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「日本教の社会学」山本七平・小室直樹 共著

第一章 戦後日本は民主主義国家ではない(2)

日本人の自由感覚 / 言霊(ことだま)と「言論の自由」
                                         より


自由について(コメント)

 日本人の考える自由とは? を論じています。

 初歩の初歩として辞典を引いてみます。

 freedom
 ・・(束縛・拘束のない状態を積極的に共有する)自由(の状態)
 束縛のないこと<libertyは以前の拘束状態を暗示し、現在の解放状態に重きを置いた消極的自由>
 自主、独立;(言動などの)自由

広辞苑のfreedomでは、
「一般的には、責任をもって何かをすることに障害(束縛・強制など)がないこと。
 自由は一定の前提条件の上で成立しているから、無条件的な絶対の自由は人間にはない。
 自由は,障害となる条件の除去・緩和によって拡大するから目的のために自然的・社会的条件を変革することは自由の増大である。
 この意味での自由は、自然・社会の法則の認識を通じて実現される」


 とあります。これがどういった意味なのか・・。
 おどろくべき世界があらわれます。

 


 抜粋と整理

・客観的自由
 自然法に基づき、明文化されて意味がはっきりと定義された権利の集合体。
 国民の民主的意志によって構成された国会により制定された実定法であり、
 政府行政権力によって実際に運用され、
 司法により運用されているか判断されて、
 遵守されるための拘束力の実効性を保証・担保されている権利。

 

・主観的自由

 自分の主観・感情・思想に基づき、感覚的にとらえる自由。

 


日本的自由
 日本人の持ってる自由という概念の内容とは何か (無原則状態となる前提)
  (1)徳川時代の自由→「商人なければ自由なし」→不自由の解消が自由
  (2)どうすれば人間は自由になるのか→道理に応じて身をゆだねる→社会に抵抗しないこと→抵抗を感じない心理状態になるのが、すなわち自由(ギクシャクしない)
…宇宙は全部「からくり」で、太陽が回っているのは大「からくり」。水が高いほうから低いほうへ流れるのも「からくり」。琵琶湖という天然の貯水槽をつくってくれたのも「からくり」。そういう「からくり」のなかで人間は生きているこの「からくり」にそのまま身をゆだねて、少しも抵抗を感じない状態になってるのが人間にとっての自由(江戸時代の思想家・布施松翁より)
(広辞苑より 後漢書 心のままであること。思う通り。自在。<古くは勝手気ままの意に用いた。> ほしきまま)

 心理的にどういう状態になったら人間は自由という気持ちになれるのか?
 ()財布を盗まれた場合→訴えて取り戻そうというのはギクシャク抵抗することで不自由な行為→先世の因果だと考えよ、先世に自分は財布を取ったんだから、これは現世にお返ししたにすぎない
 →社会的問題であれ、なんであれ、全部自分の心理的な問題として、自己の内心で解決
 
→→(いつでも平穏・いつでものびのび自由・それができるのが、よくできた丸くて豊かな人間)
 自由であるということは…
  ・心理的拘束を感じないこと  ・物質に不自由しないこと
。 なのである


--------------

欧米的自由  日本とはまったく反対の概念(コンセプト)
 リバティーlibertyl(奴隷からの解放)と、フリーダムfreedomFreiheit(積極的権利)
 フリーには「ただ・無料」の意味があるが、「払わなくてよい権利」なのである。
・法的自由…訴訟を起こす権利
・政治的自由…投票する権利
・経済的自由…契約する権利
(売買契約ができる→自分の体も売買できる→会社を作れる)
・信教の自由…思想・信条を選択する権利
(
権利がない人間。→奴隷→法に守られない・意見表明できない・自分の体も自分のものではない・考えてはいけない)
 奴隷は民主主義に参加できない。 自由民ではない。
 奴隷は契約する人格がないから、解放することはできない

 いくら奴隷の所有者が解放しようとしてもできない。したくてもできない。
 相手は自由民=人間ではなく、奴隷はたんなる物質・道具である。
(例・コンピュータはいくら高性能で高価であっても道具である。馬はいくら力があっても人格がない。奴隷とはコンピュータつきの1/4馬力の万能機械である)
 自由意志を認める必要がない。だから、奴隷の発言・意見はすべて無である。
 奴隷とは約束ができない。たとえ約束して、それをやぶっても奴隷は一切文句を言う権利がないから、やっぱり無意味。だから奴隷自身も、主人のいかなる約束も信用するわけにいかない。言葉が力を持たない世界である。

(
奴隷を解放して自由人にする方法
 →客観的第三者(神殿など)に保証金を積みたてし、それと引き換えに奴隷を売り渡す。
 →→その売り渡し先が「人間」でない場合は、人間の所有する奴隷ではなくなる。
 
*神に売られた奴隷は、「神の奴隷」となり、実質的に自由人となる。
「神によってあがなわれた」(聖書の慣用句)→神の奴隷であり、神の支配は受けるが、人間の支配は受けない実質的な自由人であることの宣言。自分は神と契約したのだ!
 神さまは自分を解放してくれた。だから自分は自由なんだ!
 
(しかし、神による「あがない」とか「贖罪(しょくざい)」とか言っても日本語では意味不明です。ぜんぜんピンとこないし、誰にもまったく通じない)

奴隷と日本人
 まったく権利のない「奴隷」は日本には存在しなかった。
 奴隷とまったく同じ扱いをされても、主人が「もう解放してやる」とひと言いったら、自由になれる存在。(つまり日本の奴隷は、完全な奴隷ではなかった。法的には自由人にあたる)

 奴隷以下の自由人…権利はあっても境遇が奴隷以下になることはある。
  戦争中の兵士、極端な貧困の中にある人、契約で莫大な負債を抱えた人など。
 奴隷の場合は経済的価値を持つ道具。だから価値・性能を維持・再生産するために、所有者が食料・繁殖()の手配をしなければならない。最低限以上の手入れ、生活保障をしないと所有者の損失となるのである。
 契約さえ守れば、自由民は奴隷以下に扱っても「あとくされ」ない。
 境遇が悲惨かどうかは、自由人か奴隷かの区別にならない。(裕福な奴隷は存在できる)
 契約の有無が、自由人か奴隷かの、決定的分岐点。


自由というのは、そもそも契約を前提とした概念(コンセプト)
奴隷は売買の対象、自由人は契約の対象→歴然たる区別がある





日本人と契約と奴隷
 日本に欧米的契約の概念はない。
→欧米的にいえば、日本人は奴隷でも自由人でもない。→契約なければFreedomなし。
→→欧米的にいえば、「自由人であると同時に奴隷である」ことになる。
→その証拠→日本には雇用契約がない。(雇用契約を意識して就職しているわけでない)

 日本の契約書には、しばしば
「この契約に定める事項について疑義を生じたときは、双方誠意をもって協議に入る」
 とあるが、これは契約内容を事前に定義しておかないということであり、欧米的に言えば契約でない証明になる。これが契約であれば、日本人は契約を理解していないことになる。


欧米的結婚…契約であり、離婚した場合も事前に想定している。
日本的結婚…契約ではない。離婚した場合のことを考えたらそもそも成立しない。

欧米の政治的自由
…参政権をもち、決断をくだす主権者であること。
 公約のない選挙は、主権者の判断決定権を奪うものであり、選挙ではなく、国民主権の剥奪・蹂躙である。もちろん憲法違反。
 各党は公約を一本化するために、内部で反対する者は多数決で意見をまとめておくか、除名して追放するなど、断固として排除しなければならない。
(
多数決で決まれば少数意見を主張する権利はない)→主権者の意志決定(デシジョン・メイキング)の追求が最優先。

日本の政治的自由
…デモをやってもいい。政治家の悪口を言ってもいい。この程度の認識。
 公約のない「なんとなく」の選挙があたりまえ。
 政策(マニフェスト)がまとめられるのはごく最近の「風潮」にすぎない。
 いろいろ拘束されて不自由を感じるのはいや。→なるべくそれをしそうにない所に投票。

市民権と差別
欧米
…市民権がなければ、外国人。あらゆる権利がない。どうにもならない。
一面徹底的な差別状態。市民権をとれば、差別はなくなる。

日本
…市民権があっても「外国人」は就職で差別。
 役人、一流会社、大学には、事実上就職できない。

政教分離
欧米→「教会は政治にタッチするな。」(宗教的自由の保障)
 宗教は行動規範そのものだから、違う宗教との交流はもともとタブー。
 それでも無理を承知で、宗教的寛容を選択する。
 内面と外面を峻別して内面は問わない。精神の自由を持つ権利の保障。
(
内面は、悪魔であってもよい。外面的な法的秩序さえ守れば、差別をなくす。→これが宗教的自由
 もともと別の神と契約を結んだ異教徒は、交流不可能な悪魔であり、殺すべきもの。生存させてはならない存在だった。
 個人の思想を問題にするのは、同じ宗派の内部の人間だけで、外部の人間には権利がない。


日本→「政治は宗教にタッチするな。」(思考の自由の否定)
 政治家というものは無宗教でないといけない。(逆差別・単一思想の押し付け)
 靖国神社に参拝するかしないかは、個人の宗教の問題であって、政治的拘束とは関係がないのに問題になる。(中国・韓国も日本と同様に宗教的自由を否定している)
 政治家の内心の思想が問題とされ、宗教的自由を剥奪するしてもかまわない。
 ジャーナリストには、個人の宗教問題・心の内側の思想の善悪を批判する権利があることになる。
 (つまりジャーナリストは個人のプライバシーを侵害してもかまわない!)


社会的自由とは?

日本の社会的自由
 連想されるもの→勝手気ままに生きること。女の子と自由に遊べる。お酒をいくら飲んであばれても誰にも文句いわれない。(程度)
 →→これなら日本は非常に「自由」である。世界でもっとも「自由」である。

欧米的社会的Freedom→日本にはまったくない
 ・個人において、内と外とが峻別されている。
 ・個人は集団から析出されている。

宗教的自由と社会的自由の密接な関係
  社会的自由→プライバシーの公権力からの保護。権力はプライバシーにふみこむな。
内面と外面を峻別する。
 →外面においては責任をとる。
 →内面においては他人に対して責任をとらない
宗教的自由←→裏返し←→社会的自由
 近代デモクラシーの不可欠の前提
 近代社会の社会的自由とは内心の自由。民主主義の前提は思考と選択の自由。
  法治主義であり、特定のイデオロギーから個人(社会全体)が解放されている
  法で決まっていないことなら、何をやってもいい。

現在の日本や中国やソ連…社会的自由がない
 …会社につとめた時に、社長のところへ行って、「社長さん、社長さん、おれは、あなた大きらいだ」と。しかし「いかなる命令でも忠実に果たしますから使ってくれ」(小室直樹)
 →これが通用しない。「心から」の忠誠を求める。
オスマン・トルコ式奴隷制と同じ(「聞いたことは従うことでございます」)
 →奴隷が主人の命令を聞いた以上、それがいかなることであれ、正当性を問うことは許されない。

自由人が従うのは、合法的な命令だけ
→絶対服従といっても、合法的な命令だけに限定。
 大統領が部下を慰安しようとパーティに招いても「娘と約束がある」と断っても問題にはならない。
(
山本七平は昭和天皇の園遊会のまねきを、先約の講演会のために断ったことが有名。二度と招待されなかった)

責任とは
個人のものである。犯罪は個人の責任。犯罪者の親や子や同僚や近所の人には「まったく」影響があってはならない。
(日本では影響がある。肩身の狭い思いをする。「悪人」がいるとその穢れがまわりに伝染する。ババッチい。)
(伝統的儒教では大罪は9族におよぶが、9族に限定されてそれ以上には広がらない。また、人間関係、仕事関係には影響しない。)
→日本には、戦前も戦後も、いかなる意味のFreedomもない。

*これ以後、「自由」の言葉は使用いたしません。
 あまりに意味がちがいすぎて使用できません。
 Freedomか、「ほしいまま」と呼称します。


Freedom
の元に成立する民主主義
Freedomは権利。権利は主張して行使するもの。
→容赦なく主張して、容赦なく行使するのが正しいright。そうでなければ権利ではない。
→契約と同じ。契約は主張できる。権利のシステムの上に、デモクラシーができる。
 権利がなければ(理解しなければ)、デモクラシーは崩壊する。
 しかし日本では、権利を主張すると非難・制限される(権利を理解していない)
  →Freedomがない。Democracyがない


民主主義は多数決
→しかし多数決は、権利を絶対に侵せない。
→つまり逆である。多数決はFreedomの結果であって、Freedomの基盤ではない。
 すべての国民が多数決決定に参加する権利があって、行使できた場合に民主主義に意味がある。
→権利・契約がある。その権利は誰にも侵せない。
 権利を行使する結果、民主主義が機能する。
(日本は発想がしばしば逆になる。多数決は空気。空気に逆らえない。空気の前では権利はなくなる。したがって多数決は民主的ではない。となってしまう)

言論の自由について
どういうときに言論のFreedomが完全になくなるか?
→言葉に呪術的要素を認める時である。
*日本の場合は呪術的要素を全員がどこかで認めている。(言霊)
その言葉を言うと汚れてしまうから言ってはならない。議論してはならない。目をそむけなければならない。戦争について議論すると戦争が始まってしまうかもしれない。一種の念力主義

・言論のFreedomがある場合、いかに相手に不利であっても、事実であれば個人の人格への攻撃ではない。いかに国家に不利なスキャンダルをあばいても、国家への忠誠に影響がない。
 言葉に呪術的要素がない。→言葉と人格が分離している。
 
日本では論争できない
→論争する場合は、相手の人格を認めないときのみである。(言霊で相手を呪うときである)
 実力者を批判すると村八分になる。(相手から憎まれる。ウラから手をまわされて社会的にまずい状態になる)
 忠誠ではなくなって、反逆になる。また、された方も人徳を問題にされてまずい立場になる
→だから充分な議論ができない。あいまいさが残りうる。(徹底的可能性の追求が不可)

議論する前提とは (事実を確認するプロセスの基盤)
・議論の場においては、両者対等である。
・事実の指摘ではだれも人格的に傷つかない。
 という原則が確立されている必要がある。
人格攻撃の場合は戦争・決闘となる。(人格攻撃は、議論の場では、してはならない)
「おまえは嘘つきだ(ユー・アー・ア・ライアー)」→激怒・決闘
「お前のいったことは事実と違う(ホワット・ユー・ハブ・セイド・ノット・イグゼクト)」
→平気。単なる反論。

 議論はいかなる意見も出して検討することができる。言論は仮説である。

言論のFreedomが成立するには?
・科学的であること→仮説を立てて、それを証明すること。
自分の所説(オピニオン)は一つの仮説(ハイポセシス)にすぎない
→この意識があってはじめて議論のつみ上げ──弁証法──が可能
 →その結果、立場が違った人々のあいだの協同(コーディネーション)が有益なものになる
仮説をめぐって論争する必要がある。
→討論の過程で負けることも、勝つこともある。それでも誰も傷ついたり・怒る必要はない

なぜそれが可能か? 徹底的な討論はなぜ可能か?
絶対的な真実とは…絶対神Godのみである。
 
Godのみが真実であり、人間は真実を作ることはできない。
 人間は、真理を理解することも触れることもできないかもしれない。
 Godとの契約は絶対であり、それ以外は「どうでもいい」こと。
  しょせん、人間同士の議論など相対的なものだから、ムキになる必要はない。

現代科学で使用される実証法はすべて不完全帰納法
→どんなに証明されても、「真理」ではない。あくまで仮説のままである。
 厳密な証明のされた科学的「事実」であっても特定条件下における仮説の証明にすぎないのだから、個人の意見ははじめから絶対的権威を持ち得ない。
 だからいくらでも議論ができる。
 もし、絶対的真理と称して「権威をもって厳粛に重々しく語る人間」がいたら、それはGodそのものであるか、Godを冒涜するものになる。ひれふすか、相手を殺すかどちらか。
→人間の語る言葉は、すべて「ジョーク(冗談)」である。→「本気にすんなよ。」
  (トランプのジョーカーが最強なのは、どんな激烈な勝負の場所でも、ウソだよ〜んと言ってブチコワスから)

 絶対を設定しているから、その他すべてを相対(お気軽ジョーク)にできる
  (人間は、真理の絶対神の奴隷であって、その下で平等にFreedomになる)
 民主主義の多数決はトランプの勝負のようなもの。
 たかが相対的なジョークごときが、絶対的Godの下の絶対的Freedomに指一本ふれてはならない。→ふれられるわけがない。
  (近代社会では、直接的にGodとの契約でなく、人間との契約になっているが、基本的性質は同じ)

 

日本において…言霊(ことだま)信仰があるところにジョークの入り込む余地はない。
 議論の場所で冗談をいったら侮辱になる。「冗談いうな」といって怒る。
 ユーモアやジョークが論争において入り込む余地がないのは、言論の自由がない証拠。


差別用語とは?
日本では…言霊の信仰によって、単語が一人歩きする
「差別用語」とは、「ある人」の判断。一つの仮説にすぎない。
「差別用語」を使う人がいるから差別がなされる
 →いかなる場合の、いかなる「差別」にも反対である→対象が限定できない。
  →結果として、差別の具体的排除の方法論がなく言葉狩りだけで実質野放しとなる。

欧米の場合…具体的な例として、内容を限定する
→就職における差別、就学における差別、住居における差別の撤廃だとか。
→どこにどういう差別があって、どこの反例がどうって、いっぱいに裁判記録を整備する。

それに匹敵する差別に関する日本での法廷闘争記録はない。
日本では、明治時代にすでに全部撤廃されている。しかし実質の差別はある。

言霊(呪術)の支配
→論争が不可能な世界。
論争をすると純然たる論理の検討が、しまいには両方で、ただ悪口をいい会う形になる。
讒謗の支配。
 
批判とか反論ではなく、単なる悪口の投げ合いになっていく。
 事実の指摘の論理的討論に返ってくるのは、罵詈讒謗(ばりざんぼう)だけ。
 (口にすること自体が「人間の感情」として許せない。もう何も言うな。ダマレ!)
 (ダマレということは、意見の表明を禁じる命令であり、発言の権利を剥奪することであり、Freedomを奪って奴隷扱いすることである)

 論争が、人格攻撃に転化する。
 批判(事実の有無)指弾(善悪の判断)の区別がつかない。
 倫理的価値判断によって、立場がきまり、正義のために「ダマレ」と命令できる。

欧米における民主主義的批判とは何か
・批判というのは相手の発言を受け止めて、存在を認め、検討すること。
・批判をすることにより、元の説を発展的に解消し取り込むという意味でもある。(止揚)
→徹底的な批判・反論をすることは、批判する説を解説・継承することになる。
→言論の自由に基づいて、なんらかの一つの段階・決断に達する方法論である。

日本における決断の方法論とは、公開された論争・批判・検討によるのではない。


「言論の自由」と「共同体規制」
市民社会(シヴィル・ソサエティ) 欧米民主主義の社会基盤
→すべての人を一般的規範が支配する社会
 (均等・平等・例外なし・差別なしをめざす。特権や身分的支配・隷属関係を否定。)
 すべての組織は人間同士の契約により、組織としての機能を果たすために形成される。
 市民同士は、同じ市民として義務はもつが、過分の負担が要求されるほどではない

共同体とは?
伝統社会…共同体のなかにいる人間だけが人間である。
共同体内部と外部では規範・倫理が違う。共同体内部は「特別」扱い。
市民社会では、共同体は「家族」などごく狭い範囲になる。
地縁・血縁・感情的なつながりを基盤とする共同生活の場所。
無条件の相互扶助と相互規制があり、特別の存在目的はない。利益配分は平等。
とりたてて言えば、存在することだけが存在目的。共同体内部ではかばいあう。
・外部に発言する内容と、内部に発言する内容がまるで違って当たり前。
 →共同体内部では、その範囲内においては相当に率直に意見が言える。
 →→同時に、言論のFreedomが完全にあるわけではなく、発言の権利より共同体の利益が優先される。(私的ヒソヒソ話で、外部にはいっさい出さない会話)

日本では市民社会が成立していない
 共同体以外の社会がない。
家族は共同体。会社も共同体。擬似家族主義。村落も共同体。地域社会も共同体。
 →しかし複数の共同体に均等に参加することはできない。
 どの共同体を優先するかで、他の共同体が切り捨てられる。
  →会社人間の構造的発生。会社のために家族が犠牲になるという共同体の倒錯。
 機能集団が共同体となると、構成員は平等なのだが、能力の劣るものは、やがて排除されていく。(これはイスラエルの共同生活体キブツなどでも事実上おきる現象)

欧米と日本の企業のあり方
欧米…単なる機能集団。一般規範が優先。
→企業が悪いこと(公害・汚職・不良品製造)をすれば
 →外部に企業の犯罪行為を内部告発するのは、市民としての義務である。
(
しなかったならば、逆に共謀・共犯として社会から指弾される。)

日本…擬似共同体である機能集団。
→企業を内部告発するのは、共同体規範に対する反逆・裏切り者。
 →その共同体は内部告発者を絶対許さない。社会でも(内心は)許さない。
(
共同体は家族。家族を裏切ることは、古今東西、絶対に許されなくてあたりまえだが…)
 裏切り者は、社会全体の敵である。→認めると社会基盤が崩壊するから
・共同体を守るためには、裁判や国会での偽証も平気となる
 →家族に裁判の証言価値がはじめから当てにされないのと同様。)
(
ホントのことを誰もいわない。
 もしいったら→なんで本当のことをいっちゃったんだろうと、内部では逆にあきれる)
共同体があれば、言論の自由Freedomはない。


一般的な秘密について
欧米…誰かと秘密の約束をする場合。
 →「宣誓の場合と武力(アームドフォース)でもって威嚇された場合を除いて、このことは誰にもいいません」と条件がつく。→条件が定義できる人間同士の契約である。
日本…「誰にもいうな」「ああ、いわない」。でも、限定条件をつけない(思いつかない)
 →だから、なんかの事情で暴露しても「ああいう場合だからやむを得ないだろう?
(
契約ではない。ゆうずうむげ。その時々の「事情(ことのなさけ)→事実と感情」の許す範囲で勝手に判断して、約束を破ることがありうる。(破っても仕方ない可能性がある)


 

 さて、これを読まれた方はどのように感じられたことでしょうか。
 欧米の考え方はメチャクチャひどいもんだと私は思いました。
 奴隷がこんなにとんでもない扱いをうけうるものだとは、想像を超えていました。
  (認識が甘さといわれればそれまでです!)
 同時に、日本の考え方も実に欠陥の多いヒドイものです。
 人間は、東西で、それぞれこんなバカなことを考えてきたのかと、少々げんなりしてしまいます。
 比較というのはまったく面白いものです。
 双方を比べることで、気がつかないでいた長所・短所が見えてきます。

 そしてもっとヒドイことに、欧米と日本は、このありさまでも現代世界の「もっともマシ」な部分であり、現代文明の中心であることは間違いないことを考えると…コマッタモノではありませんか。

(
しばらく寝込みたいが立ち直って…)

 Freedomに「自由」の訳語をあてたのは、森山多吉郎 (栄之助)とされています。幕府の翻訳官で日本初の英語通訳とのことです。
 
「自由」をそのまま読むと、「おのれをもって良しとする」であって、「ほしいまま」の意味となります。
 古来の「自由」の使用方法そのままであり、「権利」という意味が抜け落ちてます。

 「自由」という言葉は、誤訳に近いものではないかと思われ、その後多くの悲喜劇を生む原因になったかもしれません。
 さらに一歩妄想で踏み込むと、Freedomを理解したうえで、悪意をもってこの言葉をあてたのかもしれないとさえ私は思っています。

 福沢諭吉は、自著「西洋事情」で「自由」という言葉を使ったときに注として’’FreedomLibertyといった言葉に「自由」や「自在」と当てはめているのは適切ではない’’といった意味のことを書いています。

 戦前に「自由主義者」といえば、弾圧の対象でした。
 「ほしいまま」主義者であれば、弾圧されて当然でしょうし、当時の人々もそれを不思議に思わなくて仕方ありません。

 しかしまあ、読んでいくとDemocracyFreedomGodなど、
 それぞれあてはめる日本語の民主主義・自由・神といった訳語が、福沢諭吉を持ち出すまでもなく、極めて不適切ですよね。
・・いってしまうなら、まるで概念がピントはずれの訳語で、誤解のモトになるとしか思えなくて、「ツカエネー」と21世紀のいまごろ、オバカな男が一人、トホーにくれております。

 どうしょう。このままだと私の日常生活に影響が出てしまいます。ホントにどうしょう。(^ ^;;;)