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大道棋の歴史(3)  藤倉満 表紙に戻る
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◆=大道棋余聞=元祖と家元= 覆面子
(将棋評論昭和二十四年六月号)

話は飛んで三十年ほど前の縁日に戻る。

「さあ皆さん・・・どうします?」

ここでヅーット群集の顔を見渡して

「こうやりますか、斯ふ・・・ そりゃあこれで駄目ですよ。 それではこっちへ、それでも駄目。 ではどうします皆さん。 私の師匠、花崎時之助四段直伝の中飛車破り・・・ 御用とお急ぎでない方は見てって下さいよ。 これからが肝心なところ」

ゆっくりした口調で喋っていた三十年輩の男は一息ついて、用意の二合瓶に詰めた水を喇叭呑みにした。 馬鹿に面長な顔が何となく瓜といった感じである。

「さて皆さん、将棋の指方には正法奇法と色々ある。 平手から駒落、駒落といっても下は金銀から香落まで、みんなそれぞれ定跡がある。 定跡を知らなくては絶対に将棋は勝てませんよ。 よろしい今日は全部お目にかけましょう。 お急ぎでない方は是非見てって下さい・・・ ところで先程の中飛車・・・ さあ、肝心なところを御覧に入れましょう」

人だかりは息をのんでいる。 ジリジリ前の方へ出てくるのもある。 街頭商売は一息入れるこの呼吸が難しいのだそうである。

「へたの中飛車、上手が困る。 失礼ながら皆さんのお困りになるのは決して無理もない」

男は駒を動かしそうにしてナカナカ動かさない。 人だかりは盤を見詰めて今か今かと待っている。 局面は面白いところでピタリと止って進まない。

「そうそう皆さんのお困りの一つに棒銀があるでしょう。 みんなお目にかけますよ。 ちょっとやって見ましょう」

今までの中飛車を毀して今度は手早く棒銀を並べる。

「さあ角の頭をどうするか。 この一手どなたもお判りになりませんね。 将棋速成会は街頭宣伝、不肖荻野竜石であります。 こちらで平手本法の秘伝、先手なんでも居飛車、後手角止めの定跡。 次が平手正法相掛りの奥伝、第三が奇法虎の巻は棒銀中飛車、筋違い角、石田流何でも出ている。 駒落が欲しければこちらに御座います。 どれをお取りになっても一袋十五銭、僅かの十五銭で忽ち将棋が上達する・・・ ハイ只今々々、有難う御座います。 お次はそちら、ハイお次はこちらさん只今々々」

この呼吸が又難しいのだそうである。 せかせか景気を付けられると、どうしようかと思案しているものはつい手が出て了ふとのこと。

縦が五寸、幅が三寸ばかりのザラ紙に木版刷の大きな文字で定跡手順が刷ってある。 こんな手順ばかりの紙片が割合に売れるのである。 今でこそ高段者がウヨウヨして四段や五段は物の数でないが、大正八九年頃には、 花崎四段なんて云ふ名前が幾らかでも人の気持ちを惹きつける効果があったのだろう。

街頭商売はタンカ(口上)が終って一渡り商ひが済むと群集は散って了ふものである。 人締め(ジンシメ)と云って又新らたに人を集めるのにお喋りをする必要がある。 ところがこの街頭将棋屋さんはナカナカ考へている。 売るだけ売って了ふと

「さて皆さん」

と散りかかった群衆の足へ呼びかける。

「余興に一つ面白い詰将棋を出しましょう。 只今定跡をお買い下すった方の余興ですが、どなたでも結構です。 詰むと云へば詰まない。 詰まないと云へば詰むこれが七変化(ばけ)将棋。 別にお代は頂きませんお出来になった方はやって見てください。 私が逃げてお目に掛けます」

行くものは行き、新しい客もたかって又群集の気持ちが締って来る。 出された図式が今日で云ふ「香歩問題」の原型である。 これが又馬鹿に興味を惹いた。

街頭商売には色々あるが、将棋で商売していた人は珍らしい。 当時の東京にはこの荻野と云ふ人の外にもう一人いた。 四谷塩町の繁華街を中心に矢張り定跡講義をしていた野田圭甫と云ふ人である。 併し野田氏のやり方は荻野氏の商人風とは違って、頗る尊大であった。 五尺四方もある大盤に大きな駒を並べ、盤の向ふには手が届かないので、 拾ひ屋が持って歩く様な竹鋏で駒を動かすのである。 荻野氏のは(三寸)を組んでその上に普通の盤を置いて講義したが、 野田氏の場合は大盤を地べたに置くのである。 黒紋付にヒゲを生やし、成る程先生の様な格好であった。 口上も度胸もいい。

「関根、土居のやからも、鬼殺しに会っては素足で逃げるより仕方がない。 関西の坂田三吉もこの手には泣いた。 先ず先手は角道を開ける。 後手が角道を開けたら桂を飛ぶ。 後手が斯ふ受けたら先手は斯ふ。 又後手が受けたら斯ふ攻める。 後手が斯ふ受けたら・・・」

とお終いまで後手に受けさせてばかりいて、とうとう五五角で飛車取り香取りの局面にして了ふのである。 野田氏は五段と自称していたが、何でもかんでも鬼殺しの一点張りであった。 矢張り手製の木版刷りを売るのが目的であって、 袋の表には可章馬(鬼殺しのこと)第何章などとしかつめらしく刷ってあった。

荻野氏と何れが先に街頭へ将棋を持ち出したか不明であるが、時を同じくするので、 この二人が大道将棋の元祖と家元になるのであろう。 今日、大道将棋と云へば詰将棋を意味する様になっているが三十年前にはこの二人しか大道将棋屋はなく、 正と奇の相違はあっても、何れも定跡講義を飯のタネにしていたものである。 今の詰将棋屋が客を引っかけて取ると云った気持ちとは雲泥の差がある。

街頭将棋が、講義を止めて詰将棋に変ったのは大正十五年である。 講義の休憩中出題した七変化将棋にヒントを得て荻野氏が詰将棋で本を売ることを考へついた。 これが今の大道棋の始まりである。 定跡講義と違って、詰将棋なら答を見てやれば誰にも出来る。 一部六銭の薄い棋書が五十銭に売れるのだから割の良い商売である。 露店商人で将棋のやれる者は続々転向した。 荻野氏は専ら棋書の製本をやり、再び街頭に立って私の師匠花崎時之助をやらぬ様になった。 木版刷が活版に変ったのもこの頃であり、大分ふところ具合も良くなったらしい。

然し、当初の詰将棋は、飽迄棋書を売るのが眼目であって、 今日の様に「おんと切り」などと称して只取りする様な売子は一人もいなかった。 ひっきょうするに業者の質が変ったのである。 昭和六七年頃は何処の盛り場や夜店に行っても、詰将棋はその筋の干渉がやかましく 浅草公園内では商売を禁じられたことすらある。 街頭詰将棋が完全に的屋の手に移ったからで早く云へば商売の手口が、 詰まなかったら幾ら出せ詰んだらこれをやる。 と云った賭ごとになって了ったのである。 客の方も興味を買った気持など無く、幾ら取られたと決って云ふ。 これが今の詰将棋屋とお客の関係であろう。 何れにしても今の大道詰将棋の行き方は邪道である。 蒙昧時代なら何んでも宣伝普及の一助とならうが、もうそろそろ詰将棋商売も本道に帰って良い時である

LINE

永沢、覆面子両氏の文章から、野田圭甫や荻野竜石(大道棋史上の人物として敬称は省略させていただく) の街頭定跡講義は、早ければ大正五年、遅くとも八年、 どちらにしても大震災よりもかなり早くから行われていたと考えてほぼ間違い無さそうである。 覆面子の文章の中で一寸気になる点が一つある。 それは同氏が「街頭将棋が講義を止めて、詰将棋に変ったのは大正十五年である」と断定されていることである。 文章から受ける感じでは余程消息に通じている人のようである。 もし御健在なれば、是非この間の事情をお伺いしたいものである。 そういえば、大道棋を詰め損った時に買わされる棋書(ほんの四五冊しか見ていないが) の奥附の日付も、大正十五年より古いものは無かったように記憶する。 然しこれについては否定的な資料もあるので次にそれ等を御紹介する。 なお、大正十五年に講義が詰将棋に変った理由として 「講義の休憩中出題した七変化将棋にヒントを得て荻野氏が詰将棋で本を売ることを考えついた。 これが今の大道棋の始まりである」と述べているが、 大正十五年の時点で大道詰将棋用の棋書を製造販売していたのは荻野だけではなく、後述するように野田も又同様であった。

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