4−1.胎児

 

妊娠中絶に対する基本的態度

 一般的に仏教の僧侶は、基本の立場として、女性が行う中絶の選択に対して反対意見を表明する。中絶をどう思うかという質問を受けるとき、程度の差はあれ、否定的な態度を示す。その理由として僧侶がまず挙げるのが、中絶が胎児の生命を奪う行為であり、罪悪になるということである。生命を大切にするべき仏教者として、殺生である中絶を看過することを許されないという姿勢である。
 中絶を批判する僧侶の態度には個人差があるものの、共通する傾向も見られる。中絶にやや厳しい認識を示すとき、僧侶はひじょうに似通った言葉遣いをする。僧侶は中絶を指す言葉として、「堕ろす」や「流す」のほかに、「闇から闇に葬る」(35,161,162,166)「日の目を見ずに」(32)という比喩を慣用的に用いる。中絶は当事者である女性や男性が世間に隠れて行なう悪事であり、中絶された胎児の存在は無視されるということを、この比喩は意味する。

 

生命としての胎児

 胎児にも出産後の人間と同じように生命と霊や魂が備わっている、というのが僧侶の根底の立場である。僧侶は胎児の生命尊重を中絶否定の大義名分として高く掲げ、そのために中絶に躊躇する。精子や卵子の段階ではまだ「生命の一部」(131)でしかないが、両者が結合する受精の瞬間には紛れもなく生命と霊が存在すると僧侶は主張する。受精という現象を表現するさいには、直接的に生物学的な事象に還元する「受精」という言葉よりも、「体内に宿る」「命が宿る」のように曖昧な言い回しが好まれる傾向がある(9,32,53,79,127,162)。これらは、仏教的な生殖観など科学的な現象以外の含意を示す余地がある言い回しである。 
 胎児に生命があることを説明する根拠として、科学の権威のほかに受胎を重視する仏教の伝統が引き合いに出される。僧侶は、科学的な知識に拠る主張に宗教的な正当性の裏付けを与え、追認する。そこでは、「精子、卵子は我々では血の固まり、水である」(161)のように、仏教における受胎が科学における受精という似て非なるものに置き換えられ、混同される。このとき、通常、年齢計算のやり方として、誕生日には0歳である満年齢が批判されて、誕生日ですでに1歳になる数え年が評価される(125,131,133,166)。
 僧侶は胎児を指して、「生命」「命」という言葉を頻繁に用い、中絶を指して、「生命を絶つ」と表現する(32,33,42,44,81,82)。「仏教から言うと、宿った命を途中で断ち切るのはもってのほか」「尊い命を絶つのだから、親として供養し、弔うのは当然」。こういう「命」を前面に出す表現の仕方をするのは、もちろん胎児の生命を意識しているからにほかならない。だが、そこで意識されるのが必ずしも人間の生命であるとは限らない。ここでは胎児が人間であるかどうかを問わず、まず生命の存在の確認が求められている。胎児が「生命体」と呼ばれるとき、それが顕著に示される(132,154)。この言葉は「人間の」という修飾語を付けるには不自然で、生後の人間を指すにもかなり奇妙に聞こえる。

 

進化の象徴としての胎児

 胎児を擁護する目的で、僧侶は体内での胎児の発達の過程を、地球上の生物進化の過程と重ね合わせて語ることがある(11,30,84,132,133,166)。この言説により胎児を人間として強調する僧侶もいるが、むしろ、これは人間よりも生命そのものとしての胎児のイメージを暗示している。すなわち、これは胎児の生物としての未発達を示すものの、逆に生物として人間を超越する可能性も示唆し、そうした生命の神秘から普遍的な生命尊重を訴えかけるのである。僧侶(30)は胎児の生命の淵源を地球上の生命の起源に遡って求め、胎児を人間という種を超えた抽象的な生命という「神秘」の象徴としている。この僧侶が水子供養を研究するならば、胎児標本を観察して「生命の尊厳」に到達するべきであると主張するように、生命の代表としての胎児の尊重は、普遍的な生命の尊重と結びつけられやすい。

1)大衆雑誌では1975年に、妊娠28日の胎児は魚の状態で、35日までに人間に変わることを「赤ちゃんの神秘」の一つとして伝える記事が出る(「ショック! 初めて明かされた人体の不思議!! 赤ちゃんの神秘 昔、人間は魚だった!?他」『女性自身』1975年3月6日号)。科学的概念と医療技術により公の存在に仕立てあげられた胎児は、生命の連鎖で連なる地球と並んで、現代の新たなる神秘の一つと化し、それに関する言説もまた宗教的専門家の中絶批判や供養推進のための根拠に追加されている。

 

胎児と人間の境界

 受精卵に生命があると説明する僧侶に対して、それを人間と思うか尋ねてみると、人間とみなすのは少しで(11,131,133)、多数の僧侶がさすがにそれには違和感を示す。あえて質問をしなくても、僧侶が自ら胎児のあいだに漠然と差を付けることもある。一方の僧侶は胎児を人間と呼び、他方の僧侶は胎児を成長段階により人間とそれ以前に区別し、さらに胎児を生後の嬰児とも区別する。僧侶の見解では、胎児が人間になる境目となるのは、人間の形の形成(3)、体内での動き(31,87)、感受性の出現(34)、出産(35,84)などである。このように少なくとも、妊娠初期の胎芽や胎児は新生児と何となく異なると思われており、この意味で中絶は殺生であっても殺人にはならない。「殺人ではないが、命を絶つという行為をどう受けとめるか」「人間となるのは生まれてからかな。命を絶っとることには変わらない」ということになる。
 僧侶(131)も同様の視点から受精卵が「生命かものか人か」と問題を立て、仏教医学の解説を紹介し、5ヵ月で体の形成を認めるが、他の僧侶と違って、結局、受精の瞬間に人間であると判定する。
 僧侶による胎児の生命の主張は一般的な生命尊重の理念の枠内にあるので、逆に、「(人間は)生きものを殺さずにはいられない。命を殺すのがいかんとなれば、牛や馬もだめになる」(55)のように、中絶行為を、生を営む人間による殺生の不可避性のなかで解釈することもできる。
 一定の時点で胎児を人間と人間以前に区分することに関連して、胎児はしばしば「形がない」と表現され、体内でだんだんと肉体を形成し、人間に近づいていくものと語られる(3,5,9,36,37,81,84)。人間の形をとるようになる時期は、平均すれば妊娠3〜4ヵ月に達するころで、それまでの胎児を「泡状の丸い固まり」とする僧侶もいる。ここには、受精の瞬間に特権を与え、生命の発生を主張する科学的な説明の通俗的な解釈だけでなく、仏教的な胎児観や、肉体の未完成をもって人間の状態ではないと判断する民俗的な想像力に通じるものがある。「水子」という名称の由来を尋ねると、ほとんどの僧侶が「水に浮かんでいるから」と推測を交えて返答するが、肉体の形のなさを連想する僧侶もいる(36)。

 

子供としての胎児

 しかし、僧侶が胎児を「人間」「子供」「赤ちゃん」と呼ぶのもめずらしいことではない。中絶をはっきりと「殺人」と呼ぶだけでなく、胎児に人格を認める僧侶もおり(11,47)、胎児は人間の子供の一段階として認められている。
 子供としての地位には、母親から生まれた存在という生物学的な属性と、親の教育と保護を受けるべき存在という社会的な属性が含まれる。僧侶が体内の胎児を語るときには、生命としての属性を強調しても、胎児への愛情や胎教には言及することが少ないのに対して、水子を語るときには、水子に愛情を注ぐことを求める傾向がある。実際、供養の場面では生後の乳児のように水子に対処し、また水子を胎児の姿・形よりも幼児の姿・形で思い浮べやすい(79,126)。胎児を人間や子供として認めるとしても、ここには明らかに虚構が設定されており、飛躍がある。僧侶にとって、胎児そのものの姿は、供養において愛らしい子供の役割を担うには相応しくないようである。

 

胎児の社会的地位

 今までの記述から、多くの僧侶にとって、胎児は種としての人間の可能性を秘める生命であっても、出生後の人間そのものとはどこか違うと言いうる。だが、それにもかかわらず、僧侶は胎児やその霊に対し、まるで出産後の子供や人間として対処するところにその胎児認識の両義性が表れている。胎児は社会の中でまだ曖昧な地位に留められている。この曖昧な両義性により胎児は語られる文脈に沿って象徴的な意味を帯びやすい。 
 総体的には、僧侶は胎児に固有の生命を認めることには疑問を差し挟まないが、人間として認めるかどうかのその判断は極めて微妙な状況にあり、仮に人間と判断するとしても、生物的な人間を越えた社会の対等な成員としての地位を与えるまでには及んでいない。次節で述べるように、条件付で中絶を黙認することが可能になるのは、まさにこのためである。

 

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