野中寺(大阪府羽曳野市) 2015年 4月
 野中寺(やちゅうじ)は、山号を青龍山と称し、羽曳野市にある高野山真言宗の寺院である。
 野中寺でもらえる略縁起によれば、聖徳太子の命によって蘇我馬子が造営したのが寺の始まりといわれる。 当時は、法隆寺式伽藍配置の大規模な寺院だったが、その後の兵火によって堂塔は失われ、 現在の本堂などの堂宇は江戸時代以降の再建である。
 寺の歴史はともかくとして、野中寺の名前が広く知られているのは、 銅造弥勒菩薩半跏思惟像の存在によってであろう。 台座にある銘文から、666年に作られたとみられるこの像は、仏像を紹介した本などにたびたび登場する。
 筆者もこの像を拝観するために、野中寺を訪れた。 2015年4月のことである。
 秘仏のため拝観日は毎月18日に限られる。 近くの葛井寺の十一面千手千眼観音菩薩坐像の公開日も18日なので、 4月18日朝、まず葛井寺を拝観したのち、野中寺に向かった。 葛井寺と野中寺は、直線距離にしたら1kmちょっとしか離れていない。 藤井寺駅に戻ればバスの便があるが、天気もよかったので歩くことした。 途中は普通の住宅地だが、仲哀陵という古墳がある。 柵越しにしか見ることができないけれど、こういった古墳がいたるところにあるというのが東京あたりとは違う光景だ。
 野中寺に着き、山門から境内に入る。 空が広く、ゆったりとした空間が広がっていた。 今さっき訪れた葛井寺とはずいぶんと雰囲気が異なる。 葛井寺が庶民的とすれば、こちらは参拝者が少なく境内が整然としていて格調が高い、という印象を受ける。 明治時代中期まで律宗の寺で、三僧坊の一つに数えられていた歴史とも関係しているのかもしれない。
 弥勒菩薩像を拝観するため、表示に従って本堂裏手の方丈に向かう。 拝観料を納めると、庭園内を通って方丈に入るよう指示される。 厨子の中に安置された像は、拝観用に畳敷きの部屋に置かれていた。 高さ20cmに満たない小さな像だ。 だが、すぐ目の前の手の届くほどの距離に置かれているので、細部までくわしく眺めることができた。 なるほど魅力的な像である。 頭が大きくて、均整がとれているとは言い難いが、決して不自然には見えない。 そして右手の人差指と中指を頬にあて、手のひらを正面に向けたポーズが特徴的だ。
 弥勒菩薩像の拝観後、地蔵堂で地蔵菩薩立像を拝観。 これは鎌倉時代の作という。
 ほかに取り立てて目を引くものはないのだけれど、弥勒菩薩像を拝観するだけでも訪れる価値は十分にある。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。

 2024年には、三井記念美術館で特別展「バーミヤン大仏の太陽神と弥勒信仰」が開催され、野中寺の弥勒菩薩半跏像が出展されることを知り、見に出かけた。
 未来仏である弥勒菩薩信仰の起源はインドのマイトレーヤとされ、太陽神ミスラ(ミトラ)が仏教に取り込まれたものとも言われる。 インドで成立した弥勒信仰は、ガンダーラ、中央アジアのバーミヤン、中国などを経て日本にも伝えられることになる。 今回の特別展は、その弥勒菩薩信仰と太陽神信仰の伝播の様子を辿ろうという企画である。 日本における弥勒菩薩も法隆寺蔵の諸像など多数展示されていた中で、筆者のお目当ての一つが野中寺蔵の金銅弥勒菩薩半跏像(重文)だった。 9年前の野中寺での拝観時の様子を思い出しながら鑑賞した。 改めてこの像の特徴を記すと、造像年が刻まれていて西暦666年にあたることがわかることと、弥勒という仏像名が刻されていることから弥勒菩薩とわかることが挙げられる。 仏像として見ると、頭部が大きく作られているのが印象的で、思惟手の右掌が正面に向けられていることが珍しい例と言えるようだ。
(この項、2024/11追記)


 山門
 山門を通して奥に見えているのは本堂
2015/04/18撮影

 山門を入り、正面から見た本堂
 明るい空間が広がるが、かっては、両側に金堂や塔が建っていたらしい。
 金銅弥勒菩薩半跏思惟像は、本堂の背後にある方丈で拝観できる。
2015/04/18撮影

 7世紀から8世紀にかけてのものとされるヒチンジョ池西古墳石棺(いけにしこふんせっかん)。
 境内から出土したものかと思って、横に置かれた解説板を読んだら、 約1km離れた場所で発見され、野中寺境内に移築されたとのこと。
2015/04/18撮影

[TOP]