絞めにした。

 アスカが葉書を掴む。

 それなのに、シンジも離そうとしないものだから、ついに葉書はビリッと半分に破れてしまった。

 

「あっ…」

 

 アスカの力が緩んだ瞬間、すかさずシンジが葉書の半分を口の中に放り込む。

 一瞬、アスカは何が起こったかわからず、唖然としていた。

 

「ああ!!なにすんのよ〜!」

 

 必死で、シンジの口から葉書を引っ張り出そうとする。

 

「食べたの?出して!出しなさいってば!!」

 

ゴクン…

 

「…ごちそうさま」

 

 すまなそうな表情をしながら、シンジは空っぽの口の中を見せた。

 無茶にも程がある。

 

「!!! なに考えてんのよぉ!」

 

 そのどさくさで、アスカは自分が取った半分をどこかにやってしまったのに気がついた。

 

「…そうだ、もうかたっぽ」

 

 アスカが必死に探し始めたので、マズイと思ったシンジは、それ以上の必死さで探し始める。

 

「「あった!」」

 

 手紙の欠片から、二人との距離はほぼ同じ。

 一斉に飛び掛った二人だったが、タッチの差で、アスカが切れ端を奪い取った。

 流石は野生動物。

 都会育ちのシンジ程度の及ぶところではない。

 

 アスカは手の中の戦利品をじっと見る。

 どう見ても、それはマリッジ・カード。

 文字が、『結婚しま』で切れている。

 タキシードを着てニヤついているカオルは写っているが、肝心の花嫁は、ウェディングドレスの裾しか写っていない。

 

「…結婚した、の…?」

 

 アスカは葉書に向ったまま、ワナワナと震えている。

 

「…結婚しま…せん…じゃないかな」

 

ゴツッ!

 

 苦しい言い訳をするシンジの頭を、アスカの拳が思いっきり見舞われた。

 

「…んなわけないでしょ」

 

 シンジは、頭を押さえている。

 手加減無しのアスカの拳は、本当に痛かったのだ。

 アスカの蹴りを受けて、平然と立ち上がってきたトウジに尊敬の念すら抱いた。

 

 カオルのマリッジカードを見つめる彼女の瞳に、涙が溜まってくる。

 潤んで視界のぼやけ始めた目を擦り、もう一度見つめる。

 間違いない。

 カオルは結婚したのだ。

 心の何処かで『待っていた』自分。

 その期待が潰えたことを確信した瞬間、衝動が背筋を駆け登ってくる。

 

ワァァァァァァァァァッッッ!!!

 

 アスカは泣いた。

 一生分の涙を流し尽くしてしまうのでは、と思うほど激しく。

 

 シンジは驚くしかできなかった。

 そんな風に激しく泣く人間を見るのは初めてだったから。

 母親を亡くした時でさえ、そんな風には泣けなかった。

 自分の感情を曝け出せる彼女が、少し羨ましくもあった。

 

「きれい…だな…やっぱり」

 

 呟いてから、慌てて口を押さえる。

 が、顔をクシャクシャにして泣きに泣いているアスカには届かなかったようで、胸を撫で下ろす。

 

<なに考えてんだろ…> 

 

 泣いている女性を前に、余りに不謹慎だ。

 でも、本当にそう思ったのだ。

 泣いても、泣いても、涙が、鼻水がとめどなく溢れでてくる彼女に。

 類稀な美女とは言っても、クシャクシャな顔のアスカにそんな感想を抱くのは、きっと彼以外にはいない。

 

 アスカの勢いは止まらない。

 人前でこんなに泣くのは、初めてだった。

 プライドの高い自分が、何故こんなに人前でこんなに泣けるのか、不思議だった。

 泣きながら、横目でシンジを見る。

 

 アスカの視線に気がついたシンジは困ったような、照れくさそうな表情をしながらも、ゆっくりと立ち上がるとキッチンに向った。

 シンジは、棚から錠剤を出すと、一気にそれを飲み込んだ。

 

「アンタ…ナニやってんのよ?」

 

「いや、ちょっと、紙、食べたの生まれて初めてなんで、漢方胃腸薬を…」

 

<泣いてるアタシをほっといて、コイツ…>

 

 何時の間にか、アスカの涙は止まっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一仕事を終えたアスカとリツコは、いわゆる『金髪魔女のおもちゃ箱』で暇を持て余していた。

 口喧しい時田も、研究生達も外出中で、研究室には誰も居なかった。

 日曜日なのだから当たり前ではあるのだが。

 

 休日返上で仕事をしているのならば、まだ建設的ではあったのだが、用件も終わったのに妙齢の女二人でゲームに興じているのはどうなのだろうか。

 しかも、極めて真剣な顔でアンバランスな台の上に、一つずつ積木を載せていく。

 ジェンガと呼ばれる、少し前に流行したゲームだ。

 

「よしっ!」

 

 リツコは『一番の難所』と判断していた積木を載せることに成功し、小さいながらも力強いガッツポーズをする。

 いつもの彼女からは想像できない熱の入りようだ。

 誰も居ない研究室に木霊する彼女の声は二人のもの悲しさを一層引き立てていたが、どこか上の空のアスカは気にもならない。

 それよりも、リツコの指先の繊細さに感心していた。

 

「リツコはいいわねぇ、手先が器用で。

アンタ、見かけによらず、料理とかうまいしさ。結構家庭的だし、ホント、男ができないのが不思議なくらい…。

あ、スタンガンとか閃光弾とか作れるほど器用すぎるからできないのか。

器用すぎるのも考えものねぇ」

 

 器用とかそういう問題でも無い気もするが、きっちり毒を吐くのも忘れない。

 もちろん、毒を吐いた本人にはその自覚はなく、心から感心していた。

 

「あら、アスカ、それじゃあ、私がマッドサイエンティストみたいじゃない」

 

 …本気で言っているのだろうか。

 

「…まぁ、そうとも言えないこともないわよねぇ」

 

 極めて控えめな返事をしながら、アスカは慎重に積木を載せた。

 

「もう、ひどいわね」

 

 わざとらしい口調とともに、リツコはアスカの肩をポンと叩く。

 

ガシャン

 

 はずみで積木は崩れてしまった。

 もちろん故意だ。

 

「あぁ…」

 

 アスカが残念そうに呟いた。

 いつものアスカなら『野生の勘』で、リツコの妨害など簡単にかわせたのだが、今日は調子が悪いらしい。

 この前のビリヤードといい、どうも調子が悪い。

 

「…コーヒー、いれるわ」

 

 アスカが言うと、リツコは『悪いわね』と言いつつ、対戦成績表に○をつける。

 今日だけで『13勝8敗』。

 …不毛だ。

 

 13杯目のコーヒーを満足そうに啜るリツコに、腹を立てることも無く、窓の外を見つめているアスカ。 

 

「でも、まさか、カオルが逃げただけじゃなく、結婚までしてるなんてね。

ビリヤード場で見たのやっぱり見間違いだったのね」

 

「そうね…」

 

 リツコの冷静は分析に、アスカはまた、泣けてくる。

 堪えられたのは、たぶん、さっき飽きるほど泣いたおかげ。

 

「アスカ…」

 

 流石に心配になったのか、気遣わしげにアスカを見る。

 机に突っ伏したアスカの口から出たのは、カオルへの恨み言ではなかった。

 

「しまったなぁ…アタシとしたことが、人前で泣くなんて」

 

「シンジ君、女の涙に慣れてなさそうだものね」

 

「あの時、アイツは、タンスと化したのよね」

 

「は?」

 

「あまりのショックで、アイツの存在を忘れたのよ。家具と同じに思えたってこと」

 

 アスカの中では、そういう風に結論付けられていた。

 

「ああ、なるほど。人前で泣かない人でも、タンスの前では泣くものね」

 

 リツコは妙に感心して納得していた。

 と、廊下の方から話声が聞こえてくる。

 『休日に学校に来るなんてなんて奇特な』と自分達を棚に上げっぱなしな感想を二人同時に抱く。

 話声と足音が段々と近づく。

 そして、止まった。

 

ガラッ

 

「え〜いいんですかぁ?あたしぃ、バイトが忙しくてぇ、授業あんまり出てないんですけどぉ〜。

でも、赤城先生の授業取れないとぉ、進級がやばくってぇ」 

 

「うん、うん、わかってるよ、木火滝クン。大丈夫、私は他の頭の固い先生方と違って、学生の熱意を評価しようと思っているからねぇ。

それに、君のお父様にも随分お世話になって―――

 

 扉を開けた瞬間、時田助教授の声は凍りつく。

 誰も居ないはずの研究室に待っていたのは、アスカとリツコの冷たい視線。

 

「これは…赤城教授…休日出勤ご苦労様です」

 

「こんにちはぁ、赤城先生」

 

 一緒に入ってきた女性は冷え切った空気を無視して愛想たっぷりの挨拶をした。

 アスカもリツコもその学生の名前を知っていた。

 

 木火滝モエ。

 アイドル並みの容姿と、大手水族館の社長である父親の財力をバックに『キャンバスの女王』と呼ばれて―――あるいは、呼ばせて―――

 いる有名な生徒である。

 彼女にまつわる噂はあまり、良いものが無い。

 莫大な『寄付』を条件に入学した、男に貢がせるだけ貢がせて捨てる、体と引き換えに教授に単位を迫る、等々…。

 どれも噂だ。

 アスカもリツコも根拠の無い噂を信じる気も無かったし、興味も無い。

 

 だが、ここに根拠が一つ。

 誰も居ない休日の研究室で、何をするつもりだったのか?

 しかも、モエの服はこちらが見ていて恥ずかしい程に露出度は高めで、あからさまにそれを時田の腕に押し付ていた。

 モエに先入観がなくても、『アヤシイ』と思うのは当然だった。

 

「こんにちは、時田先生。あなたこそ休日まで学生の指導とは、仕事熱心なのね」

 

「いや、彼女が進路の相談に乗って欲しいというもので…我々は研究者であると同時に、教育者でもありますからなぁ、ハハハ…」

 

 乾いた笑いが部屋に響く。

 

「素晴らしいご高説…流石は時田先生、助教授の鏡」

 

 時田の口から出たとは思えない台詞に、欠伸混じりに皮肉を言うアスカを睨んだのは時田だけではない。

 隣のモエの視線は、まるで親の仇を見るかのように時田以上に厳しかった。

 

『アンタは黙っててよ!』

 

 睨み殺すようなその視線はアスカでなかったら、慌てて視線を逸らしていただろう。

 

 モエにとって、アスカは以前から目障りな存在だった。

 自分より『ちょっとだけ』上かもしれないその容姿と、自分の家より『かなり』財産の有る惣流家を親に持つ、目の上のタンコブ。

 学業に歓心の無いモエは頭脳の差を羨むことはなかったが、男女を問わず学生の注目を一身に受けるアスカが疎ましかった。

 モエの羨む全てはアスカにとってまるで意味のないものだが、そんなことなど彼女にはたぶん一生わからないだろう。

 

 睨み合うアスカとモエ+時田を制するように、リツコが口を開いた。

 

「ただ、特定の学生だけに『個人指導』とは、あまり感心できませんね」

 

「いや…彼女は非常に熱意のある学生でして…」

 

「熱意ねぇ…」

 

 授業を受け持っていたアスカは知っている。

 モエは授業に一度も出席したことがなく、論述形式のテストさえも白紙に近い。

 にも関らず、レポートは非常に良く出来たものがきっちりと出されている。

 毎回、筆跡と論旨の違うレポートを。

 

「…そうです、私がそう判断しました!彼女は非常にやる気のある学生です!

ただ、事情があって授業には出席できないだけなんです!」

 

 一気に熱くなる時田を見ると、彼も『代返と代レポ』という真実は知っているのであろう。

 モエに肩入れする理由が、やり手の父親に頼まれたからなのか、同じくやり手の彼女自身に頼まれたのかなど、アスカにはどうでも良い。

 一端、授業を任された以上、彼女の判断で評価するだけだ。

 レポートとテストの評価、それが全てだ。

 

 実の所、時田の熱弁をアスカとリツコには全く意味がない。

 アスカは『熱意』とか『やる気』といったものを全く評価の対象としていない。

 中学、高校ならばまだ意味があるだろうが、大学生になってまで、過程だけを評価するなど論外だった。

 まずは結果。

 それが間違った結果でも良い、最後までやり遂げたものは実験でも研究でも、それこそ単なるレポートでもそれなりに意味がある。

 途中で投げ出す『やる気』など、何の価値もない、と思う。

 

 アスカとリツコにはまるで届かない自前の教育論を、現在の社会情勢を踏まえてグローバルに展開しだした時田を見つめる二人の目は冷たい。

 モエの時田を見る目も『使えないヤツ』という評価が下され始めていた。

 一向に終わりを見せない時田の独演会が、自分が如何に優秀な研究者で聡明な教育者であるかの賛美に変わり始めた時、

 リツコがため息まじりの打開策を打ち出した。

 

「…あなたの言いたいことは大体わかりました。アスカ、レポートの採点表と中間試験の結果、見せてくれる?」

 

「ハイ」

 

 既に用意していたそれらを受け渡されたリツコは、そのあまりの酷さに眉をしかめる。

 

「…これで、単位を貰おうとするなんて、ムシが良すぎるわね、木火滝さん?」

 

「えぇ〜、でもぉ、わたしぃ、バイトとか忙しかったんですよぉ」

 

「そうね、苦学生にはとても見えないけれど、人を外見で判断してはいけないわよね?」

 

 全く理由にならない言い訳に、ニッコリと微笑むリツコが恐い。

 それを察することもなく、「「ありがとうございます!」」とハモる時田とモエ。

 何故か、蚊帳の外のはずのアスカだけが嫌な予感に襲われた。

 

「補講を受けてもらいます」

 

「「えっ!!」」

 

 今度はアスカとモエがハモった。

 

 本当に事情があって授業に出られない生徒ならば、有り難いことこの上ない。

 もちろんモエはそうではない。

 レポート提出と再テストくらいなら、代筆とテストのヤマを時田に任せれば良いと考えていた。

 代価に引き換えにデート3回、夜のお供を1回くらいしてあげれば、このうだつの上がらないこの万年助教授は嬉々として引き受けてくれるだろう。

 だが、赤城リツコの補講―――そんなものは聞いたことがないが、おそらくこの上なく厳しい―――など受けたなら、人任せで単位を取れるワケが無い。

 それでも、微かに見えた光明をみすみす逃すわけにもいかない。

 

「…がんばりますぅ♪」

 

 引きつった笑顔で応えるモエ。

 

 アスカもまた、憂鬱だった。

 不正を行う確率120%の時田に、補講を任せる訳にもいくまい。

 リツコに『言い出したんだから、自分でやりなさいよ』と言うわけにもいかない。

 頭に血が上っているリツコはもちろんそのつもりだろうが、彼女は忙しすぎる。

 今日も、アスカとゲームをするまで48時間不眠不休で仕事をしていたのだ。

 それなら、さっさと寝ろという話にもなるが、この後も、会合と会議が目白押しで寝るわけにもいかず、寂しい女の二人遊びと相成った。

 

 結局は、アスカがやるしかない。

 何故だか自分に異様に敵意を燃やすこの女とマンツーマンの個人授業を。

 

 心の中で盛大なため息を吐きつつ、空を見た。

 人の気持ちも知らないで、バカみたいに青い空。

 で、思い出した。

 

<そういえば、今年厄年だったけ>

 

 …本当にクォーターなのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 ♪...♪♪...♪...

 

 音楽教室では、相変わらずシンジとレイの冷戦が続いていた。

 一曲弾き終わると、レイは相変わらずの無表情のまま、シンジの評を待った。

 

「……・素晴らしい楽譜通りだね。

一つのミスタッチもなければ、テンポも一つも狂わない。

最初から最後までアレグロ。どんな高性能の自動演奏ピアノもこうはいかない…」

 

 誉めてるのか、けなしているのかわからないシンジのコメントを、レイはいつものように冷静に聞いて―――いなかった。

 ムカムカしていた。

 その理由が、絶対の指導者であるゲンドウの教えに反するからなのか、この前からずっと引きずっているシンジへのわだかまりの所為なのか、

 それはわからない。

 ただ、胸がムカムカする。

 

「この曲はもう習得しているわ。次の課題…」

 

 レイが勝手にめくろうとした教本を、シンジは手で押さえた。

 

「悪いけど…マルはあげられない」

 

「…どうしてそういうこと言うの?」

 

「綾波のピアノは…まるで拷問のようだ」

 

「……?」

 

「拷問に耐えているか…もしくは、郵便局で料金別納のスタンプをひたすら押してるような気がする」

 

「…何、言ってるの?」

 

「綾波は…知らないだろうけど、社会に出ると最初はものすごくつまらない雑用をやらされるんだ」

 

 それを聞いて、レイは呆れてため息を吐いた。

 彼女のそんな仕種は、極めて珍しい。

 

「わけのわからないこと言わないで、すぐに次に移らせて。

私、何も間違えてない。暗譜だって完璧にしているもの」

 

 シンジの言い様で、解れという方が無理だろう。

 彼が、言いたかったのは、ただ、一つだけ。

 

「楽しそうじゃない」

 

 そう言ったシンジに、レイは呆気に取られた。

 感心したから、では無い。

 生まれて初めて、心の底から呆れ果てたからだ。

 理解不能なものを見る目で見つめているレイに構わず、シンジは重ねて言う。

 

「まるで、楽しそうに見えない」

 

「何、言ってるの?」

 

「綾波は、この曲が好き?」

 

「……」

 

 レイはそんなことは考えたことも無かった。

 『技術が全て』、ゲンドウはそう言っていた。

 レイも、そう信じていた。

 疑う理由は無い。

 疑って良いはずも無い。

 

『私と来るか?』

 

 今も、覚えている。

 親に捨てられ、孤児院とは名ばかりの凍てついた監獄に蹲る彼女に掛けられたその言葉を。

 実の親からも必要とされなかった彼女を六文儀ゲンドウは求めた。

 長い逡巡の後、寒さと飢えに震えながら、首を縦に振った彼女を抱えあげたあの力強い腕。

 それが、彼女の唯一知っている絆の形。

 それしか、彼女は知らない。

 以来、ゲンドウは彼女にとって絶対者となった。

  

 絶対者の息子は、もう一度繰り返す。

 

「本当に、ピアノが好き?」

 

 同じようなことを言われたことは、二度だけあった。

 コンクールで自分に負けたピアニストと、冬月教授。

 その時は、問われても虚しく地に堕ちた意味の無い言葉。

 でも、今はその言葉が頭の中で、反響し続ける。

 

 初めて、ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第5番『運命』を聴いた時以上に。

 

 

<ピアノガスキ?>

 

 考えている自分が、神の教えに疑問を抱いた背信者のように思えて、我知らず声を荒げるレイ。

 

 

―――バカみたい。意味ないわ、そんな精神論。

私は、ちゃんと譜面通り、弾いたわ。早く次に移らせて」

 

 目に見えて狼狽する姿は、本当に彼女らしくなかったが、シンジは特に驚きもしなかった。

 ただ、少しだけ悲しげに一言。

 

「…そう」

 

「私、碇君の言っていること…わからない」

 

 それだけ言うと、レイは教室から出て行く。

 シンジは、ため息をひとつ、ついた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカは、その日の内に補講の教室を確保し、モエをそのまま連れて行った。

 『善は急げ』と思ったわけでもない。

 悪いことを先延しにして、これ以上精神的負担を増やしたくたかっただけだ。

 『もうこうなったら矢でも鉄砲でも持って来い!』状態。

 まぁ、自棄になっていたとも言える。

 

―――というワケでコンピューター・アーキテクチャーにとってはOSもソフトも同じ位置付けになってるの。わかった?」

 

「…はーい」

 

 まるでやる気の無い返事にアスカはこめかみを引くつかせた。

 やるからには最善を、ということで初歩の初歩から教えている自分がピエロのように思える。

 

「ねぇ、ちょっと…」

 

「何よ、うるさいなぁ…」

 

「アタシの何が気に入らないのか知らないけど、それはそれで別にかまわないわ。

でもね、こうしてアタシとあなたの両方の時間を無駄にするような補講って意味ないと思わない?」

 

「元々、意味無いじゃん、こんなの。何の役にも立たないよ」

 

 まるでやる気の無いモエは、しらけきっていた。

 

「そうね…でも、無意味なことを学ぶ時間なんて学生のうちしかないわ。

大体、あなた、今まで『役に立つ』と思って勉強して役にたったことなんてある?」

 

 モエは答えない。

 初めからアスカの言葉など、右から左で思考する気もなかった。

 考えれば、役に立たない知識などないことに気付けたかもしれない。

 無意味に思える勉強の積み重ねのみが、真に役にたつ知識に結びつくことに。

 

「私は卒業さえできればいいし〜。どうせ、パパの会社に就職するんだもの」

 

「…卒業ってなに?4年間、大学に通って単位を取れば卒業なの?それで満足?」

 

 ここらへんから話が脱線していくことに二人とも気が付かない。

 アスカは熱くなりすぎていたし、モエは学生という立場を軽く考え過ぎていた。

 

「私、別に好きでここに通っているわけじゃないもん。パパがどうしてもっていうからしょうがなく」

 

「…でも、決めたのは自分でしょ。決めた以上は…・」

 

 アスカにも『大学を卒業したら会社を継ぐ』という親に決められたレールがあった。

 モエの発言に、安易なレールを拒み、自分で決めた困難な道を歩く自分の誇りを傷つけられられた気がした。

 最低限の冷静さを残しながらも、押し殺した怒気が言葉に出てしまう。

 けれど、似て非なる境遇に居るモエは気が付かない。

 それどころか―――

 

「うるさいんだよ、オバサン」

 

 論理ではなく、単なる誹謗中傷の類を『ガンを飛ばし』ながら残して席を立つモエ。

 年齢のことを言われて、目の色を変えるほどモエと年は離れていない。

 次回の講義をラストチャンスにしよう、と考えるほどアスカは寛大な教師だった。

 モエがすれ違いざまに次の言葉を囁くまでは。 

 

「男に逃げられたクセに…」

 

 瞬間、アスカの目の色が変わった。

 そこに居たのは、教師ではなく一人の女。

 しかも、相当に危険な部類の。

 ヒカリかトウジが見たならば、『紅い閃光』と呼んだであろう。

 

「…もう一度、言ってみろ」

 

グワッシャァァァァァァァァァァァァァァン!!!

 

 

 言葉と共に蹴り上げられた重厚な教卓が天井に突き刺さる。

 モエは何が起こったかわからなかったが、体は正直に腰を抜かしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その夜、リツコはラーメン屋『一風』でアスカから事の顛末を聞いた。

 

「それで、あの500キロはある教卓が天井に刺さったわけね…」

 

 さすがのリツコもちょっぴり呆れていた。

 幸い『偶然にも』通りがかった時田が体を張って時間を稼いでくれた御蔭で、モエに怪我はなかった。

 被害は時田と、盛大な破壊音に駆けつけた警備員だけに収まった次第だ。

 どちらも入院の心配がない程度の怪我で済んだのは奇跡だろう。

 

「だから反省してるって…。でもさ、アタシも悪かったけど、あのコも相当なもんよ。

あんなかわいい顔してるけど、絶対、もとは茶髪のヤンキー系よ?」

 

 モエの『ガン飛ばし』を思い出したアスカは、ズズズッとラメーンを食べながら言う。

 

「そんなの見ればわかるわよ。スカート長くて、体育倉庫に気に入らない人間を呼び出してたわね」

 

「えっ、そう…なの…かな?」

 

 リツコのやけに実感の篭った言い方にアスカは戸惑う。

 なんで、そんなに詳しい描写が…。

 

「大学に入って、慌てて髪黒くして清純派で大学デビューしようとしたのね。良くある話よ」

 

「へぇ…」

 

 アスカは感心した。

 教授をやっていると、そういうことにも気がつくようになるのだろうか。

 

「リツコ、よく見てるのね」

 

「同じだからね、私も…」

 

 遠くを見つめながら、ラーメンを啜るリツコ。

 

「…そうだったんだ…」

 

 アスカは何か触れてはいけないものに触れてしまったような気がした。

 でも、今は金髪。

 …原点回帰?

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教室にひとり残って、シンジは紺色のナイロンバックを見つめていた。

 

「碇先生。そろそろ、鍵、閉めるけど」

 

 同僚の杉田先生が声をかけてきた。

 

「あ、はい」

 

「誰か、忘れ物?」

 

 バックの中には数枚の楽譜と音楽理論の本が入っている。

 

「ええ、綾波さんが忘れていってしまって」

 

「ああ、あのコ、何かイヤねぇ。ツンケンしてて、ピアノのガリ勉って感じだね」

 

「…鍵、閉めときますから」

 

 シンジの何処となく憂いを秘めた口調に、レイがここに通うことになった顛末を思い出させた。

 

「…あら、そう!じゃあ、お願いしちゃおうかしら。デパートの食料品売場、寄りたいもんだから。ほら、終わりの方、安くなんのよね〜」

 

 などど言いながら、杉田先生は居たたまれなくなって出て行く。

 ドアを開け、去り際に『彼女によろしくねぇ』という一言を付け加えて。

 既に相手は去っていっているのに、シンジは丁寧にも会釈を返し、呟いた。

 

「彼女…なんかじゃないんだけどな」

 

 窓際に行き、煙草に火を点ける。

 いつもならば、教室で煙草を吸うなんてことはしないシンジだったが、今日はいつもしないことをしてみたかった。

 先程まで、レイと二人で居たこの部屋の空気を入れ換えてしまいたかったのかもしれない。

 

 今日のレイの反応は予想通りのものだった。

 『あの』父親に育てられ、教えられた彼女の技術の高さと、欠けているもの。

 それらは予想以上に自分の思ったとおりだった。

 

 彼は悟られずにはいられなかった。

 父親が彼女をここに来させた理由と、自分が何をすべきなのかを。 

 

「はぁ…クソオヤジ…」

 

 紫煙とともに吐き出した言葉は、20代前半の若者には中々出せないような、悲哀と苦労が滲んでいる。

 冬月に匹敵するようなそれは、ゲンドウに関る『まともな』人間には必須なのかもしれない。

 

 いつまでも、薄暗がりに沈んでいてもしょうがないので、煙草を揉み消し窓を閉める。

 電気を消して帰ろうとする、シンジの視界にレイのバックが目に入った。

 

<持って帰ったほうがいいよな…>

 

 少しはみ出していた音楽理論の本を整理し、中に入れる。

 自分も昔、ゲンドウによくこういった参考書渡されたことを思い出し、少し懐かしかった。

 余り良い思い出とは言えないけれど。

 

 はからずもバッグの中身を見てしまったことに後ろめたさを感じ、誤魔化すように、少し乱暴にレイのバックを手に取る。

 

カシャン

 

 その拍子に何かがバックから滑り落ちてしまった。

 慌てて拾い上げたそれは、少し古ぼけたシングルCD。

 ジャケットの写真からみても、クラシックでは有り得ない。 

 

<へぇ、綾波もこういうCD聴くんだ>

 

 失礼といえば、失礼な感想を抱き曲名を確認したシンジは凍りついた。

 それは、『僕らが旅に出る理由』と言う―――彼の母親が好きだった曲だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気晴らしをするため、アスカはリツコと一緒に、トウジが雇われ店長をしているクラブ『Under_Age』のオープニングパーティーに足を向けた。

 店内はぎっしりと人が集まっていてかなり盛況。

 女性ボーカルが心地よいソウルミュージックを歌い上げている。

 思っていたよりも、良い雰囲気にアスカは驚いていると、早速トウジが近づいてきた。

 

「おぉ、ホンマに来てくれるとは思わんかったで」

 

「久しぶりね、鈴原君」

 

「リツコさんも来てくれたんでっか。ありがとうございます。これはワイの奢りです」

 

 二人のシャンペンをすっと差し出す。

 いつもなら舞い上がって、喜びまくるはずのトウジの意外な対応にアスカは戸惑った。

 ちょっと背中が痒くなる。

 

「ありがとう、鈴原君。しばらく見ない間に良い男になったわね。この前はわからなかったけど」

 

「そんなことありまへん。リツコさんこそ、相変わらずお綺麗で…。

こんな綺麗な女性に来ていただいて光栄ですわ」

 

「ふふ、お世辞もうまくなったわね…。あら、これ美味しいわね」

 

「えぇリツコさんに飲んで貰おうと思って無理して用意してたんですわ」

 

 だいぶ、背中が痒くなってきたアスカは耐え切れず、渡されたシャンペンを一気に飲み干した。

 

「プハーッ、何コレ、おいしくな〜い。焼酎の梅割りないの!」

 

「んなもん、あるか!この酒が不味いなんて、オマエ舌腐ってるんちゃうか?」

 

「うっさい、ジャージ!客の言うことが聞けないってぇの!?」

 

 いつもの調子に二人が戻りかけた時、厨房からヒカリが出てきた。

 

「こんばんわ」

 

 エプロンを着けて、挨拶をするヒカリを見つけて、アスカは驚いた。

 

「こんばんわ…ってヒカリ、アンタこんなところで何やってんの?」

 

「なにって…鈴原のお手伝い」

 

「お手伝いって、アンタ…。

ジャージ!!アンタ、ヒカリにこんなことまでさせて、恥ずかしくないの?」

 

「頼んだわけやない!委員長がどうしてもっていうから、仕方なく…」

 

「ホントにそう思ってんの!?」

 

「…感謝しとるわ」

 

 二人の口ゲンカは全く周囲を気にしない大音量なので、当然、周りの注目を集めまくる。

 いつものこととはいえ、その騒々しさに赤くなったヒカリに、リツコはシャンペンを片手に微笑んだ。

 

「やっぱり、変わってないわね、鈴原君」

 

「ハイ…相変わらずバカで…」

 

「でも、さっきはちょっとビックリしたわ。あんな女口説きなれた感じで話をするコじゃなかったから…

何かあったのかしら…ねぇ、洞木さん?」

 

 からかう口調で、悪戯っぽく笑いかけるリツコだったが、ヒカリの顔は思いの他、真剣だった。

 

「鈴原は…一途なんです。責任感が強くて、自分の役割りを演じてしまうようなところがあるんです」

 

「どういうこと?」

 

「お母さんを早くに亡くして、お父さんも仕事で家にいないからって、妹さんの父親がわりになったり、

所属チームでもキャプテンだからって、わざと嫌われ役を買って出たり…。

この店だって、オーナーが『若い女性にうけるクラブで』っていうから、仕方なく『かっこいい店長』をやってるです。

ホントは『スポーツクラブにしたい』って言ってたのに…」

 

 ふと見ると、トウジはまだ、仕事そっちのけで、アスカと口論をしていた。

 その光景を見ると、ヒカリの言葉の信憑性が疑わしくなってくるが、昔のトウジを知っているリツコは素直に納得できた。

 責任感が強い余りに、周りが見えなくなり失敗をし続け、それでも自分を曲げることはなかった少年の姿を思い出す。

 

「そう…大変ね」

 

「はい、でも、鈴原は強いから」

 

「違うわ。あなたがよ、洞木さん。

ああいう彼氏を持つと、気苦労が耐えないでしょ?」

 

「えっっ!すっ、す、鈴原は別に彼氏とかそういうんじゃないです…」

 

 再び赤くなって動揺するヒカリをリツコは微笑ましい思いで見つめていた。

 この子達は、自分の妹や弟みたいなものだ。

 色々なものに縛られ、退屈ではあったけれど、暖かだったドイツ時代を思い出す。

 

「そういえば、洞木さんと鈴原君、駆け落ちしたことがあったわね」

 

「あ、あれは違います!」

 

「洞木さんの家が日本に帰ることになって、『帰りたくない』って泣いている洞木さんを鈴原君が連れて逃げて…。

すぐに見つかったけど、結構、大騒ぎになったわよね?アスカは『探さないで』って暴れるし」 

 

「そんな…小学校のころのこと」

 

「でも、ヘビイよね。何の力も無い男の子が勢いだけで女の子を連れ出す、『小さい恋のメロディ』みたいでちょっと素敵かもね」

 

「…何ですか、それ?」

 

 あの青春映画の名作を知らないなんて…とリツコは一瞬絶句した。

 

「……何でもないわ、世代が違うものね。寄る年波には勝てないわ。

まぁ、つまり、私が言いたいのは、あの頃から鈴原君は変わってないってことよ。

たぶん、良い意味でも悪い意味でも、ね」

 

 リツコはそう言って、残りのシャンペンを一気に煽った。

 そこに、トウジが客に呼ばれたため口論を途中で打ち切り、消化不良のままのアスカが戻ってくる。

 

「まったく、あのバカはいつまで経ってもバカのまんまでやんなるわ!

で、何の話?」

 

「変わらない鈴原君と、あなた達との世代の差を実感するようになった私の話」

 

「リツコが年食ってるのは今に始まったことじゃないじゃん」

 

 確かに、リツコは昔からアスカ達よりも年齢が上だが、アスカの言い方ではずっと前からおばさんだったかのような言い方で語弊がある。

 今度はリツコとアスカの口論が始まるとハラハラしていたヒカリだったが、『女も25を過ぎると…』と自分の世界に入り始めたリツコの耳には、

 届かなかったようで胸を撫で下す。

 そんなヒカリの気も知らず、期待していた反撃も無く鬱憤を晴らし損ねたアスカはどことなくつまらなそうだ。

 

「でも、アタシもパッとしないもんなぁ。あんな小娘相手に切れちゃうし…。

リツコは年齢、アタシは結婚。女が意地張って生きると地雷も増える一方よ」

 

「アスカ…」

 

 リツコに引きずられ、ブルーモードに入りはじめたアスカにヒカリが慰めの声をかけようとしたが、うまい言葉が見つからない。

 と、その時、ブルーの女王が自分の世界からのご帰還を果たした。

 

「特に年をとるとね…」

「歩きにくくなるわよね…」

 

 こうなると、もう止まらない。

 待っているのはアルコールの荒波しかないだろう。 

 ヒカリは天井を仰ぎ、ため息を一つ吐くと、ビールを取りにカウンターに向った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                       第5話:レイ、心の向こうに <後編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「I believe〜 変〜わりゆくあなたでも〜♪

I believe〜 変〜われないものがある〜♪」

 

 大音量でがなりたてながら、千鳥足でアスカは、リツコに支えられながらマンションの階段を上がっていた。

 いつも面倒を見ているヒカリは、店の後片付けが残っているため、比較的酔っていないリツコがお守りを務めることに相成ったわけだ。

 上機嫌なのか、自棄になっているのか、かつて無いほどのテンションで歌い続けるアスカに、流石のリツコも辟易していた。

 

「泣かない〜わ 今は〜 悲しみが〜 生み出した笑顔は♪

瞳の奥 胸の中 強く光るの〜♪ねぇ、アタシうまくない?」

 

 アスカが聞くので、リツコは仕方なく相槌を打つ。

 

「はいはい、うまいうまい」

 

「CDデビューでもしよっかな!」

 

「誰が買うの?」

 

「……・」

 

 リツコの冷静な指摘に、アスカは一瞬絶句した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピンポーンピンポーンピンポーン

 

 部屋中に鳴り響くチャイムに、シンジは仕方なく立ち上がった。

 歌声が聞こえてきていたので、心の準備はできている。

 ドアを開けると、酒臭いアスカと、それに比べればしらふに見えるリツコが立っていた。

 

「よぉっ!シンジ、元気〜?」

 

 アスカが陽気な第一声を上げると、すかさずリツコが言った。

 

「後はお願いね」

 

「…飲んでるんですか?」

 

「ベロベロに、ね」

 

「やっぱり…」

 

「まぁ、『結婚しました』通知と、『不良学生との大喧嘩』のカクテルだから、悪酔いしたくもなるわね。

まったく、自分が一番辛いくせに他人の仕事も引き受けちゃって。…このコも変わらないわね」

 

 リツコがアスカを見る目が、妹を見るように優しかったので、シンジは少し微笑んだ。

 それに気付いたリツコは、照れを隠すように務めて素っ気なく言った。

 

「悪いけど、私、明日から海外に出張だから、早く帰らないと…」

 

「あっ、リツコずっるーい!海外ってMAGIがらみでしょ?

いいなぁ、MAGIの開発、MAGIの開発、MAGIのかいはつ〜!いいなぁ…」

 

 アスカが赤ん坊のように指を加えてむずがりだしたので、シンジは凍り付いてしまった。

 

「時々、退行現象を起こして、3歳児になるけど、こうして、頭を振ると元に戻るから」

 

 リツコはアスカの頭を乱暴にシェイクすると、耳元で囁いた。

 

「アスカ…もうブリブリを売りにできるほど若くはないんだから、やめなさい。23のソレはギリギリよ?」

 

「はい…」

 

 アスカは急にしょんぼりして、頭を垂れた。

 

「じゃあ、私、これで失礼するわ」

 

「お疲れさまでした」

 

 シンジがそう言うと、リツコは軽く手を振り、さっさと帰ってしまった。

 シンジと二人きりになったとたん、アスカも流石に少し気まずくなって、シャキンと背を伸ばした。

 さっきよりしっかりとした足取りで歩きながら、部屋に入っていくアスカにシンジが声をかける。

 

「アスカ…その…」

 

「なに?」

 

 シンジがモジモジと言い辛そうにしているので、アスカまで妙な気分になってくる。

 今までは二人には無かった空気だ。

 

「えっと…」

 

「なによ、言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」 

 

 強気な言葉だが、アスカの胸は高鳴っていた。

 この、妙な空気の中、シンジは何を言おうとしているのだろうか?

 慰めてくれようとしているのか、それとも…

 

「ギリギリセーフだと思うよ」

 

「は?」

 

「アスカの幼児退行ぶり。アスカの性格とか、腕力とかを知らない人が見たら、『かわいい』って思うんじゃないかな」

 

「…聞こえてたんかい!!」

 

ゴツッ!!

 

 女性の扱いをまるで知らない未熟者に、当然の鉄拳が見舞われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 バッグを忘れたことに気がついたレイは、大急ぎで音楽教室に走って戻った。

 教室はもう閉まっていて、誰もいない。

 諦めて帰りかけて、扉に何か貼り紙がしてあることに気がついた。

 

綾波レイ様

忘れ物を預かっております。

もし、急ぐなら下記の場所まで。

 

碇シンジ 

 

 文面が敬語で、マンションの地図を詳しく書いておくあたりがシンジらしい。

 

<どうしよう…>

 

 レイは少し迷った。

 あんな風に言い争った後で、顔を合わせるのは少し気まずい。

 けれど、シンジのどんなところに住んでいるのかも少し興味があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 風呂からあがると、アスカは冷蔵庫からエビアンのペットボトルを出して、豪快にラッパ飲みを始めた。

 

「あっ〜!酔いが冷めた!」

 

「あの…」

 

 シンジがちょっと顔をしかめる。

 

「なに?」

 

 先程のことが影響してか、アスカの顔がちょっと恐い。

 未だ痛みの残る頭をさすりながら、シンジはちょっとビビっていた。 

 

「いつか言おうと思ってたんだけど…水」

 

 アスカは『コレ?』という感じでボトルを指差す。

 

「グラスに移してから飲んでくれないかな」

 

「あっ、なるほど、グラスね。でも、アタシ、病気ないわよ。あっ、シンジ気にしてるんだ。

か・ん・せ・つ・キッス♪」

 

 腹いせに自分を嬉しそうにからかうアスカを見ながら、『そういうことじゃないんだけどな…』と思ったがシンジは何も言えなかった。

 

ピンポーン

 

 その時、またチャイムが鳴った。

 

「あれ、リツコ忘れ物?」

 

 アスカが玄関を見る。

 シンジがドアを開けると、そこにはレイが立っていた。

 

「綾波…」

 

「これ、貼ってあったから」

 

 レイが貼り紙を見せる。

 

「リツコ?」

 

 アスカが顔を出すと、レイは無言で睨みつけた。

 

「……・」

 

「あ…この前は…どうも」

 

 その視線にたじろぎながら、なんとか言葉を発しようとするアスカだったがうまい言葉がでない。

 言わなくちゃいけないことは、たくさんあった。

 まず、この前のことを謝罪して、自分がここにいることの説明をする。

 それは、絶対に欠かせないことだった。

 

「…あの!」

 

「恐がらなくていいよ。言ったろ?この人は親戚のお姉ちゃんみたいなものだって」

 

 意を決して、言葉を発しかけたアスカをシンジが遮る。

 そんな説明で納得するわけも無く、レイは二人を睨み続ける。

 

「あのね…アタシは…」

 

「いいんだよ、アスカ。そう言えば、まだ紹介してなかったね。

僕が無理言って『教えさせてもらってる』生徒さんで綾波レイさん。

忘れ物を取りに来たんだ」

 

「でも…」

 

「いいから」

 

 謝らせてくれないシンジに、怒っているのかと思って彼の顔を見るとそう言うわけでは無いらしい。

 むしろ、落ち着きすぎている。

 彼女の知っている碇シンジは、こういう時、最初は慌てふためくものだったのだが。

 

 どこか変なシンジと、睨みつづけるレイにアスカは軽いパニックに陥り、捨て身のギャグをかまさせた。

 

「…奥さんで〜す」

 

「フッ…」

 

 レイが鼻で笑ったので、アスカは少しムッとした。

 一方、この状況でシャレにならないギャグを言ったアスカに対しても、シンジは全然動じていない。

 

「こんな時間に一人できたの?」

 

「ええ」

 

 もうかなり遅い時間だ。

 若い女性が歩くには少々危険である。

 アスカも同じ女として『危ないわよ』と呟いたが、レイに丁重に無視された。

 それを見たシンジは、苦笑しながら、優しくレイに語り掛ける。

 

「迷ったんじゃない?」

 

「どうして?」

 

「少し、息、切れてるから。長い間、探してたのかなって思って。お茶、入れるよ」

 

「……・」

 

 そう言われても、レイは動こうとしない。

 

「どうしたの?入って」

 

 もう一度かけたシンジの声が限りなく優しかったので、レイは仕方なく家に上がった。

 完全に蚊帳の外のアスカは少し不機嫌。

 蚊帳の外にされたからではないし、レイの態度が気に入らなかったわけでもない。

 問題はシンジの態度だった。

 少しの間だけ一緒に住んでいるだけで、シンジを知っていると言うつもりはないが、あんな態度はシンジらしくない。

 というか、男性らしくないのだ。

 

<そう言えば『生徒』とか言ってたっけ…>

 

 しかし、シンジに聞いた話では一年後輩ではあるが、『僕なんかより遥かに優れたピアニスト』と言っていたはずだ。

 

<そんな人に、シンジが教える、何で??>

 

 実はラブラブで『愛の個人授業』とかも思ったりしたが、あのシンジの態度はどうにもおかしい。

 確かに、シンジの顔は『先生』の顔をしていたような気もする。

 

<妙なコトになってるわねぇ…>

 

バタン

 

 考え込むアスカを、閉まるドアがようやく止めてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「この、バカシンジ!…じゃなくて、碇さん、アンタねぇ…」

 

「なに?アスカ」

 

 置いてきぼりをくらいそうになったアスカが慌てて家の中に入ると、やっぱりシンジは『先生』をしていた。

 

「…なんでもない」

 

「そう?」

 

 やっぱり、変だ。

 しかし、それを口に出して言うわけにもいかず、ソファの隅にチョコンと座り、成り行きを見守る。

 

 シンジは3人分の紅茶を用意し終えると、自分の部屋からレイのバックを持って来た。

 

「…色々勉強してるんだね」

 

「中、見たの?」

 

 レイはムッとした。

 女性の持ち物を勝手に検査するなど、怒られて当然。

 アスカも『そりゃそうだ』と頷いている。

 いつもなら、『ごめん』とあやまりそうなところだが、シンジは動じない。

 ただ、その顔はひたすらに優しい。 

 

「生徒さんのこと、知りたかったからね。どんな勉強しているのか」

 

「勝手なことしないで」

 

 少しからかうような口調に、レイは益々不機嫌になり、バックをひったくった。

 シンジは苦笑を浮かべながら、あのCD―――『僕らが旅に出る理由』―――をポケットから取り出した。

 レイは顔をカッと赤くし、慌ててそれを奪い取ろうとして、紅茶をこぼしてしまった。

 レイがそれに気を取られている間に、シンジは立ち上がって彼女の射程圏内から離れていた。

 

「僕らが旅に出る理由…小沢健二、ポップスだね」

 

 その題名を耳にしたアスカが目を輝かせる。

 

「ウソ!アタシもこの曲好きなんだ!

♪ぼくらの住むこの世界では 旅に出る理由があり♪誰もみな 手を振っては しばし別れる♪

この♪しばし わか〜れ〜る♪ってとこがいいのよね!?」

 

 アスカの言葉に思わず頷いたレイは、自分を見つめていたシンジに気がつくとハッとして下を向いた。

 

「綾波も好きなの?」

 

 シンジが茶目っ気たっぷりに言う。

 

「いいえ…」

 

「ポップスなんか聞くと、父さんが怒るだろ?」

 

「ウソ…」

 

 アスカは自分も名家のお嬢様でそこそこ躾は厳しくされたが、『今の時代そこまで言う人間がまだ居るのか』と絶句した。

 

「そういうのは音楽じゃないから」

 

 目を逸らしながら、レイがうそぶくと、シンジは言った。

 

「ねぇ、これ、弾こうよ」

 

「えっ…?」

 

 シンジはグランドピアノの前に座り、一瞬だけ辛そうな表情をすると、アルペジオでさっきのメロディを綺麗に弾いた。 

 

 ♪...♪♪...♪...

 

 それは、包みこむような、暖かくて優しい音。

 自分には絶対に出せないその音にレイは耳を傾ける。

 

「へぇ…、こう聞くとまるで別の曲みたいね」

 

 アスカは大好きな曲がこんな風に変わるのか、と感心する。

 

「……」

 

 シンジは黙りこくったままのレイに静かに語りかける。

 

「これ、父さんが唯一、クラシック以外で弾く曲だよね?」

 

「…ええ」

 

「僕も一度だけ、聴いたことがある。珍しいよね、父さんらしくない優しい感じの弾き方だったし。

あんまり珍しかったから聞いてみたんだ、『これ、何て曲なの?』って

答えは『これは音楽ではない。忘れろ』」

 

「…私にも、そう言ったわ」

 

「そうだと思った…。

でも、きっと父さんはこの曲が好きだったと思うんだ。そうじゃなきゃ、あんな想いのこもった音は出せない。

ただ、あの人の言う『音楽』っていうのはもっとシビアで…音には『想い』なんて柔らかなものじゃなくて…。

『激情』って呼べるくらいの強い何かを込めないと『音楽』って呼ぶのが許せない人なんだ」

 

「……」

 

「楽譜なんかなくても、耳で感じて弾けばいい、自分の思ったように、ね。」

 

 また、黙ってしまったレイに、シンジはポロン♪と引き終えると言葉を続けた。

 

「ねぇ、音楽って唯一、音を楽しむって書くんだよ」

 

「えっ…?」

 

 レイが訊き返す。

 

「数学とか、科学とか、芸術とも違ってさ。オザケンでもショパンでも、綾波が好きだと思ったものをやればいいんじゃないかな」

 

「……」

 

 レイは再度黙ってしまった。

 

「これが僕の考え方。

父さんの考え方、冬月先生の考え方、ケンスケの考え方…色々あるよね。

綾波は?

どんな風に考えてる?」

 

「私…」

 

 レイは答えられない。

 唯一、答えられるとしたら、ゲンドウから与えられた『ピアノは技術が全て』という戒律しか無い。

 しかし、シンジのピアノを心地良いと感じてしまった今、それを言ってしまったら、逃げにしかならない。

 それは、ゲンドウを、シンジを、そして自分を裏切ることになってしまう。

 

 シンジは戸惑いと不安に苛まれているレイのために、今度は自分の一番好きな曲のひとつ

 ―――SPEECHの『if U  was me』―――を弾きながら言った。

 

 

「…ごめん、少し意地悪な言い方だね。でも…綾波は本当に音楽を大事にしている人だから、いつか言いたかったんだ。

僕達は、譜面を写し取る機械じゃない。曲への、ピアノへの想いを込めて弾く…表現者なんだと思う」

 

<…ヒョウゲンシャ?>

 

 その、ありふれた、けれど新鮮な言葉をレイは心の中で反芻した。

 

「その曲を愛していなければ、ピアノを愛していなければ、いいピアニストにはなれない。

…少なくとも、僕はそう思う」

 

「……」

 

 まだ黙っているレイの後ろで、アスカもシンジの話を聞いていた。

 

「ごめん、先生ぶってこんな話しちゃって…迷惑だよね?

でも、僕は綾波のおかげで、大切なことを思い出せた」

 

 シンジがレイにCDを差し出す。

 

「もう、いらない」

 

「…そう」

 

 直ぐに差し返されたCDを悲しげに見つめるシンジに、レイはブスッとした声で言った。

 

「聞きたくなったら…・自分で弾く」

 

「…ありがとう」 

 

 笑顔で言うシンジに、レイの頬を真っ赤に染まった。

 

 どうやら、シンジ先生の授業は成功に終わったようだ。

 しかし、授業参観をさせられたアスカは釈然としないものを感じていた。

 彼女には、シンジの笑顔に影が差しているように、見えた。 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後の会話の中で、謝罪と現状の説明をしたアスカは、レイに『知人』と認識されるまでに相互理解を深めることに成功した。

 何とか二人の関係を『友人』と呼べるまでに昇格させようと、帰るレイをアスカが送って行くことを提案、了承を得た。

 

「じゃ、行こっか?」

 

 数分前に比べると、随分と打ち解けた感じでレイを促し部屋から出て行くアスカを、直前でシンジが止めた。

 

「やっぱり…僕が送ってくるよ。…一応、先生だしさ」

 

「…そっか…そうね」

 

 一瞬だけ考え込んだ後、アスカは頷いた。

 複雑すぎる表情を浮かべて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ネオンの薄暗がりの中で、シンジは駐輪所に置いてある滅多に使わない自分の自転車の鍵を外した。

 レイは傍で、シンジの横顔をじっと見ている。

 

 「じゃ、行こうか?」

 

 ニッコリと笑い、荷台に手をのせる。

 レイは少しだけ躊躇した後、チョコンと荷台に座る。

 シンジは自転車をこぎ出した。

 ゆっくりと流れる初夏の風は心地よく、少しだけ触れるシンジの体は暖かかった。

 

<『ありがとう』、そう、言った…>

 

 それは感謝の言葉。

 何故、シンジが自分にそんなことを言うのか、まるでわからない。

 こんなに自分を安心させてくれる言葉を聞けるようなことなど、何もしていない。

 

「私こそ…ありがとう…」

 

 レイの余りにか細い呟きは、ちょうど通り過ぎたバイクの音に掻き消されてしまった。

 

「何か言った?」

 

 よく聞こえなかったシンジは振り返って聞き返した。

 

「…なんでもない」

 

 そう言ったレイは、微笑んでいた。

 今まで見たことのない、安心しきった笑顔だった。

 シンジは微笑みを返すと、再び前を向きペダルを踏む。

 レイはシンジの背中に、ほんの少しだけ頬を近づけてみる。

 そして、ひどく安らげるこの時間が、少しでも長く続くことを願う。

 シンジの表情は―――暗くて良く見えない。 

 

 自転車は、流れるように、坂を下っていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 マンションにひとり残ったアスカは、ピアノの前に座ると、レイの置いていったCDを置いた。

 人差し指でポンとキイを叩くと、以前、シンジが弾いていた哀しく優しいバラードを拙いながらもなぞってみる。

 

♪........♪...♪........

 

 ぎこちない指先通りの拙いメロディーが、静かな部屋に響いた。

 キイを叩くのを止め、音の残響が完全に無くなるのを確認した後、自分の部屋に戻り、あの葉書の半切れを見つめた。

 今でもやっぱり辛い。

 頭では割り切ったつもりでも、締め付けられるように苦しい胸は誤魔化すことはできなかった。

 早く忘れたいのに、忘れられない、くだらない矛盾を抱えた自分がそこに居た。

 そんな自分が嫌いでも無い。

 

 『結婚しま』で切れている葉書を見ているうちにアスカは、大騒ぎをしていた時にシンジが口にした苦し紛れの言葉を思い出した。

 

「結婚しま…せん…か。バカ」

 

 なんだかおかしくてアスカはクスッと笑った。

 そう、あれがシンジだ。

 バカで、不器用で、かっこ悪い、底抜けのお人よし。

 それが、彼女の知っているシンジ。

 

 でも、さっきのシンジは違っていた。

 確かに優しいけれど、それはまるで何かを演じているような優しさ。

 自分の言いたい言葉では無く、相手の求めている言葉を与えているような出来た教師のようなそれに、アスカは違和感を覚えた。

 

 確かに、あれは『生徒』であるレイにとって最良の態度と言葉だったかもしれない。

 しかし、シンジにとってはどうだっただろうか?

 あれは、自分を『想い人』から『優しい先生』に位置付けてしまったのではないだろうか?

 しかも、自分でそれがわかっていながら、意図的に。

 そう考えると、他人のことばかり考える実にシンジらしい行動である。

 

「…ホントにバカね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 下りがあれば、当然上りもある。

 上り坂になった道をシンジは必死でこいでいた。

 レイの家の前の道は、中々無いくらいの急勾配なのでかなりきつい。

 立ち漕ぎにしないと、止まってしまう程にスピードが落ちた時、察したレイがポンポンと肩を叩いて荷台から降りる。

 今度はレイが自転車をこいで、シンジが荷台を押していく。

 

 二人は恋人のようにも見えたかもしれないし、兄妹と言えば誰もが納得する、そんな光景だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アスカはキッチンに入ると、ズラッと並んでいるワインの瓶を眺めた。

 一本開け、ワイングラスを片手にシンジの帰りを待つ。

 ふと思いついて、オーディオセットにあのCDをかける。

 

♪心がわりは何かのせい? あまり乗り気じゃなかったのに♪

 

<まだかな…>

 

 アスカは待った。

 

♪せつなくてせつなくて胸が痛むほど♪

 

 「…そういうんじゃないの」

 

 流れる曲に突っ込みを入れながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 レイを無事に送り届けて、シンジが戻ってくる。

 ソファで、アスカがグラスを握り締めたままで眠りこけていた。

 風邪を弾かないように毛布をかけ、ついたままだったオーディオセットのスイッチを切る。

 シンジは、アスカのあどけない寝顔を見ながら少し微笑む。

 と―――

 

「お帰り、バカシンジ」

 

 狙っていたかのように、アスカがパッチリと目を覚ました。

 

「ごめん、起こしちゃった?」

 

 いきなり不機嫌なアスカにもシンジは落ち着いている。

 そこに『先生』の名残りを見つけたアスカは、不機嫌を装った声で続けた。

 

「早かったわね…この甲斐性無しは送り狼にはなれなかったのね。

ああ、『先生』だから仕方ないか…」

 

 含みを持たせたその言い方にシンジは気がついた。

 

「何が…言いたいんだよ…」

 

「別に…ただ、大したもんだなって思っただけよ。あの『綾波レイ』さん相手にさ?」

 

「……」

 

 シンジは何も言えなかった。

 

<アスカ…もしかして…>

 

 見つめ合う二人。

 沈黙が部屋を支配する。

 

「…辛そうにピアノ弾いてたクセに」

 

「!」

 

 見られて、いた。

 

「ホント、別にどうでもいいんだけどさ…アンタが決めたことに、アタシが口出しする筋合いも無いし。

でもさ、アンタ、もっと自分のことを一番に考えてもいいんじゃない?」

 

「……・」

 

「立派なこと、正しいこと、相手が喜ぶこと…でも、もっと大事なことって、あるよ。

失敗しても、後悔しても、気持ちに嘘ついたら、自分が信じられなくなっちゃうもの」

 

<やっぱり…>

 

 気付かれて、いた。

 シンジは綾波レイの『先生』に―――いや、『家族』になろうとしていた。

 レイは『私には何もない』と言った。

 彼女には、誰もが当たり前に持っているものが欠けているのだ。

 それは、家族。

 無条件に愛情を注いでくれる『父親』も『母親』も居なかった。

 その代わりになれたかもしれない、最もレイの傍に居たゲンドウは、ピアノの技術だけを教えただけだった。

 彼もまた、欠けてしまった人間だったから。

 だから、シンジの元にレイをよこした。

 シンジをレイの兄として―――あるいは父親として、彼女に欠けている部分を補わせるために。

 

 レイのバックの中にあったユイが仕事柄留守がちだったゲンドウを想い弾いていた、あの曲。

 あれを見つけた時、以前から薄々ながら感じていたいたことを、確信に変えた。

 あの曲をゲンドウが弾くということを知っているということが、彼の中の微かな家族の絆。

 レイがあの曲を知っているということは、彼女は家族なのだ。

 レイも、―――自分では気がついてはいないかも知れないが―――それを望んでいる。

 うまくやれば、純粋な子供のような部分のあるレイは愛情への飢えを、恋心と勘違いしてくれるかもしれない。

 その誘惑は、レイに、何より自分にとって余りにも不幸な結果を生む。

 だから、彼女を想うことは止めにしなければならない。

 

 シンジはそう思い込んでいた。

 そして、それは、ほぼ真実だった。

 

 右手を握って、開きながら、黙ったまま考え込むシンジに、アスカは呆れたように『おやすみ』と言って部屋に向った。

 だが、ノブに手をかけ、そこで止まる。

 

「ゴメン、言い過ぎた。

…ただアンタならさ、自分の気持ちに嘘つかないで、相手の喜ぶ立派で正しいこと、できるんじゃないかと思って」

 

「アスカ」

 

「ナニよ?」

 

「…ありがとう」

 

「…おやすみ」

 

 照れてドアを閉めてしまったアスカが、心からの感謝を浮かべたシンジの表情を見ることは無かった。

 シンジは星空を見上げ、思う。

 自分は、アスカの言ったように出来るとは思えない。

 でも、この想いは捨てないでおこう。

 レイに、家族への愛情と、異性への恋心の区別がつくようにしてから、彼女に伝えよう。

 『してから』という傲慢と、『家族』への裏切りを含むそれはたぶん相手は喜ばないだろうし、立派でもないし、正しくもない。

 それでも、自分の気持ちに嘘はつかないで済む、少しだけマシなやり方をアスカは教えてくれた。

 

「でも、なんでアスカにはわかっちゃったのかな…」

 

 誰にも気付かれないように、うまくやれていたつもりだった。

 幼い頃から、ゲンドウと冬月の前で『良い子』を演じ、気取られたことも無い。

 なぜ、彼女だけが?

 それは、きっと、今一番彼を見ているからできたこと。

 レイほどでは無いにしろ、家族というものとは疎遠な彼にとって始めて出来た『姉』。

 不安定なこの二人の関係は、今はそういう感じだった。

 

 星空を見上げている鈍感な彼は、それに気付かない。

 全くもって『バカ』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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REI2

 


 

after word

 

 

 おそいことが当たり前になったテリエです。

 謝っても、きっと直らないのでもう謝りません。

 変わりに感謝を。

 ありがとう、をUrielさんと読んでくれるみなさんへ。

 

  今回の反省点

 ●遅いことにはもうビックリしないが、後半の息切れにはビックリ。

 ●時田とモエがうまくない。実在の人間のモデルが居る、といったら驚きますか?

 ●アスカさんが不幸過ぎ。

 ●話が進まない。

 

 

 

 

 

世界中にありがとう(開き直り)


テリエさんから頂いたのは、第五話の後編。
多謝。
奇天烈な娘も出てきて、なかなかいい感じに上がってるじゃありませんか。
それはそうと、このレイは結構感情が豊かなのですよ。
少なくとも−怒と哀位は持っているような。


コメントIN女神館の住人達+X

翌朝、シンジは寝起きのボサボサ頭のまま、郵便受けから新聞と郵便物を取り出した。

さ:「ハリネズミのジレンマ、ってご存じですか?」
U:「針と針がぶつかってチクチクする話の?」
さ:「違いますよ。朝の碇さん、髪がハリネズミみたいになってる。あたしが直してあげたいって思うんだけど…」
U:「けど?」
さ:「元があたしより綺麗だし、下手に触ると水とか飛んでくるし…もう」

「おはよう」
トイレから出て来た彼女の頭に響かないように気を使いながら、挨拶を返す。

U:「私の記憶に間違いがなければ、ここで声を掛けなければアスカ嬢が添い寝する筈なんだが」
ア:「何言ってんの?それはあたしが中学生の頃の話よ、今はそんなことしないわよ」
U:「添い寝は止めた?」
ア:「あったりまえじゃない。今は−シンジ限定だけどいきなりくわ…あうっ」
レ:「赤毛殲滅。任務完了」
U:「…こっちは戻ってる…つか、これ誰だ」

エアメールの消印が同性の結婚を認めている国のものだったとしても、そうなのだ。

シ:「あ、これいいな」
さ:「…い、碇さん?」
ア:「シ、シ、シンジっ?」
シ:「あ?」
す:「ま、まさかそう言う趣味がおありとは…」
シ:「何言ってんだよ、アスカとすみれが結婚でもすれば、もう少し仲良くなるだろ。まったく」
さ:「結婚されても、夫婦喧嘩ばかりだと思いますが…」
シ:「ま、いいや。で、アスカならこれ追っかけそうだと思うんだけど」
ア:「追わないわよそんなの。だってあたしにはシン…いったー!」
す:「あーら、手元が滑ってしまいましたわ」
さ:「やっぱり…」

アスカの力が緩んだ瞬間、すかさずシンジが葉書の半分を口の中に放り込む。

さ:「黒山羊さんたら読まずに食べた♪」
シ:「か、紙って美味しいの?」
ア:「食べて見れば〜?あんた、そう言うの得意でしょ」
さ:「アスカさんどうしたの?」
マ:「碇さんにラブレターが来ていたのよ…あら?」
さ:「…碇さん…
シ:「何で俺がー!」

「いや、ちょっと、紙、食べたの生まれて初めてなんで、漢方胃腸薬を…」

ア:「嘘ね」
U:「…は?」
ア:「泣いてる乙女に、わき上がったアレを抑えるため、精神安定剤を飲んだんだわ」
U:「……!?」
シ:「なーんで俺が、そんなの飲まなきゃならないのかな〜」
ア:「い、いたたた…いたいってば」

莫大な『寄付』を条件に入学した、男に貢がせるだけ貢がせて捨てる、体と引き換えに教授に単位を迫る、等々…。

シ:「俺も今年入ってたら、やっぱりそう言われたんだろうなあ」
フ:「何を感慨に耽っている?マスター」
シ:「だって、結構暇なんだよ。管理人だから、ひょいひょい海外にも行けないし」
U:「放って置いて、行って来ればいいだろうに」
シ:「そう言うわけにも行かないさ。一応俺の管理下なんだし」
フ:「気に掛けてるんだな。そういうとこ好きだよ、マスター」
U:「何故私の前でベタベタと」

中学、高校ならばまだ意味があるだろうが、大学生になってまで、過程だけを評価するなど論外だった。

シ:「熱意、それだけでも別にいいんじゃないのか」
U:「ほう?」
シ:「だって、今うちの連中に、降魔倒して結果出せって言っても、到底無理な話だし」
U:「なかなか言う。とは言え、対降魔に関してはそうかも知れないな」
シ:「そうそう」
さ:「ちょっと、勝手に納得しないでくださいっ」

それなら、さっさと寝ろという話にもなるが、この後も、会合と会議が目白押しで寝るわけにもいかず、寂しい女の二人遊びと相成った。

ア:「だ、だってシンジを思うと指が勝手に…いけないってわかってるんだけど…あうっ」
シ:「指が勝手に藁人形作るんじゃない。それにその五寸釘は何だ」

「わけのわからないこと言わないで、すぐに次に移らせて。
私、何も間違えてない。暗譜だって完璧にしているもの」

レ:「この子駄目ね、何にもわかっていないわ。お兄ちゃんの言う事に、間違いなど絶対にあり得ないのに」
U:「お兄ちゃん?もしかして、ATフィールド張れるレイ嬢?」
レ:「それ以外に誰がいるの」
U:「(…誰だ呼んだのは)」

「そんなの見ればわかるわよ。スカート長くて、体育倉庫に気に入らない人間を呼び出してたわね」

フ:「面白いことを思い出したな」
シ:「面白いこと?」
フ:「マスターを呼びだしたのは、いつも二種類いたと思ってな。一つは殺気立った連中、もう一種類は…む」
シ:「こらっ、ばらすな」
U:「お手紙とか持った連中だな、さては」

すぐに見つかったけど、結構、大騒ぎになったわよね?アスカは『探さないで』って暴れるし」 

U:「暴れる…キングギドラ?」
さ:「ゴジラだと思いますが」
ア:「そんな事言ったらアスカが可哀相でしょ」
さ:「アイリス…」
ア:「アスカはそんなに大きくないんだから、ピグミーって言ってあげないと駄目」
「『……』」

「アスカ…もうブリブリを売りにできるほど若くはないんだから、やめなさい。23のソレはギリギリよ?」

U:「訂正しておこう、ギリギリではなく、単なる犯罪だ」
シ:「クリスマス迄って言ってなかったっけ」
U:「それは全体の…(以下略)」
シ:「以下略?…あ゛」

「アスカの幼児退行ぶり。アスカの性格とか、腕力とかを知らない人が見たら、『かわいい』って思うんじゃないかな」

ア:「もー、余計な事言ってないでちゃんと褒めなさいよね、まったくもぅ」
シ:「ほー?俺に?この俺に褒めて欲しいの?」
ぶるぶるぶる。
ア:「う、ううん、そんな事はちっともっ。炎出して言うの止めてよっ」
U:「トラウマになってるぞ」

「あっ、なるほど、グラスね。でも、アタシ、病気ないわよ。あっ、シンジ気にしてるんだ。か・ん・せ・つ・キッス♪」

シ:「水なんか口移しでいいのに、グラスごときで何いってるんだか」
さ:「く、口移しってそんな…ん?」
シ:「なに?」
さ:「だ・れ・と!されたんですかー!」
シ:「ひたたたた」

レイがそれに気を取られている間に、シンジは立ち上がって彼女の射程圏内から離れていた。

シ:「これ、ちゃんと拭いたんだろうな。すぐ拭かないと、こう言うのは染みになるんだぞ」
U:「妙に家庭的な所も持ってるな」
さ:「碇さん…

ニッコリと笑い、荷台に手をのせる。

U:「君ならどうする?」
シ:「俺がフェンリルに乗る。で、俺の肩に担いで持っていく」
U:「合格」
さ:「な、何の話ですか?」

「でも、なんでアスカにはわかっちゃったのかな…」

U:「たまにいるんだな、妙に勘の鋭い娘が。髪の毛とかすぐに気が付くし、髪型変えるとすぐ指摘するし」
さ:「なんか…変な実感こもってません?」
U:「何の事やら。それより、君なら気付く?」
さ:「私は…後ろから見つめていたいなって思うから、気付かないかも…」
U:「で、具体的な対象は?」
さ:「それは勿論いか…そ、そんな人はいませんよっ」


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