It isn't strange







 いささか耳障りな機械音を鳴らして、御剣の背後でバスの降車口が閉まった。
 この停留所で乗り込む人間はいなかったらしく、バスは車線合流の合図にクラクションを一つ鳴らして発車する。巻き上がった排ガスに、軽く咳き込んで御剣は眉を寄せて呟いた。
「…………無意識、か」
 視線のその先には、見慣れた光景が一年前と変わらずそこにあった。
 見渡せばそれなりに新しい店なんかも増えている様子だが、大きな変化はなく最後に見たこの場所の景色と大差はない。
 強いて違いをあげるならば、最後に見た光景と違うのは季節に関する植物と……自分の気持ちくらいだろう。
 停留所に立ち止まったまま、御剣は通りの向こう側を見た。その目にうつるのは何処にでもある、普通の商店街。だが、御剣の視線はその商店街のもっと奥を見ようとしていた。
 もっと奥。そう、商店街にほど近い場所にある『成歩堂法律事務所』を。
 何処か生ぬるい風が、商店街を走り抜けた。その風にのり、どこかの店で流れるFMが午後の時報を教える。電気屋の店先に飾られたTVの時報や、どこぞの店のFMが幾多も重なり合って遠く近く響く。
 空にはうっすらと雲が散っているものの、それなにり晴れていて、街路樹の青い葉が降り落ちる陽射しに鮮やかに映えていた。
 自分の聞き間違いでなければ、朝の天気予報は「午後からはどしゃ降りの雨」を予想していたはずだった。だが、どう控えめに見てもこの天気から「どしゃ降りの雨」にはなりそうにない。
 御剣は手に持っていた傘の柄を苛立たしげに握りしめて、空を仰いだ。
 検事局を出たときはまだ、空に雨雲らしき雲があったのだが今は影も形もない。湿り気を帯びた風だけが、「どしゃ降りの雨予報」の名残を残しているだけで、おそらく今日はもう降ることはないだろう。
 こうなる事がわかっていれば、傘など持ってはこなかったのに。
 考えても仕方のないことを考えて、御剣は傘を持ち直した。
 さて。これからどうするか。
 朝からの所用は、正午前に終わってしまった。
 当初の予定では夕刻くらいまでかかる予定だったので、検事局には「直帰」と告げて出てきたのだが、この時間だと検事局に戻ってもう一仕事どころか二仕事くらいできそうである。
 実際、検事局に戻るつもりで出先からバスに乗ったのだが。
 ……思いがけず、バスを降りてしまったのだ。それも検事局からかなりかけ離れた、この停留所で。
 もちろんバスに乗ったときは、こんなトコロで降りるつもりは毛頭なかった。しかしバスの中で次の停留所のアナウンスを聞いた瞬間、無意識のうちに降車ボタンを押してしまっていたのだ。
 それでも誰か他の人間がこの停留所で降りてくれれば問題はなかったのだが、平日の真っ昼間ということでバスの乗客は極めて少なかった。御剣自身を入れても片手で足りてしまう程度の乗客の中に、この停留所で降りるつもりの人間はいなかったのである。
 そうなると御剣の性格上、押してしまったからには自分で降りるより他はなかったワケだ。
 不意に、頭上から何やらおっとりとした音楽が聞こえてきた。
 視線を向ければ、歩行者用信号が青信号を示している。音楽は、信号機に取り付けられたスピーカ−から聞こえていた。
 一年前にはなかった身障者用のスピーカーに、確かな時間の経過を感じて御剣は嘆息した。
 それから。信号を挟んで向かい側にある、ワリと大きめの花屋に目を向けた。
 瀟洒な店の外観に、店先に並んだ花々が良く映えている。一番良く見える位置に、店オリジナルであろうアレンジメントが飾られていた。今日のアレンジメントは淡いオレンジとピンク系のチューリップを中心とした、柔らかく暖かな雰囲気にまとめられていて、なんだか目に心地よい。
 フラワーアレンジメントが、心地よく見える。そう考えられる自分に、御剣は口の端で笑んだ。
 一年と少し前の自分には、考えられなかったことだ。昔の「あの事件」の後、成歩堂達と離れてからの自分には、植物を見て「心地よい」などと考える心の余裕はなかった。どれほどカラフルな花を見ても、どれも同じような花にしか見えなかった。
 それと同じで、自分の前を通り過ぎる人々も同じだった。誰もが皆、同じく無表情で急ぎ歩いているようにしか感じなかった。
 画一的な世界に、同じような表情の人々。そんな中で、確かなモノは「完全なる勝利」だけで。それ以外は、自分には必要ないモノだと思っていたあの頃。
 それを悲しいとも寂しいとも思うことがなかった自分。
 それを根底から覆したのが、この先に事務所を構える男だった。
 あの男は、弁護士としても一人の男としても、自分を…御剣玲二をぶち壊した。何の躊躇いもなく、彼の信念が命じるままに。
 その結果として、自分自身を見失って国外に出る羽目になったのだが、そんな事は成歩堂には関係のない事であって。成歩堂が自分を恨むのは当然の権利だろう。
 この間の『藤見野イサオ殺人事件』が解決したときに、一応の和解はしたはずなのだが。それは「弁護士・成歩堂龍一」と「検事・御剣玲二」の和解であって、「成歩堂龍一」と「御剣玲二」の仲直り…はまだである。
 成歩堂がどう思っているのかはわからないが、少なくとも御剣はそう思っていた。
 あの事件から何週間かたつが、あれから成歩堂とは顔を合わせていない。いや、正確にいうとすれ違ってはいる。警察署の中で何度かすれ違ってはいるのだが、声をかけるタイミングを見計らっているうちに向こうがいなくなってしまうのだ。
 向こうも自分も仕事で警察署の中にいるのだから、仕方のない事なのかも知れないが。
 そんなワケで。「弁護士・成歩堂龍一」はともかく、「ただの成歩堂龍一」にはまだ合わせる顔がないのに、こんなトコロでバスを降りてどうしろというのか。
 再びバスに乗って、検事局に戻るべきか。
 それとも告げてきたとおりに、直帰すべきか。
 もしくは………成歩堂法律事務所に顔を出すべきか。
 御剣は眉間にしわを寄せて、じっと花屋を見つめていた。
 どのくらいそうしていただろうか。しばらくして、花屋の前に小さな白い軽トラックが止まった。側面には、目の前の花屋の看板と同じ店名が可愛らしいロゴで記載されている。
 運転席から降りてきたのは、花屋の店員にふさわしいほっそりとしたシルエットの小柄な女性だった。作業用のエプロンに、色あせたジーンズ。長い髪を一つに括っていて、清潔感あふれる感じだ。
 その女性が車のハッチバックを開けて、何やら段ボールを路地に積み始めた。それを見計らったかのように、店内から男が出てくる。逆光で顔がよく見えないが、作業用のエプロンにワークパンツ姿の若い男だということくらいはわかる。
 二言三言、言葉を交わして、男は積み上げられた段ボールを手際よく店内に運び込んでいった。二人で手際よく作業を進めて、あらかた片づけてしまうと、女性は再び軽トラックの運転席へと乗り込んだ。
 エンジン音が響き、軽トラックが走り出す。
 路地に下ろされた最後の一箱を持ち上げて、ふと若い男が御剣の方へ視線を向けた。
 そうして。中腰で段ボールを持ったまま、御剣をじっと見つめること数十秒。
「み……………御剣〜!?」
 と、馬鹿でかい声を上げて段ボールを地面に落とした。
 その聞き覚えのある大声に、御剣は頭痛を覚えた。できることならこの場から即刻立ち去ってしまいたい衝動を覚える。しかし、赤信号をモノともせずにずかずかとコチラ側へ渡ってくる男は、そうさせてはくれなさそうだ。
 幸か不幸か車道を走る車にぶつかることなく赤信号を渡り終えて、男は御剣の前までやってきた。そうして、まじまじと御剣を足の先から頭のてっぺんまでじっと見つめて。
「うわ〜!足あるよ、足!最近の幽霊っちゅーのは足まであるんだな、オイ。オマケにしっかり傘まで持ってるし。最近は幽霊でも天気予報みるんか!?」
 見るわけないだろう、幽霊が。そう云いたいのを堪えて、御剣は約一年ぶりにあう幼なじみに挨拶をした。
「ひ、久しぶりだな矢張。相変わらず無駄に元気でなによりだ」
 さりげなくイヤミが混ざっているのだが、矢張はまったく気が付いていないようである。それどころか、今度は御剣の挨拶に驚いている。冗談のようにしか見えないのだが、彼の性格を考えるに本気なのだろう。
「かー!最近の幽霊は挨拶までしやがるよ。科学の進歩ってのはすげーな」
 幽霊という存在ほど非科学的なものは無いと思うのだが、矢張にはそうでないらしい。御剣は頭痛に次いで眩暈を覚えた。
「矢張。期待にそえずに悪いが、私はまだ生きている」
 その言葉に、矢張は目を瞬かせて。御剣を見て、首を捻った。
「またまた。だってよ、成歩堂がすげー顔して『アイツはもういない!死んだんだ!!』って云ってたぜ?」
 御剣は一瞬息を呑んだ。そうして、僅かに表情を曇らせる。
 イトノコギリ刑事からも同じような事をきいた。

『……上手く云えねっスけど……あの時の顔は、忘れられねっス。検事殿の手紙、握りしめて泣き叫ぶみたいに…』

 そして、真宵もまた同じような事を云っていた。

『なるほどくんね、すっごく怖かったの。怒ってるのに泣いてるみたいな声で、大きな声だして。あたし、怖くてそれ以上きけなかったよ』

 自分の行動に後悔はしていない。あの時の自分には、ああするより他に選択肢はなかったのだから。だが、こうして他人の口から自分の行動によってどれだけ成歩堂が傷ついたのか聞くと、やはり辛い。
 暗い表情で口を閉ざしてしまった御剣に、ナニかを感じ取ったのか矢張は陽気に御剣の肩をばんばん叩いた。
「何だよ何だよ。幽霊じゃねーのか!期待させやがって。ヒョッシーもいなかったし、世の中にゃ夢も希望もないんだな。やっぱり」
 ヒョッシーと幽霊に夢や希望を感じられるところが、矢張の矢張たるトコロだ。
「ム…すまんな。キミの夢や希望を壊して」
 全く悪いとは思っていないのだが、かなり残念そうな矢張を目の当たりにして御剣は何となく謝ってしまった。
「いや、別にいいけど。それより、幽霊じゃないならちょっくら茶でも飲もうぜ」
 こういうトコロも相変わらずのようである。あっさり云うと、矢張は御剣の手を掴んだ。
「し、しかし…キミは仕事中だろう」
「オレ、12時から休憩なのよ。ホントは。荷物くるの待ってたから遅くなっちまったけど。あのダン箱だけ店に入れちまえば休憩だからよ、そこの公園でたこ焼きでも喰おうぜ」
 云って。矢張は都合良く青信号になった横断歩道を御剣の手を引いて強引に渡り始めた。

 





Bak……… ……Next