木目1

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大道棋の歴史(8)  藤倉満 表紙に戻る
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次に戦後の大道棋について書いてみたい。

私が大道棋に最も熱中したのは戦後の数年間である。 神戸を中心に、西は明石から姫路、東は大阪から奈良、京都迄、日曜、祝日は殆んど欠かさず大道棋屋の姿を求めて出掛けたものである。 目的は無論問題の採集である。 出題図を既に知っている場合などは、新しいのと取り替える迄ジッと待っていては永引くので、こちらから催促して替えさせたことも度々ある。 その方法はまず始めは詰めそこなって、次に考え考えしてやっとこさで詰めるのである。 これを繰り返して未見の問題を引き出すのであるが、最初から詰めてしまうと警戒されて駄目である。

その頃国鉄元町駅近くで三人組のギショウ屋が次のC図を出題していた。

C図

この未見の香歩問題の取り持つ縁で私は詰パラの前身「紳棋会報」とその主催者鶴田諸兄氏を知ることになる。 数多い大道棋の中でも私にとって最も忘れ難い一局である。

この問題が仲々難しい。 数日考えてやっと解いたが実に素晴らしい手順だと思った。 三人の中に倉島留吉という人がいた。 作家の倉島竹二郎氏と親戚だということであったが、この人とは心易くしていて、私の改作物を提供したこともあった。 その後倉島氏に出合ったとき、「この間の香歩問題、仲仲詰まんが何手詰ぐらいですか」と聞いてみた。 四十一手詰という答を予期していたわけであるが、意外にも 「あれは目下研究中で出題も中止している」とのことである。 そこでなおよく聞いてみると次のような事情であることが判った。 名古屋に「紳棋会」という大道棋の研究会があり、会長は鶴田という人で、「紳棋会報」という機関誌を発行している。 会員は全国的に相当数居り、私(倉島氏)もその一人である。 京都の会員で村野という人がその会報に発表したのがあのときの問題図であるが、 其後作意順では詰まないことが他の会員から指摘されたので、目下のところ疑問局として村野氏が再検討中である。 凡そ以上のことを倉島氏から聞かされた。 私にとっては晴天の霹靂であった。 何故もっと早く紳棋会のことを教えてくれなかったのかと、恨み言をいう間も惜しんで、 その所番地を聞き出すと、飛んで帰って早速購読を申し込んだものである。

紳棋会報を手にとってみると、倉島氏の言葉とは多少相違していて、大道棋専門ではなく、会員の普通詰将棋も多く載せており、 指将棋の棋譜や大道五目などもあったが、大道棋に最も力を入れているという印象は確に事実であった。 村野実氏の作図は間もなく会報に「詰むや詰まざるや」として出題された。 私は既に研究済みであったのですぐ応募した。 正解は村野氏と私の二人だけであった。 ずっと後のことであるが、私は詰パラ(三十六年四月号)に棋道子のペンネームで「晴れた日にも大道棋を」と題する一文を寄せている。 これは雨の日作られるという大道棋であるが(雨の日は商売が暇なので)晴れた日にも大道棋を作ってほしいという、 一般詰将棋作家への呼び掛けの文章であったが、終りに(付記)として次のように、この作品について書いている。

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晴れた日に作られた大道棋、即ち一般愛好家の手になった大道棋の名作として、秘手五百番の一一八番は最も有名です。 本題は現在もパラで活躍中の岩木錦太郎氏がかって将棋月報誌上に発表された作品です。

次の一局もまた名作大道棋の名をはずかしめないものです。 作者は京都の村野南外氏。 詰パラの前身紳棋会報に紹介されたものです。 現在大道棋屋さんの秘蔵局になっているようですから、解は省略しますが、一つ詰め上げてその妙味を味って下さい。

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ここに書かれている通り、この作品は大道棋屋の間では切り札的なものとして秘蔵されていたようである。 私の知っている何人かの業者も、この問題だけはいくら研究料を貰っても教えるわけにはいかないと言っていたのを記憶している。 本局が形がよくて、超難解であり、然も「秘手五百番」や「趣味の大道棋」などの大道棋問題集に収められていないのがその理由であろう。 本書の本文では、この作品は当然解説されることであろう。 然し私は皆さんにあえてもう一度申し上げたいと思う「一つ詰め上げてその妙味を味って下さい」と。

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