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ジブリ美術館前で

その1
  
その2
その3
その4
その5
その6


ハイジ展レポート 追記 その1

 

 実は私、ハイジ展は二回行きました。

 子供連れで一回見に行って、あれだけ観察できるわけないです。

 告白しときます。(^ ^;)

 5/22に見たときは上映が終わって、30分程度見て、カフェにお昼たべにいきました。
 ですからハイジ展本体はろくに見てません。ただし、セル画の保存方法についてお話ししていただいたのは5/22のことです。

 鑑賞会に応募はがきを出したとき、当選するかどうかわからなかったので、5/29の午後二時の入場チケットをローソンで買っておいたのです。
 絶対早いうちに行くと決意していたので、滑り止めをかけておいたのです。ヤマイコウコウ

 そして5/22は早々に帰ってしまいました。ですからレポート1が上映会だけで終わってしまったわけは、続きがかけなかったからなのです。
 そしてどーして、とっとと帰ったのか理由は少しあとで・・・。

 5/29は会場に二時間たっぷり。疲れ果てるまでいました。
 5/22にあたりをつけておいたところを、一箇所一箇所じっくりみて、一度会場を出て、ショップで買い物して頭をクールダウンしてから、またまいもどってきて鑑賞してメモとって・・。
 

 スタッフの方の入場者への親切さは、この日にようやく気がついて、強い好感をもちました。

 本当に会場スタッフの皆様、ありがとうございます。
 どの対応もとても自然で暖かいものでした。(^-^)


ハイジ展レポート 追記 その2 長期的価値
 


 20世紀後半から、いつまでで時代が区切られるかわかりませんが、
 セルアニメーション技法におけるジャパニメーションという芸術分野が確立するとします。
 たとえば江戸時代の浮世絵のようにです。

 その時、どの作品が代表作品として扱われるか想像します。
 高畑ハイジが代表作品として扱われる可能性は高いのではないでしょうか?

 ジャパニメーションは現代日本が世界に与えたかなり大きな知的衝撃の一つだと思います。
 未来においても何らかの地位を確保しそうです。
 やがて、アニメが保存と鑑賞の対象となった場合、

 高畑ハイジが、「鳥獣戯画」(平安時代)が現在国宝になっているような位置におかれ、繰り返し鑑賞されるかもしれない。

 
と妄想することがあります。
 まさかロボットものや萌えアニメが、芸術作品として鑑賞されるわけがないと思うのです。

 一時代を代表するにふさわしい作品には、独創性、革新性、品性。
 そして時代が移っても変わらない人気が必要でしょう。

 世界中の、未来の人々にも、感動を与え得るものでなければならないはずです。

 もちろん、そこまでいくためには、厳しい選別がかけられます。
 いくら緻密に作られていても、ストーリーが破綻したり、品性がなかったり、楽屋オチだったり、無意味な欲望や暴力やバカげた偏見が混入していては、未来において知的な人々が鑑賞するべき芸術作品として再評価し、新たな鑑賞者を得ていく事はできないでしょう。

 この点、どんなに現時点で人気があろうとも、ほとんどすべてのジャパニメーションが歴史の批判に耐えられず、いずれ記憶から脱落していくのは間違いありません。

 ロボットもの、戦闘もの、かわいいだけの作品、手抜きのもの、ムラのあるもの、設定に破綻のあるもの。・・全部ゴミバコ行きでしょう。作った人々のことを思えば、実にかわいそうです。

 でも、サブカルチャーなのですから、仕方ないといえば仕方ありません。
 もともと「ご大層」な「観念芸術」をめざしているわけではないのです。
 そして浮世絵だって、ただの庶民文化で消耗品だったんです。

 北斎だって歌麿だって、その作品発表当時は大量の商品の中の「これ、なかなかいいね」程度の評価だったでしょうが、今では他の多くの作家の膨大な作品は教科書にのせられずに忘れさられ、ほんの数点が一般に知られていることになります。


 ジャパニメーションは、これまでとこれからのすべての作品によって、日本が世界に伝えた芸術分野の1つになるでしょう。

 それら無数の消えゆく作品によって、高畑ハイジを含むいくつかの作品は、この分野の代表であるべき作品として、時間がたつほど強く浮がびあがっていくのではないでしょうか?


 高畑ハイジが革新性を持ち、独創的で、品性があるかはごらんのとおりです。
 そして、この作品は世界的に影響があるのです(展示にありますが「英語圏をのぞく」ですが…)

 
 私はジブリ作品でさえも、残るのは「トトロ」「火垂るの墓」「千と千尋」だけのような気がします。
 それらよりすぐりの作品と比べても高畑ハイジの存在感は圧倒的かもしれません。

 何しろ全長18時間の有無をいわせぬ作品なんですから、完全洗脳にはぴったりです。(^^ゞ

  


ハイジ展レポート 追記 その3 保存と修復


 今回ジブリ美術館でハイジ展を鑑賞するにあたって、私の中で最大テーマとして見に行ったのは、保存とアクセスの問題です。

 上映会でも感じましたが、高畑ハイジの弱点はごくささいなところにあります。

 製作スケジュールと資金の関係で、表面的な点でいろいろ欠点があります。
 画面の汚れ、痛み、作画の乱れ。これは保存状態にも問題があるようです。

 フィルムをみて、その美しさにある意味ホッとしました。
 まだマスターはさほど劣化していないようです。

 そして評価は保存がしっかりしていれば、自然とついてくることでしょう。
 そのためには、ハイジをデジタル化して、いろいろな保存・修復が必要でしょう。

1・デジタル化して劣化を防ぐ。
2・フィルムの傷、撮影時のホコリなどを修復する。
3・作画のブレ、音声の一部とタイミングの修正。効果音の充実や録音の再ダビングなど

 「国宝」として考えるならこのくらいしてもバチはあたるまい。(ねえ)
 このあたりをジブリ美術館に(少し)期待していたのです。実は…

 映画スターウォーズなみのデジタル修復などされたら、再度全世界的ヒットになるかもしれませんよ。!
 そう思うと、手持ちの資料は大切にして、次の世代の人々に引き継ぎたいです。



ハイジ展レポート 追記 その4 保存作品へのアクセス


 ジブリ美術館で疑問を感じるのは、常設展示が少ない事です。
 スペースの関係も有りましょうが、過去のジブリ作品についての情報を得ようと思ってジブリ美術館を訪れると見事に空振りします。

 図書館をもっと充実してくださーい!
 むしろ都内の大型中古本専門店の方が参考になりますー!。


 資料は、どこに何があるか明白で、常時内容が把握でき、実際に閲覧できなくては死蔵となります。
 また、デジタル的な複製を閲覧するだけならインターネットで十分ですが、わざわざ時間と費用を使って自ら足を運んで見たいものは、「ほんもの」なのです。

 考古学でも出土した遺物を直接みて、触れて、研究者が知識を深めていくもので、本物に接して、肉体で直接感じる事はどんな分野でも大切です。

 ジブリ美術館は、たしかにそのことが大切だと理解しておられて、子どもたちの肉体的感覚・探究心を、その迷宮的構造と、さまざまな展示で、アニメの仕組みについてはかなり体感できる不思議で貴重な存在です。

 しかし、こと美術館本来の機能であるはずの、一般人が情報を閲覧するための機能については、まだ手がまわらないようです。(まあ、どの美術館もそれに充分に答えるようにはできてませんけど)

 私が数人の親切な方々から、ありがたくもお借りしたり、お預かりしたセルや当時の資料は、それまで接してきたコピーや出版物とは、やはり違うものが得られたような気がします。

 私がハイジを集中してとりあげたのは、対象を限定して深める事で、他に無数に有る同じように存在する傑作児童文学やサブカルチャーの作品に、同じ様なアプローチ可能であることを示して、別の多くの人々によって全体のレベルアップに役立つ一助になるのではないか?と思ったからでもあります。

 集めたハイジについての全資料は、すべての人に無制限に(もちろん著作権者と創作者の権利と尊厳を尊重した上で)利用され、触れていただけるようになるのが希望です。

 興味を持ってしまい、深く知りたい人(私そうです)に、深く知ってもらいたいのです。


 デパートのアトラクションとしてなら内容についてあれこれいいませんが、美術館の展示として、「フィギィアがアッター」ではすみません。


 ただ、どうやってアニメを展示するかという方法論は難しいと思います。


 資料を並べるだけでは駄目だし(それならHPで十分。)
 画面を見るだけならビデオ。
 静止して鑑賞するなら画集の出番でしょう。
 美術館でアニメ作品を展示するとは、どうやって関心をもってもらえるか道筋をつけることでしょうか???。

 DVDも、今の形のパッケージが本当にこどもたちの鑑賞に適しているのかまで考える必要があると思います。

 もともと「子供と子供が好きな人のための物語」であるからこそ、この作品を支持したいので、あえて言ってしまいましょう。



ハイジ展レポート 追記 その5 ハイジ第一話について


 いまにして思えば、上映会はとてもありがたかったです。

 鮮明な大画面大音量で、一切の省略なし、中断なしで、冒頭三話を一気に頭に叩き込まれました。

 見終わったあと劇場のイスの上で、軽い衝撃をうけているのに気がついていまして、そこにもってきて会場にあった宮崎駿の卓越した第一話の解説を読んで、また刺激をうけました。

 すこしボーっとなって、視野狭窄状態になったので、一日目は早く思ったことを書かねばならないと思ってしまい、早めに帰って、その後長時間キーボードを叩いてしまいました。

 上映画面を見ながら思ったことと、宮崎解説への補足+異論を書いておきます。


 高畑監督は「ハイジをいい子につくりすぎた」と方々で語っています。
「大人にとって、いや万人から見て、こうあって欲しいという子供ですよね。ぼくはそういう子供の造型は「ハイジ」限りにしたんです」(「別冊宝島 私たちの好きなアルプスの少女ハイジ」インタビューより)

 確かにそのようにとらえれば、そのとおりですが、何かもっとキャラクター造型に仕掛けがあるのではないかと思えてなりません。

 ハイジはネグレクト(虐待)された典型的な子供だ。
 とネット上で意見を見たことがあります。
 児童虐待についても私は何も知りませんが、少し調べて考えてみると、関係がないともいいきれません。
 一つの解釈ができるのです。

 また、宮崎監督のハイジ展での解説もふまえてみます。
 あくまで個人的妄想ですので読み飛ばしてください。m(_ _)m


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 ハイジは可哀想な子なのである。
 ハイジは泣かない。
 それは、泣いてもムダだと知っているからなのだ。

 おかあさんはいない。おばあさんもいない。
 育てるおばさんは仕事でそばにいない。
 いつだって、どこかのおばさんの知らない家にあづけられている。

 泣いたらうるさがられるだけ。


 だからハイジは泣かない。
 常に人の顔色をうかがって、頭のよさでなんとか仲良くやろうとする、いじましい努力を続ける子なのだ。

 天真爛漫なのではない。
 確かに無邪気にはしゃぐのが大好きな、明るい子どもなのだが、暗闇なんかはこわくない。
 自分にむけられる、大人のうとましげなまなざしに比べたら、そんなのもの怖くもなんともない。


 ハイジは一種の演技者である。
 わずか5歳にして、自分の保身を考えて、明るく、ききわけがよく、それでいてちょっと扱いにくいようにする狡猾な演技者。
 そうしなくては生きてこれなかった、精神が死んでしまったであろう生活をしてきた子ども。

 アルムの最初の夜で、風の音におびえていないか、おじいさんは眠っているハイジを見にいく。
 育ての親をどなりつけて、追い返した後のたった一人で眠る夜で、幼児はどうどうと寝ている。
 どう考えてもおかしい。

 おばさんを求めて泣くこともないし、暗闇を怖がって泣くこともない。

 そして、冬の間、雪の中でとざされた生活をしても耐えていく。
 牧師がそれを奇妙に思ったのは当たり前だ。

 ハイジは事実上、しいたげられた幼児期をおくった。
 もっと怖いものがあるから、それに耐えられないから、他のもっと軽いコトなら大丈夫なのだ。

 もっとも恐ろしいもの、それは誰かの負担になり、やっかいものにされ、無視されることなのだ。つまらないものとして扱われることなのだ。


 しかし、山小屋が自分の家であり、おじいさんが絶対的な肉親と確信したとき、ハイジは幼くなって泣けるようになった。

 ハイジは、本当の子どもに解放されたのである。そして、おじいさんも解放されることになる。

 クララの解放、そしてペーター、おばあさん、ゼーゼマン、お医者さん、すべての人の解放を高畑監督とスピリは想定していたのだろうか?

 しかし、最初におきるハイジの解放は、ただの解放ではない。
 新たな種類の好ましい「束縛」でもある。

 第一話のハイジは痛々しい。
 ヤギにびっくりさせられて転げ落ちる場面で、なぜあんな幼児が泣き出さないか違和感を感じませんか?。

 でも、考えてみれば、泣いてもだれも助けてくれないのです。
 しばらく大の字になって寝ころんでます。痛くないはずはありません。でもそれを我慢して笑い飛ばしてしまいます。

 転がり落ちて泣いたら、ペーターは面倒くさく思ってハイジを嫌うでしょうし、逃げ出すかもしれません。

 そんな痛々しさを、なんとなく感じるから、わたしたちは画面のハイジから目を離せないのではないでしょうか?

 でも、演技者であるからといって、ハイジは不正直な人間ではありません。まったく逆です。
 ハイジは、自分をコントロールして、正しい人間・正しい子供として生きようとしています。

 それは周囲にあわせて自分の行動を制御し、社会に順応して、自分の態度で自分の立つべき位置を確保しようとする努力です。


 これは社会の中に生きるうえで、どうしても必要な人間の義務のはずです。
 しかし、おんじはその義務を半ば放棄して暮らしています。一見、自由ですが、ルール違反であり、後ろめたいはずです。


 デーテとハイジは、実は同じことをしています。

「わたしヤギみたいにかけまわりたいの」

 そうです。五歳の子供がかけまわらなくてどうします。

 子供にはそうする権利があります。

 どうしてそれを拒絶できましょう。神様だって禁止してはならないでしょう。

 もちろんその裏には「かけまわれる」だけの体を維持する生活環境と、保護の存在が前提です。


 それはハイジ自身の
「私の生存権・基本的人権を保障してちょうだい」
 
との要求でありましょう。つまるところデーテの言ってる「ハイジを育てて」と同じです。

 もちろんそんな理屈はハイジは知りません。でもこのように答えてもいいのだと、なんとなくわかっている賢い子供です。


 幼児と一緒に、干草のベッドをつくり、食事することで、おんじはそれがわかります。
 そしてイスを作ってあげることで、「わしはハイジの特別な味方である」とおさなごに態度で心を伝えます。

 行動による契約締結であり、おんじからハイジへの「保護者承諾宣言」です。

 これによって心を閉ざして自由を得ていたおんじは、義務と責任を負い、ハイジに束縛されて自由ではなくなります。
 でも、それがかえってうれしく、心のやすらぐ「自分のいるべき誇りある立場」を得ることになります。


 ハイジとおじいさん、双方が社会的に束縛しあうことで、二人はこれまでの人生から「解放」されて、別の人生を歩き出し、お互いに新しい「幸せ」を作り出していきます。

 何一つももたなかったハイジは、自分の初めての所有物であるイスを手に入れることで、ゆるぎないおじいさんからの保護と、自分のいるべき場所を手に入れたことを確信するのです。
 (服は体と同じですから所有物に数えるべきでないです)


 どんな子供だって、どんな人間だって、こうなるべきではないでしょうか?

「わーいわーい。イスをつくってもらった!
 だからおじいさん大好き。
 だってこのイスは大好きなおじいさんがつくってくれた大切なイスだもの。」(循環論法です)


 ペーターのおばあさんの目が見えないとわかったところで、ハイジは劇中はじめての大泣きをして、なかなか泣きやみません。
 これが本当のハイジの姿だと思います。
 とても傷つきやすく、不安で、おくびょうで、賢いのです。


 いろいろと子供ながらに考えて、どうにかしよう、どうにかしなければならないとがんばります。
 行動パターンとしてしみついたポジティブ・シンキングです。不安から必死で目をそらします。

 でも、おばあさんの目は見えるようにならない。救いはない。

 ハイジ自身が感受性が強く、自分が痛みを感じるのがいやだから、いっしょうけんめい人の痛みを感じてしまい、なんとかしてあげようとするのに、「できない。」

 この瞬間、ハイジの心の防壁が崩れて、内側の涙の湖が決壊して洪水となってしまい、回復に時間がかかります。
 分厚いカベに守られた傷つきやすい心には、涙が大量にあるので止まらないのです。


 それでも、泣いてしまえばまだ大丈夫。おばあさんがなぐさめてくれます。
 ハイジの心はけっして壊れていません。

「このおばあさんは、こんなにもひどい目にあっている(ハイジはそのつらさを完全に理解している)なのに、こんなにも優しくいられる。なんていい人(強い人)なのだろう」


 泣いた後で、ハイジはいっそうおばあさんに優しくなるのです。

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 ハイジの心的風景の分析は、まだまだ先の予定でしたが、宮崎監督の意見がハイジ展で出てきましたので、ちょっとだけ試みてみました。

 もちろんこれは私個人の意見で、高畑監督の意図は別に合って、はるかに深いことを考えておられると感じています。それを短いインタビューでは答えられないから、冒頭の発言になっているかもしれません。
 しかし、つじつまがあうこともあります。ハイジが虐待された人格をベースにしていたら、製作者にはうしろめたさが生じます。それがハイジについての意外な情報の少なさにつながって・・・(すみません。私のオバカな妄想です)


 ハイジ展図録が出た後、この文章は徹底的に書き改めたいと思います。

 いろいろな人の意見をお聞きしたいのです。
 ご意見、ご批判、お待ちしております。よろしくお願いいたします。(^ ^;)




ハイジ展レポート 追記 その6 Rくんへの感謝


 5/22一緒にいったのは知り合いの中学2年の少年 R君です。

 彼は、前夜の寝不足もあって、上映会で途中眠ってしまいました。あのイスで寝れたのですから大したもんだと感心です。

 そしてジブリ美術館の内容にもさほど関心をしめしたようには思えませんでした。
 無理もありません。
 小学校の時からいつか連れていくよ。と
「乗って遊べる小学生まで限定・巨大ねこバスぬいぐるみ」
 を、楽しみにしてくれていたのに、実際に行けたのは中学になってからなのです。
 無念そうに「ねこバス」をちらりと見ていたような気がしました。 


 それにテーマがハイジ。
 「ヨージ向けじゃねーの。まともにみていられん。」と中学のころの私も思ったことでしょう。

 思考力・判断力が成熟して、大人になりつつある少年にとって、子供時代の、みえすいたクッサイ幼児モノ(に見えるもの)は「もう卒業したんだ」として否定の対象にしかならないと私にも思えます。

 完全に大人としての自覚が定着し、周囲からも評価がついてしまえば、かえって自分の中に残った「こども」は創造力の原動力として貴重になります。

 でも、思春期をむかえた少年にとっては、まさにいま抜け出して否定してきた、葬りつつある過去なのですから、興味がなくて当然です。

 全世代の中で、ハイジにもっとも関心が薄れる時期かもしれません。

 本当に幼児をひきつけられるものは大人でもひきつけられるのですが、まだ価値観の変更が終わってなくて味わえないのでしょうか。


 彼がハイジとハイジ展とジブリ美術館にどのように反応するのか。
 これも実は、興味深い点でした。

 見終わって、率直に聞いてみました。

「つまらなかったところは?」
 しばらく無言です。私のことに気をつかって何も話しませんでした。それが答えです。よくわかりました。彼は優しいのです

「だったら面白かったところは」「ラセン階段」とニコッと答えてくれました。
 そうだね。ボクもあれ好きだよ。

 R君。付き合ってくれて、どうもありがとう。

 来月は一緒に富士山のぼろーね! これも去年からの約束なんだ。



これでとりあえず、第一回(^ ^;)ハイジ展レポート終了です。

また、そのうち行ってきます。

終了までに何回かいくことになるでしょう。

できましたら、他のハイジファンの皆さんともご一緒したいです。

それではまた、よろしくお願いいたします(^▽^)/

tshp 2005/6/5