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ハイジの心

たかはしたけお 著

エッセー集「ハイジの心」は、たかはしたけおの主宰でかつて行なった原作「ハイジ」の読書会で毎回1章ごとに語ったものを全23章各章一話の形でまとめたものです。



 ハイジの心


 


 

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 このエッセー集「ハイジの心」は、2007年5月から2009年11月にかけて千葉県流山市の教会を会場として行なった「ハイジを読む会」で著者が話した内容が出発点になっています。

 この集会は、ほぼ毎月一回行ない、毎回それに関連したテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」(1974年公開)や「ハイジ」関連の資料などを紹介するという講座の中で、私が「ハイジ」原作を順に1章ずつ取り上げ、全23回思いつくまま話させていただいたものを元に、改めて書いてみたものです。

 実は私は、かつて大学で英米文学を学んだものの、児童文学についての知識はなく、またドイツ語で書かれた「ハイジ」原典もほとんど読むことのできないズブのシロウト研究者に過ぎません。でも、そんな私ですが、以前からいつかきっとこうした形の「ハイジ」の読書会をしたいと夢を膨らませてきました。

 それが教会の方々をはじめ日本ハイジ児童文学研究会の友人たちの協力を得て足掛け3年にわたり実施し、また完了することができたことは、今から考えても夢のようなことでした。

 というわけで、「ハイジ」文学研究の専門的立場から子細に見られてしまうと、いささか自信のないエッセーであることを申し上げなければなりません。それに加えて、私は約四半世紀にわたりキリスト教会の牧師をしてきたものですから、ものの言い方が上から目線のところが多々あり、自身後で目を通してみると冷や汗が出る思いです。しかし、これをすべて訂正する能力も時間もなく、今回はこのような形で「ハイジ」ファンの皆様に見ていただくことになりました。

 主なテキストは岩波少年文庫「ハイジ」(上田真而子訳)を使用しています。また、一番最初に私を「ハイジ」に出会わせてくれた竹山道雄訳「ハイジ」に対しての思い入れが強く、たびたびここから引用しました。

(たかはしたけお)


第1章 ハイジの心

 「ハイジ」をお好きなあなたは、ヨハンナ・シュピリの原作から入られましたか。それとも人気TVアニメ「アルプスの少女ハイジ」からでしょうか。原作「ハイジ」第1章でアルムの山へ向かうハイジと叔母デーテの場面は、アニメ「ハイジ」でもほぼそのまま出てきます(アニメ「ハイジ」第1話)。でも、実はもうここから、原作とアニメ「ハイジ」は同じ場面を描きながらも、語ろうとする内容が大きく異なっています。

 アニメ「ハイジ」は、当然ながら映像作品ですから、純真で輝く瞳のハイジの姿を前面に出して、一瞬のうちにハイジの魅力で視聴者をとりこにしてしまいますが、原作「ハイジ」の始まりは、ハイジよりむしろハイジのおじいさんに重点があります。少女ハイジの人となりはしだいに明らかになってはいきますが、ここではまだ主役ではありません。

 原作第1章「アルムじいさんのところへ」では、まずアルプスの大自然の魅力が詩的に情景描写される中、それとは似ても似つかぬ一人の人間の暗い過去が語られていきます。ハイジの叔母デーテが、道連れになった知り合いの女友だちと山道を登りながら、ハイジを預ける先のアルムおんじのことを語り始めます。

 ハイジの祖父、村のみんなが「アルムおんじ」と呼ぶこの人は、村から離れた山の上の小屋に一人で住む正体の知れない人物として、デーテの口から語られます。アルムおんじは若い時に問題を起こし、長く故郷を離れていました。ある日村に帰ってきたのですが、なぜか山の上の小屋に一人で暮らしています。そうした変人としてアルムおんじは紹介されます。さらにそのデーテの話しの中で、どうもその昔、よそで人殺しをして、この村に逃げてきたのだとも語られ、そんな人物のところに幼いハイジが預けられるというのです。

 でも、このアルムおんじの話しはうわさです。確かなことはわかりません。でも人間というのは、良いうわさと悪いうわさの両方を聞かされると、なぜか悪いうわさのほうを信じるものです。そこで読者も、それがうわさ話しであると知りつつも、結局は極悪非道で鬼のような人物としてアルムおんじを想像することになります。実は、これが原作者シュピリの巧みな演出なのです。

 シュピリは、この物語の重要人物であるアルムおんじをこのような姿で登場させることで、この物語が単なる子ども向けの童話ではない、人間のリアリズムを追及した本格的な小説なのだということを示しているように私は思います。小さな少女が人間の中にある大きな暗闇に直面し、悩み苦しみ、その暗闇を背景としながらも、なお光り輝いていく、それが「ハイジ」です。

 私はここ十年来「ハイジ」に親しみ、その後に読書会などを主催して多くの「ハイジ」ファンとお話しする機会を得ました。そして、そうした人々の中に大きな特徴があるのを発見しました。原作「ハイジ」をこよなく愛して読んできた人たちは、あまりアニメ「ハイジ」に関心がありません。むしろ否定的です。一方、アニメ「ハイジ」を愛する人の多くは、原作を読んだことがありません。むしろ無視しています。私が原作を元に「ハイジ」の物語にある精神的な部分をお話しすると、感動するというより、むしろとまどい、自分の持つかわいらしいハイジのイメージを壊されまいと身構える人もいます。

 この本には二つの大きな願いがあります。一つは、この小さな書物を通して、原作「ハイジ」を愛する人たちに、一人でも多くアニメ「ハイジ」のすばらしさを知っていただきたいという願いです。もう一つはその反対に、あの52話にも及ぶ長編アニメをもう暗記するほど見ているアニメ「ハイジ」ファンに、一人でも多く原作「ハイジ」の深さを知っていただきたいのです。

 「ハイジ」の心は、特に原作に見られます。しかし一方、アニメ「ハイジ」にも豊かな精神性が宿っています。原作は深く、アニメは軽いなどということはけっしてありません。少なくとも「ハイジ」に関する限り、原作とアニメは対立する関係にはないと確信します。

 高畑勲氏の演出によるTVアニメ「アルプスの少女ハイジ」は、原作をきわめて丁寧に読んだ上の映像作品として、いずれ日本の文化遺産となるにふさわしいほどの傑作です。高畑氏の演出は、原作に対するリスペクトがしっかりあって、仮に原作の持つキリスト教の背景が弱められているとしても、原作の良さをそこない、傷つけるものではけっしてありません。確かに原作とアニメでは異なっている部分が多くあります。しかし、それにも関わらず二つの「ハイジ」はお姉さんと妹のように、それぞれ個性を持ちながら、しかも二つ別々の「ハイジ」ではなく、両者は共に21世紀に生きる人間の道しるべとなるべく、ただ一つの物語「ハイジ」を歌う二重唱のように受け止めることができるものです。

 もし二つの「ハイジ」を理解し、相互に関連づけ深めていくことができるなら、原作をさらに深く読み解くことにつながり、またアニメ「ハイジ」をもっと豊かに味わうことができるのです。 




 第2章 子どもと共に生きる


 デーテはアルムおんじと大げんかの末、結局ハイジをアルムおんじに押しつけて帰ってしまいます。このえたいの知れない老人の元に預けられた小さなハイジがこの先どうなるのか、読者はかたずを飲んで見守ることになります。原作第2章「おじいさんのところで」から。

 アルムおんじにとって、このハイジにほとんど見覚えがなかったとしても、血のつながった孫であることに間違いはありません。しかし、アルムおんじの最初の対応は、祖父と孫との関係を暗に拒否しているような態度でした。成り行きで仕方なくハイジを小屋に入れますが、ハイジから「わたしはどこで寝るの?」と聞かれて、冷たく「どこでも好きなところに寝たらいいだろう。」と答えています。

 アルムおんじは、山の上の、おそらく本来は夏の間だけ放牧中の家畜のための見張り小屋だったところに住み込み、何かの事情で人を恨み、神を恨んで、世捨て人のように暮らしていたのです。アルムおんじは、ある時期から世の中に対して自分で勝手に線を引いて、その線の外のことはいっさい知ろうとせず、関わることもなく、自分の線の内側だけで生きようと心に決めています。こういう中高年の男性は世の中に多いのです。アルムおんじを知ることは、世の男性の精神構造の核心的な部分、その弱さを知ることになります。

 おんじはこうして、けっして誰にも心を開くまいと決めており、それを死ぬまで押し通す自信もありました。ところが、突然小さな少女ハイジが入り込んできたことによって、おんじの牙城はもろくも覆されてしまいます。槍でも大砲でも突破することのできなかったおんじの凍りついた心に、ハイジは難なく入ることができたのでした。

 おんじはしばしば戸惑いながらも、自分の孤高の人生観がハイジとの関係によって崩され、変えられていくことを受け入れていきます。それはけっして一夜で変えられたのはありませんが、ハイジと共に生きるという人生の鍵は、アルムおんじの人間関係をしだいに和らげ、世の中の見方をも変えていきます。

 しかし、ここで確認しておかなければならないことは、アルムおんじはハイジが血のつながった孫であったから心を変えたのではないということです。「ハイジ」は、いかめしい顔をしていた老人が、目の前に連れてこられたかわいい孫を見て、いっぺんに態度を変えて良いおじいちゃんになりました、というような物語ではありません。シュピリは、おんじとハイジとの関係を、最初から血縁を超えたみずみずしい人間関係として描いています。そのことがこの物語の最初から読者の心を清らかに洗い流すのです。それはアルプスの大自然の描写と共に、ただのおじいさんと孫のお話しではない、清らかでしかもダイナミックな人間と世界の物語として発展していきます。

 子どもと共に生きる、それが「ハイジ」の大きなメッセージであると思います。子どもは未来への希望です。それだけでなく、子どもがいることによって人間は家族という関係性を持ち、大人は愛情と責任をもって子どもを守って生きようとします。こうした人間のきずなこそ人類共通の平和です。人は一人で生きてはなりません。実際に子どもを持つ親だけでなく、子どもと直接接する教育関係者だけでなく、老人も未婚者も、すべての大人は子どもの生活に、関わり方の違いはあれ、関心を持つ責任があります。子どもと共に生きる、それは児童文学全体のテーマでもあります。

 優れた児童文学の特徴の一つは、人間の心の問題をやさしく解き明かしつつ、それとともに、ある時代の、ある特定の地域の生活を、まるで見えるように描き出していることです。「ハイジ」の読者はここにも釘付けになります。大人向けの文学では、ジャンルにもよりますが、人間の心に潜む問題を深く鋭く追求します。その点、児童文学はそこまで心の問題を追及しません。しかし他方、登場人物の周辺の生活感を豊かに描写していきます。一度も行ったことのないアルプスの山小屋の様子や、一度も飲んだことのないヤギの乳が湯気を上げ、大きなカップに注がれてテーブルに運ばれるのを私たちは心の目で目撃することになります。

 良質な児童文学は、人間の問題を心と生活の両面からバランスよく語ろうとします。大人の見方からすると少々展開が甘く、精神性においても追求しきれていないと受け取られる向きもありますが、児童文学はあくまで人間の心と生活の両面をバランスよく描くことで独自の世界を持っており、こうした手法により、健全でしっかりと地に足のついた人間の生き方を提示することができます。

 このような意味において、「ハイジ」は児童文学としてきわめて優れた作品の一つと言えるでしょう。時は19世紀。スイス・アルプスの山小屋で暮らす老人と小さな女の子、ヤギたちとの興味深い共同生活、貧しい人々の心を支える神への信仰、人間に対する深い愛情、しかしそこにも押し寄せる近代化の波、それらの要素を名作絵画のような背景として、父も母もいない小さな女の子ハイジの物語が綴られていきます。




第3章 ユキとの出会い


 ハイジにとってまったく新しい朝がやってきました。アルムおんじの山小屋で初めての朝をむかえたのです。この朝ハイジは、山羊飼いのペーターといっしょに村の山羊たちを連れてさらに山の上の、山羊たちが食べる草のある牧場(まきば)へ行くのです。原作第3章「牧場で」から。

 山の上の牧場の景色はすばらしく、空はどこまでも高く青く広がっています。そこで山羊たちは草を食べながら一日を過ごすのです。ハイジはペーターから山羊たちの名前を教えてもらいます。ハイジはすぐにすべての山羊の名前を覚えてしまいました。その中に、小さくて真っ白なユキという名の山羊がいました。メエエ、メエエという鳴き方が悲しそうで、誰かを呼んでいるように聞こえるので、ハイジはことさらこのユキに関心を持ちました。

 ユキの鳴き声がとても悲しそうなので、ハイジがペーターにそのわけを聞くと、「そいつのかあちゃん、おととい売られていったからだよ。」とペーターが答えます。ハイジは心配になってさらに聞きます。「じゃあ、おばあちゃんはいるの?」「ばあちゃんなんか、いるもんか。」とペーター。さらに「おじいちゃんは?」と聞くと、ペーターは「いないよ。」とぶっきらぼうに答えます。

 こうしてユキは、ハイジにとってどの山羊とも違う、どうしてもハイジが守ってあげなければならない特別な存在となりました。「今日からわたしがいつもあんたといっしょにいてあげるから、そんなに悲しがらなくていいのよ。もう一人ぼっちじゃないでしょ。さみしくなったらわたしのとこにおいで。」

 ハイジは生まれてすぐ父を事故で失い、母もそのショックから病気になり、後を追うように亡くなったのでした。ハイジは両親の顔を知らず、その愛情も知りません。ここに来るまでは、叔母デーテによって、谷の反対側のまったく知らないおばあさんの家に預けられていて、ほとんど家に閉じ込められたような、辛い生活をしていました。人の愛情を受けないで育ったハイジが、こんなにも素直でやさしい子になったのは不思議なほどです。

 不思議なことに、ハイジは愛されることによってではなく、何かを愛することによって自分をここまで生かしてきたのです。自分よりもさらに弱い生き物を見つけると、それに対して深い愛情を注ごうとします。愛されることを知らない不幸なハイジですが、ハイジはむしろ愛することによって、その小さな心に安定を得ていたのです。

 しかし、これには限界があります。一見健康そうに見えるハイジですが、実は精神面ではかなり繊細な部分を秘めています。ほとんどぎりぎりのところでアルムおんじとの生活を与えられ、生きているのです。ただしその弱点を、アルプスの大自然と彼女が守るべき生き物たちとの中で、ハイジはなんとか支えられています。この後、叔母デーテは、自身の勝手な計画によって、ハイジからこのかけがえのない二つを共にはぎ取ってしまいます。こんなハイジを、最後のとりでであるアルプスから引き離すなんて、それはもう犯罪に等しいことです。

 ハイジは、これまで愛されてこなかった自分の欠けを、ユキを愛することで補っているのです。ユキはただのか弱い小さな山羊です。しかしハイジに愛される存在として、ハイジにとってユキがどんなに大切か、いや、私たちにとっても、そうした弱い存在と共に生きるということがどんなに大切か、もう一度思い巡らしてみる必要があります。

 アニメ「ハイジ」の第14話「悲しい知らせ」、第15話「ユキちゃん」、これらは原作にはない、というより、原作からたくみに導き出されたユキの物語です。ある日ハイジは、いつも山の牧場でいっしょに過ごすユキが、成長が遅いという持ち主の判断で間もなく殺され、肉にされてしまうということを知ります。驚いたハイジは、何とかしてユキを助ける方法はないのかとアルムおんじに聞きます。そして、高い山に自生する薬草をユキに食べさせて、ユキから良い乳が出るようになれば助けられるかもしれないということを聞きます。それから、ハイジとペーターの悪戦苦闘が始まります。

 人間の社会性は、一つには誰かを助けようとするときに育まれるものではないでしょうか。ハイジがこのユキの命を救うことができるのかどうか、それはぜひ高畑勲氏の巧みな演出によるアニメ「ハイジ」第14〜15話をご覧下さい。いずれにせよハイジは、このユキとの関係の中で、人として生きること、さらに人と共に生きるという大切な社会性を学びます。

 高畑勲氏はこの「ユキちゃん」を、この後フランクフルトでハイジが出会うことになる、あの足の悪いクララと重ねているのではないかと、私には思われてなりません。アルプスを訪れて、歩けるようになりたいと願うクララのために、特別に栄養のある乳を山羊から得ようと、ハイジとペーターは高い山へ登り、危険をおかして山羊に与える薬草を探して歩くアニメ「ハイジ」第47話と妙に重なるのです。ユキとハイジの交流の物語は、後のクララとハイジの友情の物語のひな形としてここに置かれているのではないか、と思うのは私だけかもしれませんが。




第4章 おばあさんの家を直す


 ハイジがアルムおんじと暮らすようになって、おんじの生活にも少しずつ良い変化が表れるようになりました。原作第4章「おばあさんのところで」から。

 ハイジが来たことによって、山羊飼いのペーターが家に出入りするようになりました。もちろんアルムおんじは、今までも山羊のことでペーターとは二言三言、言葉を交わすことはありましたが、家に入れて食事をいっしょにするなどということはありませんでした。ペーターが遊びに来るようになると、ハイジとおしゃべりを交わすその内容のおかしさに、声を立てて笑わないまでも、横で仕事をしながら聞き入るおんじの口元はたびたび緩むのでした。

 でも、その次のハードルは、おんじにとってかなりきついものでした。ペーターのおばあさんが、ぜひハイジに会いたい、家に来させてほしいというものでした。誰とも交際したくないおんじの心の中の答えは「ノー」でしたが、輝く瞳のハイジの願いに負け、雪が固まった冬のある日、アルムおんじはソリにハイジを乗せてペーターの家に送り届けます。しかし、自分は家に入らずに帰っていきました。

 しかし、ハイジがおばあさんのところから帰ってくると、ハイジの要求するハードルはさらに高くなりました。おばあさんの家が古くて壊れそうで、このままではいつ家が倒れてしまうかわからないから、おんじにおばあさんの家の修理をしてほしいと願ったのです。これは「ノー」だとおんじは一瞬思ったのですが、さらに輝きを増して迫るハイジの瞳の威力と、それを見つめながら聞くおばあさんの家の荒れ方を知ったおんじは、しぶしぶではありましたが、「よし、明日直してやろう。」となったのです。

 翌日、アルムおんじは修理道具を持ち、ハイジを連れておばさんの家に来ます。ハイジがおばあさんの家に入って、まだ十分に説明しないうちに「ドンドン!ガンガン!」と激しい音がして家が揺れ出したので、おばあさんもペーターの母親のブリギッテも腰を抜かすほど驚いてしまいました。そこでおばあさんは、お礼の言葉だけでも言いたいと思い、アルムおんじに中に入ってくれるように頼みますが、おんじは振り向きもせずにこう言います。「いいからほっといてくれ。おまえたちがわしのことをどう思っているか、わしはちゃんと知っておる。修理のことはわしに任せて、家に入っておれ!」こうです。

 この言葉がすべておんじの本心でないにしても、人との付き合いをかたくなに拒んでいることは確かです。このような頑固な老人はいつの世にもいます。その言葉使いや行動の外側だけを見てしまうと、「こっちだってお付き合いはご免だよ」ということになりがちです。しかし、もしこの言葉の背後にあるアルムおんじの心の深い傷と孤独を理解することができるなら、私たちもハイジの心と何分の一かは同じになって、こうした頑固な老人に対する見方が変わっていきます。こういう人間に対する新しい見方、考え方について、原作「ハイジ」もアニメ「ハイジ」も共にくり返し読者に、視聴者に訴えてきます。それもあの大きな輝いた少女のまなざしで。

 この章で私がみなさんと考えてみたいことは、いったい誰がペーターのおばあさんの家を直したのかという、ちょっと不思議なことについてです。実際に家を直したのは確かにアルムおんじです。でも大工道具と手は貸しましたが、しかしおんじはハイジにせがまれて仕方がなくてやったのです。では、家を直したのはハイジでしょうか。確かに、ハイジの強い願いなくして家の修理は始まりませんでした。でもハイジが願ったからといって、ハイジの力で修理はできません。それにもう一つ、おばあさんも含めて、実はペーターの家族の中には誰も家を修理してほしいと言った人はいなかったのです。

 実にほほえましい話しですが、そのままだと読み飛ばしてしまいそうな小さなエピソードです。でもここに「ハイジ」ならではの独自の世界観があります。原作者シュピリがどんな思いでこのエピソードを書いたのか、興味深いところです。

 お話しは、この家に住むおばあさんがかわいそうだと思ったハイジの心の変化から始まります。そしてその計画はアルムおんじに伝えられます。おんじの心は変わりませんでしたが、おんじも仕方なく手足は動かしました。すると、この出来事をとおして、おばあさんとブリギッテのアルムおんじに対する思いが変わります。これは家が倒れないようになったこと以上に、「ハイジ」の中できわめて重要なポイントです。つまり、人の心が変えられるというテーマです。

 誰が家を直したのでしょうか。そして、誰が人の心をこのように変えたのでしょうか。原作者ヨハンナ・シュピリは、ここに見えない神の働きを見ているのです。原作「ハイジ」は、当時のヨーロッパの基本的な精神的価値観であったキリスト教信仰をその背景としています。しかしシュピリは、けっしてキリスト教を読者に押し付けようとはしていません。読者がどのような宗教的立場にあるか、どのような神をイメージするかを問うことはしません。しかし、この物語は、人間を生み出し、人間と人間との関係を改善し、さらに良い方向へと人間を作り変えようとする見えない神の存在を抜きにしては語り得ないものになっています。特に原作「ハイジ」において神の存在は、物語の見えない名優バイプレーヤーとして欠かすことができません。




第5章 おばデーテ


 ハイジを学校へ入れなさいと勧めにきた数少ない友人の村の牧師を、アルムおんじは頑固に拒否して帰らせてしまいます。原作第5章「お客がきて、またひとりきて」から。

 ハイジは8歳になりました。村の人々はそのハイジのことをうわさしながらも心配していましたが、ハイジは厳しい冬を越し、元気に野山を駆け回っています。スイスでは学校教育の制度がようやく始まった頃でした。それまではお金持ちなど一部の人しか教育を受けることができませんでしたが(江戸時代すでに寺子屋制度を持っていた日本がこの点でいかに進んでいたか)、ようやく初等教育が地域の責任で実施されるようになっていました。おんじを誰よりも理解し、幼いハイジの将来を心配する村の牧師がそのことで訪ねてきたのも当然です。しかし、アルムおんじの拒絶に打つ手もなく、牧師は失望して山を降りていきました。

 ちょうどその牧師と入れ替わるようにハイジの母アーデルハイトの妹、デーテが現れます。第2章で見たように、二人は犬猿の仲です。ただでも話し合いはうまくいきません。ところが、さらに悪いことに、アルムおんじはその朝の牧師との一件で、実のところ心はかなり動揺していて、それを打ち消そうと懸命だったところに、この火に油を注ぐことが起こったのでした。

 自分の勝手で無理やりハイジをおんじに押し付けたデーテは、今度は現在彼女が働くドイツの大都会フランクフルトへハイジを連れて行こうと言うのです。たぶん、デーテが来たのがこの日でなければ、言い争いにはなったかもしれませんが、おんじがハイジをフランクフルトへやってしまうことなどけっしてなかったでしょう。魔が差したと言いますか、おんじは朝の一件でたまっていた怒りを爆発させてしまい、結局デーテの思うとおりになります。悪魔の誘惑にアルムおんじはまんまとはまってしまったのです。

 しかし、けっしてデーテが悪魔であったわけでもなく、またおんじが悪魔になったのでもありません。しかし現実として、人間はときにそうすることが正しいと思って人の幸福をはぎ取ることを良しとし、さらには怒りや憎しみのために自分の幸福さえもかなぐり捨てようとするのです。原作者シュピリは、ここでデーテをいわゆる悪役として登場させているわけではありません。しかし、良かれと信じてやったことがこんなにも人を傷つけてしまうことがあるのだということを、はっきりと示しています。

 アルムおんじは、ハイジに良かれと思って自分の山小屋で育てていました。デーテもまたハイジに良かれと思ってフランクフルトの豪邸にハイジを移そうとしました。確かに二人とも善意からです。でも同時に、その背後にはそれぞれ自分の都合と言いますか、自分の考えは正しい、それも神のように正しいという傲慢さが隠れています。正しい人はひとりもいません。それが「ハイジ」の人間観です。

 私には4歳下の妹がいます。普段はそれぞれ離れて暮らしていますから問題はありませんが、年老いた両親のことをこれからどうするかなど面倒な話しになると、たいがいデーテとおんじの関係になります。そのことを大いに反省し、今度会った時にはできるだけ相手の意見に耳を傾け譲歩しよう思うのですが、再会するとまた同じことになってしまいます。ときにはもう自分がいやになるほど失望します。しかし、ヨハンナ・シュピリは「ハイジ」を通して、人間がいかにあやまちに満ちているかを示しながらも、だからといって人間に失望してはいけないと語ります。雲が開け明るい太陽の光が必ず私たちを照らすように、これから起こるフランクフルトでのハイジの試練の中でさえ、希望の光は人間を照らし続けるのです。

 アニメ「ハイジ」では、デーテの人となりが原作よりいくぶんやさしいキャラクターとして描かれています。物語は少し戻りますが、デーテはハイジを山小屋に残して別れる時に、ハイジの頬にキスをしますし、山道を泣きながら去っていきます(第2話「おじいさんの山小屋」)。これは高畑氏の演出で入れられたデーテの解釈です。原作を愛する人はここでもアニメ版の「逸脱」を非難するかもしれません。しかし映像化する場合は何らかの解釈が入るのが不可欠です。原作と違うから悪いのではなく、その演出が原作の意図に対してふさわしく反応しているかどうかで評価すべきではないでしょうか。

 原作「ハイジ」は人間を人間としてリアリズムで描き、基本的に誰をも悪役として描いてはいません。人間を善人と悪人で分けて描いてしまったら、それはもう文学としてはおしまいです。私は原作者シュピリも演出家高畑勲氏も、共に同じリアリズムをもってこの作品の登場人物たちを描いていると思います。アニメ「ハイジ」に登場するデーテのやさしさの描写は、原作の人間観の深いところにあるものを高畑氏が汲み取った演出であると私は評価しています。

 デーテは確かに身勝手な女性です。しかしアルムおんじも同じです。でも二人ともやさしい心を持つ愛すべき人たちなのです。頑固で短気なアルムおんじだけでなく、このデーテをも愛すべき一人に加えることはできないでしょうか。そうすると、後に登場するあのロッテンマイヤーに対する見方が大きく変わってきます。私は「ハイジ」のそうしたあたたかい人間の見方に、ぜひ皆さんをご案内したいと思っているのですが、高畑アニメ「ハイジ」はストーリーにおいても映像においても、大いに私を助けてくれるのです。




 第6章 ハイジとクララ


 クララという少女は、ハイジにとって特別な存在です。ハイジに大きな影響を与えたという意味では、アルムおんじや、後に登場するクララのおばあさまを上げなければなりませんが、ハイジの心の友として、最大の理解者として、互いの重荷を分かち合う存在として、クララはハイジと強く結びついていきます。原作第6章「話しは変わって、新しいことばかり」から。

 叔母デーテの身勝手な計画によって、ハイジはアルムの山からはるか遠くのドイツの大都会フランクフルトに連れて来られます。そこの大きなお屋敷で、ハイジは自分より四つ年上のクララと出会います。ハイジが8歳、クララは12歳でした。クララはフランクフルトで一、二を争う富豪の家の一人娘です。しかし、幼い時の病気が原因で歩くことが不自由で、家の中で車椅子に乗って生活しています。ハイジはこの娘と共にこのお屋敷に住んで、一緒に勉強し、また遊び相手となるために連れて来られたのでした。

 この家でクララと対照的なのが、この家のロッテンマイヤーという女性です。クララの母親は彼女の幼い時に亡くなっています。父ゼーゼマンは貿易の仕事でほとんど家にはいません。そんな中ロッテンマイヤーはゼーゼマン家の使用人の上に立ち、家政いっさいを取り仕切ってきました。またドイツの伝統と格式に生きてきた人ですから、スイスから出てきた田舎娘など最初から見下しています。名前は何かと聞いて、ハイジが当然「ハイジ」と答えると納得しません。正式な名前は何かとしつこく問いただして、結局ハイジを「アーデルハイト」と呼ぶことに決めてしまいます。

 このいっさいを黙って見ていたのがクララでした。デーテとロッテンマイヤーが部屋からいなくなると、クララは初めてハイジに語りかけます。この最初のハイジに対する問いかけの中に、クララがどういう少女なのか、ハイジにとってどんなに大切な人物であるのかが明確に示されています。「あなたはハイジと呼ばれるのが好き?それともアーデルハイトと呼ばれるのが好き?」

 クララは病気であり、お金持ちの家で何人もの使用人に世話をさせて生活している、まだ世の中のことを知らない少女ですが、人間の人格を大切にすることを心得ている立派な女性です。人の名前をどう呼ぶか、それは相手の立場に立って決めるべきことであることをこの少女は知っています。

 アニメ「ハイジ」の製作に関わった宮崎駿氏が後に手がけた劇場アニメ「千と千尋の神隠し」の中で、異次元の世界に迷い込んだ千尋が自分の名前を否定され、千尋は千という名で呼ばれます。自分の名前を否定されることは、人格を否定され、人間であることを否定されることです。

 クララは初めからハイジを受け入れる心を備えていました。自分と同じような環境で育ち、同じような考えをする人をでなく、まったく自分とは異なった世界で育ち、まったく異なった考えをする人を受け入れる大きな心を、世間を知らない病気の少女が持っているのです。

 このクララとハイジの関係性の中に、人が人として生きていくための大切なメッセージがあります。育ちが同じだとか、考えが同じだとかいうことで人を愛することはできないということです。同じ民族だからとか、思想信条が同じだからとか、利害関係が同じだから・・・しかしそういうところからは真実な友情も愛も生まれません。生まれや育ち、男女の違い、ものの考え方の違いを乗り越えるのが、人を支え、生きる希望を与え続ける本当の愛です。私たちは、友情や恋愛、結婚や親子の関係を通して様々な困難を経験し、ほんの少しずつですが、そうした愛の存在、その必要性に気づき始めるのです。

 ハイジとクララがいかに違った者どうしであったか、それにも関わらず違いを乗り越えて友情を築いていくという原作の思いをさらに発展させて見せてくれるのが、アニメ「ハイジ」の第21話「自由に飛びたい」です。

 クララは家で小鳥を飼っていました。ハイジは鳥かごに入った小鳥を見ながら、アルムの山のことを思い出します。すぐにも帰りたい。しかし帰ることはできない・・・その思いがつのったハイジは、この小鳥だけでも元いた場所に帰してあげたいと思うようになり、ついにある日お屋敷の窓を開け、鳥かごの扉を開けて小鳥を放してやります。これを知ったロッテンマイヤーは当然ながら激しく怒ります。しかし、クララは違っていました。このことを冷静に受け止めたのです。まず、こういうことをしたハイジの心の苦しみ、都会の生活になじめず故郷に思い焦がれていることを知りました。それにもう一つ、放たれた自分の小鳥はきっと家にもどってくると思いました。そのとおり、ハイジが逃がしたクララの小鳥は戻ってきたのです。

 この事件をとおして、クララはハイジの心の中を知ることができました。またハイジは、都会には都会を愛して生きる人間の生活があるのだということを知りました。このように、クララとハイジは違った環境で育ち、違った考え方をする二人でしたが、それぞれの違いを知り、さらに少しずつ歩み寄ることを始めました。

 私たちは人生の中で、友情で結ばれ、恋愛で結ばれ、結婚で結ばれ、親子として結ばれていきます。しかし、時を経るごとにお互いの違いは小さくなるどころか、違いはどんどん大きくなっていくように感じます。人間は成長し、変化していきます。似た者どうしだと思っていたのが、気付いてみたら何一つ同じでないと思うこともあります。でも、だからこそ、本当の友情が、真実の愛がそこに生まれるのではないでしょうか。




第7章 ロッテンマイヤー


 ハイジはどうしても山や谷や森を見たくて、誰にも告げずにお屋敷を抜け出し、フランクフルトの教会の塔にのぼって遠くを見てみましたが、そこにはただ家と道がどこまでも続いているだけでした。原作第7章「ロンテンマイヤー、大騒ぎの一日」から。

 その日の午後に家を抜け出したハイジが家に戻ったのはもう夕方、食事が始まる時間でした。当然のことながらロッテンマイヤーはかんかんに怒っていたのですが、食事の前でもあり、きびしい注意は明日ということになって、やれやれというところに次の事件が起こりました。次のというのは、その午前中の家庭教師がやって来るお勉強の時間に、ハイジは急に外に飛び出してテーブルクロスに足をひっかけ、インク瓶を倒してその日のお勉強を中止させてしまったのでした。次の事件は、その日の夕方に起きました。

 「今は一言だけ申します。あなたのお行儀は何と言うことでしょう。許しもなく、誰にも断らずに家を出るなど、これは罰を受けて当然のことです・・・」ロッテンマイヤーは自分なりに感情を抑えて諭したつもりでした。ところが聞こえてきたハイジの返事は「ニャー!」でした。さすがのロンテンマイヤーも感情を抑えきれずに「このうえまだ私をからかうのですか!」と言った後、ハイジのポケットから頭を出しているものにようやく気づきました。動物嫌いのロッテンマイヤーがその中でも最も恐れている子猫でした。ハイジが教会の塔へのぼった時、帰りに堂守りのおじさんからもらったのでした。ロッテンマイヤーが悲鳴を上げて部屋を飛び出していったのは言うまでもありません。

 ハイジとロッテンマイヤーのこのような行き違い、確執はハイジがフランクフルトを離れる日まで続くことになります。一見、水と油のような二人ですが、果たしてそのように見ていいものかどうか、私はちょっと疑問です。ハイジは確かに教育のない山の子ですし、ロッテンマイヤーは高い教育を受けた都会の人です。ハイジは自由に生きようとし、ロッテンマイヤーは伝統と格式を守って生きるのが当然と思っています。この相違を認めながらも、私はロッテンマイヤーを、主人公ハイジを悲劇のヒロインに仕立て上げるべく登場するいじめ役、反面教師として見るのは違うのではないかと思っています。

 原作者シュピリは、この「ハイジ」の中で、自分自身を投影させて書いています。それはなによりも主人公ハイジの中に、特に自分の少女時代を重ねていることは間違いありません。ハイジは原作者自身の化身でもあるのです。しかし、この物語はそんなに単純ではありません。子どものための読み物を装いながら、したたかにリアリズムが貫かれた香り高い第一級の文学の「ハイジ」において、シュピリはさらに別の登場人物にも自分自身を投影させています。それがロッテンマイヤーです。

 幼いシュピリは、キリスト教を信じる厳格な家庭で育ちました。それがその後のシュピリの人格形成に大きな影響を与えることになるのですが、思春期の頃にはその厳格過ぎる生活のあり方に反発を覚えたこともあるようです。シュピリが五十代になってこの「ハイジ」を書いていた時、彼女の中にはハイジのように自由に生きようとする一面と、生来の厳格な生き方の両方が「ハイジ」の中に並立して表れているように感じられます。厳格過ぎる生活に反発した若きシュピリも結婚し、家庭に入り、子どもを生み育てる中で、いつしか厳格な生活を強いる人間の一人になっていたことを、ロッテンマイヤーを通して告白しているように思えてなりません。

 時は19世紀後半、世界が急激な変化をとげつつある中で、変化に追いついていけない人々が多くありました。それがアルムおんじであり、ハイジもそうですが、しかし都会の中でも同じように取り残された人々がありました。ロッテンマイヤーもまたそのような人間の一人だったと想像されます。おそらくロッテンマイヤーはドイツの没落した元貴族の出身です。貴族の娘として富と名声の中で育ったものの、当時多くの貴族がそうであったように財産を失って社会に放り出されました。それからの苦渋に満ちた彼女の半生は想像に難くありません。

 ただし、ロッテンマイヤーは生きていくためにも自分に与えられた伝統と格式にしがみつきました。彼女は資産家の家に雇われて、そこで半ば失われた封建領主時代の格式、礼儀作法を教える役割を演じることでしか生きていけなかったのです。

 原作者ヨハンナ・シュピリは、ロッテンマイヤーをハイジに対する単なるいじめ役に仕立ててはいません。一人の作家の中にハイジがあり、ロッテンマイヤーもあるのです。ロッテンマイヤーはシュピリの今の姿でないにしても、かつてそのように生きてきた自分の姿を突き放して捉えつつ、なおあたたかく、いつくしむ心で描いています。

 こうしたロッテンマイヤーの見方は、まだけっして一般的ではありません。読者の中にはちょっと読み込み過ぎではないかと懸念する方もあるでしょう。そういう方々にはお詫びを申し上げつつ、この小冊子を読み終えるまで、心の隅のどこかにしまっておいていただければ幸いです。

 これが主人公ハイジに続いて、原作者が自分を投影した人物の二人目です。しかしこれで終わりではなく、私は原作者シュピリが自身を投影した人物がもう一人いると思います。その三人目が誰であるかは、その人物が登場する章でお話しすることにしましょう。