4−4.水子供養の手順と水子地蔵

 

追善供養の一種

 僧侶によれば、水子供養の作法は先祖供養などの一般の追善供養の場合と特別に違わないので、各々の宗派の法儀に則って、供養は行なわれることになる。普通、本堂の本尊前で供養するが、地蔵・観音・鬼子母神などの水子や子供に縁のある神仏があれば、それに参拝する。供物を供え、香を薫き、灯明を照らすなど準備し、戒名を付け、それを卒塔婆などに書き、読経し、回向するというのが基本的な手順である。密教教系の僧侶や日蓮宗の修法師は合わせて祈祷を行ない、霊障因縁の判定、お祓い、祈願に役立てている。
 死者のなかで、水子、特に中絶の水子は弔いの機会が限定されている。依頼者が供養を志すまでは忘却されている。さらに、親に供養の意志が生じても、年回忌の実施の有無など手のかけ方で生後の子供と差別される。こうした事情のため、水子供養は通常の追善以上に、しばしば施餓鬼の形式で行なわれ、その点で経の種類や作法に変更がある(27,83,86,87,133)。施餓鬼とは六道の下から2番目の世界である餓鬼界で苦しむ亡霊を始めとして、広く三界萬霊に食物を施す法要である。つまり、水子霊もそういう憂き目に会っているという仮定になる。僧侶が依頼者に用意を求める供物には幼児用の菓子や飲料、果物、肌着などがあり、水子霊は子供のように処遇される。
 僧侶等の宗教的専門家を介しなくても、仏壇や墓地に水子地蔵像を安置したり、地蔵に参拝したりで、個人的に供養することもできる。このように、寺院で供養しなくても、親が心から念じればよいとする僧侶もいるが(35,125)、一度は寺で供養するべきであると主張する僧侶もいる(5,166)。さらに、魂の成仏を可能にする法や行を重視する修験系の僧侶(8)は、それを「普通の寺はできない」として、寺院間にも差をつけている。

 

水子供養の手順

 依頼者と対面した僧侶は、最初に名前、住所、年齢、命日などを尋ね、すぐに供養にとりかかることが多いようである。人生相談に応じて宗教的影響を判定したり、冒頭から説教したりすることもある。供養の終了後に、説教や世間話をする僧侶もいる。
 水子に戒名(法名)を付けるかどうかは依頼者の希望次第であるが、特に中絶の場合には付けずに済ませるほうが多い。戒名の形式は真宗以外の宗派では「〇〇水子」となる。使用する文字を選ぶさいには、経典や親の名前から取る、季節を考慮する、戒名の模範集を参照する、戒名を重視する僧侶は仏に伺いを立る(8)、祈願を込める(166)などの方法がある。戒名の例を列挙すれば、「春夢」(31)、「夏雲」(34) 、「露命」(37)、「清光」(105)などである。季節や自然の風物を意味する文字で子供の生のはかなさを表現する手法は、「秋露童子」(29)、「消雪水子」(133)など江戸時代の子供向けの戒名にすでに見られる。戒名を付けないときには、回向の対象を「〇〇家の水子の霊」「〇〇〇〇の水子の霊」などとする。供養件数の多い寺では水子供養専用の過去帳を作成して、依頼者や水子についての情報を記入するが、一般的には檀家の水子でも過去帳に載せることはあまりない。
 これらの戒名や水子の霊位、命日、施主を卒塔婆・位牌・小地蔵像に書き、水子霊を祀る。浄土宗や日蓮系の宗派では卒塔婆を多用する。位牌には紙の位牌が使われることが多い。なかには、本式の位牌や位牌代わりの中小の地蔵像を「水子の墓」(30)として安置する寺院もある。
 追善供養で使用する経文や呪文の種類は各宗派で定められているが、これとは別に、水子供養専用の特別な経文や呪文を用意する寺もある。寺院(3)は「流産児童子に捧ぐる詩 供養経」という神仏習合的色彩の濃い経本を知り合いの寺から入手し、寺院(27)は「水子地蔵尊供養法(付 水子地蔵利益和讃)」と題する経本を作成した。

 

水子地蔵の霊験

 水子供養が普通の死者供養と異なり特徴的なのは、水子供養専門の法具類が新たに開発され、たびたび利用されることである。なかでも、水子地蔵像は人気を博している。水子供養絵馬を使用するのはA市では寺院(23)だけである。仏教において、水子地蔵と一般の延命地蔵や六地蔵など各種の地蔵で、形態上の区別が明確に定められているわけではなく、請願目的から水子供養専用に使われる地蔵が「水子地蔵」と同義反復的に呼ばれるのである。「子安(水子)地蔵尊」(3)、「子育て延命地蔵尊 水子地蔵尊」、(40)「児安(水子)地蔵尊」(86)、「開運子育水子地蔵尊」(134)など、子安地蔵の延長としての水子地蔵の性格を示す名称が付いたものもある。これらの名称は水子地蔵が子安地蔵の役割も担いうること示唆している。
 日蓮系の宗派は地蔵信仰と縁が薄く、一般的に水子供養の本尊には観音や鬼子母神を利用することが多いが、修法師の住職を擁する2寺では水子地蔵像を建立している。いずれの住職も地蔵信仰に宗派は無関係と強く主張している。
 菩薩としての地蔵の主要な霊験は六道能化として衆生、なかでも地獄の亡者を救済することと、賽の河原で幼く死んだ子供を助けるなど子供を守護することである。これらの点から水子地蔵の役割を説明する僧侶もいるが、これは水子地蔵像の役割の一端しか明かしていない。寺院には昔から延命地蔵、六地蔵、子安地蔵等の無数の地蔵像があるのに、あえて水子地蔵像を別個に建立する理由を説明するには不十分である。

 

水子地蔵像の形態と機能

 寺院による水子地蔵像の使い方は基本的に2通りである。僧侶や依頼者全員が参拝できるように大型の像を祭壇の中央に置くことと、その周囲に依頼者が奉納する小中型の地蔵像を配置することである。この使い途に合わせるように、水子地蔵像として使われる地蔵像の形態には、古い地蔵像には見られない特徴が出現している。大量生産で容貌が均一化していること以外にも、地蔵の足下にすがりつく子供が付けられることと、地蔵の体型が幼児化することが挙げられる(1)
 水子地蔵像の形態の主流は右手に錫杖を握り、左手に幼児1人を抱き、衣の裾に2人の幼児をすがらせるものである。昔の子安地蔵像も子供を抱いているが、子供から衣の裾をつかまれたものはない。足下の幼児の数を多少増減した像や座像もある。これに似た格好の地蔵は賽の河原地蔵和讃を図化した掛軸や絵巻に描かれており(86)、この像容は明らかに賽の河原の地蔵をかたどったものである(2)。「子供が体に付いているほうが何かある」(5)という僧侶の感想が示すように、水子の悲哀と地蔵の霊験を視覚的に演出するには通常の地蔵像では物足りないのだろう。
 もともと地蔵像は童子の僧侶の姿で制作されるので、袈裟の代わりに赤いよだれ掛けが着けられるなど幼児と同一視されやすいところがあった。このことは、水子供養の依頼者が寺院から強制されなくても、自分の地蔵像を希望することにも関係する。つまり、形がないまま流される水子は何も形跡を残さないので、その代替物として子供の容貌をした地蔵像が求められるのである。その地蔵像は水子霊の象徴として、祭壇中央に立つ大型の地蔵像の周囲に配置される。僧侶(27)は依頼者に地蔵像を奉納させるのは拝む対象があるほうがいいからだと述べている。「姿形が子供を連想させるというのが一番大きい」(84)「水子の像みたいなものはない」(131)と、地蔵像をほとんど取り扱わない僧侶でもこの点を感じている。
 子供が付いていない地蔵像では、意図的に幼児化を推し進めたものが登場している。地蔵像は童子の風貌を表すが、通常のものは頭部が小さく、大人びた雰囲気も兼備している。それに対し、水子供養で使われるものは胴長短足の三頭身の容姿で、表情も柔和である(5,36,83)。地蔵像が水子の似姿とすれば、結果的に水子は男児の姿に託されることになる。賽の河原型の水子地蔵像に付属する幼児も地蔵とそっくりの顔立ちで、女児より男児に見えなくもないが、僧侶自身は水子の性別には特にこだわりはないようである(3)

 
大型の水子地蔵像を建立していても、個別の地蔵像の奉納は行なっていない寺院のほうが多い。地蔵像の奉納をさせていない寺院の僧侶は、商業主義の否定から依頼者が個別に水子地蔵像を置くことに反対しやすい。置かない理由としては、この他に世話が必要になる(3,134)、供養の継続を重視する(2,18)、人間ではないから不要である(18)、放したものを寄せると困る(129)などが挙げられている。最後の僧侶は「本当何で作るのか。流したものならそのままにすればいいと思うが、形や物にしておかんと気がすまん。その気になりにくい。だから建てるし、生活が成り立つ人もいる」と言っている。

1)水子地蔵像の形態の特殊化には、地蔵が抱える水子を表すのに胎児を模造する写実主義の方向も現われている。1969年に化野念仏寺が建立した「みず子地蔵尊」の石像とその原案になる絵画では、賽の河原に降り立ち、大勢の幼児を法衣でかばう地蔵は、左の掌の上に宝珠の代わりに子宮内の羊水に浮かぶ8ヵ月の胎児を乗せている(『朝日新聞』1974年7月26日)。

2)賽の河原地蔵和讃の歌詞の一部、「二つや三つや四つ五つ 十にもならぬ嬰児がさいの河原に集りて」が示すように、和讃の成立の当初、賽の河原で地蔵に救われる子供の範囲は2〜10歳で、これを図像化した水子地蔵像にはこの年齢位の幼児がまとわる。

3)中絶の禁止や供養の励行に尽力する人物が、両親に無視される胎児や水子の憐愍を誘う心情を代弁するとき、それらに特定の性別の徴を与えることは少なくない。典型的な例を示すと、1982年3月の参議院予算委員会で自民党の村上正邦議員は「刑法第212条」 (堕胎罪)と題する詩を朗読し、そのなかで「ママ! ママ! ボクは 生まれそこねた子供です おいしいお乳も知らず 暖かい胸も知らず ひとりぼっちで捨てられた 人になれない子供です・・・・・・」と母に訴える主語を「ボク」で一般化している。

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