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「成長の限界」の評価
after world




  1972年にローマクラブより発表された「成長の限界」は、マルサスの人口論を再生させたものです。

 有限の環境と資源の中で、消費が拡大していくとどうなるか、ある程度見通すに充分なシュミレーションです。
 こまかな部分は齟齬がありますし、さまざまな精度的問題があるものですが、それでも、少人数のスタッフと限られた予算で、民間でなされた調査としては画期的で、きわめて有益なものと言えます。

 現在では、計算能力・速度が当時とはかけ離れたものとなり、それこそ地域を分割化して気象予報ができるほどデータの深み・精度が充実しました。
 ですから、さらに緻密で、それこそ全世界の耕地ひとつひとつを対象として、未来を予測するシュミレーションがなされていても当然かもしれません。

 「普通」の国家なら、重点研究として実施しており、その結果はすでにでていて、シナリオも完成している。と考えておくべきでしょう。

 「成長の限界」は、


 無限の成長(拡大)はありえない。
 さまざまな分野で限界があらわれ、拡大が難しくなり、やがて破局・・世界人口の急激な減少局面がおとずれる。

 個別の問題を解決していっても、やがてそれは連続した同時多発の限界となり、かえって破局の規模を大きくする可能性がある。


 と主張するものです。


 これは、拡大のもたらす必然である。というものです。

 1992年に発表された「限界を超えて」は、さらに踏み込んで、1972年からの20年で、すでに世界は「限界」を超えてしまい、なんらかの破局は事実上確定してしまった。とするものです。

 これは世界を一つの計算モデルにあてはめたものですから、地域的にはすでに限界をはるかに過ぎたり、あるいははるか手前にいるなどの地域間格差・バラツキがあるので、目立たないのでしょう。
 しかしながら、限界を超えて「壊死」した地域は、対策しなければ加速度的に増えていくことでしょう。

 世界各国の機密事項として、段階的に発生する破局のシナリオがすでに描かれて、突合せもなされて、手順を踏んで世界は「破局」させられていく。のかもしれません。

 単純な人口拡大も経済発展も、もはやありません。
 アジアの勃興と隆盛の世紀など、絶対にやってこないでしょう。

 すでに簡単に手に入る耕地も自然資源も地下資源も消費されつくしたのですから。
(そもそもITで先進国の職業すら消滅が予想されるのに、これから単純労働力だけでテイクオフできるわけがありません。中進国の罠はより強力になっているのです)


 これを食い止めるには、「拡大をなるべく早く止める」しかなかったのですが、人類は失敗しました。
 全面的破局は、さまざまな予測では、2030ー60代にともされますが、21世紀中には「なにかが」起きることでしょう。何もおこらなければ幸いです。どうかそうでありますように。


 破局は、生産力の急激な減少によっておきます。

 工業生産の低下、投入資源の途絶、肥料、農薬、耕作エネルギーの途絶による農業生産の低下、それらによる物流の低下、さらに経済力の衰退により汚染の拡大が止められなくなり、さらに各部門の能力・耐久力が弱体化、ついには都市部への食糧・物資の途絶、栄養状態・エネルギー状態の悪化。その結果としての人口減少。

 と、いった現象でしょう。(目のあてられない戦争もおきるかもしれません)


 資源・エネルギーが乏しくなれば、必要な生産を確保するために低品位(質の悪い)資源(オイルサンドや、褐炭など)を使わなければなりません。
 それらから従来の製品を生み出すにはより多くのエネルギーが必要で、見かけ上の規模は大きくなりますが効率はどんどん落ちていきます。

 汚染もさらに多く出て、対策するための費用は純増となって、生産の重荷に加わり、消費にまわせる分へと食い込み、成果が加速して少なくなります。(生産しても豊かにならない)
 だからといって汚染を無視してつきすすんでも、それはやがて別の部分にはねかえります。

 そして、現代農業は化石燃料起源のエネルギーや肥料・農薬に依存したものですから、工業生産力が衰退したり、効率が悪くなってエネルギーが充分に提供されなかったら、農業生産は減少します。

 物流にも多大の資源が必要です。
 大量輸送、大量消費、大量廃棄は、どれも一時的には効率的ですが、これが成立するためにはどのような背景が必要か、少し考えれば恐ろしいものがあります。
 しかし、これがなければ大都市は成立し得ないのは明白です。

 そして大量輸送は、大量に廃棄物を返却してリサイクルすることはできないので、一方的な資源の食いつぶしとならざるをえません。
 必要に応じて発生する(いわば)「動脈輸送」のほかに、本来なら絶対あるべきである「静脈輸送」(廃棄物を輸送してリサイクルするための遠距離・大量の義務輸送)は、負担に耐えられないので、まともに機能しません。(したことはありません)

 こうなると、都市というのは、ある意味巨大な「人間ホイホイ」(不謹慎ですね。すみません)なのかもしれません。大量の富で大人口をひきつけて、外にださないで、やがてハシゴを外してしまう装置という想像は恐ろしいです。

 こうして、いくら資源を掘り返しても、いくら生産しても、思うような成果が上がらなくなり(工業的にも農業的にも)、汚染だけが拡大していく段階で、なにかがおきることでしょう。

 なにが引き金となって破局がはじまるかわかりませんが、いくら金融緩和しても経済が拡大しないデフレ傾向の世界経済は、少々不気味といえます。

 こうして、この200年にわたって作り上げられた、従来のあらゆるインフラは意味を失うでしょう。

 ですからいまから、「後の世界」のために必要な、これまでから見れば、実にささやかな規模ですが、そこに残りの資源をふりむけて、新たな社会体系を作り上げていくのが、投資先として適切です。

 必要とするインフラは、これまでと、これからの両者でまったく違います

 デフレの現在でも、投資の対象がないのではありません。
 投資先はいくらでもあるのです。別のインフラ、別の世界を構築するのです。


 あえていいますが、「今回」の問題の本質は、
「巨大にしてしまった人口を、一時的なその場しのぎのエネルギーと解決方法で、巨大すぎるのに虚弱で不適切なインフラでささえている」
 
ということです。


 環境と環境に負担をかけない範囲の人口を、持続可能な永続的インフラで維持していれば、なにも問題はなかったはずなのです。

 地下資源という一時しのぎに頼るから時間切れになるし、不適切なインフラという頼りない命綱が切れるから崩壊するのです。この二つに関係のない部分は生き延びられるのです。

 いずれにせ、ここへ、皆して、帰りきたらん。

 もともと、どちらにも頼らず、賢明に足るを知って、膨張を制御していればよいだけの話でした。でも、できなかったことは、いまさら仕方ありますまい。


 破局後の世界は、早期に対策が実施された場合に比べて、かなり低めの生産力しか残らないでしょうから、地球が本来養える人口を割り込むでしょう。

 いわば、この破局は人間の管理が悪くて「地球経済の自給自足」ができなくなって、一時的に手持ち資産を使いつぶして人口を増やして贅沢するもの、限界がきて自滅する。という情けないことなのです。我々は、宝くじを当てて、身をもちくずした愚人です。

 基本的に、破局後の世界は、もともとの姿であった、自給自足に近い地域ごとの経済となりますので、遠隔地からの食糧、エネルギーに頼る人々は切り捨てられるでしょう。

 その時にどのように、個人の生活を「持続可能にする」か。

 ごく普通に生活し、安心して一生を過ごして、人間らしく生きていけるかを、考えましょう。


 まとめます。

 「成長の限界」でのシナリオで、最大の負担を強いられるのは、間違いなく、
 自給自足できない「都市住民」と、都市に直接支配されて肥料・燃料・出荷を都市との大量輸送に依存している「モノカルチャーの田園」でしょう。


2016/2/28 T.Sakurai


ハードランディング・シナリオ
the_hard_landing




 破局を回避できる「持続可能性のある世界」社会体制を築ければ、問題はありません。

 では実際にできるか?
 できると思う専門家は、本音では少数派でしょう。

 専門家の多くは「たぶんだめでしょうな」と思っても、それを「口にしない」で責任を見てみぬふり「せざるをえない」。と、私は思っていますが、これは非難ではありません。

 しかたない。としかいいようがないのです。
(元アメリカ副大統領の書いた「不都合な真実」の末尾の、未来への処方箋の力のなさをみて下さい。・・ハイブリッドカーに乗ってくださいだって?? と、あきれるほど役にたちません。)


 では「だめでしょうな」の次の言葉は、何なのか。

 ソフトランディングできなければ、強制的に「別の事態がおきてしまう」ということです。

 不確実で不必要な予測でしょうが、手短に羅列していきます。


 経済危機 金融危機 金融の投売 銀行取付け騒ぎ 株価・国債暴落 為替急降下 恐慌 環境の極端化 自然災害 異常気象 世界的凶作 パンデミック 地域紛争 経済制裁 経済封鎖 デフォルト 統制経済 食糧輸出禁止 自給率低下 食糧高騰 カルテル 物資の隠匿 抗議デモ 資源高騰 資源戦争 非常事態宣言 配給制度 地下経済 保護政策 主要国の協力破綻 ブロック経済 プロパガンダ(イデオロギー) 戒厳令 クーデター 暴動 略奪 私掠団 内戦 地域崩壊 限定戦争 占領・進駐 難民発生 難民流入 強制収容 自警団 宗教紛争 原発事故 軍事巨大テロ(9・11) フューラー(偽メシア) 敵国首脳斬首作戦 全面戦争 核使用 ジェノサイド 大量死


 まだまだ続きます。補足希望です。どの事態もおきては困ります。
 ハードランディングシナリオは、苦痛が大きく、悲惨で、絶望的です。

 でも、上記の騒動のどれかがおきたり、おきなかったりするでしょう。
 進行していく背景には


 資源の枯渇・劣化 生産の非効率化 農地の劣化 汚染の拡大 があり


 その結果、
 一人当たりの物資、食糧の低下 生活環境の悪化 が庶民を襲い

 苦しみからとにかく逃れようと、

 残った資源の徹底的消費。再生可能だったはずなのに短期に負荷をかけすぎて、ついには回復不可能な領域(里山の禿山化などです)へ踏み込んでしまう、それぞれの地域。
 やがてグローバルが前提のインフラが機能しなくなり、ライフラインが崩壊する。(多臓器不全・・ですね)

 ・・・ことで、普通の人の日常に、結末がやってきます。それでも黙示録のように、歴史に終わりはありません。


 どうか、どこかのなるべく早期の時点に、この惨事が止りますように。
 もちろん人々の不安の増幅により、誰もが思ってもみなかった速い速度で事態がすすむ可能性もあるでしょう。


 では、破局のその後に、文明社会がよみがえるのかどうか。
 少なくとも、現在の形の文明は終焉をむかえるでしょうし、迎えさせねばなりません。

 同じ形の再建は、道徳的に、許されないでしょう。「あやまちを繰り返してはいけません」



 上記は、スケッチとも呼べない粗雑なものですが、もっと穏やかなシナリオも現実にあるでしょう。

 1 いつのまにか「危機」から抜け出しているケース。

 各人が一時的に危機を乗り越える手段を持ち、その個人が社会にたいして比率を増していき、都市部では不十分ではあるものの、全体としての社会は持続可能になっているというものです。
 それには、個人個人が自信と、自信をささえる担保(現実の装備)を持つのが前提です。
 望ましいです。

 2 よりありうる、モザイク的シナリオ。

 「成長の限界」シナリオは、あくまでもコンピュータシミュレーションで、破局が発生すれば世界が均等(平均値として)にランティングしてます。
 しかし、実際には各地域、経済状態、技術水準、同盟関係、覇権力の強弱があります。
 先進国はいままでがそうであったように、貧しく弱い地域から、さらなる地下資源・自然資源を略奪して、自らを延命するでしょう。
 同様に、都市はますます田園を略奪対象としてあつかい、都市の中でも生活環境を厳しくして、中流層を圧縮し、貧困層を増大させ、出生率をさらにおとして、人口の処分をしていくことでしょう。

 都市の出生率が人口置換を下回ったり、スラムが拡大するということは、すでに破局がはじまっている証拠なのかもしれません。
 このように、実質、壊死して「破局してしまった」地域がかなり多くなっていったとしても、残った先進地域はのこった資源を自己のシステムの延命につかって、存続していきます。

 そして、「**は**のパリ と昔はいわれたけど、いまは荒れ果てているみたいだね。」などといいながら、そしらぬ顔で「日常」をものうげな顔でおくるでしょう。

 いつのまにか、田園はモノカルチャーにされつくし、広大な単作物だけが青く茂るか荒野と化して、どちらにせよ「人影はなくなり」、劣位の都市はスラム化し、上位の都市でも単身家庭・少子家庭ばかりで全体として人口が再生産できず(個人の幸せが追及できず)衰退は進行する。

 どこかで、トドメ的にハードランディングがおきるのかもしれませんし、世界破局のはるか以前に地域的ハードランディングシナリオ(アフガンとかイラクとかソマリアとか・・)が次々に「おこされて」、早めに血祭りにあげられているのかもしれません。たぶん、これが現状でしょうね。
 ・・この考察は、まだまだ続ける必要があるでしょう。

 化石燃料は、質さえ問わなければ、そしてユーザーの数が減り、各種再生資源を組み合わせて「省エネ」すれば、世界の一部限定で、いままでどうり、まだまだ使っていけます。
 すでにそんな時代に突入済みかもしれません。ろくでもない・・今までどうりの歴史というわけです。(これがランダースの絶望・・というものでしょうか)



 どうか・・
 より望ましく、穏やかで賢明な選択をして、相互協力を信じて困難に耐え忍びたいものです。

 すべてが平和のうちに、あるべきはずの豊かな地点に回帰できるように、努力しなければなりません。


2016/03/01  T.Sakurai


破局の後で生きていける「場所」
ready to risk




 限界を超えた世界は、もはや人間をそのままの数で養ってはくれません。

 破局をくいとめようとギリギリまで、各資源や技術や、政治、経済体制を動員しても、いずれどうにもならなくなり、かえって、同時に限界に到達して一気呵成の激流になるという可能性さえ、「成長の限界」は示しました。

 卓見というべきです。
 おそらく同時多発の急激な破局が最悪のケースであり、激しすぎる衝撃により、もともと扶養可能だった人口よりも、かえって人口が減ってしまうという、被害の拡大につながる可能性もあります。(残念なことに、緑の革命がその一部をにないそうです)

 現在のローマクラブの主張は、成長を否定するのではなく、質の高い成長と経済・金融面で問題を改善して問題にとりくむと、一見、穏健的な立場となっていますが、拡大を否定しなければならない点は、変更はありません。

 そして、グローバルな世界や国家は、その「とき」には無辜の一般市民にとっては、役に立たない、災厄の元凶にしかならないでしょう。

 では、我々、庶民はなにができるのでしょう。

 数年分の食糧備蓄があり、水があり、煮炊き・冷暖房に使えるエネルギーがあり、使える農地があり、耕し、収穫が得られる農地と機械力と、肥料・農薬(有機農法が可能なら不要)があればいいでしょう。

 現実的には治安を維持するために、地域共同体の一員として、武装して共同体の自衛に参加することも考えねばなりません。

 そして、自力で「勝手に立ち直る」のです。

 自給自足は普通では、貧困への直線道ですが、リスク管理として考えねばなりません。
 そして、充分な準備があれば、その「貧困」は、破局時に身ぐるみはがれて都市の路上にうずくまることに比べれば楽園に等しいことでしょう。

 すべての地球市民が、すべて不運に見舞われるわけではありません。
 多くの人、地域は激流にのまれ、見捨てられ、略奪にあい、奴隷状態にされたあとで、ジェノサイドにあうかもしれません。
 その場合でも、一人一人は運命に対して、家族を守って、立ち向かうのみです。

 やることは決まっています。

 そのための手段は、さまざまにあるはずです。

 これまで積み重ねたインフラ・経済体制は意味を失い、破局後、あるいは破局しないで移行できた世界のための「新たなインフラ」が必要となります。


 それらのインフラは、

 ・耐久性があり、
 ・リサイクルできないような希少資源を使わず、
 ・小さな労力(家族の自力)でメンテナンスでき、
 ・汚染をまったくださず、
 ・必要な資源を永久にリサイクルで循環できる

 ものが、「生き残る」ことができます。
 もちろん、あらゆる自然災害・人的災害に対処可能であらねばなりません。


 一時的に成功したり、華美であったり、隆盛をほこったとしても、長い「時間軸」に耐えられなければ意味はありません。
 同時に、その時々の時代に、一時的に現れる人的、経済的、自然的脅威に、敗北し、獲物となってしまう「社会」も意味はありません。

 どの時代の、どのような敵に対しても生き残る存在でなければならないのです。
(これは難題です。たとえていえば・・、個人商店の隣に、24時間の激安大型ショッピングセンターが出店してもつぶれずに永続的に商売できるお店。にならねばなりません)

 どのような紆余曲折があるかわかりません。
 しかしながら、ゴールはおぼろげにでも、見すえたいです。



2016/02/29 T.Sakurai



 閑話休題

 入院中に「負け犬の遠吠え」酒井順子著 を妻のすすめでよみました。平和な地獄ですね。たまに私もこんな本を読むのです。より問題が多角的に考えられて参考になりました。