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総門 2012/3/26撮影 |
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本堂と梅の花 本堂の屋根は、銅板葺で微妙に上向きに膨らんでいる。 起り屋根(むくりやね)というらしい。 本堂裏手に墓地があり、足利貞氏のものとされる墓がある。 この日は、晴れの天気予報にもかかわらず、昼頃にわかに空が暗くなり、 この写真を撮ったあとに雨が降り出した。 結局一時間近く総門で雨雲の通過を待つことになった。 2012/3/26撮影 |
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平成になってから復興された枯山水庭園 2012/3/26撮影 |
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予期しない雨に、人力車夫はお客を下ろした後、総門前の梅の木の下で次の準備をしていた。 総門で雨宿りしていたときの光景。 2012/3/26撮影 |
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左と下の写真は、4月に入って桜の季節に再訪したときに撮ったもの。
正面に見える総門にいたる道は短いが、桜に覆われ華やいでいる。 ![]() 鎌足稲荷神社 浄妙寺の東側裏手の急な石段を登ったところにある。 藤原鎌足が東国に来た際に、ここに鎌を埋納したとされ、鎌倉の地名の由来になったという 説があるそうだ。 地名由来については、鎌倉市のホームページにいくつかの説が紹介されている。 2012/4/6撮影 |
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鎌倉駅から向かうと、浄明寺バス停の一つ先に青砥橋という名のバス停がある。
青砥橋の名は、このあたりに住んでいた青砥藤綱にちなんでいる。 下を流れているのは滑川(なめりかわ)。 橋自体は小さな変哲のないコンクリート製のものだが、青砥藤綱の名を有名にしたのは、 「太平記」に書かれた故事によってである。 司馬遼太郎の「三浦半島記」に詳しいが、要約すると次のようになる。 北条時頼の時代の幕府の高官・青砥藤綱は、ある夜、役所に行く途中に滑川を渡っているとき、 誤って十文を川に落としてしまった。 慌てた藤綱は、五十文で松明を買い、人を使って落とした十文を回収したという。 その話を聞いた人々は、たかが十文のために四十文の損をしたと笑った。 だが彼は、四十文の損は個人の経済だが、川に落とした十文をそのままにすれば、世の中から 十文が消えてしまう。 だが、五十文の松明代はそのぶんだけ世の中を賑わすことになる、と説明したといわれる。 この話は、戦前の教科書に載っていたという。 もっとも藤綱が十文を落としたのは、もっと下流の東勝寺橋付近とされる。 2014/1/5撮影 |