惜別 西鉄北九州線

その2 「炭鉱色の街」

※『青文字』は、浦井直彦さん(その1参照)のご教示によります。

この頃の西鉄の車体色は、大牟田線特急車を除きすべてこの色であった。決してスマートとはいえないが、背後に炭鉱地帯を控えた「重工業都市」にはなかなか相応しい色であった。

アサヒペンタックスSPF、SPU SMCタクマー55、35、85ミリ KR、PX

桟橋通〜広石を行く「門司行き」モ625。西鉄の「門司」は国鉄門司港近くの桟橋通からさらに三つ先の旧門司地区の関門道路トンネル入り口近くにあった。他にも、「地元じゃこう読むのかな」と騙される「尾倉」(おぐら)もあり「ヨソ者」には、後述の系統番号がないなど利用しにくい面が多々あった。

『・・・系統番号は確かにありませんでしたが、方向幕の色で系統を区別していました。「門司」は赤字に白抜き文字、「戸畑」は藍地に白抜き文字、「八幡駅前」は白地に黒文字、「折尾・黒崎車庫前」は白地に赤文字、「到津車庫前」は白地に紺文字・・・という具合でした。又、戸畑(幸町)経由の電車は、「幸町->砂津」とか「幸町->到津車庫前」という表現でした。』

その、桟橋通り電停のモ125形135。愛称デコッ八。隣は、九州でも頑張る西武運輸のトラック。両社は、「ライオンズ」「福岡球団」でこれから様々な関係をもつことになる。

同じく、行き交うモ600形。右奥が関門道路トンネル入り口。

国鉄「門司駅前」付近を行くモ138形140.方向幕の中央移設でモ600に酷似した。

左が、国鉄門司駅前広場。西鉄バスの色、ゼブラ信号も懐かしい。

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小倉の中心、魚町にて。この辺りは日中でも連接車が頻繁に乗り入れる。シュリーレン台車を履く近車製後期車でライトの上にベンチレータらしきものがある。車の向きが???

同じく、川崎製。エコノミカル台車を履く。

「安全地帯マーク」の魚町電停に次々と電車がやってくる。最盛期は「45秒ヘッド」という過密運転をこなしたそうだが、「系統番号票」は一度も掲示されなかったのは前述の通り。それだけ、地元に根ざし同時に「ヨソ者」に利用しにくかった。

旧小倉軌道〜電気軌道から引き継いだ北方線は1067ミリ軌間で、他線とは独立していた。「本線」との連絡は小倉の中心「魚町」であった。写真は、バックに本線の連接車が走る北方線の魚町電停である。この線は代替にモノレールが計画され「先行きが知れていた」せいか最期まで「炭鉱色」であった。

以上1976−3−13撮影

上の電停から折り返し北方行き電車が入線してきたところを収めた写真。

「一方通行」の小倉魚町メインストリートには数々の金融機関、保険会社等が軒を連ねる。21世紀・・・名前が変わったり、くっついたり、離れたり・・・しかし、主役の電車が無くなってしまっては「街の賑わい」は戻ってこない。

(すみません「炭鉱色」ではありません↓)

北方線の終点、北方にて。残念ながら、北方線の写真はこれだけ・・・。

以上1979−3−5撮影

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