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ラジオ 「わたしの出会ったこの一冊」FEBC放送分より リンク

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このページは、高橋竹夫様と、FEBC放送様のご好意により掲載させていただきました。
著作権・放送権は、それぞれの権利者に帰属しております。



キリスト教文学としての「ハイジ」 

日本キリスト合同教会江戸川台教会牧師 高橋竹夫


(この原稿は日本FEBC放送の「わたしの出会ったこの一冊(2007.1.3放送)」からテープを起こして、一部手を加えたものです。)

 こんにちは。
 皆さんは「アルプスの少女ハイジ」をよくご存知だと思います。
 私もアニメの「ハイジ」は大好きです。

 ところが、この「ハイジ」がとても内容の深いキリスト教の信仰を背景とした文学であるということをお知りにならない方は、とても多いのではないでしょうか。

 このような背景をもつ原作「ハイジ」のすばらしさを、少しでも皆さんと分かち合えたらと思って今日はお話しをさせていただきます。

 「ハイジ」という児童文学は、19世紀後半、スイスのヨハンナ・シュピリという女性によって書かれました。
 物語の主人公ハイジは、スイス東部の山深い村で生まれます。
 しかし、生まれて間もなく父を事故で、母を病気で、相次いで亡くしてしまいます。
 その後ハイジは叔母に引き取られるのですが、この叔母が子どもを愛さない人で、ついに面倒を見切れなくなります。
 すると、その山深い村里のさらに山の上にある小屋でたった一人暮らしているハイジのおじいさんの元にハイジを連れていき、無理やり押し付けて帰ってしまうのです。

 このおじいさんは変わり者で、村じゅうの嫌われ者でした。
 おじいさんは、初めはハイジにも心をかたく閉ざしていましたが、ハイジの明るさと素直さによってしだいに心を開くようになります。
 そして、おじいさんはハイジと暮らすうちに、生きることに希望を見出すようにさえなります。

 しかし、そうしたおじいさんとハイジの幸せは3年しか続きませんでした。あのハイジの叔母が再び現れると、自分のあるもくろみのために、おじいさんを脅し、ハイジをだまして、隣国ドイツの大都会フランクフルトにハイジを連れ去ってしまいます。
 今、おじいさんを脅したと言いましたが、実はおじいさんには、誰かに脅されるような暗い過去があったのです。これは後ほどお話しします。


 こうしてハイジはアルプスを離れ、大都会で暮らすことになりました。
 そこでハイジはいろいろなことを体験し、学びます。
 最大のことはキリスト教信仰に目覚めたこと、それから文字を覚えて読み書きができるようになったことです。

 このように得ることも多かったのですが、ハイジは都会の生活になじめず、そして何よりもおじいさんとのアルプスでの生活が恋しくて、とうとう夢遊病という心の病になってしまいます。
 そして、その結果、再びアルプスのおじいさんの元に帰ることになりました。

 ここまでは、皆さんもアニメ「アルプスの少女ハイジ」で知っておられると思いますが、この後が、実は原作にしかない部分で、物語全体の中できわめて重要なお話しなのです。


 ハイジは、フランクフルトからお土産に童話がいくつか入った一冊の絵本をもらって帰ってきます。
 帰って間もなくのこと、ハイジはおじいさんに、その中から一番好きな物語を読み聞かせたいと思って、ある日の午後、山小屋の前のベンチに二人で並んで座って、その一番好きな物語をおじいさんに聞かせました。
 ハイジが一番好きだった物語というのは、実は新約聖書の中にある有名な「放蕩息子のたとえ話し」だったのです。

 ある裕福な農家に父と息子がいました。
 息子は成長するまでは父を深く愛し、また父に忠実に従って、その大きな農場で一生懸命働いていました。
 ところが息子が成人した頃、息子は今までのように父の下でただで働くのはばからしい、もっと自由に生きたいと思うようになりました。

 そしてある時、分けてもらった財産をごっそり持ち出して遠い町へ行き、お酒を飲んだり、悪い友達と付き合ったり、賭け事をしたりして過ごしました。
 しかし、最後には財産をすべて使い果たし、食べるものさえなくなって、ようやく父の愛がわかりました。

 そして息子はこう思いました。
 「もう今となっては息子と呼ばれる資格はないけれど、とにかくお父さんの元に帰ってこう言おう。
 『お父さん、私は神さまに対してもあなたに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』と。」
 そうして息子は父の元に帰っていきました。

 家では、父が息子の帰って来るのを長い間待っていました。
 それで息子が遠くから歩いてくるのを見つけると、父は走り寄って迎え、息子を抱いて大いに喜んだ、というお話しです。

 ハイジはこのお話しを、絵本を指しながらおじいさんに語りました。
 おじいさんは、その話しが始まる前は、パイプを口にくわえて、にこにこしながら耳を傾けていたのですが、その物語が聖書の「放蕩息子のたとえ話し」だとわかるや否や、すっかり黙ってしまいます。
 そして話しが進むうちに、ますます暗く悲しげな表情になっていきました。

 ハイジはその物語を一気に読み終えると、おじいさんに言いました。
 「どう、すばらしいお話しでしょう?」
 しかし、おじいさんは黙ったまま、暗いきびしい表情をしています。
 ハイジはおかしいなと思いながらも、なぜおじいさんがそうなったのかわりませんでした。

 実は、おじいさんは若い時、「放蕩息子」そっくりの青年だったのです。
 おじいさんも若い時、裕福な農家の息子でした。
 しかし、たびたび家のお金を無断で持ち出してお酒や賭け事に使い、その結果家は破産してしまい、両親はそれを悲しんで次々に病気になって死んでしまったのでした。
 そしておじいさんは、親戚からも村の人からも冷たい視線を向けられるようになり、とうとう家にいられなくなって、遠いイタリアに出稼ぎに行って、長い間村には戻ってきていなかったのでした。
 そういう暗い過去があるので、おじいさんは村の中に住まずに、高い山の上の小屋に、ひっそりと一人で住んでいたのでした。

 ハイジが帰ってきたことを素直に喜んだおじいさんでしたが、このおじいさんの心には、なお一つの太い釘が刺さったままだったのです。
 ここの部分、原作「ハイジ」前半のクライマックスの一部分を原作から紹介したいと思います。

 「それから2〜3時間した後、ハイジはもうぐっすり眠っていました。
 おじいさんが小さなはじごを登ってきました。
 ランプをハイジのベッドのそばに置くと、その光が眠っているハイジの顔を照らしました。
 ハイジは両手を組んで寝ていました。
 お祈りを忘れなかったのです。
 その顔には、安心してゆだねきった表情が浮かんでいました。
 それを見て、おじいさんは心が打たれました。
 そして長い間、そこに立ったまま、身動きもせずに、この眠っている子どもから目を離しませんでした。

 やがて、おじいさんもまた手を合わせました。
 そうして頭をたれてつぶやきました。
 『父よ、私は神とあなたに対して罪を犯しました。もはやあなたの息子と呼ばれる資格はございません・・・』
 いつしか、おじいさんの頬から大粒の涙が流れていました。」

 (竹山道雄訳「ハイジ」第1部14章「日曜日の鐘」より)

 昨年の8月、私は念願のスイス旅行を果たしました。
 「ハイジ」のふるさとであるその土地を自分の目で見、自分の足で歩いてみたいと思ったからです。
 物語のモデルとなったマイエンフェルトの町や、その周辺の村々を訪れました。
 当時の風景がほぼそのまま残っているその場所を、私は歩いてきました。

 私にとって「ハイジ」のすばらしさを一言で言うなら、それは天地の創造主である神が、人間の心をも作り変え、いやすということでしょうか。
 そのことを「ハイジ」は、子どもにも大人にもやさしく十分にわからせる内容をもった作品であるからです。

 原作「ハイジ」は大きく二つに分かれています。
 おじいさんが神を受け入れる第1部の物語と、フランクフルトの足の悪いクララが最後に歩けるようになる第2部によって構成されています。
 そしてこの二つの部分は、ストーリーはそれぞれですが、メッセージは共通だと思います。
 すなわち、神の造られた大自然が人をいやすのではなく、それを造られた神ご自身が人の心を作り変え、いやして下さるということです。

 最後に、「ハイジ」の中に記された詩を一つご紹介しましょう。
 大自然を造られた神が人間の心をもいやして、生きる希望を与えて下さることを高らかに歌ったものです。
 これはドイツ語圏で歌われている讃美歌で、パウル・ゲルハルトという有名な讃美歌作者が書いた詩をシュピリが「ハイジ」の中で引用したものです。

 「お日様の歌」という詩を読ませていただいて、お別れにしたいと思います。

 喜びに満ちる金色の陽の光は、

 その輝きに乏しい私たちによみがえりの光を注ぐ。

 地に向かってうなだれていた

 私の顔も私の体も、今立ち上がる。

 私の目は神の造られた世界を見る。

 それは神の栄光と力が果てしないことを教える。

 それはまた、神を敬う人が

 平安のうちに、このはかない大地から去っていく

 その行く手をも教えている。

 すべてのものは過ぎ去る。

 しかし、神のみゆるぎなくおられる。

 その思いとその言葉は、永遠をいしずえとする。

 神の救いとみ恵みは正しく、誤ることがない。

 私たちの心の痛みをいやし、

 私たちをこの世においても、

 また永遠においても支えたもう。

 十字架も苦しみも、もはや終わろうとしている。

 沸き立つ波は静まり、

 ざわめく風もなぎとなり、

 希望の光は照り輝く。

 喜びと清らかな静けさ、

 これこそ天の園にあって私が待ち望むもの。

 私はそこに思いこがれる。

*上記「お日様の歌」は著者の私訳です。

*引用した竹山道雄訳(岩波少年文庫「ハイジ」)は現在絶版ですが、古書店などで入手可能です。日本語の美しさに満ちた格調高い名訳の一つです。

*原作者ヨハンナ・シュピリは敬虔なキリスト教徒でしたが、押し付けがましい宗教的メッセージを好まず、あくまで児童文学としてのバランスの中で神への信仰を語っています。
 私もそうしたシュピリにならいつつ「ハイジ」におけるキリスト教信仰を語っていきたいと思っています。