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01 . 「暮しの手帖」創刊号の戸板康二 (September 2000)



★ 以下は、2000年9月に書いた、「余は如何にして戸板読みとなりし乎」的文章の再録。まとめてみると、1998年6月に雑誌「暮しの手帖」の創刊号で「歌舞伎ダイジェスト」の文章を読んだのが初めてで、これがきっかけで2年ほど御無沙汰だった歌舞伎見物を始めるようになる、と同時に、毎月のように歌舞伎座に通い出し、1999年2月に『歌舞伎ダイジェスト』(暮しの手帖社、昭和29年)を購入、1999年夏に『歌舞伎への招待』(衣裳研究所、昭和25年)を読んだのを機に次から次へと戸板康二の本を買い漁るようになり、現在に至る、わが戸板康二道のはじまりは「暮しの手帖」でございました、というお話。(August. 2002)




1998年の初夏のある日、六本木の暮しの手帖別館に行った。その頃、編集に関する本に少し凝っていて、そのなかで特に面白かったのが、「暮しの手帖」の創刊者の花森安治の編集術についてのあれこれ。天才肌の彼の数々の挿話がとても面白かった。暮しの手帖は現在も刊行は続いていて、奇数月の25日が発売日。わたしは毎年10月に出る別冊の「御馳走の手帖」の大ファンなのだが、本誌の方は、たまに母の読んでいるのをチラリと見る程度で、「すてきなあなたに」という名の文章を愛読しているくらい。花森安治に興味を覚えた頃、本誌の片隅の記事で知ったところによると、暮しの手帖社のショウルーム的な場として、六本木に暮しの手帖別館というのがあり、ここに来れば過去の暮しの手帖のバックナンバーも自由に閲覧できるとのこと。花森安治在りし日の暮しの手帖本誌を、ぜひとも見てみたいと思っていたところだったので、ふと行ってみようかなと軽い気持ちで思ったのが、すべての始まりだった。

「暮しの手帖」創刊号(昭和23年9月20日発行) 暮しの手帖別館は邸宅風の建物で、バックナンバーは2階にズラッと並んでいた。庭の木々の葉がそよそよと風に揺れているのが窓から見えたりして、だんだんよい心持ちになってくる。そんなふうにして、ソファに座って、バックナンバーを読みふけった。こうして、しみじみ眺めてみると、あらためて花森安治のセンスに感嘆した。当時の本誌はほとんど文章で埋まっていて、花森安治の洒落たレイアウトとイラストが彩りを添えている。小堀杏奴や森田たまのエッセイ、川端康成の短編小説、中里恒子や中原淳一の服装に関するお話、それから、住まいや食卓や育児にお化粧のことなどの実用的な文章もある。そんな感じの数々の文章がズラリと並んでいて、女の人の生活全般に暮らしにまつわるあれこれが網羅されていて、しかもそれは、説教くささや実用本位の無味乾燥さとはいっさい無縁で、背筋をシャンと伸ばして凛と生きていこう、というようなことを控えめに感じさせてくれるような、気持ちのよい雑誌だった。

わたしが戸板康二の文章を初めて読んだのは、そのときのこと。暮しの手帖には数々の文章と並んで、戸板康二の歌舞伎の連載記事があって、たとえば創刊号では『助六』についてのあれこれが書いてあった。演目に関するいろいろな約束事、成立の過程、過去の名優のこと、筆者自身の雑感、といったことが絶妙に織り込まれてある、上質の演劇論という感じだった。当時のわたしは、歌舞伎を何回か観た経験はあれども、その頃はすっかりご無沙汰で2年くらい見物に行ってなかった。そして、当時の歌舞伎見物は特に本を読んだりはせず、「歌舞伎に行く」という非日常なことを楽しんでいた程度だった。なので、初めて戸板康二の文章を目にしたときは歌舞伎に関する知識はほとんどないと言ってよかった。が、暮しの手帖の戸板康二は、そんなわたしをも歌舞伎の世界へとすーっと誘ってしまうような、あこがれてしまうくらいに、上品で洒落たテキストだった。そして、歌舞伎のような純和風のものを扱っているにも関わらず、どこか西洋的なところがあった。そんなスタンスにもあこがれた。

それが証拠に、暮しの手帖別館から帰宅して何日かした頃には、すっかり歌舞伎熱が再燃してしまって、7月の市川猿之助の『義経千本桜』を幕見で観たり、8月には島田正吾がかっこいい、勘九郎の『荒川の佐吉』とか、八十助の仁木弾正が素晴らしい『先代萩』に陶酔し、そして、次の9月の仁左衛門の『女殺油地獄』でトドメを刺され、そんなこんなで、1998年の夏以降歌舞伎にすっかり夢中になり、2000年の現在に至るという感じなのだ。



『歌舞伎ダイジェスト』(暮しの手帖社、昭和29年)
暮しの手帖別館から、話は半年ほど先へと進む。演劇専門古書店の奥村書店に初めて足を踏み入れたのは、歌舞伎座で仁左衛門と玉三郎の『雪暮夜入谷畦道』を観た帰り道というのを鮮明に覚えているから、それは1999年2月のある日ということになる。店内の膨大な在庫に圧倒されつつ、棚を眺めていると、暮しの手帖社発行の戸板康二著『歌舞伎ダイジェスト』なる書物を発見した。これこそ、暮しの手帖の創刊号からの連載をまとめたものである。暮しの手帖の連載は毎回、ひとつの演目を取り上げて論じるもので、この『歌舞伎ダイジェスト』には連載計15回分、つまり15の演目が取り上げられている。これはもう、迷わず購入。一目で花森安治の装幀とわかるブックデザインもとても素敵。段ボール状のケース入りになっていて、表面には紺の和紙の上に、花森安治ならではの洒落たレイアウトで書名が書かれてある。本体の方は、白い表紙に英語で Kabuki Digest と、これまた独特の筆記になっている。

『歌舞伎への招待』(衣裳研究所、昭和25年) それからまた、話は半年ほど先へ進み、1999年の夏のある日のこと。ふらりと足を踏み入れた奥村書店の書棚で、今度は、戸板康二著『歌舞伎への招待』なる書を発見した。これも明らかに花森安治によるデザインの洒落た1冊。発行は衣裳研究所となっていて、衣裳研究所とは暮しの手帖社の前身。これも即購入して、部屋に帰って、さっそく読みふけった。「花道」「女形」「菊五郎」「荒事」「黙阿弥」というふうに、その章ごとで設定したテーマをもとにした雑感風の文章。『歌舞伎ダイジェスト』の筆者あとがきに、「暮しの手帖社からは、昭和二十五年に『歌舞伎への招待』を、翌二十六年に『続・歌舞伎への招待』を出版してゐる。これは、歌舞伎のいはば総論のやうなものだ。この『歌舞伎ダイジェスト』は、それに対して狂言を中心にした各論といつていい」と書かれてあるとおり、『歌舞伎への招待』はまさに歌舞伎全般の総論的な内容である。その頃は、歌舞伎を本格的に観るようになって、1年の歳月が過ぎていた。そして、渡辺保の著作を読み始めていた時期でもあった。こうして、しみじみ『歌舞伎への招待』を読んでみると、渡辺保も歌舞伎観において、かなり戸板康二から影響を受けている、ということを発見して、歌舞伎批評史における戸板康二の存在の大きさをあらためて実感した。

のちに『あの人この人 昭和人物誌』の「花森安治のスカート」の項で知ったところによると、戸板康二が花森安治に初めて会ったのは、昭和16年の開戦の翌日のこと。それからブランクがあって、昭和22年、戸板康二が日本演劇社で『日本演劇』『演劇界』の編集をしていたとき、築地の会社から歩いていくと、新橋の銀座寄りの河岸に花森安治が立っていたという。その頃の花森安治は衣裳研究所を創設して、暮しの手帖の創刊を計画中のとき。立ち話で、花森安治は戸板康二に「歌舞伎のことを毎号書きませんか」と誘い、創刊号から「歌舞伎ダイジェスト」という名の連載が始まることとなった。三十代はじめの戸板康二にとって、たちまち読者を増やし評判になった暮しの手帖の常連になったことは「檜舞台に立つ晴れがましさ」だったとのこと。それから、またまた花森安治の誘いで、連載とは別に、暮しの手帖社から書き下ろしで、昭和25年に『歌舞伎への招待』 、翌26年に『続・歌舞伎への招待』を刊行することになった。この頃の戸板康二は日本演劇社を退社して、筆一本で演劇批評の世界へ渡っていったとき。そんな船出に際し、これらの書物の出版は精神的にも経済的にも大きな支えになった、と戸板康二は書いていて、暮しの手帖社への恩誼のため、後年ほかの出版社から改版や文庫化の話があっても一切断っていたという。……と、こんな話を聞くと、まだ河岸があった当時の銀座の路上の花森安治と戸板康二、目に鮮やかにその情景が浮かんでくるかのようだ。そして、『歌舞伎ダイジェスト』と『歌舞伎への招待』 の素晴らしさを目の当たりにしたあとに、あらためて花森安治と戸板康二のことを思うと、「名編集者、名著を生む」の瞬間になんだかとても感動してしまうのである。

と、そんなわけで、わたしの戸板康二道は、『歌舞伎ダイジェスト』と『歌舞伎への招待』で始まった。その後、これらの本の続編である、『卓上舞臺』と『続・歌舞伎への招待』を手に入れ、戸板康二の言う、歌舞伎の「各論」と「総論」をとりあえず押さえることが出来た。そして、これらの書物は、歌舞伎をまったく知らない当時のわたしが読んでも、すーっと引き込まれてしまうところがあった一方で、毎月歌舞伎座に行くようになって、徐々にではあるけれども少しは歌舞伎の知識が増えてきている時期に改めて読んでみると、本の内容の面白さとか奥の深さとかがさらに引き立つようなところがある。なので、これはもう一生の宝物という感じなのだ。



『歌舞伎への招待』を読んでからというもの、奥村書店に行くたびに、なにかしらの戸板康二の書物を購入するようになった。昭和25年刊行の『歌舞伎への招待』が執筆された時期に近い、昭和二十年代の歌舞伎本を少しずつ読むようになった。戸板康二熱は上がる一方だった。「歌舞伎」という、えてしてディレッタンティズムに陥りやすい対象を扱っているにも関わらず、ディレッタントの臭みのようなものとはまったく無縁だった。長い観劇体験と深い知識と鋭い批評眼に裏打ちされていながらも、というか、むしろ、そういう確かな基盤に立っているからこそ、どこまでも自由で軽やかで、そして上品で洒脱だった。

戸板康二の著作は歌舞伎に留まらず、推理小説(歌舞伎俳優・中村雅楽がホームズ。歌舞伎と探偵小説の絶妙な融合!)や随筆など多岐に渡るのだけど、歌舞伎本のほかでわたしが大好きなのが、一連の人物誌の系譜。坪内祐三によると、「肖像(ポルトレ)」というのは欧米ではひとつの文学ジャンルとのことなのだが、戸板康二はポルトレの大の名人でもある。『ちょっといい話』もそのラインに立っているシリーズなのだが、晩年の『泣きどころ人物誌』『ぜいたく列伝』『あの人この人 昭和人物誌』が、坪内祐三も書いているけれども、とにかく圧巻である。これらの著作から伺える、戸板康二の立つ「都会の紳士」の系譜、洗練された社交、好奇心旺盛なところ etc 、戸板康二の立つ文化圏の醸し出す空気に夢中になった。

戸板康二本のよろこびは、テキストそのものだけでも計り知れないのだが、その上、戸板康二の扱う過去・同時代の文人を、芋づる式にたどっていくきっかけをつかむことにもある。本読みの歓びの大増殖。戸板康二の本を読むことで知った劇評家の系譜、明治の三木竹二に始まり岡鬼太郎、杉贋阿弥を経て、三宅周太郎に到る系譜を目の当たりにして、そこから芋づる式に、過去の劇評の系譜、劇評をとりまく過去の東京をたどっていく歓びも計り知れない。と同時に、それ以前の劇評家にはない戸板康二ならではの新しさを思い、戸板康二の立つ位置にあらためて思いを馳せてみたり。それは自然と過去の歌舞伎のあれこれ、歌舞伎をとりまくいろいろなことを思うきっかけとなり、同時に、今日の歌舞伎見物の意欲のようなものが胸にフツフツと煮えたぎる。そして、何度も戸板康二のテキストをじっくりと読み直す。戸板康二を知ってからというもの、そんな感じに日々が過ぎている。



最後に。

福田恆存が「教養」の定義づけの際に、エリオットの「文化とは生きかたである」という言葉をひいていたけれども、本をたくさん読んでいるとか、音楽や絵画に精通しているとか、勉強ができるとか、それらも教養の一側面ではあるだろうけれども、たとえば、どのように社会と折り合うか、どのような洋服を着るか、どのような食生活を送るか、どのように他の人と交流するかとか、そういう意味での、どのように生きていくかということの方にむしろ、その人に教養があるかないかの境界線があると思うし、そういう教養の方がずっと大切なことだと思う。花森安治の「暮しの手帖」は、そういった意味での教養を目指していた雑誌である。

わたしが戸板康二に出会ったのは、暮しの手帖がきっかけだった。そして、それはいかにも似つかわしかったなあと、今でもとても嬉しく思うのだ。



(20, Sep. 2000)


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