「日本教の社会学」山本七平・小室直樹 共著
第四章 日本教の教義(ドクマ) (1)
日本人を理解するために / 日本教の教義(ドクマ)としての「空気」
より
ドグマの正体(コメント) どの人間にも価値判断の基準があります。 それは自分の心の中にあって、自分で把握していようが、していまいが、確実にあることは間違いありません。 人間は、限られた知識と能力しかもっていませんので、すべての外界を認識して理解することはできません。 ですから、その判断には、必ず独断的独自の選択が含まれてしまいます。 そうでなければ指一本だって動かせないから、たとえダメかもしれないと思っても決断して前に進まねばなりません。 我々の行動に誤りが含まれることは、最初からわかっていることなのです。なんと切なく哀れなことでしょう。 Religion・エトス・思想は長い歴史の中で必要と試行錯誤で積み重ねられてきました。 人間の頭の中そのものといえる、極めて人間の本質に近い「愛しい貴重品」なのです。 そしてドグマ=教義とは、「子々孫々、子供に教え、永久に自分も守っていきたい、正しい良いもの」の結晶なのです。 少なくともそのように考えて歴史的に定まった「知恵」のはずですが… 抜粋と整理
前提 日本教とは,日本人の行動様式(エトス)のことである。 日本教を理解することは,日本を理解し,日本人を理解することである。 日本教は体系的でない。文章化されたことはなかった。 →『日本教の社会学』が史上初めての試みを行なった →これらがないのが日本教の特徴 日本教のファンダメンタリズムはない →ファンダメンタリズムの考え方は日本教にとって極めて異質(考えることもできない) *日本教は、教義の論理構成だけをその社会的機能から切り離して分析するという従来の組織神学的立場からは分析不可能。 しかし 原則のないところが日本教の日本教たるゆえん 教義(ドグマ)の性質 →機能において日本教にはドグマと同じ働きをするものがある(構造神学の立場) 「空気」とドグマ 「空気」とは→その場の情況によって人の行動を制御するものAnima,pseuma 「空気」が教義ではない(表面的)理由 必要条件・・Pが成立しなければ、Qも成立しないという関係がある場合、PをQの成立のための必要条件という。 (Pがダメなら、Qもダメ) 十分条件・・Pが成立すれば、Qが成立するという関係がある場合、PをQの成立のための十分条件という。 (Pがあれば、Qも大丈夫) 「空気」が日本教の教義(ドグマ)であるための,必要条件 ・「空気」は規範的に絶対であって所与性をもつ。 →「それが空気だ!」ということになると誰も反対はできない。 →「空気」に逆らうことは,とんでもなく悪いことだとされる。 →人間は「空気」の前ではいとも弱き存在。 →どんなに「空気」に抵抗しても無駄。これを変えることなどできようがない。 「空気」が日本教の教義であるための十分条件 →「空気」は,無条件にいかなる社会にも発生しない(発生のための条件とは) →これを拡大 (規範が、社会的状況からも人間関係からも析出されている社会であること) 2・歴史という考え方のある社会でも「空気」は発生しない。 →現在の「空気」によって是非善悪を決めても,歴史の審判によってくつがえる可能性がある。 →それが歯止めとなる→「空気」が巨大な力をもてず、発生がおさえられる
規範が存在しない + 歴史的「時間」の考え方がない の二つの条件が必要
→教義(ドグマ)を信ずれば加入できるし,満たさなければ加入できない。 →ドグマとは、パスポートである。(パスポートがないと入れたげないよ) 教義学とは組織神学とほぼ同じ意味となる。(教義が一つのシステムである) …しかし →両極端のはずの(日本的)思想家の共通点。(奇妙な一致点) 内村鑑三は絶対に組織神学を排除する。 →一方において彼は絶対神があって,一方においては個人の規範しかない →この発想がまったくない。「神学を学ぶと信仰を失う」内村鑑三 →一方の極に天皇の絶対制があって,他方の極に個人の絶対的規範(絶対服従)がある。 →このあいだをつなぐ組織は何にもない。天皇絶対と個人の規範との組織的連関がない。
→これがすべて教義(ドグマ)として出てくる(定義されている) 日本人はドクマを嫌う(なぜか?)(本能的?) ドグマを提示して、遵守させようとすると「絶対お断り・ゼッタイイヤ」 →そこは触れるな! ・明文化された条文によって、システム的組織を作って運営していく。 →組織とドグマは完全に一致して、両者の間に連関性がある。 →儒教の礼楽規定と社会組織の連関性(科挙制度) ・ 仏教の戒律と僧侶制度の連関性 →これをやぶったら資格ナシ。出て行け!となる。 →社会学的な,教義(ドグマ)の組織論である
・どうやって組織し、機能させていくか? 空気の制御 ・絶対者(絶対存在=天皇やGod)の存在があること ・個人の規範があって、絶対者との関係を考えること。 (その他は、個人の感情・思考、またそれの積み重ねであるその時々の集団の総意) 上の二点で制御する。 → しかし → 巨大な落とし穴がある。
→天皇は「ただの人間」になり、Godへの信仰も(もともと)ない →「空気」の入った風船を抑えておく二つの「点」が消滅 →*完全に「空気」のみの社会になりうる。 →空気だけでは組織が動かない。ふわふわ漂って機能不全となる。 →その時々で、絶対的対象をムリにでも作って「信仰」→自己を機能させねばならない 戦前の場合 ・両極は固定していて、一方は天皇で,それに規定された個人規範 →ただ中間の「空気」がふくれたり小さくなったり、あっちへこっちへ移動した。 戦後の場合 ・起点となる二つの焦点みたいなものがない→戦前以上に「空気」の流動性が増大。 →どんな「空気」ができるかわからない→視界ゼロ 規範(ノルム)における体系性→是非善悪の判定が明確になされ得ること(機能すること) ・規範には成文規範もあれば不文規範もある。 →もし曖昧(あいまい)だと規範とはいえない。 ・「空気」は明確な体系性を絶対にもたない。 →人を拘束し、行動を制御し、従わない場合は制裁できる。 規範の社会学的特性 (1)正当性を有している (2)正当性を根拠として、遵守が要求される (3)遵守しない場合には制裁(サンクション)が加えられる →「空気」も,上記三点の特性を十分もっている。 教義(ドグマ)とは特定の集団(教団)の加入条件 →その集団に入っている以上は,生命をすててもこれに従わなければならない。 →反したら集団の中にいられない。殺されるとわかってても行く。 「空気」は強烈な恐るべき規範性をもっている →どんな理屈を言ってもダメ。空気がなくなってから検討するとまったくナンセンス。 「空気」は流行やムード ではない。 流行は選択の余地がある。流行やムードはどこの国にもある。群集心理とも違う。 「空気」は選択の余地がない。→絶対的拘束。議論できない。 →表面的には何もないが「詰め腹」を切らされる。(「空気」形成集団の殉教者) 日本教徒で形成された、最高の知識・経験・権力・能力をもった人々が話し合った結果の「空気」がとんでもない選択になることがある。 (自由批判可能な討論ではない→話し合い・談合である) (好例) 大戦末期の沖縄への戦艦大和特攻作戦。 →しかし実際に実行されて、戦艦を一方的に沈め、数千人が死ぬ。 (沈めたのはアメリカではなく日本自身である。敵の手助けで戦闘を装った自沈行為) →レイテ沖海戦での敵前反転の詰め腹+海軍のメンツの維持 →組織の名誉のタメ おかげで、少なくとも日本海軍の旗艦が、無戦果・無抵抗で降伏を迎えることはなくなりシズンジマッター その意味で恥をさらすことにはならなかったがー (後に大和のお涙映画ができるのも特攻のオカゲ。 もし特攻がなければ大和は、敗北と無能と恥辱の象徴となったはず) →「空気」の最悪クラスの実例を、世界史に残すことになった。(世界への腹切見世物ショウ) 「空気」は瞬間的・時限的に、強烈なドグマ(のようなもの)を作ってしまう。 →限定的。特定の集団内部のみ。 →外部からは理解できない。→当事者でもあとから外部に合理的な説明ができない。 (できないからこそ、「空気」が絶対的になる。外部にもらせぬ特殊事情。共犯グループ) 「空気」が教義(ドグマ)になった帰結 →事実判断と規範判断の区別がなくなる→事実と規範との無媒介的癒着 (近代とか前近代という問題ではない→日本社会の驚くべき特徴→そのままでは絶対変化しない) ・日本教→口にすることはその人間の規範である(事実を言ったら規範になる) 「空気」を阻害するもの 「空気」を「空気」どおりに,これを教義として機能させる場合 →事実をそのまま事実として口にする人間がいるのがいちばんジャマになる (例・戦艦大和出撃の前に、だれからも認められている内部の専門家が、「いま戦艦大和が出撃いたします。これはこうなってこうなって,南九州の沖合い何カイリぐらいで必ず沈没するでしょう」と専門の知識を駆使して,あり得べき事実を反論の余地ないほど徹底的に論証すると空気は消える(小室直樹)) →「水」をさす行為である(これで空気はしぼむ) →しかし「空気」が規範化されてドグマになる社会(集団)では、事実をいうことが日本教の背教となる →所属集団を裏切ることになる→擬似家族を裏切る卑劣漢にされかねない →怖い→口をつぐむ (事実を言うには、大変な障害となる) →これが「空気」の恐ろしさ。 「事実」と「実情」との連関 ・事実…真実おこったままの事実そのもの ・実情…「空気」を通してみた事実→「空気」というフィルターを通過した変形された事実 「空気」は集団内部の感情によって左右された意思の集合 →集団内部で「事柄」をとりあつかうには、事実ではなく「実情」でなければならない →ナマの「事実」をとりあつかってはならない→日本教では「事実」はタブー (日本では、ほんとの事を言うと、嫌われる) 広辞苑より (実情…まことの心。真情。実際の事情。ありのままの情況。「表向きはそうだが、実情はこうだ」 (情況…その場の、またはその時のありさま。ある人を取りまく社会的・精神的・自然的なありかたのすべてをいう。様子。情勢) 実情は集団の空気のフィルターを通した集団の心的事実。 事実→情況→実情 事実を事実として言うこと→嘘つきになる →なぜなら、事実に付け加えるべき個人の感情・判断が入れずに、隠していることになる →語るべき自分の「情」をわざと隠蔽している(私利私欲で情報操作している) →正直であるとは→実情を語ることである→事実だけで実情を無視したら →嘘つきになる(卑劣な人間) 「嘘つき」とは? 欧米人の嘘つきの定義→事実と違うことをいう人が嘘つき。 日本人の嘘つきの定義→「実情」が「事実」と異なる場合,事実と違うことをいっても嘘つきではない *日本人が欧米人に誤解される大きなポイント。 (個人の「情況」をそのまま口に出すことも、「空気」に水をさすことになる場合があるため、本当に口にしても問題ないのは「実情」だけである) 「水を差す」の限界 ・「水を差す」→事実や情況を言うこと →自己の保身と引き換えに「空気」をしぼませることが可能 →しかし→「空気」をしぼませたあと、水を差すことで別の「空気」を生み出せる (「水を差す」のは、特定の「空気」を無力化することだけであり、 「空気」を生み出すシステムにはなんら影響を与えない) →何かの「空気」をつぶせば,また何かの次の「空気」が出てくる。 →永久に「水」は「空気」をつぶすだけ →「水」によって何かをつくり出すということはできない。 →「水」と「空気」の関係は、二律背反でありながら,弁証法的展開とは違う。 (もし水をさして、戦艦大和の出撃をやめさせても、今度は別の空気がでてくるかもしれない) →「水」をさすことで、新たな「実情」が生まれ →その「実情」にあった新たな「空気」が生まれる 結
というか、物質的空気はどこにでもあるものであって、いちいち意識していては暮らせるわけもありません。 同じように一人ひとりの「情況」からの「実情」が生み出す、集団の「空気」も特に意識していません。 ただし、意識していなくても、注意深い第三者から観察していればちゃんと「空気」に適応して生活しているわけであって、それを「発見」したことが「日本教」説の面白いところです。 身近なところに思いもよらない発見が可能。という実例になるかと思います。 でも、この発見は、「見つけちゃったけどどうしょう」といった、なんとも困った発見でもありましょう。 2005/10/10 |