へ  ら  鮒  釣  り


- は じ め に −

  へら鮒つりといってもフィールド゙は、大きく2つに分けられると思います。1つは昔ながらの野釣りと言われている川や野池での釣り、もう一つは管理釣り場と言われる釣り堀での釣りです。管理釣り場の釣りは、とにかく人より大きな魚を数多く釣るが第一の目的で競技になっています。たくさんの釣り大会が開かれ毎回順番が付けられます。たくさんの釣りクラブがあり、毎月、月例会といわれるつり大会を開いて腕を競っています。釣り堀もオープン何周年記念大会を開いたり、釣り具メーカー、餌メーカーもそれぞれ競技大会を催しています。上位入賞者は豪華賞品が貰えるため、大会は真剣そのものです。ご飯もトイレもほどほどにがんばる姿が見られます。しかし、釣りクラブのほとんどは勝負というより仲間どおしでの交流会的な面が強いようです。管理釣り場の釣りは、簡単に釣りの楽しさを味わえるコンビニな釣りといえるでしょう。野釣りは、魚がすれていないので管理釣り場ほど、餌、しかけは気にしなくていいようです。昔ながらの鮒釣りで、根強いファンがたくさんいます。

− 最 近 の 釣 行 −    

−私の鮒釣りの歴史−

 *初めて釣りに行ったのは、小学2年頃近くの用水路だった。5.6人で行ったがピクピクと引くがなかなか釣れなかった。クチボソを数匹。小鮒は釣ったかどうか覚えていない。しばらく行かなかったが、小学校5年の夏親戚の人と、小貝川につりに行った。そのとき、セイゴの大型を釣った。以来つりにはまってしまった。以後、リールでコイつり等をしていたが、寒くなると釣れなくなってくる。そんなとき見かけたのが、へら鮒つりだった。たくさんの大人がやっていて、子供から見るとすこし高級な釣りだった。うまい人はたくさん釣っていた。ちょっと専門的になるが、当時の餌は、マッシュポテト、赤へら、青へら、おかゆ等だった。黄べらというのもあった。しばらくして、大バラケ、絹へらなども出てきた。当時からへら鮒の専門誌を買って読んでいた。釣り場の風景画好きで、写真が挟める下敷きに入れていた。しかし、そのころはまだ、完全なへら鮒でなく、片方にみみずや赤虫をつけてしばらく釣っていたような気がする。野釣りでは、場所がおおきくものをいう、そのためいつも同じ場所でやっていた。近くのおじさんが、あいつはいつも同じ場所でやっていると近所で評判になったようだ。中学生時代も、部活の合間をぬっていっていた。友達と河原で待ち合わせをしたが、暗くてあいてがいるのを気づかないほど、くらい内からつりに行っていた。ある時は、台風が来るというのにつりに行った。すごい強風の中でも負けずに釣りに行くほど好きだった。ある日、いっしょに行った友人の自転車が盗まれた。まわりは何もない河原だった。泥棒は、どうやって来て、どこへ行ったのだろう。当日、暗くなるまで探したが見つからなかった。2台の自転車は並べて止めて置いたが、私のは盗まれなかった。違いは、少々きれいだったのとサドルが高いぐらいだった。当時は、3月下旬から11月上旬までの暖かい期間の釣りだった。寒くなると釣れなかった。社会人になって21.22歳の時また再開した。始めたとき晩秋だったので川では釣れなかった。管理釣り場と呼ばれている釣り堀に行くことにした。野釣りからお金を払って釣りをするのは抵抗があった。昔は、けっして釣り堀なんかでやらないと思っていた。しかし、釣り堀は魚がたくさんいて釣れるはずだが、初日はおでこだったと思う。釣り堀は釣れるところではなかった。くせがあるようだ。ここからはまってしまった。毎週行くようになり、釣り堀の常連になってしまった。年間何十日も行くようになり、釣り堀の人とも顔見知りになった。釣り大会に出ると入賞するようになり、最終的には160人ぐらいの釣り堀の大会で優勝してしまった。商品の一つが、1年間無料パス券だった。1日2千円が無料になった。そんな矢先の3月転勤が決まった。結局フリーパスは3ヶ月しか使わなかった。あれがずっと続いていたらどうなっていただろう。えさ会社のインストラクターになるほど、うまくなっていたかも知れない。今は、たまに行く程度になり、魚も釣れなくなった。魚は、毎年少しづつ釣れ方が変わるようだ。餌も改良され変わっていく。餌が変わるので変わるのか。魚が変わるから変わるのかよく分からないが。野釣りだと分からないことが、釣り堀にはたくさんある。野にいる魚は、餌にすぐ飛びつくが、釣り堀で長く生きていると、寄ってきて様子を 見ているだけで、なかなか食わないようになる。食べ方をお局様が教えているようだ。釣り方は、釣り堀の方が難しい。うまい人と普通の人の差が極端に出てしまう。恐ろしい所である。
                       

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