卓        球


 中学に入って、部活は何にしょうと考えた、野球部、バスケットなども考えないでもなかったが、よく遊んだ近所の先輩に、卓球部に誘われた。一度やったことがあったが、経験者とやると1点も取れずにスマッシュを打ち込まれるだけだった。当たると痛かった。しかし、たのしい印象はあった。
 部活は、初日から悲惨だった。当日は雨上がりで、ブーツをはいていた。教室からの帰り道は、必ず卓球場の前を通るようになっていた。すぐさま先輩から声をかけられ、ブーツをはいているので明日から入部すると答えたが、入るんだったら早いほうがいいということで入部することとした。すぐ、たのしくボールを打てるとばかり思っていたが、その日は基礎練習だった。最初は構内をマラソン、次にウサギ飛び、腹筋等をして、最後に素振りをすると時間が終わってしまった。卓球部なのにボールは打たないチームに入部することとなった。ブーツは1日でだめにしてしまった。穴が空いてしまった。こんな日がしばらくつづいた。後で聞くと先輩は、夏頃まで続けさせられたらしい。一緒に入った仲間が20人ぐらいいたが、アットいう間に6.7人になってしまった。おかげで、その年の校内マラソン大会では、学年でも早い方だった。それから、今思い出したが、ハンドボールの遠投の校内の球技大会があり、なんと30数メートル飛んで学年で1位だった。後で思うと、ドッチボールのおかげだと思う。中学入学の時、一番大きくて最後尾だったせいもあるだろう。卓球部の監督は、後日知ったが1年の担任の先生だった。最初のうちは顔を出さなかったので分からなかった。というか、卓球場にはいない部員だ ったので、監督がいるとは知らなかった。先輩しかいないものだと思っていた。先生はたいへん熱心で日曜も指導に来た。通っていた中学校は、中学入学の1.2年前にバスケット部が全国優勝をしたので、他の部も続けとばかりに運動が盛んだった。先生には、よく怒られたが大変世話になった。しかし、卓球はできない先生だった。数学の先生だったので分析が好きだったかもしれない。試合の時の指示で印象に残っているのはこうだった。”おまえ何してんだ!どうにかしてこい!あんなのどうにかならないのか!”だった。答えはハイ。どうにかしてきます。だった。不思議とどうにかなった。他校への練習試合にも、緑のブルーバードで方々につれていってもらった。普段は怖い先生であったが、雷の時は子供だった。車内で盛んに騒いでいた。よっぽど嫌いらしく、運転も危ないほどだった。車の中は、安全だと後日テレビを見て知ったが先生は知っていただろうか?練習の方は、ほどなくして、ボールを打たせてもらったが、素振りのようにふらないと怒られた。素振りと実際の振りが同じになるまで、だいぶ練習が必要だった。
 結局最終的には、県大会では3回戦止まりだったが、郡、県南の大会では優勝することができた。1年後輩は、関東大会までいった。中学の授業で、一週間に1時間だけあるクラブの時間は、野球にした。昔のソフトとは違い、早くてついていけなかった。翌年は柔道クラブに入った。ずっとやりたいスポーツなのでたのしかつた。柔・剣道場がそのころ学校に出来た。高校では、卓球部をつくったがやる人が少なくやめてしまった。やめることに抵抗は無かった。体育の選択科目は柔道にした。自分で言うのもなんだが、うまい方だった。中学のクラブでやっていたせいもある。初段なら1.2ヶ月練習すれば取れるような気がしていた。
 社会人になったころ世間では、卓球は”ねくら”のスポーツと言われるようになった。反発もあったが、なるほどと思わせる所もたしかにある。中学時代は、そんなことは微塵も感じさせない、明るく楽しいものだった。

                     


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