4−3.懺悔と改心

 

水子供養実施の必要性 

 各寺院や僧侶のあいだで、水子供養に関与している程度、中絶への態度、宗教的な因果論には大幅な差が認められる。だが、普通の大人や子供と変わりなく、水子にも供養を施すことが望ましい、あるいは必要でもあるという姿勢をとるのはほぼ共通している。胎児が人間にしろ、ただの生物にしろ、生命を備えた存在だからであり、一部の僧侶は否定しているが、霊魂を有するとされる存在だからである。「形はないが、命はちょっとあったんだから供養は大切」(79)「今は水子かもしれんが、一人前になる種を持っている」(129)「仏法では水子も生命体として、水子だから特別でなく、人間と同じように供養する」(154)。このため、中絶の水子だけでなく、流産の水子にも供養が必要ということになる。僧侶によれば、依頼者の供養への執心は胎児よりも幼児のときに、中絶よりも流産のときに強くなる。
 水子供養の目的として僧侶が念頭に置くのは、依頼者による懺悔と改心、依頼者の心理的負担の軽減、水子霊の安寧祈願、生活上の不幸の宗教的な解決である。僧侶はこれらの目的に強弱をつけながら組み合わせることにより、水子供養の意義について見解を示すことになる。水子供養の必要性を強調する度合は、概して中絶理由の利己性や中絶のもたらす災難を強調する度合と相関している。

 

妊娠中絶に対する反省と懺悔

 僧侶が水子供養において最も重視するのが、依頼者が中絶という殺生の行為に対する反省と懺悔の心をもって、水子に回向することである。このことは水子霊の障りや中絶の因縁を口にする僧侶にもあてはまる。中絶批判において胎児の生命尊重の理念を絶対視するよりも、中絶する当事者の心構えを重視したように、一般に僧侶は各々の依頼者が関係する水子の魂の成り行きよりも、水子に対して依頼者が向ける態度に関心を注いでいる。僧侶は供養されずに放置される水子霊の苦難を想像するが、その世話をするのは僧侶ではなく、両親の責務である。僧侶は各自の中絶の許容度に応じて、中絶経験者に対して、中絶の時点とは異なる自らの心や態度のありようを水子供養という形式で表すことを要望するのである。
 中絶を行う気持ちや態度に厳しい姿勢を見せるほど、僧侶は水子供養における懺悔の必要性を強調する。通常、水子供養においては供養の意図そのものを反省の印と理解し、殊更に説教することはそんなに多くないが、改めて依頼者に懺悔を求める僧侶もいるようだ(131,162,166)。これらの僧侶は中絶の問題点を拡大し、それらから発生する生活上の災難を説いている。
 水子供養における懺悔の強調が激しくなるとき、反省すべきなのは、中絶という殺生の行為だけでなく、中絶で殺生するにもかかわらず、供養を無視する身勝手な自分の心の全体である。「人を殺して平気でおれる。そういう気持ちで子育て、生活はできない。うまくいかないのはあたりまえ。懺悔して、できたのは仕方がないから、後は御供養。ここでそれを説いて教えてあげる。仏の道。自己中心的な考えを取り除き、皆のために尽くして、世の中を良くしていく一方、水子供養させていただいている」(27)。この主張では子供に生じる問題行動は、中絶による因縁の影響と母親の悪しき心構えの影響という二重の点から説明されている。
 身勝手に中絶することの次に僧侶が問題にするのは、水子供養をしないことである。水子に何らの配慮も示さないことは、僧侶には胎児の生命や霊、人格の無視として映り、中絶が当事者の都合でなされているという印象を強めてしまう。日蓮宗の修法師の僧侶(133)に中絶と流産の宗教的影響の相違を質問したところ、「それもあるが、母親の心の水子に対する思いによって違う。中絶したのも気にも留めない、わかってやろうとしない心では水子の思いが強い。産める環境でない、懺悔の気持ちを持ったうえでの中絶とも違う」と応答した。供養を実施する意志自体が水子への思いやりと懺悔の表れであり、水子に慰めを与えるものである。この説明に沿えば、水子供養はその中絶が「産める環境でない、懺悔の気持ちを持ったうえでの中絶」であることを示すことにもなりうる。
 こうした供養はどのくらい続けることが望ましいのか。僧侶(80)は「行き着くところは早く忘れなさい」と述べるが、別の僧侶は水子供養の継続を重視している(3,11,18,37,128,162)。「たくさん堕ろした人には1回お経上げ たらいいんじゃないよとは言う」「ちょっとしたといって許されるのではない。堕ろした親は命が果てるまで懺悔してやらねばならない」などと説いている。

 

胎児、生命、自然

 中絶論議は生命の尊厳の尊重という抽象的な理念にまで背景を広げられているので、犠牲になった水子に対して供養を思い立つことは、胎児を自分の子供として認識したということだけではなく、生命全体に対する畏敬の念の表出としても理解される。「命に対しての畏敬の念、供養祈りが発生しても当然の人間の気持ち、ここに水子供養の源を見たい」(9)「生命に対する畏敬の念がお参り」(30)。この逆に、水子供養を怠ることは中絶することと同じで、生命の尊厳の軽視として受けとられる。
 さらに、中絶が影響を及ぼす範囲が中絶の当事者と胎児の二者に限定されずに、自然の摂理、宗教的秩序にまで広げられるのに対応して、それらに対する侵犯を回復する行為として水子供養は意義付けられる。因縁罪障が生活上の不幸をもたらすときには、それを解消することも目的になる。僧侶が中絶を神仏に反する行為であると主張するとき、その逆に供養を意図する依頼者を自己中心的な中絶の当事者と対照的に、改心した姿で認識することもある。「自然の真理として、神仏あって我々は生かされているという畏敬の念が供養する気持ちになる」(161)。

 

依頼者の心理的負担の軽減

 中絶を経験した女性は何らかの心の葛藤を内に秘め、それを和らげるために供養する、または、水子の霊障を解消することで、人生の悩み事を解決するために供養を申し込むと思われている。僧侶は依頼者の感情として罪悪感や無関心を強く語っているが、子供を亡くした哀惜に言及することはまれにしかない(54)。
 水子霊の祟りについての見解とは無関係に、依頼者は中絶の罪責感のために水子霊の祟りや怨みを恐れると僧侶は考える。「本人の気持ち。悪いことがあって祟りかなと。わしはそうは思わない。本人の心の迷いがそうさせる。宗教は心、気持ちだから」(35)「迷っているのも自分自身、霊障も自分自身」(36)「殺人やから殺人に対する恐怖感、罪の意識がある。供養すること自体何か思っている」(131)。水子霊の障りを否定する場合には、悩み事の原因を水子霊に求めることを責任転嫁として戒めることもある(36,54)。
 僧侶が中絶の事情を勘案して、わりと寛容な姿勢を見せるとき、中絶の事後処理として水子供養を勧め、懺悔と回向を促す。「ないほうが一番いい。でもできた以上、それに対して罪を償うことで、常に供養することを忘れないように」(5)「事情によって是認しなければ。絶対反対とは言われない。そのための水子供養だから」(134)。 
 さらに進んで、水子供養には依頼者に多少なりとも心の平安を与える役割も期待されている。「供養するのは自分のため。それで気が楽になればいいではないか」(10)「堕ろしたということになれば命を絶ったのだからうしろめたい。供養によって親もすっきりすれば」(32)。これらの言葉に限って言えば、僧侶が勧める水子供養には中絶の実行を容易にする側面があることも否定できない。水子供養の存在が中絶を行いにくくするとは必ずしも言えないのである。

 

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