倫理と、立法と、社会設計の実現
1991年に亡くなった、評論家山本七平に「1990年の日本」という本があります。 いまから三十年前に、その五年後を予想して書かれた本なので、2016年という現時点での価値はゼロとなるはずです。 しかし私は当時この本を読み、ある違和感を感じ、そのままになっていたことがあります。 それは、この本の結論が 「不断の立法と改正により、倫理をさけぶ精神主義を排し、主体的な意志をもって、民主主義を柔軟に機能しうる社会を目指す」としたことです。 たしかに立派な着地点ですが、あとがきでそれが「義務」である。という強い言葉をつかっています。 この言葉の強さと、提示された方法論にギャップがあったのです。いってみれば、新鮮でもないあたりまえのことをなぜ力説するのか。 こんな程度のことを、なぜ説得力のある膨大な言葉をつらねて構築してきた一書の議論の結論にするのか。 しかし、山本七平が「義務」という言葉を使った例をもうひとつ、私はたまたま知っています。 すでに十数年の歳月がたってしまい、記憶があいまいな部分があり、一部正確でないかもしれないのをご容赦いただきたいのですが、 未亡人の山本れい子奥様と、山本七平のお弟子の一人のYさんと私で、小平の山本七平の墓に墓参したときのことです。 茂った雑草を掃除して、黒く簡素な小さな墓にぬかづき、奥様が祈り、三人で「みどりもふかき」の賛美をささげたあと、駅前の食堂で休息をとり、雑談となりました。 そのとき、Yさんが思い出を語ってくれました。あるとき、気軽に義務とはなにかという質問を山本七平に聞いたそうです。 すると横のれい子奥様が、「それは私も婚約時代にいわれたことがある」と驚いたようにいわれました。 Yさんも奥様も、言葉の後ろの強い意志に驚いたから記憶にのこし、私もこの言葉にある種の衝撃を感じたので絶対に忘れません。(世を去る前に書き残せてよかった) これは、人間教である日本教徒である日本人すべてにかけられた 「問いかけ・呪い」でもあります。 人間(当人)の感情を原資としてすべてを二人称の話し合い・談合で解決することに疑問を感じない日本教徒にとって、非常に都合の悪い言葉なのです。 日本教の話し合いは、言霊・情況に絶対性をおく、一種の精神主義です。 ですから、この「のろい」に打ち勝つためには、日本教徒は絶対的にキリスト教を否定しなければならない「使命」を負うことになります。 しかしながら・・精神史の視点で見れば多神教と一神教の衝突の一種で、はるか以前に歴史的・論理的に決着がついています。 義務とはまことに重たい言葉です。 法律は合理性をふまえた倫理の実現方法である。 法律によってあらゆる現象を制御して人間・国民の行動様式を変えうる、つまり倫理の表現実現方法が法治主義である。 立法を全員がしたがう根本とし、それを倫理を実現するための手段とするということです。 口先だけの倫理実現をとなえるスローガンにするのではなく、具体的倫理実現のツールとして、王さえも従わせる人間世界の統治者としての法律を、使っていこうという主張だった。 と私はようやく解釈します。 そしてこの場合、人間行動で優先して認められるのは倫理にもとづいた合法的行為、遵法行為のみです。 その前では資本主義も共産主義も独善的ドグマも因習も、すべて優先順位が与えられなくなり、倫理にもとづかないあらゆる行為がコントロールされうるということなのです。 なるほど、山本七平はこれを明示しなかったわけです。ここまで1985年に書いてしまえば日本の社会では、非現実的観念論者に見られますし、今でもそうでしょう。 つまりバーチャルな世界をモデルとして設計し、シミュレートし、それを実現できる法を確立し、全員の同意を得て運用することで、「望ましい」社会を実現するのです。 方法論としてこれしかないでしょう。 整理しましょう。山本七平の隠された主張は 倫理を選択する というものを想定し、遠い視野に入れていたのでしょう。 その前には統治のシステムや経済や過去の因習などは、(現実として)無視できませんが、そんなものは、法によって制御される対象であり、副次的なものでしかないのです。 (個別の情況など、正統性を持たないのです) そのような世界はまだどこにも完成したことがないのかもしれません。 |