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アルプスの山の娘
(後半)


 8 白いパン


 ハイジは、クララのやしきにきて、ずっと、クララとお食事(しょくじ)をともにしました。いつも、パンざらには、白いパンがついています。きれいな、やわらかい、ふかふかしたおいしいパンです。ハイジは、そのパンをすこしずつのこして、ポケットにしまいました。ぺーテルのおばあさんに、この白いパンをたべさせてやったら、どんなによろこぶだろうとおもったからです。

 ハイジは、クララとあそんでいるとき、いつもいつもお山の話(はなし)をしました。すると、だんだんお山がなつかしくなり、一日も早くかえりたくなってくるのです。

「私は、お山のおうちへかえりたいわ。あしたは、私、きっとお山へかえりますわ。いいでしょう?」と、クララに、ハイジがいいますと、クララは、おとうさまのヘル・ゼーゼマンがかえるまで、まってくださいねといいました。クララは、ハイジがきてくれてからは、すこしもたいくつしませんでしたし、毎日(まいにち)がとてもたのしくて、ハイジを山へかえしてしまう気(き)にはなれないのです。

 ハイジも、とめられると、クララの病身(びょうしん)なのが気(き)の毒(どく)になり、一日一日がまんしてくらしました。それというのも、一日(いちにち)がまんすれば、白いパンが一日(いちにち)よけいにたまってゆくからです。

 でも、どうにかすると、ハイジはがまんできないほど、山がこいしくてかえりたくなるのです。

 ある日のことです、きょうこそは、お山へかえろうと、ハイジは、白いパンを赤(あか)いショールにつつんで、じぶんのむぎわらぼうしをかぶり、そっとやしきをでてゆこうとしました。ところがおりあしく、ロッテンマイアに、ハイジはみつかってしまいました。

 ロッテンマイアは、ハイジが、こんなにけっこうなおやしきをすてて、山のなかのまずしい生活(せいかつ)へかえってゆきたがっているハイジを、あきれてみつめました。そして、あらあらしく、下男(げなん)のセバスチャンをよんで、ハイジの赤(あか)いショールや、白いパンや、むぎわらぼうしをすてるようにいいつけました。ハイジはびっくりしてなきだしてしまいました。

 クララはハイジのないているわけをきき、そんな古(ふる)くてかたいパンは、おみやげにならないから、すてるようにといいました。山へかえるときは、やわらかい白いふかふかのパンをどっさりおみやげにあげましょうと約束(やくそく)してくれました。赤(あか)いショールも、ふるいむぎわらぼうしも、セバスチャンはすてないで、そっとかくしておいてくれました。

 こんな事件(じけん)のあったあと、クララのおとうさまの、ヘル・ゼーゼマンが、旅行(りょこう)からかえってきました。おとうさまのおみやげは、いつもどっさりありました。

 ロッテンマイアは、ハイジのことを報告(ほうこく)して、こんどこそ、ハイジを山へおいかえすつもりでした。

「あれはいなかもので、なにもかもぶさほうだらけでして、すこし気(き)もくるっているようなのでございますよ」

 気のへんな子どもだときいては、クララのおとうさまもほってはおけません。そこで、クララに、ハイジのことをくわしくおききになりました。ハイジがそばにいては、ぐわいがわるいので、クララのおとうさまは、ハイジに水を一ぱいもってくるようにいいつけました。

「つめたいお水ですか?」

「そうだね、つめたいほどありがたいね」

 ハイジはすぐ、おへやをでてゆきました。そのまに、ヘル・ゼーゼマンは、クララからハイジのことをすべてきいてしまいました。そして、ヘル・ゼーゼマンがなによりうれしかったのは、いままでになく、クララの顔(かお)がはればれしていて、健康(けんこう)そうなことでした。

「あの子を山へかえしたいかい?」おとうさまがききました。

「いやッ。いやよ、いやだわ」クララはなきそうな顔(かお)でさけびました。そこヘハイジが、なみなみとコップに、お水をもってきました。「とおりのポンプから、くみたてのお水をもってきました」

 ハイジはつめたい水をくむために、ずっととおくの井戸(いど)までくみにいったのだそうです。

「そうしたら、その井戸(いど)のところで、白いおひげのりっぱなおじいさんが、ヘル・ゼーゼマンによろしくってもうしました」

 ああ、きっと、かかりつけのお医者(いしゃ)さまだなと、ヘル・ゼーゼマンはおもいあたりました。そんなにとおい井戸(いど)まで水をくみにいったのかと、ヘル・ゼーゼマンは、ハイジの正直(しょうじき)なやさしい気もちをうれしくおもいました。

 クララもたいへん気にいっているようなので、ロッテンマイアには、いまのままで当分(とうぶん)おいてやってくれるようにといいつけました。

 それに、ヘル・ゼーゼマンのおかあさま、つまり、クララのおばあさまが、まもなく、ここへいらっしゃるので、ハイジのことはいっさい、おばあさまにまかせるようにと命じました。

 そして、十日ばかりすると、また、ヘル・ゼーゼマンは旅(たび)へでかけてゆきました。その翌日(よくじつ)、約束(やくそく)どおり、クララのおばあさまが馬車(ばしゃ)でおいでになりました。



 9 おばあさま


 ハイジは、ロッテンマイアにおそわったとおりにして、この老婦人(ろうふじん)をむかえました。

「いらっしゃいませ、おくさま」

 すると、クララのおばあさまは、にこにこして、

「山では、人をそんなふうによぶものなのかね?」とききました。

「いいえ、私は、おくさまなんて、名まえをきいたことないのです」と、ハイジはもうしました。

「そうでしょう。……わたしだって、きいたこともありませんね.わたしは、お子どもたちには、だれにでもおばあさまでいいんですから、これからは、おばあさまとよんでちょうだい」と、おばあさまは、ハイジのほっぺたをつっついていいました。ハイジはとてもうれしくなりました。

 お昼(ひる)ごはんがすんで、おばあさまは、ハイジのおへやに絵本(えほん)をもっていらっしゃいました。

 その絵本には、みどりの牧場(まきば)や、やぎや、やぎかいの絵がかいてあったので、ハイジはなつかしくて、なみだがこぼれました。おばあさまはやさしく、だれでも勉強すれば、本かいてある字(じ)が読(よ)めるようになり、じぶんでたのしくなるものですよとおっしゃいました。

 ハイジは、クララや、おばあさまのしんせつが身(み)にしみて、自由(じゆう)にはお山へかえれないのだとおもうと、すこしずつ、気(き)がめいって、ごはんもおいしくなくなり、一日一日しずんできました。

 夜(よる)になると、山のけしきがまぶたにうかび、ねむることもできません。夕日のあかい山山が、かあっとおもいでの中にうかんでくるのです。夢(ゆめ)からさめると、山からとおいフランクフルトにいるのです。ハイジは、みょうに、めそめそするようになりました。

「ハイジや、どうしたのですか。なにか心配(しんぱい)でもあるの?」おばあさまがある時ききました。

 ハイジはほんとうのことをいえば、恩(おん)しらずになるとおもって、なにもいえないのです。すると、おばあさまは、こんなことをおっしゃいました。「いいのよ、ハイジ。ひとにいえないことは、神(かみ)さまにもうしあげてごらんなさい。おいのりをしてごらんなさい。神さまはきっとすくってくださるものなのよ」

「おいのりなんかしたことはありません」

「だから悲(かな)しくなるのですよ。悲(かな)しい時(とき)は、神さまにうちあけておいのりしてごらんなさい」

 一週間(いっしゅうかん)ほどしたある日、クララの先生は、ふしぎなことがあるものですと、おばあさまに報告(ほうこく)をしました。ハイジがとても勉強家(べんきょうか)になって、どんどん字(じ)が読(よ)めるようになったのですともうしました。

 その夕がた、ごはんの時に、ハイジのパンざらのよこに、うつくしい絵本がおいてありました。

「その絵本は、ハイジがとても勉強家(べんきょうか)になったから、ごほうびですよ」と、おばあさまがおっしゃいました。

「まあ! これをいただくのですか。山へもってかえっていいのですか?」

 とてもうれしくてハイジはそれからは、その絵本を読(よ)みかえすのがたのしみになりました。その絵本の中でも、すきなところは家出(いえで)をしたやぎかいの少年(しょうねん)が、かずかずのふしあわせにあって、やっとお家にもどると、しかられるどころか、みんながやさしくいたわってくれたというところでした。

 そのうち、いよいよ、おばあさまのおかえりになる日がちかづきました。

「ハイジ、おまえは、またこのごろ悲(かな)しそうですが、神さまにおいのりをしていますか?」おばあさまがおききになりました.

「いいえ、おいのりはしていません。神さまはちっともききとどけてはくださらないのですもの。――でも、むりもないのですね。フランクフルトは、こんなに、どっさり人間がいて、みんなおいのりをしているから、神さまだってたいへんおいそがしいのでしようね。おばあさま」

「ハイジ、それはまちがっていますよ。そんなふうにかんがえてはいけません。神さまはすべての人間のおとうさまですから、わたしたちのことはすべてごぞんじなのよ。神さまにかってなことをおいのりすることはいけません。神さまを信(しん)じて、神さまにおまかせすることです」

 ハイジは、おばあさまのおっしゃることは、なんでも信用していました。

「私、これから、神さまにあやまります。二どと、神さまをわすれたりはしません」

 ハイジは、じぶんの寝室(しんしつ)で、ねっしんに神さまにおわびをしていのりました。



 10 ふしぎな夜


 おばあさまがおかえりになってまもなく、ヘル・ゼーゼマンのやしきでは、ふしぎなことがたてつづけにおこりました。

 まいばん、戸じまりをげんじゅうにしておくのですが、朝(あさ)になると、とびらがあいているのです。でも、ふしぎに、なにもとられたものはありません。

 そのうち、だれいうとなく、白いかげをみたというものがありました。まさしく、幽霊(ゆうれい)のようなものにちがいありません。

 さわぎはだんだん大きくなり、とうとう、ヘル・ゼーゼマンにかえってもらうことになりました。ヘル・ゼーゼマンは、かえってきた晩(ばん)に、なかよしのお医者(いしゃ)さまとふたりで、見はりをすることにしました。

 ちょうど、夜中(よなか)も一時すぎたころでしょうか、とおくのほうで、かんぬきをはずして、かぎをまわして、戸をあける音(おと)がしました。ふたりは片手(かたて)にローソク、片手(かたて)にピストルをもって、そっと玄関(げんかん)のほうへいってみました。

 ろうかヘでてみると、月光(げっこう)が、あいたとびらからさしこみ、そこにたっている、小さいものをてらしていました。「そこにいるのはだれだッ?」

 お医者(いしゃ)が、大きい声(こえ)でたずねました。白いかげはふりかえり、ひくい声(こえ)をあげました。どうでしょう、それは、白い寝巻(ねまき)をきた、ハイジなのです。

 はだしで、夢(ゆめ)でもみているような、目つきで、風にふかれる木の葉(は)のように、ぶるぶるふるえていました。

「これは、いつか井戸(いど)に水をくみにきた子どもですね?」

 お医者(いしゃ)さまは、びっくりして、私にこの子どものことは、まかせてくださいといって、ハイジをやさしく二かいのおへやへ、つれてゆきました。

 お医者(いしゃ)さまは、ハイジが夢遊病(むゆうびょう)にかかっていることがわかりました。山こいしさのあまり、毎晩(まいばん)山にかえった夢(ゆめ)をみて、山をあるいているつもりで、寝床(ねどこ)をぬけだしていたのです。ハイジをもとどおりに元気(げんき)な子どもにしてやるには、どうしても山にかえしてやるより方法(ほうほう)がありません。このまま、ほおっておくと、ハイジは、だんだんとおくにゆき、しまいにはやねの上にまでのぼってゆくかもわかりません。

 お医者(いしゃ)さまは、あしたにでも、ハイジを山へもどしてやったほうがよいともうします。クララはとてもかなしくて、ハイジを手ばなすことはできないとおもっていました。おとうさまは、それでは、来年(らいねん)の夏(なつ)には、きっと、ハイジのいるスイスの山へつれていってあげると、クララにいいきかせました。

 いよいよハイジはお山へかえることになりました。クララは、ハイジの旅行(りょこう)カバンのなかへ、たくさんおみやげをつめてくれましたが、ペーテルおばさんへもってゆく、白いパンもどっさりわすれないでいれてくれました。

 セバスチャンが、デルフリの村にちかい駅(えき)までおくってくれました。それからは、水車屋(すいしゃや)の荷馬車(にばしゃ)にたのんでくれました。セバスチャンは、ハイジとのわかれぎわに、おじいさんあての、封(ふう)をしたつつみと手紙(てがみ)を、ハイジにわたしました。つつみは、ヘル・ゼーゼマンからのおくりものだからなくさないようにといいました。

 荷馬車(にばしゃ)の馭者(ぎょしゃ)は、デルフリの村のもので、ハイジをよくしっていました。いいおやしきにいたほうがいいのに、どうして山へなんかかえるのかと、おどろいていました。

 ぺーテルの家へつくと、ほんとうにびっくりしたのは、ぺーテルのおばあさんです。



 11 山がえり


 ハイジはうれしくてたまりませんでした。

 さっそくいい着物(きもの)をぬいで、むかしの古(ふる)ぼけた着物(きもの)にきかえました。古(ふる)い着物(きもの)でないと、おじいさんが、見ちがえるかもしれないないとおもったからです。

 山道をのぼってゆくと、あの夢(ゆめ)にみた、なつかしい夕日(ゆうひ)がかがやき、とおくの山のちょうじょうの雪(ゆき)の原(はら)がみえてきました。それにつれて、うしろの高(たか)い峰峰(みねみね)がせりあがってくるので、ハイジは、足(あし)をとめてはふりかえって山山をながめました。そしてハイジは、神(かみ)さまにしみじみとかんしゃしました。

 まもなく、小屋のうしろの、なつかしいもみの木がみえました。それから小屋の屋根(やね)が見え、入(い)り口(ぐち)が見え、おじいさんが表口(おもてぐち)のいすで、たばこをふかしているのがみえました。

 ハイジははしっていき、なにもしらないおじいさんの首(くび)にだきつきました。

「おじいさん、おじいさん、私よ、ハイジよッ」

 おじいさんはびっくりして、ハイジを見ていましたが、おじいさんはうれしくて泣(な)きだしてしまいました。

「どうしてかえってきたのだ、かえされたのかい?」

「いいえ、そうじゃないの、みなさんとても親切(しんせつ)だったのよ。でも、私はおじいさんのところにもどりたかったの……。くわしいことは、このお手紙(てがみ)にかいてあるかもしれないわ」

 ハイジは一生けんめいに、フランクフルトの話(はなし)をして、おじいさんに、ヘル・ゼーゼマンからの、手紙(てがみ)とつつみをわたしました。

 ちょうどそこへ、ペーテルが、やぎの群(むれ)をつれておりてきました。ペーテルは大きくなったハイジをみて、おどろいています。やぎもハイジをおぼえていて、みんなハイジにすりよってきました。



 12 教会(きょうかい)への道(みち)


 ハイジは、ぺーテルのおばあさんのところへいって、おばあさんの家にあった、古いサンビカの本(ほん)をよんできかせました。

「まあ、ハイジは字が読(よ)めるんだね」

「ええ、私はとても字を読むのがうまくなったのよ」

 おばあさんは、サンビカをききながら、とてもうれしそうな生き生きした顔(かお)をしていました。ぺーテルのおばあさんは、サンビカをよろこび、白いパンをよろこびました。ハイジは、おばあさんに、ヘル・ゼーゼマンにもらったお金(かね)で、毎日(まいにち)、おばあさんに、白いパンを買(か)ってあげようかとおもいました。

 ある日、おじいさんは、ふしぎなことに、ハイジに、一番いい服(ふく)をきるようにといいました。おじいさんも、銀(ぎん)のボタンのついた、いい服(ふく)をきました。おじいさんはめずらしいことに、ハイジをつれて、ふもとの教会(きょうかい)へでむいていったのです。教会(きょうかい)にあつまっている人人は、アルムおじいさんとハイジをみて、おどろいたり、よろこんだりしました。おじいさんはなつかしそうに四囲(しい)をながめ、冬(ふゆ)がきたら、村におりてきて住(す)むつもりだと、人人に話していました。

 教会(きょうかい)からもどると、クララから手紙が山小屋にとどいていました。

 ――なつかしいハイジ。あなたが山へかえってからの私は、なにもかも退屈(たいくつ)でつまらないのよ。それで、おとうさまにおねだりをして、秋(あき)には、おとうさまと、おばあさまと、三人で、ラガツの温泉(おんせん)にいくことになりました。そのとちゅう、きっと、ハイジのところにおよりできるとおもいます。

 手紙にはこんなことが書(か)いてありました。ハイジはどんなにうれしかったでしょう。



 13 山へきたお医者(いしゃ)さま


 まちにまった秋(あき)がきました。でも、クララの病気(びょうき)はすこしもよくなりません。お医者(いしゃ)さまは、来年(らいねん)の春(はる)まで、旅行(りょこう)はのばしたほうがよいとおっしゃいました。クララにあれほど、かたく約束(やくそく)をした、ヘル・ゼーゼマンは、いまさら旅行(りょこう)をとりやめにするというのは、クララがかあいそうでしかたがありません。それで、クララのかわりに、お医者さまに、山へいってもらうことをかんがえつきました。

 お医者(いしゃ)さまは、ハイジのみたころのおもかげもないほど、お歳(とし)をめして、かなしそうなかおになっています。それは、お医者(いしゃ)さまにも、ひとりのおじょうさんがあって、つい、このあいだ、そのおじょうさんが、おなくなりになったばかりですから……。お医者さまに、山の空気(くうき)をすってもらい、山のけしきにさびしさをまぎらしていただくつもりで、クララのおとうさまは、やっと、お医者(いしゃ)さまに、旅行(りょこう)にでていただくおねがいをしました。クララは、じぶんがいけないのが、ざんねんでしたが、なみだをかくして、気もちよくあきらめました。

「ねえ、お医者(いしゃ)さま、ハイジのところへいらっしたらね、ハイジのすんでいるところのいろいろなことを、くわしくはなしてきかせてくださいね。ハイジとおじいさんのことや、やぎとぺーテルのことや、みんなきかせてください」クララはそういって、お医者(いしゃ)さまに、はやくたってもらうことをおねがいしました。

 おみやげには、ずきんのついたハイジのがいとうと、お菓子(かし)。ぺーテルのおばあさんには、あついショール。ぺーテルにはソーセイジ。おじいさんには、たばこのつつみ。それぞれの人たちに、おみやげをどっさり、クララは、お医者(いしゃ)さまにおことづけしました。

 夜あけの光(ひかり)が、山のうえにあかあかともえ、さはやかな風がもみの林(はやし)をふいて、そのふるい枝枝(えだえだ)をうごかしています。ハイジは木の音(おと)に目をさましました。ぺーテルの口笛(くちぶえ)がきこえます。ハイジが戸口(とぐち)へでると、やぎのむれは、ふざけながら、ハイジのそばへよってくるのです。

「きょうも、山へはいかないのかい?」

「フランクフルトから、たいせつなお客(きゃく)さまがあるのよ。だからいけないのよ」

 ハイジは、毎日(まいにち)、そんなことをいって、クララのくるのをまっていました。きょうも、首(くび)をながくしてまっていると、山小屋(やまごや)の下の道を、おもいがけない、フランクフルトのお医者さまが、ゆっくりゆっくりのぼってくるではありませんか。ハイジはびっくりして、お医者さまのところへすばやくかけおりてゆきました。

「まあ、お医者さま、どうして、なにかかわったことでもございますの?」

「ああ、ハイジ。クララはね、来年(らいねん)の春(はる)にならなければ、こられないのだよ」

 くわしいわけを、お医者さまからきいて、ハイジはがっかりしてしまいました。でも、かなしそうなお医者さまをみると、ハイジはお医者さまのいらっしてくだすったことがうれしく、山へかえれたのも、このお医者さまのおかげだとおもいました。

 おじいさんも、こころから、お医者さまをもてなしました。おとめする部屋(へや)がないので、村のホテルに夕(ゆう)がた案内(あんない)してゆきました。できるだけながくいてもらいたかったからです。クララのおみやげは、どんなに山の人たちをよろこばせたことでしょう。

 翌日(よくじつ)、ぺーテルが、デルフリのホテルから、やぎと一しょに、お医者(いしゃ)さまを山小屋へおつれしてきましたので、ハイジはお医者さまの案内役(あんないやく)になって、山へ登(のぼ)ってゆきました。

 山山にも、とおい谷(たち)にも、金色(こんじき)の秋(あき)の日がかがやいています。やわらかい朝風(あさかぜ)がふいて、高原(こうげん)の秋の花がさいていました。おだやかなうつくしいながめでした。

 でも、お医者さまだけは、浮(う)かないさびしそうな顔(かお)をしているので、ハイジが心配して、どうしたのですかとたずねますと、お医者さまは、おじょうさんをなくした話をしてくれました。ハイジは、クララのおばあさまからおしえられたとおり、神さまを信(しん)じて、かなしみからすくいだしてくださるのをまつようにと、お医者さまをなぐさめました。

 夕がたになると、お医者さまは、またふもとのホテルヘかえってゆきました。ハイジはいつまでも手をふっていました。お医者さまは、いつも、じぶんのむすめが、ハイジのようにしてくれていたのを思(おも)いだしていました。

 よく晴(は)れた日がつづき、ハイジとぺーテルと、お医者(いしゃ)さまとは、毎日うつくしい山へのぼりました。アルムおじいさんも、一行(いっこう)についてくることもありました。いまでは、ぺーテルも人みしりをしないで、お医者さまとよく話(はなし)をするようになりました。

 十月ちかいある日、お医者(いしゃ)さまは、いよいよフランクフルトにもどることになりましたが、ハイジも、おじいさんも、ぺーテルも、どんなになごりおしいことでしたでしょう。

 ハイジは、またきてくださいますようにと、お医者さまとかたく約束(やくそく)してわかれました。



 14 デルフリの村


 アルムおじいさんは、村(むら)の人たちと約束(やくそく)したとおりに、冬(ふゆ)になると、デルフリの村におりてくらすようになりました。

 教会(きょうかい)のちかくのきたない家でしたが、すっかり手入(てい)れして、おじいさんとハイジは住(す)みました。

 雪が鉄板(てつぱん)のようにかたまってくると、ハイジは、ぺーテルの家をたずねました。そして、勉強(べんきょう)ぎらいのぺーテルに、字をおしえることにしたのです。

「どうして勉強(べんきょう)しないの? フランクフルトでは、男の子はみんな学校へあがっているのよ。勉強のすきな入は、おとなになっても学校へゆくひとがいるのよ」

 ハイジにおどかされて、ぺーテルはしりごみしています。でもしぶしぶハイジに勉強をみてもらいました。まもなく、ぺーテルは、サンビカを読(よ)んで、おかあさんや、おばあさんをびっくりさせるようになりました。

 やがて、まちにまった五月になりました。最後(さいご)の雪もきえ、あたりがみどりにそまってきました。ハイジはまた山の小屋にもどり、元気(げんき)にはねまわっていました。ある日、クララから手紙がきました。

 ――親愛(しんあい)なるハイジ。もうじき、おばあさまと、そちらへでかけます。お医者(いしゃ)さまは山からおかえりになって、とても元気におなりで、幸福(こうふく)そうにしておいでです。私もはやくいって、ハイジや、ペーテルや、やぎにおめにかかりますよ。

 ハイジは大よろこびで、ぺーテルにその手紙をみせますと、ぺーテルは、なぜだかふきげんになっていました。よそのひとに、ハイジをとられるような気がしたからなのでしよう。

 ある日、ほんとうにクララがやってきました。足のたたないクララは、車のついた籐(とう)イスに腰(こし)をかけたままはこばれてきました。クララは籐(とう)イスの上から、山のけしきをながめ、うっとりしていました。

「私も、ハイジのようにあるけたら、もっとたのしいでしょうね」クララはうらやましそうに、ハイジにいいました。

 もみの木でも、小屋でも、みんなハイジからきいていたので、クララはそのとおりなのがうれしかったのです。

 ハイジは力(ちから)いっばいで、クララの籐(とう)イスをおして、もみの木の下へゆきました。

 クララはお食事(しょくじ)のときも、大きなチーズを二片(ふたきれ)もたべました。クララが、こんなにおいしそうに、ものをたべるのを、ハイジはみたことがありませんでした。

 クララは、山小屋へとまることになり、おばあさまには、ラガツの温泉(おんせん)にさきにいってもらうことにしました。

 それからというものは、クララとハイジはたのしいことばかりで、いろいろな計画(けいかく)をたてました。そして、毎日、ふたりして、ラガツの温泉(おんせん)にいらっしゃる、クララのおばあさまに、たのしいお手紙をさしあげました。

 ところが、クララがきてからというもの、ハイジはペーテルややぎたちと山へいかなくなってしまったので、ぺーテルはとてもふきげんになっていました。

 おじいさんは、なんとかして、クララの足(あし)をたたせてみたくて、あるかせようとするのですが、クララはいたがってたとうとしません。

 山はすこしずつ夏(なつ)らしくなり、クララはラガツの温泉(おんせん)へいくよりも、この山の生活(せいかつ)が気にいったようです。――ある日、おじいさんは、クララを山の上

につれていくつもりで、うらの物置(ものおき)から、寝(ね)イスをひきだしてきて、子どもたちを部屋(へや)の中へむかえにいきました。

 ちょうどそこへきた、ぺーテルは、庭(にわ)さきにあるクララの寝イスをみて、こんなものがなければ、クララははやくフランクフルトヘもどっていくだろうと、その寝イスを谷(たに)のなかへおっことしてしまいました。車のついた寝イスは、ころころと谷(たに)のそこへおちていきました。ぺーテルは、なんだかこわくなってきて、山の中へかけていきました。クララとハイジをつれて出てきたおじいさんは、寝イスがどこにもないのでがっかりしました。すると、クララはかなしそうな顔(かお)で、「あの寝イスがなければ、私は、フランクフルトヘかえらなくちゃいけないわ。いやだわ、ここをさっていくのは……」と、もうします。おじいさんは、いいとも、いいとも、私がだいていってあげますよといって、クララを元気づけてくれました。

 ペーテルはどうして、けさはやってこないのかな」おじいさんは、そうおもいながら、クララをだき、ハイジと二ひきのやぎをつれて、お山へのぼりました。山の上の牧場(まきば)には、ペーテルもやぎも、もうきていました。

 おじいさんは、夕方になったら、またむかえにくるからねといって、クララとハイジをおいてかえっていきました。

ハイジは、クララに花束(はなたば)をつくってやりたくて、あっちこっちさがしまっていましたが、ふっと、小さいくぼ地(ち)に、うつくしい花畑(はなばたけ)をみつけました。

「まあ! きれい」ハイジは、ちよっとでも、この花畑(はなばたけ)をクララにみせたくてしかたがありませんでした。

 そこで、ぺーテルをよび、ふたりでクララに肩車(かたぐるま)をしてやり、クララをたたせてみましたが、どうでしょう! クララはびっくりしたのか、あるける力(ちから)があることを発見(はっけん)したよろこびの声(こえ)をあげました。

「ああ、いたくないわ、ハイジ、私、あるけてよッ」

 生き生きとはずんだ声(こえ)で、クララがよびました。クララはよろよろと足(あし)がすすみました。

 毎日(まいにち)こうしてあるく練習(れんしゅう)をすれば、いまにきっと、寝イスもいらなくなるでしよう。

 夕がたになって、ぺーテルは、ふもとの人たちが、こわれた寝イスをかこんで、いまにおしらべがあるだろうとさわいでいるのをみて、とても不安(ふあん)になり、びくびくしていました。



15 幸福(こうふく)はきっとくる


 クララとハイジは、おとうさまとおばあさまに、はやくきてくださいと手紙をだしました。でも、足のことはひとこともかかなかったのです。おとうさまも、おばあさまも、いそいで山へいらっしゃいました。そして、クララがたって、おでむかえできたのをみたおとうさまやおばあさまは、びっくりして、目をみはりました。しかも、クララのほおは、生き生きして、まるでリンゴのほおのようにみえましたから。おとうさまは泣(な)きだしてしまいました。おばあさまも泣(な)きました。

「ほんとうに、おまえが、わたしのクララなのかい?」

と、おとうさまは、クララをだいたりはなしたりして、うれしそうにながめていました。

 おばあさまは、じぶんたちがきてから、ばかにぺーテルがおびえているのみて、だれが寝イスをこわしたのか、すぐおわかりになりました。おばあさまは、そっと、ぺーテルをかたすみに呼(よ)んでいいました。

「もうふるえることはあうませんよ。じぶんの悪(わる)いことはよくしっていますね。神(かみ)さまはなんでもみていらっしゃるのよ。だから、悪いことをして、人がかくそうとすると、神さまは、小さな番人(ばんにん)をおこして、チクチク針(はり)でつつくようにお命(めい)じになるんです。いまにわかるよ、いまにわかるよ、とつつかれるので、その人は、気のやすまるときがないのね」

 ぺーテルはそのとおりでした。

 ところで、クララがあるけるようになったのは、アルムおじいさんや、ハイジや、ぺーテルのおかげだとおもうと、ヘル・ゼーゼマンはなんとかして心ばかりの恩がえしをしたくなりました。みんなに、なんでもいってほしいともうしますと、ぺーテルは、一銭でいいからほしいともうしました。ヘル・ゼーゼマンは、一まいの金貨(きんか)をあたえました。これだけあれば、日曜日(にちようび)ごとにつかっても、とうぶんつづくでしょう。おじいさんは、クララがあるけるようになったのは、じぶんもうれしいのだからなにもいりませんといいました。ただ1つのおねがいは、じぶんが死(し)んでからの、ハイジの保護者(ほごしゃ)になるかたをよろしくたのみますともうしますと、ヘル・ゼーゼマンは、ハイジはおじいさんさんがなくなっても、山からおりるような気性(きしょう)ではないから、お医者(いしゃ)さまにめんどうをみてもらいましょうともうしました。お医者さまは、いまはどこにすんでも、いいかたですし、しかも、この山の生活(せいかつ)が、とても気(き)にいったようでしたから。

 まずハイジは、ぺーテルの貧(まず)しいおばあさんのために、フランクフルトでつかっているような、大きなつえと、あたたかいおふとんをおねがいしました。すると、クララは、やぎにもおくりものがしたいといいだしました。やぎには、なにがいいかしら…。ハイジは、塩(しお)がいいわといいました。やぎは塩(しお)が一ばん好物(こうぶつ)だからです。

 やがて、デルフリの村では、大仕掛(おおじかけ)な建築(けんちく)がはじまりました。お医者(いしゃ)さまが、この村にきてお住(すま)いになるための家です。お医者(いしゃ)さまと、アルムおじいさんは、一日ごとにしたしくなりました。ハイジにかんするかぎり、ふたりの意見(いけん)が合(あ)ったからです。

 ハイジが永久(えいきゅう)にこの村に住(す)んでくれるとしって、ぺーテルのおばあさんは安心(あんしん)していいました。

「やさしいハイジや、わたしにサンビカを読(よ)んでください。これからさき、私は、もう、神さまのお慈悲(じひ)に感謝(かんしゃ)するよりほかには、なんにものぞむことはありませんよ……」

 (おわり)