達谷窟毘沙門堂(岩手県西磐井郡平泉町) 2015年 8月
 達谷窟(たっこくのいわや)毘沙門堂は、毘沙門天を祀るお堂で、平泉町にある。
 801年に、征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷討伐の折、ここに毘沙門天を祀ったのが、始まりとされる。
 毘沙門天は、インド起源の四天王の一神で北の方角を守護する多聞天が、単独で祀られるときの呼び名である。 その毘沙門天が武神として、上杉謙信などのちの武将に信仰されるきっかけの一つが、坂上田村麻呂によるものと言われているのだ。
 達谷窟の場所は、平泉駅から西に5,6kmほど離れている。 駐車場が用意されているので、車で訪れる人が多いようだ。 といっても、ここを主目的としてというより、中尊寺あるいは厳美渓へ移動の途中に立ち寄るような人が多そうだ。
 筆者が訪れたのは2015年8月で、平泉駅からはバスの便があるので、これを利用した。
 バス停で下りれば、すぐそばに鳥居と受付があり、拝観料を納めて境内に進む。 なんと鳥居が3つある。 お寺で鳥居を目にするのは、それほど珍しくはないが、参道に3つも続けて置かれている例はあまりないように思う。 そこで、ここはお寺なのかそれとも神社なのか、という疑問が湧く。 結論からいうと、神社と仏教寺院が一緒になっているのだ。 明治時代に神仏分離令が出るまで普通だった神仏習合が、今も残っているというわけ。 寺院名としては、別当達谷西光寺(たっこくせいこうじ)と称している。 受付でもらったパンフレットにも別當達谷西光寺と印刷されていた。
 それにしても、明治時代の神仏分離令をどうやって乗り切ったのだろう。
 3つの鳥居をくぐり抜けると、岩壁にへばりつくように建つ朱色の毘沙門堂が目に入る。 上部がせり出してできた岩壁の窪みを利用して、お堂が建てられている。 各地に同様の例がたくさんあるから、昔の人はこういう特異な地形に、霊的な力を感じて、神聖な場所として扱うことが多かったと思われる。
 お堂の中には、本尊で秘仏の毘沙門天が厨子の奥に安置されているのとは別に、たくさんの毘沙門天像が並んでいる。
 毘沙門堂を出て、岩壁を見上げると、左手に磨崖仏が見えてくる。 福島県より北の東北地方に残っている数少ない磨崖仏の一つとされる。 岩面大仏とも呼ばれ、高さが16.5mもある大きな像で、大日如来とも阿弥陀如来とも言われる。 前九年後三年の役で亡くなった敵味方の諸霊を供養するために、 陸奥守源義家が馬上より弓筈(ゆはず)を使って彫った、という伝説が残っているそうだ。
 仏像の胸から下は風化が進んでいるが、幸い顔の部分はまだはっきりとしている。 鼻が大きい顔面は、なんとなく上野大仏を連想してしまう。 もちろん作られた年代がまったく違うので関連はないのだろうが。
 境内には、ほかにも茅葺屋根の不動堂、金堂、弁天堂などの堂宇がある。
 ところで、「たっこく」という不思議な響きの地名は何に由来しているのだろうか。 気になってネットで調べてみると、アイヌ語起源という説もあるようだ。
 写真は、PENTAX K-5・DA★16-50mmF2.8ED AL[IF]SDMで撮影。


 境内入り口には、江戸時代に作られた石造の一之鳥居が見え、この奥には赤く塗られた二之鳥居と三之鳥居がある。
2015/8/8撮影

 岩壁を背に建つ懸造りの毘沙門堂。
 現在の建物は、1961年に再建されたもの。
 懸造りの堂といえば、代表例は京都の清水寺だ。
 かってこの地を拠点としていた蝦夷を、坂上田村麻呂が討伐した際、京の清水の舞台を模してお堂を建てたのだそうだ。
 坂上田村麻呂は、清水寺の創建にも関わっていたとされるのが興味深い。
2015/8/8撮影

 岩面大仏と呼ばれる磨崖仏

 毘沙門堂の背後から続く岩壁に彫られている。 上の写真の左端あたりにこの磨崖仏がある。
 顔の部分の長さは約3.6mとのこと。
 風化が進み、明治時代には胸から下が崩落したという。
2015/8/8撮影

[TOP]