妖華−女神館の住人達外伝
ドクトルシビウの闇カルテ:ツェザーレ
第九十四話:来栖川さんのお時間:あまがみっ!
「ヒーホー、こんな愉しい仕事はナーイ」
甲板上で、どこぞの低級夜魔みたいな台詞と共に、手にした柄付きブラシを動かしているのはシンジである。
ブラシの先端はスポンジに替えられており、一見すると罰として掃除を命じられた居候に見えるのだが、そのスポンジが這っているのは甲板ではなくトップレスの娘達だ。
シンジに精を吸われて失神したミーアを部屋で担いでいった二人は、サンオイルを手に全力で駆け戻ってきた。
「〔よ、よろしくお願いします…〕」
水着姿で座り、三つ指を突いた二人にシンジは、はーいと頷いた。
ステラのビキニは簡単に取れたが、キラの水着は競泳用水着なので開いている面積は大きいものの、一人ではなかなか脱げない。何とか脱ごうともぞもぞしていると、後ろに回り込んだシンジが脇腹をひょいとつついた。
「ひゃぅっ!?」
ぴょんっと背を伸ばした拍子に水着が外れ、元々背中が大きく開いていただけに、おへその辺りまで丸見えになってしまい、慌ててキラが手で両胸を隠す。
「取れたでしょ」
「も、もーっ、シンジさん!」
赤い顔で睨むが目は怒っていない。
(……)
一方、その横では眉根を寄せているステラがいるが、何も言わない。と言うより、言えないのだ。
おねだりの仕方を間違えて、ミーアの後を追うところを何とか誤魔化してここにいるのだ。余計な事を言ったら、ミーアの後を追う事になるのは間違いない。
内心で、ぷうっと頬をふくらませているステラの心を知ってか知らずか、
「さて、道具も揃ったし材料もある。さ、二人ともそこへ横になって。絶対に仰向けにならないように。あとステラ、ちょっと胸寄せて」
「胸?寄せる?」
トップレスでうつ伏せになっているのに、何故乳など寄せるのかと思ったら、
「日焼止めは絶対じゃない。折角のおっぱいが日焼けしたら勿体ないでしょ」
「お、お兄ちゃん…」
ぽうっと赤くなったステラだが、
「オーブに着いたら思う存分吸っていいと許可が出てるのに、日焼けごときでおっぱいを傷めては大変」
「…えええー!?」
ステラの美乳を褒めたとか、気遣ったとか。
そんな事では全くなかったらしい。
しかし危機を脱する為とは言え、思わず口走ったのは自分だし、それはその時になったら考えればいいかと、キラと二人並んでシーツに横たわり、シンジの前に白い裸身を晒す。
僅かに身を強張らせたのも束の間、背中にオイルをたっぷりと垂らされ、その上をスポンジが強弱を付けながらワサワサと這い回り出すと、二人揃ってもじもじと身動きし始め、やがて甲板上には少女達の唇から漏れる甘い吐息が共鳴していった。
ナタルの目がゆっくりと開いた時、冷たくナタルを一瞥したシンジは、当然室内にはおらず、その視界に映ったのは心配そうに自分を覗き込んでいるマリューの姿であった。
「あ…艦長…」
「目が覚めたみたいね、気分はどう?」
「はい…」
ゆっくりと起き上がり、首を数度回してから頷いた。
「大丈夫です」
「良かった。ごめんね、私が調子に乗ったばかりにナタルを巻き込んじゃって」
「いえ、自分は…。あの…」
「なに?」
「その…もしかして…怒らせたのですか…?」
シンジを怒らせたせいで吹っ飛ばされたか何かして、その手当に自分が呼ばれたと思ったらしい。
マリューは緩く首を振った。
「違うわよ。そんな事してあなたに全権を押しつけたら、私が目覚めた時にはこの艦(ふね)が無くなっちゃってるでしょ」
「申し訳ありません…」
(あ、やば)
シンジに乳房を吸わせたら、母乳だけでなくエネルギーまで吸われたらしい、とこれがレコアならまだしも、ナタルには言える内容ではないと判断したのだが、悄げてしまったナタルを見て可哀想になり、慌ててその頭を軽く抱きしめた。
「明日はオーブへ向けて出立よ。ナタル、今夜はゆっくり休みなさい」
「は、はい…え?」
「どしたの?」
「あの、ここはいったい…」
「オーブからちょっと南下した島よ。オーブへ入国するのに、ナタルが目覚めないまま入れないでしょう?」
「艦長…」
「じゃあね、おやすみ。ナタル」
「はっ」
ちう、と軽くナタルの頬に口づけしたマリューの姿が部屋の外に消えた後も、ナタルは唇の感触が残る頬に触れたまま、暫く彫像のように動かなかった。
結局、出立時刻まで万全の態勢で待ち構えていたシンジの術に出番はなく、翌朝AAは定刻通り出立した。
主戦力の少女二人は、前日シンジと添い寝を許可されていたこともあって心身共に満たされており、術に出番がなかったとは言え、シンジも別段そのことは気にしていなかった。
前回、あそこまで肉迫されたのは術に不備があったことと、何より自分が甲板にのんびりと顔を出していたからで、いくら何でも自分が二度も同じ轍を踏むことを敵軍が期待しているとは考えていない。
そのシンジはと言うと――。
「私の顔に何かついているかしら?」
「べ〜つ〜に〜」
体調も悪くないのに医務室へ赴き、レコアの顔を眺めていた。
最初は放置していたレコアだが、自分を見るというより診る視線にたまりかね、とうとう向き直った。
「もう、さっきから一体何なの?体調に問題ないなら一人にしてくれないかしら」
「女の顔をしているな、と思って」
「……」
普段は男に見えるのかしら、と訊くほどレコアも間抜けではない。シンジの言う女が、何を指しているのかは分かっている。
「この艦で、レコアのその表情を見られるとは思わなかった。記録して残しておきたいところだよね」
「…何でよ」
「あとで使えそうだし」
「そういう趣味って、嫌われるわよ」
「それも一理ある。今回は止めておこう、邪魔したね」
そう言うと、シンジはあっさりと身を翻した。
ほっと安堵したレコアだが、ふとその表情が曇った。
後で使えそうだから記録しておきたいが今回は止めておこう、とシンジは言ったのだ。
先日の痴宴が記録などされていないのは分かっている。いくら欲情の渦に溺れていても、自分の居城でカメラを仕掛けられて気付かぬほどレコアは愚かではない。
つまり、シンジの言葉が指す記録とは先日のことではない。
では、この異世界人は何を盗撮しようというのだ?
暫し考えたが答えは出ず、やがてレコアは考えるのを止めた。
が、しかし。
このときシンジをとっちめて、あとで使うとは何なのか、いやそれより既に撮ったのか撮ってないのかどっちなのかと、吐かせなかった事をレコアは後悔する事になる。
レコア観察を中止したシンジは、自室に戻った。
丁寧にベッドを整えてから、内線の受話器を取り上げ、格納庫を呼び出した。
「おう、どうした大将?」
「二人は今、整備中かい?」
「ああ。もう終わるわ、そっちに行かせるよ」
「ありがとう」
コジローに礼を言って通話を切ると、しばらくベッドを眺めていたが、やがてその口元に僅かな笑みが浮かんだ。部屋に少女を呼びつけた男が、ベッドを眺めて笑うなど胡散臭いことこの上ないが、その笑みに邪気は微塵もなかった。
まもなく聞き覚えのある複数の足音が近づき、部屋の前で止まった。
(ん?)
数秒待っても扉はノックされず、ベルも鳴らない。但し、気配は部屋の前で留まっており、シンジがゆっくりと首を傾げた直後、扉が遠慮がちにノックされた。
「鍵はかかってないよ、どうぞ」
「『お、おじゃまします…』」
昨晩はシンジを左右から挟んで熟睡出来たし、朝もシンジの機嫌が悪い様子はなかった。何事かとすっ飛んできたのだが、シンジの表情を見る限り特に変化もなさそうだ。
「『!?』」
と、不意にシンジの手が動いた。
直立不動の姿勢ですっと敬礼したのだ。
慌ててキラとステラも倣う。
「キラ・ヤマト」
「は、はいっ?」
「ステラ・ルーシェ」
「はいっ!」
「ヘリオポリスからここまで、よく俺に助力してくれた。礼を言う。ほんとうに、ありがとう」
「『碇さん…』」
「本来、MSは二人乗りではない。操縦の補助も出来ぬ者を積んで、ここまで戦果を挙げるとは、初めてMSに乗った時には想像もしていなかった」
「そ、そんな事ないです…」「シンジさんがいてくれたからの戦果で…」
敬礼したまま、うっすらと赤くなった二人に穏やかな視線を向け、
「幸か不幸か、オーブまで敵がおいでになる事はないだろう。キラもステラも、何とか約定通りオーブまで配達できそうだ。そこで、だ」
靴を脱いでベッドに上がると、左右をぽんぽんとたたいた。
「『?』」
「品物の配達、特に生鮮品は鮮度が大切。オーブに着く前に傷んでは大変。さ、おいで」
「『!?』」
顔を見合わせた二人がみるみる赤くなり、
「そ、そんないきなり三人でなんて…」「ま、まだ心の準備が…」
「…あ?」
「『…え?』」
「オーブまで眠っておいで、と言っとるんだ。いきなりって何さ」
「も、もぅ、何言ってるんですか!そんな事分かってますよっ」「お兄ちゃんの思考は時々淫らになるのが問題です」
ピキ――。
数分後、シンジの両膝で少女達はすやすやと寝息を立てていた。
時折青筋をこめかみの辺りにうねらせてはいるのだが、もうオーブ目前だし、召喚したのは自分だからと吸うことも吊す事もせず、二人の頭を膝に載せている。
「…で、なんで下着姿なのさ」
照れ隠しのように左右からシンジをぽかすかと叩いた挙げ句、競うように服を脱ぎ捨てて左右から乗ってきた。
とりあえず眠らせたものの、己が処遇に納得がいかずぶつぶつとぼやいているところだ。
二人の手を取って重ね、
「さて、どうしてくれようか…あ、そうだ」
思い出したように宙を見上げ、
「オーブに着いたら早速ステラを吸わなきゃ。楽しみだ」
びくっ。
「ん?」
何となく、ステラの身体が震えたような気がしたが、完全に眠っている。
気のせいかと、
「母乳(ミルク)有りは試した。無しで吸った場合には、さてどうなるか」
およそ、女の乳首に吸い付くことを考えているとは見えない表情で呟いた途端――。
びくびくっ!
(おや?)
今度は確実にステラが身動ぎし、よく見ると手も小刻みに震えている気がする。
(ぬう?)
首を傾げてから、自分が二人の手を取っていることに気付いた。
「そうかそうか。伝線したか」
重ねた二人の手を両手で優しく包み込み、二人の寝息が共鳴するのを確認してからそっと身体を外した。
「俺からの贈り物。乙女達にしばしの良い夢を」
下着姿の少女達にブラケットを掛けてやり、音を立てずに部屋を出た。
「本艦は間もなく、オーブへ向けて出立する。総員、最終点検にかかれ」
凛としたナタルの声を聞きながら、シンジの切れ長な眉が僅かに寄る。
永劫の闇に意識だけ封じ込めておけば良かったとか、ろくでもない事を考えているのは間違いない。
微妙に不機嫌な表所のまま歩くシンジの後ろから、
「あまり怒るとしわが増えるわよ」
笑みを含んだ声がかかり、シンジの足が止まった。
「皺だらけの顔になって、ご家族の元へ帰還してみるか?」
「五十年経ったら頼むわ、今は良い。そ、それよりちょっと寄ってきなさいよ。敵襲はもうないんでしょ」
「お邪魔するよ」
シンジがゆっくりと振り向くまでの間、綾香が数度、手を開閉していたことにシンジは気付かなかった。
無論綾香に他意はなかったのだが、自分が地雷原に足を踏み入れかけた事に気付いていたのだ。
振り向いたその顔に、もうさっきまで顔に浮かんでいた闇は見えない。
「セリオ、飲み物持ってきて」
「かしこまりました」
綾香の対面席に腰を下ろしたシンジに、
「あのさ碇、オーブにつ――」
綾香の言葉が終わらぬ内にセリオが戻ってきた。
「随分早かったわ…ね?」
楚々とした仕草で運んできたのは――水であった。
「…セリオ?」
「はい」
「はい、って、いやあんたさぁ…」
艦内の温度は一定に保たれており、思考回路に異常を来すような環境ではない。何か調整を間違えたか、と言うよりこんなものを出されて何を言うかと、思わずシンジの顔を見た綾香だが、
「ありがとう」
シンジは当然のようにグラスを取ると、表情も変えずに飲み干した。
「あんた…それでいいの?」
「メイドさんの思考回路に問題はない、おいしいよ。それで、さっき何を言いかけたの?何か飲んでいけと喚んだ訳じゃあるまい」
「あ、ああそれね…。あなた、オーブに着いたらどうするの?予定ある?」
「勿論」
「そっか、そりゃそうよね。全く予定がないわけ…え?」
「前にも言わなかった?人捜しだよ」
「?」
可愛らしく小首を傾げた綾香に、
「世界に一人くらいかもしれないが、絶対に存在はする筈だ。暇と知識を持て余して異世界への通路を探している閑雲野鶴のご老人がね」
(あ、ああそーゆー事ね)
予定などと言い出すから何かと思ったが、元々戦争とは最も無縁の存在である異世界人がこの世界で何をするかなど、訊くまでもないことだ。
だがそれなら却って好都合だと、
「はっきり言うわ。うち来ない?」
「うちって、来栖川の小屋?それとも来栖川重工総裁の別宅?」
「こ、小屋?失礼ね、ちゃんとした屋敷よ。あんたでも絶対に不自由はさせな――」
「結構だ」
シンジの答えは早かった。
「ちょっと!話は未だ終わってないのよ、答え出すの早すぎない?」
それには答えず、
「セリオ」
首を横に向けた。
「はい」
「来栖川綾香の思考は、一族の中では標準的かい?それとも異端かい?」
「常に異端ではありませんが、しばしば他の方と変わった結論を出されます」
「そうだろうね。もっとも、そうでなければ俺と対等に向き合うのは無理だ。来栖川重工の立ち位置は分からないが、気分一つで全てを敵に回す奴を、それも異世界人など迎え入れるのは到底出来ない相談だ」
「…私があんたの世界に行ったら、あんたは用が済んだとそのまま放り出すの?」
いいや、とシンジはゆっくり首を振った。
「そのまま比較するのも能がない話ではあるが、やってきた異世界人を用済みと同時に放り出しては俺が二度と夜の街を歩けなくなる」
だってこんな奴を匿ったら後が怖いじゃない、などと口にした自分へ向けられる赤瞳など想像したくもない。
「だったら――」
シンジは軽く手を挙げて綾香を制した。
「俺にはあって来栖川にはない、決定的なものが一つある。俺が借りのある人を保護すると言ったら、例え世界が敵に回ってもあの人は味方をしてくれる」
「あの人って彼女?」
「…え?」
シンジの口がぽかんと開き、数秒経ってから笑い出した。ヌハハハ、と大笑いしてから、
「ああ、ごめん。後からどころかいきなり来ちゃったから。彼女以前に、性別はおそらく男性だよ」
性別不詳、などと洒落たものではなく、そもそも人間かどうかすら怪しい存在だとは言わなかった。
(お、おそらく?)
「いずれにしても、この艦に乗ってるだけで、ご親族は相当なご心労だろう。これ以上おかしな荷物など持ち込んで、困らせてはいけないよ。来栖川の気持ちだけもらっておく」
「で、でもあんた身一つで…」
「金はある。おハルさんが礼金としてくれたから、当面の生活は困らんだろう。身の安全はもっと心配してない。大丈夫だよ」
「そう…」
「とはいえ、ここまでよくガキンチョ共を統率してくれたし、俺の身の振り方まで気遣ってくれた以上、お礼はしないとね」
そう言うと、シンジはすっと立ち上がり綾香に近づいた。
「別にお礼なんてそんな…あ」
綾香は無論処女ではない。
男に顔へ手を掛けられ上を向かせられれば、何が起きるか位は想像がつく。
(ま、まぁいいか)
自分に言い聞かせるように内心で呟くと、そっと目を閉じた。そこへゆっくりとシンジの顔が近づいていき、目を閉じていても感じる存在感にきゅっと手を握りしめた綾香だが、唇に何かが触れる事は遂になかった。
「うひゃっ!?」
綾香が素っ頓狂な声を上げたのも諾なるかな、触れられたのは唇ではなく首筋、しかも触れたのは唇ではなく――歯であった。
かぷ。
(か、噛むのっ!?)
無論、綾香はつい先日ミーアがほぼ同じ経緯を辿ったことを知らない。
そして、その結末は全く異なっていることも、また。
首筋へわずかに食い込む歯の感触は、綾香に痛みとは違うものを伝えてきた。勿論綾香に首筋を噛まれた――それも男になど経験はないが、そこから伝わる何かが、単に甘噛みされているだけではないと告げていた。
(何か…入ってくる?)
その、何かを見極めようと、シンジの為すがままにさせながら綾香は全神経を首筋に集中させたが、さすがの綾香も初体験で異世界人のスキルを見切ることは出来ず、すっと唇は少女の唇から離れていった。
「普通にキスと見せかけて首を甘噛みするおしゃれなテクニック…じゃないわよね?」
「俺からのキスなど、お礼どころか災いにしかなるまい。そんな嫌がらせはしないよ」
ピキ、と綾香の眉がわずかに上がったが、口を開く事はなかった。
「来栖川の能力の前には、無用の代物かとも思うが、いずれ役に立つことがあれば重畳というものだ。では、俺はこれで」
美少女の首筋に歯を立てたとは、微塵も感じられぬ風情で身を翻した背に、
「――シンジ」
綾香が呼び止めた。
「なにか」
「あたしがさっき…小屋って言ったら…答えは違ったの?」
シンジは振り向き、答える代わりに軽く一礼した。
「注がれるだけなら浮気にはなるまい。じゃあね」
「……」
出て行こうとするシンジの後頭部に、何かが直撃した。
「アーウチ!」
それはヤシの繊維で作られた洗浄用具――たわしであった。
「何を注いだってのよ、この変態っ!」
投擲物が投げ返されることも、精が復讐の刃と化して襲ってくることもなく、扉は静かに閉められた。
「お嬢様」
「それ以上、何か言ったら機能停止させるわよ」
「かしこまりました」
「で、あたしは何を注がれたわけ?」
「……」
艦橋でクルー達が最終点検を終え、マリューが発進命令を出そうとしたところへ、ふらりとやって来たのはカガリであった。
アイシャは伴っていない。
一般人が来る場所でもないし、まして時間でもないとナタルは厳しい目を向けたが、それも一瞬のことで、何も言わずに視線をそらした。
さすがに、マリューがいる前で叱咤しない程には空気が読めるようになってきた。
「どうしたの、カガリ?」
怒ることも咎めることもなく、柔らかい視線を向けたマリューに、
「艦長に…頼みがあるんだ…」
「私に?」
「オーブ領海に近づいたら、海軍が出てくる。いくらオーブのMSを積んでいても、領海に入ってくる他国の船を放置は出来ないからな」
「それは…そうでしょうね」
この艦がオーブに向かっていることなど、無論オーブ側は探知していようし、領海へ海軍を出してくる事もありうる、というより当然だろう。
ただ、目的が分かっている以上砲撃されなければ良いだけの話だ。
内心でわずかに首を傾げたマリューに、
「おそらく、出てくるのは第二護衛艦軍だ。もし、奴がこっちに向けて砲門を開くようなことがあれば…艦長頼む、私を艦橋から吊してくれ」
(……)
カガリの素っ頓狂な申し出に、マリューは表情を変えなかったが、他の者達はさすがに驚いたような表情になり、一斉にカガリを見た。
カガリがウズミ・ナラ・アスハの娘である事は既に知られている。その娘にそんな事をすれば、オーブでどういう事になるか位、考えるまでも無い。
カガイは一体何を考えているのか。
「あなたを裸にしてボディペイントして、その辺に吊すのは難しい事ではないけれど、そうすると何か良いことがあるのかしら?」
(艦長!ボディペイントとか、そこまでは言ってないと思います!)
カガリはそこまで言っていないのだが、口に出す者はいなかった。どうせ、シンジとの付き合いがマリューの思考回路に影響を与えているのは間違いないし、
「ああ…そうだったわね」
などと、頬を赤らめて言われた日には我が身を呪う羽目になるからだ。
一方カガリは、ボディペイントなる単語に聞き返す余裕も無く、
「旗艦の副長はミリィ・チルダーだ。ミリィがいれば、私のことは分かる。ミリィが奴を止められなければ…私はっ!」
「奴とは?」
「艦長のエマリー・オンス。無能じゃないが、堅物で融通が利かない」
す、とナタルの目が細くなる。
幾つかの視線がこちらへ向けられた気がしたのだ。
(誰だ!)
「さすがに撃っては来ないだろうが、ミリィがいないと、この艦に砲門を向けてくる可能性は十分ある」
「それは…ちょっと怖いわね。でも、その副長さんがあなたに気づかなかったらどうするの?」
「その時は、私を撃ってくれ。私は…自分の国が討たれるのを見たくないんだっ!」
ああ、とマリューは意図を理解した。その他に、頷いたように見えた者も数名いたが、やはり大半はカガリの意図が分からない。
その中の一人、ナタルが立ち上がった。
「引退したとはいえ元代表で、オーブに厳然たる精力を持つ実力者の娘を撃って、我々に災禍をもたらすことを希望されるのか」
「そーゆー事ではない」
カガリの後ろから聞こえた声に、カガリはびくっと肩を震わせ、ナタルは苦い顔になった。
「あの好戦的な異世界人が砲門を向けられて黙っているわけがない、絶対にあの不気味な技で報復するに違いない。私はそんな光景を見たくないんだ――と、こういう事さ」
ああ、という声があちこちで聞こえたが、
「今納得したのはダレダ!」
シンジに顔を向けられ、慌てて視線を外した。
「そ、そこまでは思ってない…けど…でも…」
「半分位は妥当なラインだ。が、いまんとこ、そーゆー予定はない。海軍が港ごと全滅したら、この艦が入る場所が無くなるし」
(そっちかよ!)
ろくでもない事を言い出したシンジだが、その言葉が法螺でも冗談でも無いことをクルー達は身を以て知っている。
「なにより――」
つかつかと艦長席に歩み寄るとマリューの耳元へ口を近づけ、
「邪魔」
と囁いた。
一瞬表情を強張らせたマリューだが、シンジが自分だけに囁いた事に気づき、身体を右側に寄せた。
空いたスペースへ身体を入れて座り、
「艦長に怒られるから止めておく」
身体を密着されたマリューが頬を染めたのを見て、この空気ならと安心したのか、カガリは小さく頷いた。
「お、お邪魔しました…」
TPOを思い出したのか、我に返ったように頭を下げてカサカサとカガリが退出した後、
(防御システム、起動させないでよ?)
「…うん」
「今、なんか間がなかった?」
「ミサイル撃たれたらどうしようかと思ったんだが…」
「が?」
「これで跳ね返すからいいかと」
「これ?」
何やら秘策でもあるのかと思ったが、シンジの顔は自分に向いている。
しかも、視線の先は顔より下にある。
(…ん?)
「こ、これ?」
「それ」
マリューが指差し、シンジが当然のように頷いたのは――マリューの胸であった。
「それなら十分クッションになるでしょ」
「こっ、こんなところで何言ってるのっ、それってセク――痛っ!」
スパン!
「うるさい」
顔を赤くして抗議するマリューだが、そもそも声量を落としてはいるものの、当然テレパシーを使った会話ではないので、艦橋内にほぼ声は聞こえている。
狭いシート内で公然とじゃれ合っているようにしか見えず、
「艦長席でいちゃつくな!」
と、無言の抗議のオーラがあちらこちらで立ち上りだしたところで、
「艦長、そ、そろそろお時間です」
ナタルが声を掛けた。
「え、ええそうねっ」
シンジの首を絞めようと伸ばしかけた手を引っ込めたマリューだが、
「じゃ、俺はこれで――うきゅ」
さっさと退出しようとした諸悪の根源に、手がにゅうと伸びた。
襟首をがしっと捕まえ、強制的に座らせる。
「あなたはココ!」
触れ合う位まで顔を近づけ、
「逃げたら殺すわよ」
つい今し方まで、顔を赤くして戯れていたとは到底思えぬ声で囁いた。
「うーい」
おとなしく自分の横に鎮座するのを確認すると、
「本艦はこれより、オーブ連合首長国へ向けて出立する。アークエンジェル、発進!」
凜とした声に、ブリッジ内が瞬時に静まり返った。
「グラディス艦長、お呼びでしょうか」
「ええ。急に呼び出して悪かったわね」
「いえ」
異世界人が甲板で日光浴、と言う極めて希な、そして千載一遇とも言うべき機会を逸し、アークエンジェルの撃沈は無論、異世界人の捕獲にも失敗した。
元より艦隊の後詰めがある任務ではないし、一旦引き上げだろうと思っていたところで、ニコルだけがタリアに呼び出されたのだ。
「あなたに訊ねたい事があって、来てもらったの。アークエンジェルがオーブ経由でアラスカに向かう事は、同乗している異世界人から直接聞いたのね」
「は、はい…」
座って、と言われなかった事をニコルは安堵した。後ろ手で立ったままだったから、きゅっとお尻を抓って何とかおさえたのだ――キラと並べてお尻を弄られた夜の事を思い出したから。
「でもいか…いえ、異世界人の人はオーブで降りると言ってました。戦争には興味が無いそうです」
「戦争には興味が無い、しかも異世界の人間がなぜMSに同乗して戦場で大暴れしているのかしら」
「それは…」
ヘリオポリスでザフト兵は私に銃を向けた――シンジはそう言ったのだ。あそこで潜入部隊が対応を誤らなければ今頃はこちら側に、とさすがにそれは軍人として口にし得ないことであった。
武装していない民間人の姿であったとは言え、上層部の決定を批判する事になるのだ。
「まあいいわ。でもその異世界人が今もそう考えているかは分からない、わね?」
「え?」
「艦内で気が変わったかもしれない。あるいは――」
タリアは一旦言葉を切り、ちらっと宙を見た。
ここで餌に食いついてくるかどうかで、選択肢はがらっと変わってくる。
「女艦長に口説かれて、その気になったかもしれない」
「そ、そんな事ありませんっ!」
反射的にニコルは叫んでいた。
叫んでから、今の場所を思い出した。
「も、申し訳ありませんグラディス艦長…」
「構わないわ。私はあなたの上官ではないし、ここは聴取の場でも無いのだから」
怒ることも、理由を糺すこともなく、タリアは鷹揚に頷いた――内心のしてやったりの表情を押し殺しながら。
「その異世界人が、降りてそのままどこかへ行ってくれればそれで構わない。でも、そのまま乗艦しているなら厄介な事になるわ。そうは思わなくて?」
「も、勿論です。でも、あの人に限ってそんな…」
不安げな表情のニコルに、
「確認すれば済むことよ」
タリアはあっさりと告げた。
「か、確認?」
「オーブに潜入するのよ」
タリアは事も無げに告げた。
「それとも、衛星から観察出来るのかしら?」
「し、しかし艦長、万が一…」
「潜入に失敗したら、と?」
「は、はい」
頷いてからニコルは、そんな事を言いたいのではなかったと気付いた。
確かに、シンジが気変わりしていないかどうかは気になる。もしもシンジが連邦に味方する気にでもなった日には、地球軍は最凶の兵器を手に入れる事になる。天候すら操る異世界人を戦場に投入されたら、情勢はあっという間に逆転する事になりかねない。
がしかし。
潜入と言うことは、当然極秘任務であり、上手く潜入しえたとしても、ひっそりとシンジを観察する事になるのだ。
もし捕まったら?
「直接、接触はしないわよ」
ニコルの内心を読んだかのようにタリアが言った。
(その異世界人とやらにはね)
「異世界人がどう動こうと、あの艦は地球軍所属なのだから、用が済んだら出航せざるを得ない。その動向が分かれば待ち受ける事も出来る。ザフトにとって決してマイナスにはならないと思うけど、どうかしら」
「…分かりました」
ややあってから、ニコルはゆっくりと首を縦に振った。シンジとAAの動向もそうだが、ここまで言う以上、自分が断ってもタリアは単身で動くだろう。タリアの意向を知りながら関知せず、万一不測の事態が起きても困る。
(グラディス艦長は、向こうの女艦長にライバル意識持ってるってルナも言ってたし)
熱くなり過ぎて、オーブ国内で女艦長同士の闘いになどなっても困るとの配慮だが、さすがのニコルも、タリアの目的がそもそも異世界人になどなく、その女艦長ただ一人だとは想像もつかなかった。
そしてニコル自身も、一度あった事は二度目もあるという事を、身を以て体験する事になるとは思ってもいなかった。
「潜入は、グラディス艦長と私だけでありますか」
「ええ。女同士、よろしくお願いね」
「了解いたしました」
ビシッと敬礼した途端、態勢が変わったせいで痛みによる抑圧から解放された本能は、甘く妖しい記憶を甦らせた。
(ぬ、濡れてきちゃった…)