The will
それを見つけたのは、ほんの偶然だった。
雨が降っていなければ。
窓が壊れていなければ。
そして。
彼がこの日に限って、机の上に時計を置き忘れなければ。
見つけることは、きっと無かった。
『この手紙をお前が見つけた時に
私の死亡をお前が確認できたなら、これは遺言
私の生存をお前が確認できたなら、これはラブレターになる』
こんな書き出しのまるで走り書きのような短い彼の手紙は、
小さく小さく折り畳まれて彼がとても大切にしている時計に隠してあった。
昼過ぎになって、雨が降り始めた。
水を吸ってほんのりと、花の香が空気にとけ込む。
そのどこかしら甘い香に、マイクロトフは手に持っていた書類から顔を上げた。
中庭の片隅で名は判らないが、ひどく綺麗な花が見事な房を垂らしていた。その木の近くに常夜灯が置かれているせいで、部屋の窓からでもよくその花が見える。
雨雲のせいで薄暗い中庭。白灯に浮かび上がる淡紫の花弁は、花壇に植えられている花々のように派手さが無く静謐で熱がない。あれと同じ木が、マチルダにもあった。ちょうど今と同じように、自分の私室からよく見える位置にあって毎年見事な房をつけるのを楽しみにしていた。あの木は、変わらずに今もああして花をつけているのだろうか。
あの花の盛りはもう過ぎているのか、緩やかな雨に打たれてほつほつと地面に花弁が散っていた。
何やら書類の束を手にしたまま、開け放した窓の向こうのその光景に目をやっていたマイクロトフは、自分の手にあたった冷たい水滴にふと我に返った。
慌てて手元に視線をやれば、自分の手だけではなく手にしていた紙束にまで水滴が滲んでいる。あまり激しい音がしないので小降りなのだと思っていたが、そうでもなかったようだ。マイクロトフは紙束を窓際に置いてあるカミューの机に置くと、手を伸ばして外開きの窓に手前に引いた。
金属の軋むような音が小さくして窓が閉まる。いつもとはどこか違うその音に、マイクロトフは小首を傾げてもう一度窓を開いた。
窓をよく見るために、カミューの机に片手をかけて腰を屈める。
あの音から推測するに、蝶番がおかしいのだろう。そう考えて、蝶番をよく見てみると案の定ネジがはずれかけていた。指先で回らないものかと、少し弄ってみるがどうやら無理なようである。大体にして、マイクロトフの大きな手はそういう細かい作業をするにはむいていないのだが、本人は今ひとつその辺を理解していないらしい。
マイクロトフは小さくため息を吐くと、ドライバーを持ってこようと屈んでいた腰を上げて方向転換した。
その時。
カミューの机に置いていた方の手の袖口のボタンに何かが引っかかった。が、本人はそれに気がつかずに自分の方に手を引く。当然の結果として、引っかかったモノもマイクロトフの方へと引っ張られる形になってしまう。
「……?…」
軽い金属音と妙な違和感。それに気がついてマイクロトフが振り変えるのとほぼ同時に『それ』は机の上から床へと滑り落ちた。木と真鍮と鎖とが、合わせてぶつかる音。それを耳にして、そのまま床に視線を落とす。
「………………まずい…」
たっぷり3分は『それ』を凝視して、マイクロトフは片手で目元を覆った。目元を隠したところで床の上の『それ』が机の上に戻るわけでもないし、ましてや元に戻るわけでもないのは判っていたが見ていられなかったのだ。
どうやら壊れてしまったらしい『それ』……カミューの懐中時計を。
床に落としたくらいでそう簡単に壊れるようなモノでは無いはずなのだが、購入した時すでに作られてから大分時間がたっていたモノなので、脆くなっていたのかもしれない。それとも、ぶつかりどころが悪かったのか。
しかし。不可抗力とはいえ、まずい事この上ない。
カミューはこの懐中時計をもの凄く大切にしているのだ。それはもう、贈り主のマイクロトフが「何もそこまで大切にしなくても…」と思ってしまうほどに。
それを知っていて、どの面下げて「壊した」と云えというのか。
「……怒る…だろうな」
当たり前である。自分が大事にしてたモノを壊されて怒らない人はいないはずだ。
カミューが怒ると怖いのだ。感情のままにガーッと怒るのならいいのだが、感情むき出しで怒るのではなくて、あの綺麗な顔に静かに怒りをたたえ、冷たい微笑みを浮かべてこっちを見るから怖い。
自分の想像に薄ら寒くなって、マイクロトフは軽く頭を横に振った。
いつまでもこうして立ちつくしていたところで、事態が好転するわけも無し。潔く謝って、修理に持っていくより他にないだろう。
マイクロトフは諦めたように軽く息を吐くと、時計を拾うべく床にしゃがんだ。
床に転がっていたのは、蓋が開いた時計と丸くて薄い金属片だった。マイクロトフはその金属片の方を指先でつまんで目線まで持ち上げた。本当になんの変哲もない金属片である。
懐中時計よりも、若干小さく見える円形の金属板。これは一体どこの部品なのだろうか。あまり時計に関する知識はないが、それでもこんな部品を使う箇所がこの時計にあるとは思えない。一瞬、蓋かとも思ったが蓋はきちんと付いていたのを見た。
マイクロトフは時計と合わせてみようと、金属板への視線はそのままで床の上の時計に手を伸ばす。
と、その伸ばした指先に。カサリとした何か紙のような感触を感じて、マイクロトフは訝しげな表情で自分の指先を見た。
そこにあったのは、紙。
指先に当たったのは小さく小さく幾重にも折り畳まれた、どこか古ぼけた紙片。
「……何だ?」
いつから落ちていたのだろう。先程、部屋の掃除をしたときには気が付かなかったが。そんなことを考えながら、マイクロトフはその紙片を拾い上げた。
まさかその紙片が懐中時計の中から出てきたものだとは考えもせずに、マイクロトフは何気なくその紙片を開く。
開いて。マイクロトフはそこに書かれている文章に目を見開いた。
『この手紙をお前が見つけた時に
私の死亡をお前が確認できたなら、これは遺言
私の生存をお前が確認できたなら、これはラブレターになる』
こんな書き出しで始まる、走り書きのような短い文章。だが、それを皆まで読まずにマイクロトフは呆然と呟いた。
「………………………………遺言……?」
いや、生きているからラブレターだ……と、そういう事ではなくて。
コレは、一体何なのか。いや、コレがどういうものなのかは読めばわかる。問題は一体何のつもりで書いたものなのか、だ。
どういうつもりも、こういうつもりも。書いてある通りのモノなのだろうが、マイクロトフはひどく混乱していた。その『手紙』を握りしめたまま、考え込む。
どこか身体の具合でも良くないのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。このところ風邪すら引いていないはずだし、ホウアン殿の所へ行ったという話も聞いた覚えがない。自分に隠れて行ったのかも知れない…とも思ったが、死を覚悟するような大病を患っているのならばもっと顔色が悪かったり、痩せてきたりしているはずである。昨日の朝着替えているのを見た感じでは以前と比べて痩せては見えなかったし、昨夜触った感じもそんなことはなかった。
では。病気でないとすると、一体。
今の流れから考えて大きくなりそうな遠征はしばらくないと思われるし、パーティメンバーの組み替えで呼ばれたと云う話も聞いていない。第一、組み替えがどうのというには彼らがこの城に戻ってこなければならないはずなので、今すぐどうこうということは絶対にないはずだ。
どんなに考えてもカミューがこんな物を書く理由が見あたらずに、マイクロトフはどんどん混乱していく。
ほんの少しだけ冷静になれば、その握りしめた紙片が古ぼけて少し黄ばんできていることに気がつくだろうに、紙片なんぞに目をくれている余裕はないほどに彼の思考回路は混乱していた。
病気でなくて、戦争関係でもなくて。それでは、一体なんだというのか。どんなに考えても、一向に答えは見えてこない。……答えが見えたら、それはそれでかなり嫌なのだが。
わからない。本当に、わからない。もうこうなったら、いっそ本人にきいた方が早いような気がする。
そう、考えて。
マイクロトフは、勢い良く立ち上がりドアの方を振り返った。ひどく真剣な眼差しで閉ざされたドアを見つめて、まるで何かを確かめるように小さく彼の名前を呟いた。
「カミュー………?…」
『本人にきいた方が早い』そう考えて、マイクロトフは今カミューがどこにいるのか知らない自分に気が付いた。今どこにいるのか知らない上に、今日は一度もカミューに会っていない事も思い出す。
居場所を知らないのは、よくあることだ。どちらかと云えばどこに行くのか云い置いて出かけることの方が多いが、云わないで出ていくことも結構あるし、それにたいしてマイクロトフが一々訊いたりすることもないので。
だが彼も自分もこの城にいて、一日に一度も顔を合わせないということは無いに等しい。同じ部屋で寝起きしているのだから当たり前と云えば、当たり前なのだが。
今日は朝自分の隣に寝ていたのは見たが、会話は交わしていない。ぐっすり眠っている様子だったので声をかけるのは躊躇われて、結局声をかけずに朝の鍛錬に行ったのだ。鍛錬から戻って来たときには、もう彼は部屋に居なくて。
ドアを見つめて立ちつくすマイクロトフの背後で、何やら音がした。
風に雨が混じったのか、中庭の立木が枝を揺らしたようだ。
枝から下がる房が刹那、淡紫の雪のように地面に散りこぼれた。地面に落ち切らぬ花びらが、時折強く吹く風に舞い上がる。
「カミュー……!」
もう一度、こんどははっきりした声で彼の名を呼んで。
紙片を硬く握りしめたまま、マイクロトフは勢い良く部屋を飛び出した。
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